礼拝賛美奉仕者は誰か?

礼拝賛美の心構えのようなことを書きます。

私が、ある、牧者や宣教者たちの集まる聖会に参加しました。そこで、大声を挙げ、両手を挙げて主を賛美する人々の声で満ちあふれました。それはある教会で行われたのですが、次の日曜日の礼拝で、全く同じ礼拝賛美チームが導いていました。けれども、後で会衆の何人かから、その賛美チームによる賛美がいかに心から主に向かって歌えなくなったかなど、不満を私に話しました。私はそこで、一言尋ねました。「この前の聖会で全く同じ賛美チームで、似たような賛美の歌で導いたんですけれども、みんな大声で歌っていましたよ。」

実際にそうだったのです。私も同じように声を挙げて神さまを賛美しようとしていたのですが、礼拝では私の声が大きくて周りの人々がちゃんと歌っていない感じなのが伝わってきました。その賛美チームの導き方よりも「礼拝者」の姿勢が違うからだということを、その聖会と日曜礼拝における違いで見ました。

「音楽」+「人々」=「コンサート」という方程式

何が問題なのか?私がこれまで疑問に思っていたことを書かせていただきますが、それは「礼拝」を他の「音楽」と混同しているため、と言えます。人々が集まり、楽器や歌で音楽が奏でられている所では、そこが「音楽コンサート」となるという考えが、ほとんど条件反射的に、私たちの中に埋め込まれているためであると考えます。

コンサートにおいては、演奏者また歌手が、その音楽と歌を「聴かせる」ということが主体であり、来ている人々は「聴衆」となっています。聴かせるものであり、聴きに行き、また舞台に上がっている人々の身振り、手ぶりのパフォーマンス、その音響や視覚効果を楽しむためのものになっています。特に現代音楽においては、舞台にいる人々の演技を見に行くことが目的になっているからです。

しかし、教会においては全く異なります。教会における礼拝賛美は、天における会衆賛美を地上で前味のようにして実践する場であります。

9 彼らは、新しい歌を歌って言った。「あなたは、巻き物を受け取って、その封印を解くのにふさわしい方です。あなたは、ほふられて、その血により、あらゆる部族、国語、民族、国民の中から、神のために人々を贖い、10私たちの神のために、この人々を王国とし、祭司とされました。彼らは地上を治めるのです。」11また私は見た。私は、御座と生き物と長老たちとの回りに、多くの御使いたちの声を聞いた。その数は万の幾万倍、千の幾千倍であった。12彼らは大声で言った。「ほふられた小羊は、力と、富と、知恵と、勢いと、誉れと、栄光と、賛美を受けるにふさわしい方です。」13また私は、天と地と、地の下と、海の上のあらゆる造られたもの、およびその中にある生き物がこう言うのを聞いた。「御座にすわる方と、小羊とに、賛美と誉れと栄光と力が永遠にあるように。」(黙示5:9-13) 」

聖徒たち全員、無数の御使いたち、そして被造物全体が、一斉に主を賛美しています、そしてその回りで24人の長老と4つの生き物が主の前にひれ伏しながら、その礼拝賛美を導いています。

「礼拝賛美奉仕者」は「礼拝参加者」

つまり、礼拝賛美を捧げる本人、会衆本人が奉仕者なのです!つまり前に舞台があって、その音楽と声を聞くのではなく、自分たちのほうが舞台であって、そこで自分たちが声を挙げて、主に賛美を捧げるのです。しばしば教会では聖歌隊がありますが、いいえ、聖歌隊は会衆全員であります。では聴衆は誰か?そう、「神と小羊イエス」ご自身であります!ステージは私たちのほうにあり、私たちが聖歌隊であり、観客席に主ご自身がおられるのです。

したがって、「今日の賛美は良かった」「良くなかった」と評価している時に、何をもって評価しているのかを吟味しないといけません。賛美を導いた人々の音楽や歌がよかったのか、自分がその曲調に乗ることができたのか、そういったことを判断材料にしていないでしょうか?歌の好みとか、曲の好みとか、演奏のスタイルであるとか、主観的な部分で判断しているのではないでしょうか?しかし賛美リードをしている人は、クラシック音楽のコンサートで例えるなら指揮者の棒ぐらいのものであり、「『声』という神からいただいた楽器」を演奏しているのは私たち本人です。自分自身が心を尽くして、神に感謝と賛美、喜びを捧げることができたかが尺度になるわけで、そこに賛美を導いている人の姿は消えています。

主なる神は、私たちの声、そしてその声を出す心を、観客として見ておられます。以下の記事は、礼拝賛美を導く人々に対する手紙です。その内容と共に、自分の考えも交えて紹介したいと思います。

An Open Letter to Praise Bands
(賛美バンドに対する公開書簡)

①もし会衆である私たちが、自分の声を聞くことができなければ、それは礼拝ではなくなる。(If we, the congregation, can’t hear ourselves, it’s not worship. )

コンサートであれば、大音響、聴覚、視覚効果が重要となり、聴衆が一緒にうたう声は打ち消されようが構いません。けれども、キリスト者の礼拝は共同体として、一つ声となり神をほめたたえるのです。「それは、あなたがたが、心を一つにし、声を合わせて、私たちの主イエス・キリストの父なる神をほめたたえるためです。(ローマ15:6)」従って、自分の声が聞こえ、一緒に歌う兄弟姉妹の声が聞こえている状態が理想であり、自分たちは一つになっているのだという意識が保たれて、主に賛美をお捧げしているのです。これが無くなると、私的な、受身の礼拝者となってしまいます。

②もし会衆である私たちが付いて歌えなければ、礼拝ではない。(If we, the congregation, can’t sing along, it’s not worship. )

現代音楽と言っても、かつての歌はとても曲調が単純で、歌詞も簡潔なものが多かったのです。けれども、音楽をする人はいかにその曲調を洗練させ、クリエイティブ(創造的)にしようかということに集中して、聴衆に聞かせようという強い動機が働いています。なぜなら、その音楽そのものが、人に見せる(聴かせる)アート、すなわち芸術になっているからです。しかしもう一度忘れないでください、洗練させるとかえって私たちが歌えなくなり、消極的になります。創作を凝らすと、私たちが聴くこそすれ黙ってしまいます。自分は礼拝賛美ができても、他の人々が同じように賛美できなくなるのです。

③もし賛美バンドの貴方が注目の的になれば、それは礼拝ではありません。(If you, the praise band, are the center of attention, it’s not worship.) 

賛美を導く人は、礼拝の手本を見せているのだという心構えで最善の努力をしているかもしれませんが、どうしても演奏が自分の技法を見せるようになってしまうからです。なぜなら、音楽と言えば、グラミー賞を獲得した音楽であるとかコンサート形式のものが通例となっているので、演奏者が意識せずとも注目の的にさせてしまっている面があります。

熱狂的なコンサートは偶像礼拝だが「礼拝」

ここで筆者は、決して現代音楽を批判し、旧来のオルガンやピアノによる賛美に戻るべきだということを言っているのではないと言っています。私もそうだと思います、現代音楽だけでなく、従来のピアノによる奏楽も元々は聴かせる音楽会であり、舞台演奏のようになってしまう誘惑はあると思います。

しかし熱狂的なファンによるコンサートは、もしかしたら、かえって礼拝の本来の姿に近くなります。礼拝の対象は異なりますが。その演奏者が舞台上にいるアイドル(偶像)となっており、その音楽に心も体も明け渡して歌います。それから、歌詞も曲調もほぼ全て習得しており、聴衆に消極性はありません。自分も全身を動かして歌い、そこには全体に一つの大きな流れとうねりが起こっています。けれども、そのバンドが崇拝対象になっているので、偶像礼拝です。

しかし、そのことを除けば、主なる神を賛美する姿としては近づいているでしょう。ダビデの賛美がそのようなものでした。王服を脱いで民の間で、踊って神を賛美しました。簡単に言うと、主なる神に熱狂していました。

「説教」と同じくらい整えが必要な「礼拝賛美」

ここまで話していれば、礼拝が音楽会ではないことはお分かりになるでしょう。次に礼拝賛美を導く人について話しますが、「音楽ができる人」がそのまま礼拝賛美を導く奉仕につけるのではありません。次は、「礼拝賛美と音楽奉仕(Worship and Music Ministry)」からの抜粋です。

「第二の原則は、神のことばを教えるのにさかれていると同じ配慮を神への礼拝賛美にもさかなければならない。典型的な教会の礼拝において、時間の大きな部分が神のことばを教えることと神を礼拝賛美するのにさかれる。・・

他の人を神への礼拝賛美に導くことはとてつもない責任だ。礼拝賛美リーダーの心は牧師のようでなければならない。霊において謙遜で、主に従順で、聖霊に満たされていなければならない(ヘブル人への手紙十三章十七節)。ある牧師は、教会のリーダーに必要なのは、情熱と同情の心だと言っている。それは、神を知るための情熱であり、人々への同情だ。」(第一章「礼拝賛美と聖書の真理」から)

礼拝とは、その式辞に従えば、大体「祈り、賛美、献金、説教、祈り」という順番ではないでしょうか?その中で、賛美と説教は中心部分をなしています。牧者が、教会の群れを養うために、神の召しと賜物、その準備と心の整えがいかに大きなことかは、礼拝に熱心に、真剣に集っている人であれば、誰もが知っていることでしょう。御言葉を聞く人々も、献身し、情熱を持ち、真剣だからです。

けれども、その見た目によって各奉仕が推し量られることがあります。

例えば、日曜学校については、とかく「子供の世話」という消極面で語られます。礼拝の説教を知的にまだ理解できないうちの子たちを、その時間、世話してあげるというと思ってしまう誘惑があります。けれども、私は「子供礼拝」と位置付けています。子供こそが、ある意味で大人以上に御国に近い存在であり(イエス様が言われたように)、そして御言葉を若い時に聞けば、そこから離れることはないという神からの約束もあります。子供礼拝の教師は、その時間、自分が牧会者と接すると同じぐらいの影響力を、自分自身が牧会をその子たちにしているという務めであるのです。

そして賛美奉仕については、「楽器ができればできる」「歌が好きであればできる」というイメージが付きまといやすいです。これまで数多くの教会の牧者や賛美奉仕者に同じ質問をしてきましたが、「演奏の技能ではない」ということを異口同音に言います。むしろ、牧者の傍らにいて、共に全体の礼拝を導く助け手のような存在であり、説教との連携が必要であり、また、同じぐらいの心の整えと霊的成熟さが問われるのです。

上の小冊子にも書いてありますが、賛美はその曲調よりも歌詞が重要です。教会史における讃美歌や今のCCMは、世間で歌われている歌の曲をそのまま採用して、歌詞だけを変えて歌っている場合もあります。ですから本質は曲にあるのではなく歌っている内容です。その歌詞が、神を高めているものになっているか、キリストのご性質を御業を中心にしているか、その他、教理的に健全なものかを厳選しなければいけません。こうした高度な霊的識別力も試されます。

「見た目」との違い

その他にも、「会計」という奉仕もただエクセルが操作できればよい、というものではないですね。主に捧げたものということも、聖書では大きな主題の一つになっていますから、そのことに関わる霊的な奉仕です。要は単に「効率や能力」ではない、霊的備えが必要だということであります。

それから「台所」の奉仕も霊的な整えが必要です。台所は女性にとっては、得意分野ですが、音楽の曲調と似ていて、それぞれが少しずつやり方が異なり、そのやり方に誇りを持っています。しかし、教会はそれが目的ではありません、むしろ「一つ」になっていること、交わりという一致が重要であり、担当している人に合わせていけるか、また食事をもてなしを受ける人々が、教会に受け入れられている思いを来る人が抱けるか、など、いろいろな大切な要素が含まれています。聖書的には、聖徒の愛餐というのは、交わりそのものであり、神の国で主要な部分を占めています。イエス様が御国ついて語られる時に、食事をする、祝宴を開くなどの喩えを語られ、事実、地上の御国では食事をすると私は信じています。

「案内」についても、同じですね。ただ週報を渡して、挨拶するだけのことではありません。どれだけ神が礼拝に私たちを導き入れようとされているのか、イエス様のように悔い改めるどんな人でも受け入れられたように、受け入れられているという思いを抱けるか。けれども、神は平和と秩序の神ですから、神とキリスト以外に注意を寄せようとしている人や状況が出てきた場合、知恵をもって対処することができるかなど、いろいろな霊的配慮が必要です。

ですから、賛美奉仕も他の教会の奉仕と原則は変わることなく、神に仕えていることなのだということを知っていただければと思います。

キリストが満ち満ちておられるところ

とにかく、教会の中にいるということが、どれだけ恵み深いことなのか、畏れ多いことなのかを思わされます。「教会はキリストのからだであり、いっさいのものを、いっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。(エペソ1:23)」私たちは、キリストがまさに活きておられるその一部となっているのです。見た目は大したことがないと思われるかもしれませんが、いいえ、イエス様は弟子たちと共におられて、それは人間的には見た目は大したことはありませんでした。しかし、そこに「イエス様」がおられたのです!

イエス様が単純に好きで、愛していて、礼拝が好きで、兄弟姉妹が大切な存在で、交わりを愛しているのであれば、貴方も恵みによって十分に奉仕の務めに与ることができます!

参考メッセージ:「ミニストリーの基本
カルバリーチャペル日本カンファレンス2012年、分科会)

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