民衆という”深海”を見よう

深みに入る信仰

(「きちんとした「牧師」の欠け」の続き)次に古屋氏の「日本のキリスト教」で取り上げたいのは、「民衆にある力」です。このことは既に、「単純な信仰のススメ」で書きました。そして今週の西日暮里バイブルスタディで、ヤコブ書1章1‐11節の学びで取り上げました。その部分をご紹介します。

******
私たちは救われるだけでなく、救われた後に霊的成熟に向かわなければいけません。そして霊的成熟に至らなければいけません。それによって、初めて救われたことが明らかにされます。その時に大切な要素をヤコブ書は教えてくれています。有名な言葉は、「信仰も、もし行ないがなかったら、それだけでは、死んだものです。(2:17)」成熟した信仰には、十分な、それを裏付ける行ないがあります。その信仰には深みがあります。表面的な信仰の言葉ではなく、実質の伴った、人を動かす力があります。

「日本のキリスト教」(古屋安雄著)という本を今、読んでいますが、そこにアメリカの教会を海の三つの層に分けている教会史の歴史家がいるとのことで紹介されていました。上層は海面、中層は海流、下層は深海となります。海面とは、海上を吹く風、すなわち時代思潮(=時代に流れ)によって、波のように風向きによって激しく左右上下に動揺します。その下にあるのが海流ですが、その時代の思潮に対しては、緩やかな反動しか示さない主流的なキリスト教思想のことだそうです。そして、それよりもっと下にあるのが深海ですが、これはどんなに風が全然動じない民衆の信仰のことだそうです。そして、この教会史の歴史家によると、「教会の生命と言うべき信仰が実際に生きているのは中層と下層、殊に下層の民衆の信仰においてである。」ということです。(ちなみにアメリカではその深海にあるキリスト教の筆頭に、ビリー・グラハムを挙げています。)

つまりヤコブ書は、この下層、最も深いところが真の信仰なのだよ、ということを話しています。表面的に信仰であると私たちが話しているものではなく、その深みがあってこその真実な信仰であるということです。表面的な信仰からの脱却です。
******

こちらが原稿、そしてこちらが音声です。

日本もヤバイが、教会もヤバイ

古屋氏の主張は「和魂洋才」で生きてきた日本は、キリスト教というものにぶつかっていると言われるし、日本の教会もそう批判するが、実は、日本の教会こそが「日本なるもの」を持っている民衆というものにぶつかっている、というものです。「しかし同時に、日本のキリスト教は日本文化の根っこにぶつかっているのではないだろうか。日本文化の根っことは、言うまでもなく日本宗教であり、その担い手である日本の庶民、あるいは民衆のことである。(中略)日本がやっと欧米文化の根っこであるキリスト教にぶつかっているように、キリスト教もやっと日本文化の根っこである民衆にぶつかっているのである。」

私は驚きました、これまで前者の危機意識はずっと持っていました。けれども、やばいのは我々教会もそうなのだ、ということです。このまま民衆に届かない教会であるならば、タイタニック号のようにいつか沈没してしまう、という危機意識であります。まずは、伝道は教会の人々の整えから始まります。早速、私は家族への伝道のアプローチについて、何人かの人にアドバイスをしました。家族こそが、”深海”を相手にしてすぐに話ができるからです。と言ってる私も、家族全員が救われている訳ではありません。伝道は家族は難しいですが、ここを突破しなければ本当に沈没してしまいます。

この前、地方のある教会からのグループの方々が、私たちLCFと中国の東京日暮里国際教会を訪問してくださいました。お話しを伺うと、そこは四百人以上いるところで、毎月、数名がバプテスマを受けているとのこと。そこの教会だけしか知らない人は、それが正常な状態だと思っているけれども、他の日本の教会から移ってきたその兄弟は、「これは驚くべきことです。普通なら二・三年すると、何らかの理由で、あるいはつまずいたりしていなくなるから、人数が変わらないんですよね。」と仰っていました。

私たちの教会も確かに、やめていった人々がいます。けれども新しくいらっしゃる方も多く、今年のバプテスマは多くなりそうです(祈りが必要です)。いかに信仰に留まれるのかが、踏ん張りどころです。世の流れに飲まれてしまう、あるいは教会には集ってもマンネリ化して、成長が滞る危険もあります。そこでのキーワードは「知識偏重にならない」であります。これをすると、必ず教会が分裂するか力を失います。そこで、いつまでも生活そのもののに、生きた証しを持てているかを自問する教会生活にしていきたい。自分の周りの人々に伝道できているか、その実を結ばせているかを自問する教会生活でありたい。決して、自己完結するような仲良しサークルとなってはいけない。また聖書研究会ではなく、礼拝であり、信仰でありたいと願っています。

(「“普遍教会”にある誤謬」に続く)

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です