「ドラマ 東京裁判」から学ぶ

今、東京裁判の四回連続NHKドラマを見ています。11か国からの判事の舞台裏を、生々しく描いていて、重い気持ちにもなりますが、非常に勉強になります。

「ドラマ 東京裁判」

そもそも「戦争を人が裁けるのか」という根源的な問いがテーマでありますが、それからは、ずれるのですが、私は11人の判事の、駆け引きとも言える人間模様の生々しさに興味をそそりました。そもそも「複人数の者たちが全く対等に、統一見解を歩調を合わせて出す。」ということ自体に無理があるなあ、と思いました。それぞれが、強い信念と正義感を持っています。そしてその「正義」には温度差があり、それぞれ異なり、意見が全く相反する人たちもいます。しかし、どこかで落としどころ、決着をつけなければ判決ができません。

それで、判事の中で「力関係の駆け引き」を起こす者が出てきます。ドラマの中(そして史実もそうでしょうが)、イギリスの判事が他の判事と結託して、裁判長のオーストラリアの判事を引きずり降ろします。異端児的な存在であるインドのパール判事と、一部意見を合わせていたオランダの判事に対して、あまりにも中立的であろうとしたからです。

結局、統一見解をまとめる時、誰が主導するかということが定まっていなければ、誰かが動かさないといけないのですから、そうした駆け引きが起こるというのはごく自然なことだと思いました。

表に出て来るのは、「一つの正義」です。けれども、そこには本質はありません。それは「着飾ったもの」であり、真面目に考えたら無理があります。それは、突っ込みどころ満載であり、けれども、その作られたルールに基づいて他の人々は動かなければいけません。

そこに、人間の性(さが)があるなあと思いました。私は、「聖霊なる神に拠る導き」の重要性を知りました。確かに箴言には、多くの話し合いで事を決めることは知恵があることが書かれています。しかし聖書には、神は一人の人を選ばれ、その人を導かれることによって、他の人々が付いてくることによって、ご自分の事を行われます。「みんなで一緒に」というのは、あり得ないのです。だから、「徹底的に聖霊に導かれる」「キリストを頭とする」という、神の主権への服従こそが鍵だなあと思いました。

さもないと、結局、同調しているだけの集団になってしまうし、形だけの義になってしまいます。東京裁判の判事たちのように、力関係の駆け引きのようになってしいまいます。しかし世界は、神の統治、神の政治によって成り立っています。キリストの教会は尚更のこと。多様性の中にある御霊の一致です。それを可能にするのは、徹底的な聖霊の導きに対する服従です。

「「ドラマ 東京裁判」から学ぶ」への1件のフィードバック

  1. なかなかTVを見る時間がないので、見れるときのために、録画してみています。
    現在、おもしろいのは、東京裁判と、木村拓哉の「ヒーロー」の再放送が同時に楽しめることです。また、季節がら、イザヤ書を読む機会も多いので、裁判のことをいろいろな視点で考えることができます。
    神の一方的な断言・・・これってすごいです。
    多様性の中にある御霊の一致・・・私たちは徹底的な聖霊の導きに対する服従を祈り求めたいです。アーメンです。
    未信者の方々の行く末・・・救われてほしいという神の御旨がなりますように

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