私たちの内にある「ご利益」の性質

自分の利益のための、神への従順

前投稿「ご利益ではないキリスト教」に引き続き、お話ししたいと思います。私たちの中には、内にある性質として「ご利益」があります。それは、「自分の益になるために、あることをする」という考えです。

蛇がエバのところに来た時のことを思い出してください。蛇が女に、主が言われたことについて、本当にそう言ったのかと挑まれた時に、「神は、『あなたがたは、それを食べてはならない。あなたがたが死ぬといけないからだ。』と仰せになりました。(創世3:3)」と答えています。しかし、主は「死ぬといけないからだ」とは、言われませんでした。「必ず死ぬ(3:17)」と言われましたが、死ぬといけないから、食べてはならないとは言われなかったのです。しかしエバは、「自分は死にたくないから、食べてはいけないのだ。」と受けとめたのです。このように、神の言葉に対して、自分の利益になるかどうかの物差しを使い、益になるから従う考えは、人類の最初から埋め込まれていました。

しかし、主に命じられたことは、主が主であるから、そして私が神に造られた者、僕であるから、従うのです。それだけが動機であるべきです。自分に利益になるかどうかは、別問題なのです。

続けて読みますと、そのエバのご利益的返答を使って、蛇は、「あなたが、善悪の知識の木の実から取って食べたら、神のようになって、善悪を知るようになるのだ。」と言って、「食べれば、賢くなる」とご利益信仰の誘いをしたのです。そこでエバは、自分にとって益になるかどうかで「計算」して、それで食べることに決めました。

しかし、私たちは徹頭徹尾、神の良さ、恵み深さの中に留まっていなければいけません。「私たちが~をするから、神がこれをしてくださる。」のではなく、「神が~をしてくださったので、私はただ感謝し、主をほめたたえ、神を愛し、命令をを守ります。」とならないといけないのです。神は初めに事を行なわれる方で、私たちは応答者です。聖書は、「初めに、神は天と地を創造した。」という言葉から始まり、一貫して「神が行われたこと」が主体であり、中心として語られており、しめくくりは、「主イエスの恵みがすべての者とともにありますように。アーメン。(黙示22:21)」となっているのです。そして、その神の主権と恵みの中に私たちが入っていて、私たちはこの方の中に自分を置き、自分を失い、ただ神のすばらしさの中で生きていく器として造られました。

人間の助けを必要としない神

ところが、「私たちが、~をするから、神がこのように良くしてくださる。」という考えが、私たちの性質として根っこにあるので、それで神のご計画さえ、歪曲してしまいます。

例えば、ある方から次の質問を受けました。「ある人が、『イスラエル人が全て救われないと、再臨が来ない。』って言っていたけれども、どう思う?」私の答えは、次でした。「そうですね、確かにゼカリヤ書12章に、恵みの御霊がエルサレムの住民に注がれて、彼らがイエスがメシヤであることに目覚める、とありますから、主の再臨の時にはイスラエルはみな、救われます。」けれども、その質問した人も、私にも、違和感がありました。そうです、「主が再臨される時に、イスラエルがみな救われる。」と言わないで、「イスラエルがみな救われないと、主が再臨されない。」と言い換えられているからです。ここに、「~すれば、こういう祝福がくる。」という考えが横たわっています。

これと同じように、世界の宣教団体の中には、「この御国の福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての国民にあかしされ、それから終わりの日が来ます。(マタイ24:14)」というイエス様の約束から、「全世界に福音が宣べ伝えられなければ、終わりが来ない、主が再臨されない。」という考えで宣教を推進させている人々もいます。けれども、これもまた上に同じ誤りではないのかと思うのです。宣教は主の命令だから、ただ行なうだけです。むしろ、「主の再臨が近いから、私たちは全世界に福音を宣べ伝える。」という、「再臨」という神の働きに対する応答が、世界宣教の動機です。

そして宣教は、私たちのご自分の恵みを示すために、敢えて神が参加させてくださっているのであり、これをコリント第一1章では「愚かさ」とパウロは言っています。私たち抜きで福音を伝えることはおできになるのです。大患難時代、聖徒たちが次々と殺されていくとき、神は御使いを遣わして、地上に住む人々に永遠の福音を携えさせている場面が出てきます(黙示14:7)。今の時代にも、ヨエルの預言にある、幻や夢による御霊の注ぎの約束がありますが、中東における宣教活動が厳しく制限されている所で、直接、幻や夢で主が会ってくださり、イエス様に回心するムスリムが続々と起こされています。

私たちは神の恵みに関わらせていただいているだけなのです。

ご利益の祝福と、聖書の祝福

そして、私たちのご利益的な性質は、「祝福」という聖書に出てくる言葉にも影響しています。エデンの園の時からそれが始まり、そこでは神のかたちに造られたという人がいます。神は、人に、「生めよ、ふえよ、地を支配せよ。」と祝福命令を与えられました。祝福との神の交わりの中で、神を神とし、この方に信頼し、この方に全てを明け渡し、愛によって従う中で、その祝福が自分を通して流れていきます。そこで、「神のかたち」である人は、神が世界を支配されているように、自分も神にあって世界を管理する、共同の統治者として召されているのです。

そして、その祝福命令はノアに受け継がれ、イスラエルにも受け継がれます。その父祖アブラハムに、「あなたの名は祝福となる。(創世12:2)」と主は言われました。しかし、そこにおける本質は飽くまでも、神との交わりの中でそれらの祝福が伴うということであり、「祝福」が大事なのではなく「祝福する神」が大事なのです。

ところが、人というのは罪深いものです。主が良くしてくだされば、私たちは感謝し、この方に捧げたいと思うようになるはずです。ところが、主が良くしてくださると、かえってその祝福があるから、「もう神は要らない」となってしまいます。良くしてもらっているから、良い環境だから、かえって不満を増大させるのです。これが人間の罪の性質であり、イスラエルの歴史がそのことを物語っています。約束の地に入って、豊かな祝福を神から受けたから、それで神から離れていき、その祝福そのものを拝むようになっていきました。富であったり、力であったり、快楽であったりしたわけです。

アブラハムは祝福を受けて、確かに富んだ人でした。しかし、アブラハムの注意は、祝福の神の一点に集中していました。ゆえに、彼は富んでいると言っても、大したことはありませんでした。なぜなら、彼には神がとてつもない、無尽蔵の富を用意しておられることを知っていたからです。「しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。(ヘブル11:16)」その都においては、地上で最も高価であるとされるダイヤモンドや金のような貴金属は、そこら辺に使われている石ころと同じようになっています!(黙示21章)

ご利益の祝福は、こういった聖書の話にまで歪曲を与えます。アブラハムが祝福されたし、イスラエルもソロモンの時代に栄光と富、平和を享受した。だから、そういった意味の物質的祝福を受けるために、献金を捧げよう、祈ろう、イスラエルを祝福しよう、となったら、見当違いもはなはだしいのです。

聖書において、祝福はむしろ、「ダイヤモンドを石ころにさせてしまうほどの、栄光の富」に裏付けられています。だから、そのダイヤモンドさえ、栄光の富のために捨てたって構わない、という発想になります。モーセについて、彼はパロの宮廷の生活を拒み、イスラエルと共に歩みましたが、「彼は、キリストのゆえに受けるそしりを、エジプトの宝のまさる大きな富と思いました。彼は報いとして与えられるものから目を離さなかったのです。(ヘブル11:26)」とあります。パウロも同じ考えで、この世における苦難を受けました。「今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。(ローマ8:18)」」

もちろん、モーセもパウロも、この地上において祝福がありました。それはモーセであれば、会見の天幕における、神と顔と顔を合わせるぐらいの親密な交わり、そして主がいつも宿営の真ん中におられて、イスラエルを導いてくださるご臨在、また数々の、幸せを与えると約束した教えと戒め。そしてパウロは、愛と信仰と希望という霊的財産です。そして両者とも、物質的必要は満たされました。物に事欠くことはありませんでした。私たちの主、イエスご自身も事欠くことはありませんでした。しかし衣食が満たされていれば、それで満足すべきであるとパウロは、テモテ第一6章8節で教えています。

そしてたとえ、衣食さえない、つまり牢屋に入れられたり、迫害で財産が奪われたり、殉教するようなことがあったとしても、それでも主はいのちの冠を用意してくださっています。「わたしは、あなた(スミルナにある教会)の苦しみと貧しさを知っている。— しかしあなたは実際に富んでいる。(黙示2:9)」そして、キリスト者はそのような苦しみの中にある兄弟とつながれていること、ゆえに共に立つこと、愛の行ないをすることを命じられています(ヘブル11:34)。そして、富んでいるラオデキヤにある教会に対しては、「あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もないと言って、実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知らない。(黙示4:17)」と主は言われているのです。

以上、「あなたを祝福する者は、祝福される」という創世記12章3節の絡みで、説明させていただきました。

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