2011年カルバリーチャペル宣教会議②

2011年カルバリーチャペル宣教会議の二番目の説教者は、マット・コットマン(Matt Kottman)牧師でした。彼は長年、宣教の働きに携わっていますが、現在、イギリスのカルバリーチャペル・レザーヘッド(Leatherhead)という教会で牧会をされています。

「神の召し」ハガイ2章1-9節

(要旨)
神の召しを受けて、かつて宣教の先駆者アブラハムが入った約束の地で神殿の再建を行なったが多くの反対に遭い、落胆していたユダヤ人一団に対する神の励ましの言葉である。

1-3節:現状
彼らは三つの過ちを犯していた。
1)外見を気にしていた。「以前の栄光に輝くこの宮を見た(3節)」
弟子たちもマルコ13章で「なんとすばらしい石なのでしょう。」と神殿の外側を見ていた。
私たちの奉仕の働きで、外見を見るという過ちを犯していることは多々ある。「讃美チームが与えてほしい」「おっ、あの人はギターが弾ける!」など、内的実質を見ないで外側に注目することがある。

2)過去の栄光にすがっていた。「以前の栄光・・」
イギリスは、かつてスポルジョン、ウィットフィールド等を通して驚くべき神の御業を見たが、今はない、と言ってがっかりしてしまう。

3)比較「まるで無いに等しいのではないか(3節)
他の奉仕者の働きと自分のを比べてしまう。

4-5節:励まし
「強くあれ」
私たちが落胆して力を失っている時、神は強くあれと励まされる。神は命令されるとき、その命令に従うことのできる力も与えてくださる。
「仕事に取りかかれ」
私たちは、神の仕事を落胆により止めてしまう、またはただ今していることを維持するだけで、将来に向かい危険を冒すことをあえてしない。
「わたしが共にいる」
私たちは、神が召されると、独りでその働きをしなければいけないと勘違いする。しかし、神が既に働かれているところに私たちが参与する、と言ったほうが正しいのだ。
「あなたと結んだ契約により」
神は約束を与えてくださる。
「わたしの霊が」
神が臨在しておられる。
「恐れるな」
宣教の働きのとき、私たちは恐れと戦う。

6-9節:励ましの根拠
「この宮を栄光で満たす」
かつては幕屋、神殿、そして主ご自身(ヨハネ1:14)、そして今は私たち教会が神の栄光の宿す所である。

「宝物で満たされ」
神は人々を連れて来たいと願っておられる。

「先のものよりまさろう」
神は、自分が持っている幻よりもさらに大きな幻を持っておられる。

(感想)
人はすぐに落胆する弱い存在だなと、自分のことを考えると特にそう感じます。「外見を見る」「比較する」というのは、いつも付きまとっている落胆の要因です。

けれども神はそのことをよくご存知で、絶えず、「強くあれ」「働きなさい」「わたしが共にいる」と励ましてくださいます。「強くあれ」という言葉だけでも、本当に強められますね。また、「主が共におられる」というのは、人間的な感覚ではいつも忘れてしまう真理です。なぜか、「私が、神から命じられていることを、独りでこなさなければいけない。」と思ってしまうのです。

そして「教会が神の栄光の満ちるところ」であることは、今の私たちの集まりが神の目にいかに尊いのかを思いました。そして神は人々を救いたいと願われていること、そして自分の今の夢よりももっと大きな幻を持っておられることなど、いつも、この神の前で砕かれながら、そして喜び叫ぶ日々を暮らしたいと思いました。