「感謝の力」 - ④たとえ敵であっても

アメリカとは正反対の共産主義国は、私たちの国の近くにもあります。言わずとしれた中国です。これまでの話だと、私が中国に激しく反対する意見を言うと思われるかもしれません。矛盾するようですが、私は中国にも感謝しています。30年間の開放政策のおかげで、人々に制限付きですが自由が与えられ、とてつもない問題を抱えながらも、神の御業がものすごい勢いで進んでいるのですから。福音を信じる自由を少しでも与える国は、神が祝福してくださいます。今の経済発展も、神の祝福があるからだと私は信じています。

そしてその制限がかえって、自由民主主義国に生きる私たちにはない純化を与えてくれます。そこには実質的な集会の自由がありません。その代わり、教会は大集会を開いて、商業的に人々を招きいれようなんていう発想をしません。また、情報が制限されていますから、アメリカや韓国で発生するあらゆる教えの風も、そこで遮断されます。また、既存の宗教(キリスト教、イスラム教、仏教、カトリック、道教)以外は「迷信」として禁じています。ですから、変な異端を持ち込む余地も少なくなっています。

イスラム教の国も同じでしょう。そこで回心したキリスト者は、私たちと違って、献身というものをよく知っておられます。神に服従することを彼らはもともと教わってきたので、キリストを主とするということも容易に理解できるのです。彼らに足りなかったものは、アッラーに存在しなかった「愛」です。けれども、キリストの愛を知り、それで激しく主を愛し、仕えるのです。

だいたい、こんな感じです。個人的生活でも、社会的生活でも、そして国民的、世界的情勢でも、「感謝」こそが、私たちを強める力であることを思わされているこの頃です。

「感謝」の力 - ③アメリカに感謝している訳

数年アメリカに住んだ者として、私は、アメリカの世界における関与は、非常にその国民性を表したものであり、面倒くさい面もあるが、それ自体を否定すると、もっと大変なことになると感じています。

アメリカは曲がりなりにも、ユダヤ・キリスト教価値観を有する建国精神によって成り立っています。そして、個々人の責任において働くという「自由」の精神を強固に持っている人たちです。それゆえ、彼らが関与するところに小さな規模で不条理や不正義があったとしても、全体的に見ると良い物が生まれています。

例えば、お近くの韓国をご覧ください。今では信じられないかもしれませんが、20年数年前までそこは軍事政権であり、独裁でした。当時の世論は「独裁の韓国、そしてそれを後押しする米国」というものが主流でした。キリスト教会もおそらくそうだったでしょう。でも、アメリカが見据えていたのは、反共への防波堤であり、同じく自由民主主義を掲げる韓国を支援することでした。

たとえ独裁が間違っていたとしても、そこで指導者らは現実的な経済開発を推進し、植民地支配を最近まで受けていたのにも関わらず、日本からの経済協力を惜しみなく受けていた彼らがいたからこそ、今の豊かな韓国があるのです。したがって、独裁制よりも、もっともっと恐ろしい、共産主義・全体主義に対する歯止めを、アメリカは自ら意識しているか、していないかにしろ、実際上行なっていったのです。

そして幸いなことに、韓国民たちが、自らの力で民主化を成し遂げ、かつアメリカとの関係も断ち切ることなくその国を守り続けているのですから、大したものです。

そして日本に、膨大な数の韓国人が来て、交流を深め、日本の教会も多大の恩恵を受けています。もし韓国軍があの朝鮮戦争で血を流していなかったら、米兵が命を捨てていなかったら、どうなっていたか想像してみてください。今、北朝鮮は数年に渡って、世界で信仰の自由が蹂躙されている国として第一位なのです。そこでは信仰者が強制収容所に入れられ、言語に絶する仕打ちを受け、死んでいっているのです。

日本のキリスト教会では「平和論」を掲げ、あらゆる形の戦争を不正義だと断じる傾向がありますが、アメリカ人に聞かなくてよいでしょう、年配の韓国の人々に同じように朝鮮戦争にも適用させて語ってください。顔を真っ赤にして怒られるでしょう。彼らこそ、共産主義の恐ろしさを身をもって味わった人たちですから。

私は戦争は、決して軽々しく起こすものではないと思っています。最大限回避すべきものです。戦争は負けるほうはもちろんのこと、勝つ側にも深い傷を残す悲惨なものだからです。けれども、実際に戦争が起こるときに、それを悪だと断じることは私にはできません。なぜなら、その背景に戦争と同じぐらい、継続的に苦しみを受けている人々が大勢いることが多いからです。

ですから、今の時代にアメリカという国が存在していることを、神に感謝しています。今となってはリベラル左派が幅を利かせていますが、それでも保守派が抵抗して、拮抗している状態です。カナダや欧州では、公共の電波機関を使ったキリスト教放送が禁じられているのです。なぜなら、「同性愛者の権利を守っていない」という根拠です!(ある意味、日本より自由がないのです。)ですから、西洋で唯一、そのユダヤ・キリスト教伝統を残存させているのはアメリカであり、それゆえ私は貴重な国だと思っています。

そして良く考えてみれば(「はげ」がどうして感謝できるのかを良く考えるのと同じように!)、アメリカが私たちを助けこそすれ、何か敵対したでしょうか?多大の経済支援をしてくれました。また思想的にも自由や民主主義の概念を日本の敗戦後教えてくれました。そして一般市民のキリスト者は、何とかして福音を伝えたいと思い、世界中に宣教師を送り出しています。

彼らの世界的視野や「人々に無償で分け与える」という精神的基盤がなければ、今の世界は、そして日本はどうなっていたでしょうか?今の日本人のキリスト者に、経済的に、そして霊的に世界に貢献したいという情熱を持っている人々がどれだけいるでしょうか?「受ける側」で考えずに「与える側」で考えてみたらどうでしょうか?

あれだけ世界が批判したイラク戦争も、民主化された政権下で宣教師が国内に入ることができるようになりました。それでも絶対的に悪であったと断じることができるのでしょうか?その戦争が正しくなかったとしても、神がすべてを善に変えてくださる、という信仰でどうして見ないのでしょうか?

「アメリカが正しいか、間違っているか」という視点ではなく、「神がこの状況を通して、何を行なっておられるのか」「神が、世界に対して魂の救いをどのようにして行なわれるのか」という視点でご覧になられたらいかがでしょうか?

アメリカ人の宣教に、また韓国人の宣教もそうですが、問題がないということではありません。いや、数多くあります。けれども、「もし彼らが情熱をもって福音を伝えてくれなかったら、いったい日本は、世界はどうなっていたのか?」と問い直せばよいのです。どれだけ感謝すべきか分かりません!

アメリカについて神に感謝すべきことは、まだまだあります。

ですから、アメリカの諸問題は問題として捉えますが「感謝しています」という前提をもって発言するのです。

「感謝」の力 - ②私が保守的な訳

そして政治的な見方についてですが、私は日本キリスト教会では少数派の保守的な考えを持っています。米国でその多くを学びましたが、キリスト教的価値観に基づく保守主義です。

それは、本質は「政府」という機関にあるのではない、という考えです。何か社会的な問題が起こると、必ず「政府がいけない」「このような教育を行なっているからだ」という話になっていきます。そして政府や公的機関にさらに積極的な関与を求める考えを多くの人が持ちます。おそらく日本のキリスト教の関係者も大半がそうでしょう。

けれども、私は本質は「神と個人の関係にある」と信じています。政府は神ではありません。政府が何かしてくれるのではありません。神が政府を置いてくださり、その政府が果たすべき役割はありますが、政府にできることはごく限られたものだと考えています。

政府に対して過度に非を訴えることは、言い換えると政府にそれだけ大きな役割を期待しているということです。政府が人を治めるという考えです。けれども、神ではなく「人」が他の人を治める時に、そこには神が生来与えておられる自由と人権を蹂躙するようになる、と感じています。

ですから私は、まず第一に、今の政府、また行政に感謝する立場を取りたいと思います。以前、民主党政権について一連の批判記事を書きましたが、それでも、彼らがマスコミには出てこない地道な努力をされているのだろう、という思いを決して忘れることなく、感謝の気持ちを表したいと思います。

それでもって、政治家に訴え、意見を投稿し、選挙時には深く考えて投票するという姿勢が正しいのだと思います。

そして第二に、問題を専ら政府のせいにしないことです。「自分たちが変わらないで、どうしてその自分を代表する国が変わりえるのか?」という考えです。この個人的責務において自由が与えられたら、それこそ真の民主主義であり、またその国の一市民となることができる、という考えです。

この考えを大きく拡げますと、世界情勢にも同じことが言えます。9・11の米同時多発テロ以降、世界に軍事的・経済的関与を行なっているアメリカに対する世界中からも猛烈な反発が起こりました。イラク戦争においては、堰を切ったように米国を憎む空気が流れました。これは日本のキリスト教会においても同じでした。

けれども、ここにも大きな矛盾があります。それは、世界で起こっている多くの事象をすべてアメリカに結びつけるということは、逆に言うと、世界の中心はアメリカであることを認めていることになります。そして、世界を動かしているのは神ではなく、アメリカなのだと暗に宣言しているに過ぎません。

違います、世界の中心は神ご自身であられ、その神に私たちが礼拝を捧げているのです。アメリカは所詮、世界の一国にしか過ぎず、その果たせる役割はごく一部に限られているのです。そして世界で起こっている問題は、本質的に、それを起こしている当事者の責任であり、彼らがその問題を克服することこそが、真の解決につながります。

今回のエジプトの問題に当てはめるなら、エジプトの次期政権を誰に委ねるかをエジプト人国民が決めることによって、民主化になるかイスラム化されるかが決まるのです。

「感謝」の力 - ①「はげ」を感謝する?

私たちが海外にいた時に、教会の伝道師さんが礼拝で、1テサロニケ5章にある「すべての事において、感謝しなさい」という御言葉から説教をされた時のことを、今でもよく覚えています。

出だしが、ある牧師さんが「自分がはげであることを、どのようにして神に感謝すべきか。」と悩んで、いくつかの項目を挙げたという例話でした。私も30代に入った後で少しずつおでこが広がっていたので(笑)、興味深く聞きました。

その後で、聖書全体から感謝することについて説き明かされたのですが、「感謝」というものをこれまでいかに軽く考えていたかを思わされました。「感謝することは、まさに神の前にへりくだる行為であり、そこから神の力が自分から湧き上がり、神への献身を新たにできる」という悟りです。

その礼拝の帰りに、妻に「今の日本に足りないのは、もしかしたら『感謝する』ことかもしれない。」と話しました。それに関連する記事を「今の政治(そして福音宣教)に必要なのは」という題名で書いています。

このことは、私がキリスト者として政治的なことを考える時、世界情勢を考える時でも同じことが言えるし、また個人的、霊的な側面においても同じことが言えます。

例えば、先に書いた「キリスト者が祈るべき『エジプト』」で、今の混乱のエジプトの現場からの声で、「エジプトで神がいま行なわれていることで、賛美しています。エジプトがニュースで取り扱われることによって、この国の歴史の中で、これほど多くの人がエジプトのために祈っていることはなかったと思いませんか?」という発言がありましたね?日本と比べて桁外れに大きな問題を抱えているその国において、こうした見方を持っているのです。この、神への感謝と賛美に、どれだけ生きた力が働くか知れません。

要は、環境や周囲のせいにしないことです。全てのことが神から来ているという主権を受け入れて、神の前に出ていく時に、試練の中の知恵が与えられます(ヤコブ1:2‐8)。周囲の変化に左右されない、不動の神の見方で物事を見ることができることです。

私は日本の宣教の状況に感謝しています。非常に小さい教会が点々と存在し、しかも働き人が足りないため、教会の戸が閉じられていっていると聞きます。何を始めるにおいても、不足した状態です。

けれども、まず福音を語る自由が与えられています。政治的にはもちろんのこと、霊的にも、先に「韓国の宣教報告」で書きましたが、教会文化が存在しないために、かえって純粋に聖書から福音を聞く耳を持っておられます。