悪という現実に付き合う神

この頃、思っていることの瞑想をお分かちします。

「瞑想」というほどのものではないのですが、「否定的なこと」についてです。聖書には、暴力であるとか、裁きであるとか、そうした否定的な事が初めから終わりまで書かれています。カインの殺人から始まり、最後、人々の争いをなくすために、イエス様ご自身が口からの剣で、その軍隊を滅ぼし、死体の山とせしめます。そして、それらが「主」が起こしたことだと、聖書には記述されています。

このままだと、まるでイスラム過激派のコーランの解釈と同じようになりかねないですね。けれども、主ご自身の教えは愛に満ちています。そして行ないも憐れみに満ちています。そこで多くのキリスト教会が、「神は愛である」という言葉で終わらせ、裁きや義、また戦争を神が引き起こしている部分については、避けている傾向があります。私も正直、そうでした。

けれども、主が引き起こしているように見える一つ一つを見ると、それは実は人が行なっていたり、アダムが罪を犯した後の地、つまり天災も罪の結果で呻いている自然界の表れであり、因果関係において神がしているというものではないのです。良き賜物は天から来ており、そうでないものは悪霊に属しますから。

では、どうやって主がこれらの否定的なことを引き起こしていることを、受けとめればよいのでしょうか?主は、「私たちが悪に取り囲まれているという現実に積極的に付き合ってくださる。」ということです。主がこれらの悪を許されて、それで私たちが取り組まなければいけない課題として放っておかれるのではなく、その悪のど真ん中に来てくださって、それで私たちの平安を与えるためにおられるのだ、ということです。

十字架がその頂点にある出来事です。人の悪のど真ん中に神がおられました。

臭い物に蓋をするのではなく、その臭さの中でご自身ももみくちゃにされながら、私たちがその悪からも距離を取れるように、心や思いにおいて、霊において、安息が与えられるようにされている、ということです。そして、主が何かを語っておられる、もっと大きな計画、善の計画を実行しておられることを、私たちの思いをはるかに超えてそれを実行しておられることを励ましておられるのだ、ということです。

だから、私たちの使命は大きいです。どんなに世の中が騒がしくても、私たちには神の視点が与えられています。そして、その視点に基づき、今、しなければいけないことの使命も与えられています。世から離れた「独自路線」を与えておられます。それは、とらえどころがなく、二分している世からは、どちら側からも煙たがられる、責められるような路線です。けれども、結局それが残ります。その良い業が残っています。

参照:「「神はなぜ戦争をお許しになるのか」②」「イザヤ書講解

 

「悪という現実に付き合う神」への3件のフィードバック

  1. 以前コメントした者です。
    世から離れた独自路線
    とはどういうものなのでしょうか?

    また悪の中に私たちが立つ、神が共にいてくださる結果、私たちは悪に対してどんな態度を取るべきとお考えですか?

    例えばキング牧師のようなアプローチをどう思われますか?

  2. ご質問ありがとうございます。キング牧師の例を取れば、とても説明しやすいです。彼は「非暴力抵抗」を取りました。政治的には、「無抵抗」か、あるいは「暴力」に訴えて抵抗するかの、どちらかしかないと考えられます。事実、多くの人は、黒人も含めてこれが社会だとして、キリスト者も差別に甘んじていました。しかし、黒人運動の中で「マルコムX」など、抵抗の手段として暴力を提唱し運動した者たちが多い中で、彼はどちらにもよらない道を選びました。これはしんどい作業ですが、これこそがキリストの道であると信じて、その運動を成し遂げました。これが世から離れた独自路線の一例です。

    人種差別の話を続けますと、これは今のアメリカにもあります。そこで特質的なのは、黒人のキリスト者たちの存在です。ラッパーのレクレー(Lacrae)や、アメリカン・フットボールの選手ベンジャミン・ワトソン(Benjamin Watson)など有名人も声を上げていますが、それぞれ温度差がありますが、けれども同じことを話しています。つまり、白人の警官が不法に発砲することも罪だし、警官の指示に従わない黒人も、権威に従わないということで罪だし、「これは肌(skin)の色の問題ではなく、罪(sin)の問題だ。キリストの十字架によって心が変わらないかぎり、変わらない。」とワトソン氏ははっきりと述べています。

    この前、黒人系の教会に狂信的な白人の若者が乱射した事件がありました。その遺族たちは、犯人に向かって、「私はあなたを赦しました。どうか悔い改めて、キリストを受け入れてください。」と話していました。こんなことが起こったら、当然、大規模な暴動が起こってもおかしくなかったのに、それでも、その教会の地域では起こりませんでした。教会の人々が、積極的にそうした動きを制していたからです。

    これが、「世から離れた独自路線」ということです。世の価値観とはあまりにも離れた、罪という問題の指摘、そしてその赦しと愛、平和の道のことです。

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