初めから物語る歴史 - イスラエル その3

その2からの続き)

シオニズム運動の誕生

その2では、離散の歴史まで話しましたが、次に帰還の歴史が始まります。これは、聖書全体に貫かれている神の回復の物語であり、イスラエルの民が約束の地から引き抜かれても、神は地の果てから彼らを集め、彼らをご自身に立ち返らせるという約束をくださっています。

私があなたの前に置いた祝福とのろい、これらすべてのことが、あなたに臨み、あなたの神、主があなたをそこへ追い散らしたすべての国々の中で、あなたがこれらのことを心に留め、あなたの神、主に立ち返り、きょう、私があなたに命じるとおりに、あなたも、あなたの子どもたちも、心を尽くし、精神を尽くして御声に聞き従うなら、あなたの神、主は、あなたを捕われの身から帰らせ、あなたをあわれみ、あなたの神、主がそこへ散らしたすべての国々の民の中から、あなたを再び、集める。(申命記30:1-3)」

イスラエルに対する神の契約は、イエス様の再臨によって実現するのです。

人の子は大きなラッパの響きとともに、御使いたちを遣わします。すると御使いたちは、天の果てから果てまで、四方からその選びの民を集めます。(マタイ24:31)」

したがって、離散の時代から帰還へ、そしてイスラエル建国という、私たちに最も近い時代は、聖書物語そのものに入っているのです。「歴史」といえば過去のことですが、永遠の神が語られた歴史は、現在も未来も含んでいるのです!

「その2」で紹介した二つのサイトを、読み直してください。「シオンの架け橋」サイトでは、「ディアスポラ後のユダヤ人」の「シオニズム運動の誕生」から、そして「ミルトス」のサイトでは、「外国の占領下」の「オスマン・トルコ時代」あたりからの話です。

ユダヤ人の離散は全世界にまたがりますが、ヨーロッパ北部のアシュケナジ、イスラム支配下時のスペインから始まったセファラディ、そして中東地域のミズラヒなどいますが、現代イスラエル国の中核を作り上げたのは、ヨーロッパ系のアシュケナジ・ユダヤ人です。

離散の地にある迫害から、「離散ということ自体がユダヤ人迫害の問題点である。ユダヤ人国家を作らなければいけない。」というヨーロッパ型の啓蒙思想が、神がもともとユダヤ人に与えられていた郷土帰還への想い(詩篇137篇参照)と相まって始まったのが、「シオン主義」つまり「シオニズム」です。そして、その時ヨーロッパは社会主義が勃興しており、社会主義的共同体を農耕によって形成するという「キブツ」の夢を掲げた人たちが、オスマン・トルコ時代に荒廃化した土地を緑化したという経緯があります。それがエゼキエル36章にある土地の回復です。

非ユダヤ人だけでなく、ユダヤ人の間でさえも、シオニズムに懐疑的な人たちが少なくありませんでした。先に挙げた申命記30章の約束には、神に立ち返るというしるしが帰還に伴っているのですが、そうして霊的復興もなくただ帰還するのは人間の恣意的な行動であると、特に宗教的なユダヤ人は考えたのです。けれども、実は神はこのこともご自分の御思いに入れておられ、イスラエルの帰還には二段階があり、メシヤが到来する前にすでに国が復興していなければいけないことをエゼキエル書37章は告げています。

そして、ホロコーストが帰還に拍車をかけ、その残虐さに国際社会も驚愕し、国連がイスラエル国家認知を1947年に行ないました。

興味深いことに、中東系の離散ユダヤ人が怒涛のごとく押し寄せたのは、その後です。しばしば「パレスチナ難民」のことは取り上げられますが、「ユダヤ難民」については全く取り上げられません。1948年に勃発した第一次中東戦争(独立戦争)によって、自分の家を離れて避難したアラブ人がパレスチナ難民の起源ですが、同じ時にアラブ諸国にいたユダヤ人も強制退去を命じられました。その大量の難民を誕生したばかりのイスラエル国は「吸収」したのです。パレスチナ難民をある程度吸収したのに成功したのは「ヨルダン国」ですが、大部分のアラブ諸国は政治的意図をもって彼らを吸収せず、難民の位置のままに留めているのです。

そして、あの巨大国ソ連が崩壊しました。その後、そこで迫害下に置かれていたロシア系ユダヤ人が怒涛のごとくイスラエル国に押し寄せました。そのため、今のイスラエルではヘブル語、アラブ語、英語の他にロシア語も使用言語の一つとなっています。

宗教(イスラム)との確執

ヨーロッパに歴史を通じてあった根強い反ユダヤ主義は、「キリスト教」がその背景にありました。イスラエル旅行に行かれるクリスチャンは、そこで言われている「キリスト教」が自分の信じているものと異質であることに、すぐに気づかれることでしょう。極めつけは主が十字架につけられた「聖墳墓教会」ですが、そこにはプロテスタントを除く様々な教派が縄張り争いをしていて、聖職者が文字通りの喧嘩をする事件も散見されます。イエス・キリストに対する信仰が「宗教」に成り下がるのです。

その宗教としてのキリスト教の中では、ユダヤ人が「キリスト殺し」とされました。「ちょっと待って!それは当時の腐敗したユダヤ教指導者が行なったことで、それよりも私の罪のためにキリストがご自分の命を捨ててくださったのでは?」となるのは、福音的な、御霊の新生を経験しているクリスチャンであり、宗教としてのキリスト教は違うのです。イスラエルは呪われた民であり、侮蔑の対象として扱ってきました。

それに対して、イスラム教の中ではどうだったかと言いますと、生存権まで脅かされることはありませんでした。二流市民であるかぎり、その生活を否定することはなかったのです。イスラムには、「征服神学」があります。ユダヤ教はキリスト教に発展し、イエス・キリストはその中の偉大な預言者であるが、最後の使徒ムハンマドにアッラーが啓示を与え、それがコーランであると信じています。ユダヤ教もキリスト教もイスラムによって完成するのだ、と考えているため、イスラムが支配していること自体が大切なのです。ですから、イスラエルに行くと、ユダヤ教とキリスト教のゆかりの地にモスクが立てられています。極めつけは「神殿の丘」に「岩のドーム」が建てられていることです。イスラム教徒は、そのドームに背を向けてメッカに向かって拝礼しています。そこを敬っているのではなく、ユダヤ・キリスト教に対する征服自体が大切なのです。

ところが、近代に入り、彼らの神学体系を根底から覆す歴史が始まりました。ユダヤ人が大挙してパレスチナの地に押し寄せてきたのです。しかも、彼らは土地を買い取り、そこを開墾し、町々を建て、そしてなんと国造りまでしていました。イスラム主権ならず、ユダヤ人主権が広がっていくということは、彼らにとって屈辱以上の、絶対にあってはならない出来事なのです。

そこで近現代の歴史が「ヨーロッパ中心の反ユダヤ主義」から、「イスラム圏の反イスラエル主義」へと変わっていったのです。

その4に続く)

初めから物語る歴史 - イスラエル その2

その1からの続き)

外国の支配からイスラエル建国

イスラエル旅行を考えている方、またイスラエル全般を知りたい方は、次の二つの記事の一つを読むことを必須にしたいと思います。

イスラエルの歴史」(「シオンとの架け橋」から)

イスラエル・ユダヤ情報バンク」(「ミルトス」から)の「イスラエルの歴史」

出エジプトを紀元前13世紀とするなど、多少、私の見解と異なる記述はあるものの(私は1445年だと思っています)、全体を眺めるには良い記事です。シオンとの架け橋サイトであれば、「ディアスポラ(離散)後のユダヤ人」、ミルトスのサイトであれば「外国の占領下」から、聖書時代からそれ以降の歴史を眺めることができます。

    ペルシア・ギリシア(Persia – Greece)時代
    ハスモン王朝(Hasmonean)
    ローマ支配(Rome) → ここがイエス様が地上におられた時代
    ビザンチン時代(Byzantine)
    アラブ征服時代(Arab)
    十字軍時代(Crusader)
    マムルーク時代(Mameluke)
    オスマントルコ帝国時代(Ottoman Turk)
    英国委任統治時代時代(British Mandate)
    独立への道(Independence)

参照図書は次の二冊です。
「ユダヤ人の歴史」(シーセル・ロス著)(紹介文 ・ 古本
「ユダヤ人の歴史」(ポール・ジョンソン著)(上巻 ・ 下巻

「独立への道」つまり、近現代のイスラエルの歴史は、また追ってお話したいと思いますが、最後にYoutubeでイスラエルの歴史を見てみましょう。英語で”history of Israel”と入れると、数多くの紹介動画が登場します。面白かったのは次です。

四分間で見るイスラエル史

五分間で見るエルサレムの四千年史

その3に続く)

初めから物語る歴史 - イスラエル その1

「今」を知るための物語

この前の日曜日、午後礼拝の後の交わりはとても楽しいものとなりました。来年のイスラエル旅行に思いを馳せる人が何人かいて、私はさっそく、今のイスラエルを知るための基礎知識を紹介しようとしました。けれども、今のことを話そうとしたとたん、私の口は聖書時代から話し始めていたのです。「今」を語るためには、連綿とつながっている歴史そのものを語り継げなければいけないことに気づきました。不思議に、一つのことを話そうとするとそれが数珠繋ぎになって「初め」へと戻されるからです。

聖書の中には、何度も何度も「物語」を語り継ぐ場面を発見します。誰もが、今の自分たちに至るまでの歴史を語り継げて、それで今の自分を見つめ、主に従うことを指導者は勧めます。申命記というモーセの説教しかり、ヨシュアの晩年の言葉(24章前半)もそうですし、ソロモンは逆に神殿を建てた後に、これからの歴史、つまり預言を祈りの中で行いました(1列王記8:27以降)。

モーセも、同じように過去のみならず、一つの「歴史」としてはるか終わりの日まで語り(申命記28-30章)、その父祖ヤコブも死に際に、息子たちに未来の歴史を語りました(創世49章)。神は、私たちに一貫した物語を人生として与えておられ、それをご自分の作品にしておられるような気がします(エペソ2:10)。

後世は、詩篇の著者が105,106,136篇など、いろいろなところでイスラエルの歴史を語り継ぎつつ歌をうたっています。バビロン捕囚からエルサレム帰還後にも、ネヘミヤ記9章においてレビ人らがイスラエルの歴史を初めから語り、神に祈り、悲しみの思いを告げています。

これは新約時代に入っても同じです。ステパノは、「律法に逆らう言葉を彼は話している」「神殿をこわせ、と彼が答えるのを聞いた。」という告発に対して、そのまま答弁するのではなく、イスラエルの歴史をアブラハムの時代から語り始めたのです(使徒行伝7章)。パウロも、ピシデヤのアンテオケの会堂で、出エジプトからイエスが現れてくださったことに至るまでの歴史を語っています(同13章)。

したがって、イスラエル旅行に行く時は、もちろんイエス・キリストが辿られた足跡を追うことが主目的ですが、その舞台であり文脈となっているイスラエルを知るには、初めからの歴史を順番に追って知っていくことが必要です。

聖書時代以外の歴史

私たちキリスト者、特に聖書が好きな信者たちは、聖書時代のイスラエルまたエルサレムの歴史は知っているでしょう。アブラハムから始まり、約束の地にヨシュアが入り、ダビデの時代にイスラエル王国が立てられ、その時にエルサレムがユダヤ人のものとなり、バビロンによる七十年の離散の歴史を経た後、帰還したということ。けれども新約の時代に入るまでに、ローマがその地を支配して、ユダヤ人には自治のみが許されていたことはご存知でしょう。

けれども、実は意外に知られていない二つの時代が聖書には書かれています。一つは「中間期」と呼ばれるものです。バビロンからの帰還の生活がエズラ記とネヘミヤ記に書かれていますが、その時代はバビロンを倒したペルシヤの時代に入っていました。そして旧約の最後のマラキ書はペルシヤ時代のものです。それ以降、イエス様がお生まれになるローマまでの時代は書き記されていないと思っていましたら、間違いです。「預言」として、いくつかの預言書に書かれているのです。

一つは「ダニエル書」です。ここに一番詳しく書かれています。ネブカデネザルが見た「人の像」には、バビロンから始まり、メディヤ・ペルシヤ、そして次にギリシヤとローマの姿が映し出されています。さらに、ダニエル自身が見た四頭の獣もバビロンとペルシヤの他にギリシヤとローマがありました(7章)。さらに8章には、ペルシヤとギリシヤの姿が詳しく描かれ、特にギリシヤ時代に出てくるアンティオコス・エピファネスと呼ばれるシリヤ(ギリシヤ帝国の四分割の国の一つ)の王がユダヤ人をギリシヤ化すべく大迫害を行なうこと、そしてそこからマカバイ家による反乱と、神殿の奪還の歴史が預言として記されています。さらに11章には、ギリシヤが四分割した後に、プトレマイオス(エジプト)とセレウコス(シリヤ)の長い戦争の歴史が記されており、詳細に中間期を描いているのです。

もう一つは「ゼカリヤ書」です。9章にはギリシヤの歴史、11章にはローマの歴史、特に紀元70年にエルサレムの神殿を破壊し、ユダヤ人を世界離散の民にした出来事が預言として記されています。

そして聖書時代を越えて語られているのは「離散と再集合の歴史」です。イエス様は、ユダヤ人が神を退け、実にその御子までをも退けたことによって、エルサレムが破壊されることを泣きながら予告されました。

ああ、エルサレム、エルサレム。預言者たちを殺し、自分に遣わされた人たちを石で打つ者。わたしは、めんどりがひなを翼の下に集めるように、あなたの子らを幾たび集めようとしたことか。それなのに、あなたがたはそれを好まなかった。見なさい。あなたがたの家は荒れ果てたままに残される。あなたがたに告げます。『祝福あれ。主の御名によって来られる方に。』とあなたがたが言うときまで、あなたがたは今後決してわたしを見ることはありません。(マタイ23:37-39)」

「荒れ果てたままに残される」ということが紀元70年から始まり、厳密に言えば今に至るまでその状態が続いています。エルサレムに神殿がなく、他の者に荒らされているということであり、「神殿の丘」に、イスラムの「岩のドーム」がある事実がそれを物語っています。

そしてそれが終わるのが、ユダヤ人指導者が「祝福あれ。主の御名によって来られる方に。」と言う時であるのですが、それはイエス様が再び戻ってこられて、彼らがイエスこそがメシヤであることを気づく時です。そしてルカ21章24節によると、「人々は、剣の刃に倒れ、捕虜となってあらゆる国に連れて行かれ、異邦人の時の終わるまで、エルサレムは異邦人に踏み荒らされます。(ルカ21:24)」とあり、この時代が「異邦人の時」とイエス様は呼ばれます。

したがって、その後の離散の歴史とエルサレムが異邦人の支配を受けていた時代を知ることは大事なのです。

その2に続く)

有神的進化論について その3 - 創世記1章と2章の矛盾?

その2の続き)

そして、「(創世記1章と2章の内容を簡単に紹介した後)・・もし文字通りであるなら、なぜ完全に一致しない二通りの話があるのか。」という発言があるそうです。この発言には、私には良い思い出があります。

私が以前、故郷で通っていた教会は純粋な福音主義ではなく、自由主義神学をやや取り入れている所でした。そこで若い奉仕者が、信仰歴も浅い大学生の私に対して、(私が福音主義と自由主義の違いを尋ねたんだと思います)、創世記1章と2章の記述の矛盾についてでした。

これは天と地が創造されたときの経緯である。神である主が地と天を造られたとき、地には、まだ一本の野の潅木もなく、まだ一本の野の草も芽を出していなかった。それは、神である主が地上に雨を降らせず、土地を耕す人もいなかったからである。ただ、霧が地から立ち上り、土地の全面を潤していた。その後、神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで、人は、生きものとなった。(創世記2:4-7)

これが、1章の記述と異なるではないか、ということでした。私には、その疑問そのものが理解できませんでした。新しく信じた私にとっては、「だって、1章で天地創造全体の話をして、2章で人間の創造に焦点を合わせて話しているんじゃないの?」という逆質問でした。なぜ1章の次に2章が起こった、と、あたかも1章27節の男女と2章のアダムとエバが別人物のように考える必要があるのか?という疑問でした。

私たちが話を進めるときに、一通り全体の話を順番に説明して、それから少し戻ってある部分を詳しく話すってことはないでしょうか?実はこの書き方が聖書には数限りなく続きます。黙示録は時間を進めては少し戻り、詳しく話し、また全体を話してさらに前進し、また少し戻る、という方法で話しています。

また、ちなみに、私たちがいろいろなことを話した後で、再びそれを話す時に、一番最初に話した内容から始めるのではなく、記憶に新しいすぐ手前で話したところから戻って、そして逆方向に思い出しながら初めに戻って話していくことはないでしょうか?ちなみに、これも聖書の中でたくさん出てくるものであり、実に聖書全体が「初め」と「終わり」が一つの話になっています。そして真ん中に「イエス・キリストの福音」があり、救いと回復の分岐点となっています。黙示録22章と創世記1章を比べてみてください、酷似しています。ここで初めてようやく神が語られたい初めの内容に戻られた、という感じです。

このように、聖書は一貫性のある、生き生きとした書物であり、博士論文や会計報告のような見取り図ではなく、話を聞かせているようなかたちで心に残るような形式になっています。もっと詳しくお知りになりたい方は、さきに引用した「ゲノムと聖書批判」のブログ記事の続きをご覧ください。

創世記1章と2章の矛盾?

創世記1章と2章の構造

有神的進化論について その2 - 「ゲノムと聖書」批判

その1の続き)

ここでの講演者が、日本語にも訳された「ゲノムと聖書」”Language of God”という本の著者ということですが、この書物の率直な感想、そして批判をしているブログ記事があります。

「ゲノムと聖書」批判(1)(2)(3)(4)

私も進化論について、その基礎知識を学ぼうとして、例えば「現在の進化論入門 豪快痛快進化論」というサイトを読みました。「進化は今も謎だらけ。難しいことをごそっと無視して進化の基礎から問題点まで」とホームで紹介されていると通り、はっきりいって謎だらけでした。文章が分かり易く書かれてはいるのですが、まずもって論理が付いていけないのです。問題点はどんどん浮き彫りにされていくのですが、こんなに分からない科学理論て何なのだろう?というのが感想です。

簡単に「神が創造した」といえば、それで終わりです。その説明の一つ一つに、「その一言ですべて論理がつながる」と感じました。そうすると「進化論と創造論」というコラムもあるのですが「宗教であり科学ではない」と言われます。でも私が言いたいのは逆に、「神なしで説明しようと恣意的に行っているから、謎がただ深まるばかりで迷宮入りしているのでは?」ということでした。

それで、進化論をなるべく偏見なしにその初歩知識を得ようとしたところ、かえってますます、神の創造への確信がかえって強まってきました!

そこで、この「ゲノムと聖書」に戻ると、著書についての読後感想もネット上でたくさん見つけました。信者ではない方のほうが、信者の人たちよりも率直で、的を射た意見を言っておられます。

ここまでの話を著者は誠実に正直に書いているんだろうなと言う事は感じられました。ただ、もう少し突っ込んで説明して欲しいという箇所は残ってしまいました。例えば、創世記を字句通りに信じる必要はないとするならば、新約聖書に書かれたキリストの復活はどうなのでしょう。クリスチャンにとってはここは信仰の本質に関わる部分ではないのかなと想像するのですが、生物学者として筆者はこれも象徴的・寓話的と考えるのでしょうか。また、神の存在を証明する人間のみが持つ特質として道徳が挙げられていますが、これらをすら進化論的な枠組みで説明しようとする(つまり、道徳を持ちえた人間こそが生き残りの確率を高める事が出来、それが子孫に広まった)多くの科学者の試みをどう考えるのでしょう。

う~む、これらもすれ違いの議論になってしまいそうです。ドーキンスの本を読んで棄教する人が殆ど居ないのと同様に、本書を読んで信仰の道に入る人もやはり少ないのではないのかなと想像するのでした。(注:太字は私がしました)
http://www.onsenmaru.com/book/B-300/B-323-genomebible.htm

ちなみにリチャード・ドーキンスとは、欧米では有名なバリバリの無神論者、いや反キリスト教論者です。私たち信者は、そういった反対論者の意見に萎縮してしまい、つい妥協点を計ろうとして調整していく傾向があるのですが、真理というのは「地の塩」であり「世の光」なのです。折衷するときに、信仰の妨げを取り除いているつもりで、実は何の効果もないことに気づくのです。

もう一つ読後感想を紹介します。

 ほんとまじめなんですよ、この先生。自分の良心の落としどころを求めて、あれやこれや試行錯誤に調整を試みた末の、せいいっぱいの”有望な”神の延命計画を提案しているんですよ。インテリジェント・デザイン(ID)説に苦言を呈しーの、有神論的進化論を試しーの、バイオロゴスはどうかと打診してみーの。
 そこには、どこか、人類には共通の性向があり、共通項を確立すれば幸福がもたらされるのであり、という楽天的な妄念がどっぷりしいの、そしてあくまで、どこまでもどこまでも一神教圏の神設定から抜け出す気はいっさいございません状態で徹底しいの、なんだけれども、とりあえず、まあ、あちらのお国事情では、これもひとつありかな、というところで、見ておいて損はない一冊。
http://ep.blog12.fc2.com/blog-entry-1344.html

「ご本人の良心の落としどころの試行錯誤」というのは、まさにその通りではないでしょうか。周囲の人々に神の真理を伝えるべく奉仕をする、というのではなく、自分自身の信仰の模索をただ言い表しているような気がします。これまでの保守的な教会のあり方に対する漠然とした疑問があるが、けれども自分は神を信じている、という表明であるような気がします。そういった意味で本人には同情しますが、まだ信仰の若いクリスチャンへのつまずきになり、教会全体にも益をもたらさない、と言えるのではないでしょうか?

その3に続く)

有神的進化論について その1

前の記事で触れた「有神的進化論」についてですが、在米日系教会の牧師さんが、その講演を聞きに言った時の話がネット上にありました。(こちら

そこにこの考えの骨子が書かれています。
1)宇宙は、140億年に何も無いところから始まった。
2)宇宙の様々な常数(光速、重力、電磁力等々)は生命が出現できる環境を作りだすために精確に調整されている。
3)生命が始まったメカニズムは解明されていないが、一旦生命が始まると進化と自然選択により多種多様、複雑な生命体が出現した。
4)生命は創造者が特別な時に、特別介入するという方法ではなく、進化という方法で複雑化、多様化した(つまり神が進化したという方法を選んだ)
5)人間もこのプロセス上に出現し、類人猿と共通の祖先を持つ
6)人間は霊的な存在であり、時代・文化を越えて「神を求める」ユニークな存在である

ありゃりゃ、これはもうキリスト教の基礎そのものを否定しているのではないか?と思いました。

1)宇宙は、「はじめに、ことばがあった(ヨハネ1:1)」とあるように、「何も無い」のではなく、神とキリストがおられるところから始まっている。

2)については、生命が出現する環境が常数によって作り出されている、とあるが、創造の第一目の「光」を神が造られ、そして三日目に植物、五日目、六日目と生物を造られたということの写しである。しかし同時に歪曲であり、「作り出された」のではなく「神が造られた」のだ。

3)「進化と自然選択による、多種多様、複雑な生命体」ではない。神は「区別される方」であることが創世記1章では強調されている。ゆえに「種類ごと」に造られたと強調されているのであり、最終傑作品は、「神のかたち」そのものに似せて造った人である。これは創世記1章の字義解釈の話ではなく、神は秩序をもって世界を支配しておられるという聖書全体に流れる神の特質なのだ。簡単に断定してほしくない。

4)「創造者が特別な時に、特別介入するという方法ではない」という。おい、そしたらそのあとの話、ノアの洪水、紅海が分かれること、ヨシュアの時代、日がとどまったこと。エリヤの天からの火、ヒゼキヤの日時計が逆戻りしたこと、そして何よりも、主ご自身が処女から生まれ、数々の奇蹟をなし、死者の中からよみがえられたこと・・・これらをみんな否定するんですか??

この論者が分かっていない、あるいは気づいていないのは、「聖書の初めの記述は、その後に続くすべての神の働きの始めになっていること」であります。聖書をそのまま読むことによって、極めて統一性のある、不変で真実な神の御姿が浮き彫りになってくるのに、聖書が、不作為な文献の寄せ集めのような文書に成り下がってしまいます。

5)は極めつけです、話になりません。人は「神のかたちに造られた」という真理の真っ向からの否定です。その独自性があって初めて、人に対する神の贖いの計画が成り立つのであり、黙示録に至るまでの救済に妥当性を与えるのです。つまり、「初めがあって終わりがある」のであり、「初めを壊すと、終わりも壊れる」のです。

6)最後に付け足したように、人は霊的な存在であり、神を求めるユニークな存在である、と言っていますが、神が人をユニークに造られた、とは言っていない。あたかも人間肉体にある物質が神を求めるようにさせている、という唯物的な考えが見え隠れしています。

その2に続く)

自由主義神学(リベラル)について

このブログ、また教会に来られている兄弟姉妹は、「福音派」という言葉を私の口から聞かれていることでしょう。英語ですとevangelicalであり、「キリストの福音」を聖書に書かれている通り、強く信じている信仰です。

けれども、そのように信じていない人たちもいるというのが、キリスト教の世界全体を見回すとかなりの割合で存在するというのも実情です。先にカトリックについて述べましたが、聖書の最高権威においてかなり違った見方をしています。「教会の伝承の中に聖書がある」という見方です。だから、伝承でマリヤ様が神の母とされているから、聖書ではマリヤが一人の信仰者にすぎないことが書かれていても、彼女を讃えています。

そして、もう一つ「自由主義神学」という言葉も私の口から聞かれたことがあるかもしれません。それは、「聖書に書かれてあることは自分の心の中のこと」で、それが客観的な真理でなくとも良いとする立場です。理性で把握できるものだけを受け入れ、科学において一般に受け入れられているものはそのまま受け入れて、聖書が書かれていることをそのまま信じることはない、とする立場です。

これが実は、「プロテスタントの主流派」と呼ばれている人々の立場です。そして、「聖書に書かれてある全てが神の息吹きによる言葉であり、誤りがない」とする福音派は、「諸派」の中に数えられています。

私は信仰がまだ浅い時に、ウィリアム・バークレーという有名な聖書注解者の第二ペテロの手紙の注解書を読みました。(彼は自由主義神学を全面的に信奉していたわけではありませんが、福音主義でもありませんでした。)そこには、「ペテロが書いた手紙ではなく、紀元二・三世紀の弟子によって書かれた」というようなことが書かれていました。それで何気なく私が教会の兄弟にそれを話すと、彼は黙って「聖書を開いてご覧」と言ってくれました。そこに書いてあるのは、「イエス・キリストのしもべであり使徒であるシモン・ペテロから(ペテロ第二1:1)」とあります。私は唖然としました。こんな明白なことをどうして私は見逃していたのだろうかと、自分が悔しくなりました。けれども、一度入ってしまったその情報は、聖書を読むたびになかなか離れることがなく、ひどく苦労したのを覚えています。

進化論的な天地創造の解釈、心理学の教会への導入、地獄はないとする考え、キリスト再臨の過小評価、カトリックとの対話など、少しずつ福音派と呼ばれている諸教会の中にもじわじわとその影響が入り込んできています。いろいろな形でやってきます。特に頭の良い人々がいろいろな知識をもって説明するので、「自分は単純だから、まだ知らないことがあるのでは・・・」と悪い意味で内省的になり、それを受け入れてしまう危険があるのです。教えの風(エペソ4:14)や人の哲学(コロサイ2:8)はしばしば吹き荒れますが、カルバリーチャペルから最近出版される本にも、その種類のものが増えています。(例:“New Evangelicalism: The New World Order” by Paul Smith

次のブログは、自由主義神学の嵐の中で、福音的な聖書信仰を堅持し、教会を牧会しておられる牧師さんによる記事です。特に、上の話で小難しさを感じられた方は、ぜひ一読してください。とても分かり易く説明しておられます。証しなので、文章はかなり長いですが、全部読む価値ありです。

聖書信仰に立つ  創世記3:1、マタイ4:3-4

究極のプロ・ライフ(生命尊重)

今、明日の恵比寿バイブルスタディのために詩篇の学びの準備をしていますが、本当に詩篇139篇は心に深い安息と慰めを与えます。一度、10分でも20分でも、この詩篇の箇所を読んで思い巡らす時間を持たれると良いと思います。

米国の大統領選において、しばしば争点として挙げられるのが中絶の合法化問題です。日本の人は、なぜこれが政治の争点になるのか分からない、と思われるかもしれません。けれども、これは社会を構成するあらゆる分野に集約される大切なことです。

なぜ中絶をするのか?望まぬ妊娠をするからです。なぜ妊娠をするのでしょうか?大抵の場合、婚前交渉または婚外交渉をするからです。つまり、中絶の是非を問うことは、そのものに対する価値観を問うことに他なりません。性の悦びは結婚においてこそ絶頂に達するという真実に目を向けるかどうかに関わります。性病やエイズも中絶と共に、性の捉え方の歪みによって出てくる問題です。

そして中絶問題を取り扱うことは、その後に生まれた子をしっかりと育てるという責任が問われており、家族の価値観が問われています。健全な家族こそが、健全な社会を形成し、そして国そのものの基盤となっています。

そして中絶問題を取り扱うことは、生命そのものの価値観を問うことです。人の選択によって人の命を取ることが、果たして許されることなのかどうか。障害者、老齢者、その他の弱者がなぜその生命が尊ばれなければいけなのか?動物の命と人間の命にはどんな違いがあるのか。中絶問題を取り組むことによって、真剣に生命そのものの価値観に気づくことができます。

前置きが長くなりましたが、詩篇139篇には次の言葉があります。

それはあなたが私の内臓を造り、母の胎のうちで私を組み立てられたからです。私は感謝します。あなたは私に、奇しいことをなさって恐ろしいほどです。私のたましいは、それをよく知っています。私がひそかに造られ、地の深い所で仕組まれたとき、私の骨組みはあなたに隠れてはいませんでした。あなたの目は胎児の私を見られ、あなたの書物にすべてが、書きしるされました。私のために作られた日々が、しかも、その一日もないうちに。(13-16節)」

この御言葉に、神が私たちをどれほど気にかけてくださっているのか、実に胎児の時にすべての思いを前もって定めておられるという究極の生命尊重を見ることができます。下のビデオをご覧ください。私はこれを見て、いかに現代社会が性を商品化しているのか、その愚かさと魔術性を痛感しました(黙示録18:13;23参照、13節の「奴隷」は肉体のこと)。そして夫婦間の性行為がいかに高尚で、神聖な営みなのかを実感しました。

生命の価値観についてもっとお知りになりたい方は次のサイトをおすすめします。「小さないのちを守る会

「聖書の日本語」

本日、図書館で借りてきて、飛ばし読みですが読み終わりました。この本題に惹かれたのが、「日本語訳の聖書」ならず、「聖書の日本語」と、日本語のほうに焦点を当てているのではないかと思った点です。

「聖書の日本語」 鈴木範久著 岩波書店

以前、「据わらないキリスト教用語」という記事を書きましたが、まさに「目から鱗が落ちる」点が二つありました。

一つは、私たちは「日本のキリスト教は西欧からの輸入」と思っていますが、聖書翻訳について言えば中国訳にかなり依拠しているということです。

日本のキリスト教受容は,西欧人によって伝えられたために,ともすると西欧の影響のみが表立っていた.ところが,今回改めて思い知らされたのだが,日本の聖書翻訳に占める中国語訳の大きな比重は,キリスト教受容にも影響を与えずにはおかなかったであろう.あえていうならば,日本のキリスト教の受容は,聖書語に関する限り,儒教や仏教の経典と同じく,中国経由なのである.(本文から)

もう一つは、日本語には、聖書に使われている言葉がかなり多く定着している、という点です。始めに挙げた「目から鱗」というのは、パウロが水のバプテスマを受けたときに、聖霊のバプテスマも受けて「目からうろこのような物が落ちて」という使徒の働き9章18節から来ています。「豚に真珠」もそうですし、日本語に十分定着しています。

ルター訳がドイツ語の基礎を作ったとは,よく言われることですが,日本語への翻訳の歴史の中でも,聖書はまた格別の意義をもつようです.聖書の言葉,言い換えればキリスト教の考え方が,どれほど深く近代日本の精神に喰い込んでいるか.数々の発見に満ちた,聖書翻訳物語です.(編集部から)

英語と日本語の翻訳の違い、また韓国語と日本語の翻訳の微妙な差異から、説教そのものの内容まで変わるという場面をしばしば見てきたので、聖書の「言葉」というものが気になっていました。

ちなみに、ウィキペディアで、聖書翻訳の変遷の歴史を読むことができます。→ 「日本語訳聖書

聖書本文の違い

そして、もう一つ聖書説教の準備で大きく立ちはだかるのは、「底本」です。旧約聖書はヘブル語、新約聖書はギリシヤ語ですが、現存している写本の校訂版のどれに依拠するかによって、当然翻訳が変わってきます。旧約のヘブル語は「マソラ本文」で統一されていますが、新改訳では、旧約聖書のギリシヤ語訳である「七十人訳」やシリヤ語訳を採用している場合、また直訳ではない言い回しが頻出するので、とまどうことがしばしばあります。けれども新改訳の良さは、頁下にある「引照」です。そこに直訳や、ヘブル語の訳など翻訳の背景になっている説明が数多く出てきます。それを皆さんも参考にされると良いかと思います。

そして、さらに厄介なのが新約聖書です。しっかり聖書を読んでおられる方は気づいているでしょうが、「節」が飛んでいる場合があります。例えば、ヨハネ5章4節を探してください・・・ありませんね!それで引照を見ると、異本には3節後半から4節には次を含む、という説明があります。これは章と節を振った時と、今の翻訳の底本が異なるためです。往々にして、現代の翻訳では省かれています。参考までに、チャック・スミス牧師の「マルコ16章」の講解(日本語訳)を読んでみてください。

私は、本書でギリシヤ語の底本として何が使われているかが参考になりました。明治元訳においては、「公認本文(テクストゥス・レセプトゥス)」が使われていたけれども、英語のRevised Versionを参照した「大正改訳」では「ネストレ校訂文」を使ったそうです。これが、現代私たちが目にする「文語訳」になります。

そして、戦後直後「口語訳」、それから「共同訳」「新共同訳」と変遷しますが、本書では福音派の人たちが使う新改訳は取り扱われていませんでしたが、新改訳も文語訳で確立した基本的な聖書用語はほぼ全て踏襲していることも分かりました。また、新改訳もネストレ校訂文を底本にしていますから、現存している日本語訳聖書で、英語の欽定訳(King James Version)の依拠している公認本文を底本にしているのは、明治元訳以外に存在しないということになります。

ところで昨年、翻訳されたとされる「現改訳」は、ビザンチン・テキストを底本としているようで、とても期待しています。

聖書翻訳の比較

聖書を学ばれるときに、ある箇所の意味が分からなくなったら、まずはその前後を読んで、文脈を把握してください。それで多くの場合、その言葉の意味が分かってきます。それでも分からなければ、他の翻訳を参照することをおすすめします。ネット上にもたくさん存在します。

新改訳聖書

口語訳と新共同訳

大正改訳・明治元訳・口語訳