教会が作り出す壁

以前、書いたフェイスブックの投稿を、一部編集してご紹介します。以下のリンク先にある文章を読んだ後の感想です。

日本の教会に対する批判」(ヘンドリック・クレーマー氏)

先日、「日本の教会は欧米の教会に影響を受けすぎていて、聖書的ではなくなっている」という批判を聞きましたが、私は再反論しました。「ちょっと待って、私、米国の教会にいたけれども、日本に戻って来て、そこに壁があるので、ずっと入り込めないでいます。もし欧米化しているのなら、むしろすんなり、入れるはずなのでは?」と話しました。(この交わりでは、とても和気あいあいしていて、お互い率直に言い合える仲で出てきた話題、いうのが背景です。)

けれども、1960年に来日されたオランダからの宗教学者の言葉が、まさに私が感じてきたこと、信仰を持った時からあった「牧師」との距離感、そして自身が牧者になったのに、それでも存在している見えない壁を、見事に言い表しています。

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一言でいうと、「宣教」という概念が日本の教会には極めて乏しいです。

第一に、宣教とは、キリストご自身が神から人として遣わされるところから始まった、「文化や価値観を超えて、その人々の間に入る」営みです。ところが、日本の人たちが、欧米からのものはそのまま行わなければいけないと考えているのか、その形や表面だけを取り入れてそれを頑なまでに固持しようとしているように見えます。

例えば、私は、欧米の教会のような「教会堂」の概念よりも、中国の教会のような、建物や規模に拘らない柔軟な教会形成のほうが、よっぽど日本には親和的であり、聖書的であると思います。(もちろん、教会堂そのものを否定していません、そこが焦点ではなく、「教会堂でなければ教会形成ができない」という固定概念です。)

欧米のキリスト教から出てきている習慣や考えは、本当に色濃く、その国の成り立ちや歴史、文化の経緯があり、その文脈をいつも考えないといけない。それをふまえて、「では日本ではどうなのか?」と考えないといけないのですが、欧米と日本がどれほど違うのかを踏まえていない。いや、日本の常識が欧米にもあるという前提を無意識に持っています。だから、全然違う背景なのだという発想まで至らない。

第二に、「宣教」とは、すべての人を救う神を信じることです。ギリシヤ人であっても、ユダヤ人であっても、男も女も、自由人も奴隷も、キリストにあって一つということですから、自然には合わない人々、違和感のある人々、価値観や嗜好がまるで違う人々をキリストのゆえに受け入れ、愛し、仕え合う共同体が教会です。イエス様が、サマリヤ人の女に近づき福音を語られた、あの姿勢です。

ところが、まず「宣教」と聞けば、日本人への宣教しか考えない。「まだ、日本人は信じている人が少ないから」ということは全くその通りです。けれども、自分たちが受けることは考えられても、与えるという発想には至らない。日本の菊紋章のパスポートが、かつてのローマ市民のようにどれだけ世界において最強であるか知りません!

他民族や他国の人へ福音を届けるという概念がほとんどない。ムスリムなど遠い存在には無関心、中韓など近い隣人については恐れや嫌悪感が先立ちます。そのため、どれだけ自分の考える「常識」が、通じないのかに触れる機会が少ない。

けれども、これは「日本人への宣教」をも殺しています。なぜなら、日本人でも、まるで考えていることは違うのですから。「似たような仲間の中で守られよう」ということ自体が、非キリスト的なのです。教団や教派、その他の何かの「枠」の中で自分の安心を得ようとして、それ以外のものには心を開かないという傾向があるのではないでしょうか?

第三に、宣教とは、「キリストの名があがめらればよい」とし、あらゆる違いをはるかに超越して、他の異なるものは二義的なものにすることです。ピリピ書1章にあるように、パウロが、自分をねたんで福音を伝えているものも、福音を伝えているのだから、それでいいのではないか?という姿勢です。

ヘンドリック・クレーマー氏の言われているように、「いったい無教会とか、教団とかいうことは、もはや第二義的なことではないか。大事なことはキリストの御名がこの日本で崇められることである」なのであります。

教会のあり方や神学など、二義的なことがしばしば突出します。しかし、キリストの御名があがめられるという大使命が私たちにはあり、その中で私たち僕は、アメーバーのように、いろいろ変わりながら柔軟に適応し、愛にある一致を保つのです。

欧米の教会や神学は、古代から辿ればヘレニズム(ギリシヤ)的な思想の影響を大きく受けており、相対する価値観を戦わせることによって、成り立っています。けれども、もともと、東洋医学のように全体の調和やバランスを直感的に知っている我が民族が、なぜ彼らの思考を、聖書から必ずしも出ているわけではない考えなのに、そのまま踏襲しているでしょうか?(関連記事:日本宣教と「ヘブライ的思考」

かつて内村鑑三は、「I for Japan:Japan for the World;The World for Christ;And All for God.(私は日本のため、日本は世界のため、世界はキリストのため、すべては神のため)」と言ったそうですが、我々の多くはいつの間にか「私は日本のため」で、無意識のうちに終わっていないでしょうか?次のクレーマー氏の言葉を考えてみる必要があります。

「諸君、キリストは日本のためだけにあるのではないし、世界は日本と同一ではない。だから諸君は、自分たちとは違った人々をも兄弟姉妹として受け入れ、胸を開いて問題を語り合うようにしたらどうか。他者との話し合いというものは、自分の意見で相手を屈服させようとすることではなく、率直にしかも時間をかけて、ゆっくりとやらねばならないものだ。」

「教会が作り出す壁」への1件のフィードバック

  1. 日本キリスト教会創設者植村正久氏は教会には、職工、車引き(人力車)農民、漁民のブルーカラーはいらない、キリスト教を理解できないからだと語っています。内村鑑三も同じ思考です。しかし江戸末期、浦上天主堂が出来て隠れキリシタンが信者が12,000人いる事が分かって、宣教師は、本国に東洋の奇跡と報告している。その後弾圧で3,500人にったが記録によると「天子様将軍様は尊重しますが神の上に置く事は出来ない」と記録されている。戦前日本キリスト教会は天皇を崇拝する事は間違いでないと正式発表した。日本キリスト教は教養として受け入れた。戦後キリスト教ブームに乗って広がったがやはり教養としか捉えことしか出来なかった。生活の糧ではなかった。からブームが終わり今に至ったと思います。

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