2011年マラナサ・バイブル・フェローシップ 第一・第二日目

8月14-16日に、静岡県富士山麓山の村で、無事にMBF(Maranatha Bible Fellowship)を終えることができました。この集まりは、10年以上も前に、当時イエス福音教団であった静岡県にある教会の方々が主催して、かつ他の教会の人々とも交わりをする集まりとして出発しました。とても穏やかで、ゆったりとした、そして笑いの耐えない交わりが魅力で、私も何度も行かせていただいています。

そしてその名称のように、「主が来られる」ことを思いながら、聖書を中心にした交わりということで、聖書の学びもしっかり行います。今回は、改めて「携挙」の希望を学ぶ趣旨で、わたくしと、マラナサ・グレイス・フェローシップの菊地さんが講師として話させていただきました。

まずご紹介したいのは、富士市のシオンチャペルの牧者、望月さんと奥様が演奏してくださいました。

讃美一曲目

二曲目はこちら

三曲目はこちら 

そして私が、「携挙」をテーマにして、テサロニケ人への手紙から二回に渡って御言葉を取り扱わせていただきました。

テサロニケ人への手紙第一 「携挙の慰め」

テサロニケ人への手紙第二 「携挙の救い」

メッセージの前に私の席から撮った皆さん

食事の準備

野外散策

2011年マラナサ・バイブル・フェローシップ 第二・第三日目へ

皮膚の中のコンピューター

聖書に記されている終わりの日の徴は数多いですが、その中の一つは「皮膚下に人の売買行為を制御できる何かを埋め込む」というものがあります。

「また、小さい者にも、大きい者にも、富んでいる者にも、貧しい者にも、自由人にも、奴隷にも、すべての人々にその右の手かその額かに、刻印を受けさせた。また、その刻印、すなわち、あの獣の名、またはその名の数字を持っている者以外は、だれも、買うことも、売ることもできないようにした。(黙示録13:16-17)」

下の写真をご覧ください。すでに先端技術はここまで発達しました。

Computers get under our skin からの記事です。

A small electronic device slapped onto the skin like a temporary tattoo could bring us closer to a future that melds body and machine, a cyborg world where people have cell phones embedded in their throats and Internet browsers literally at their fingertips.(訳:仮の入墨のように、皮膚にぴったり引っ付いている小さい電気装置は、肉体と機械を融合させる将来を一歩近づけた。それは喉に携帯電話を埋め込み、インターネットを文字通り指先で操作する、サイボーグの世界である。)

しかし、あなたがたは、やがて起ころうとしているこれらのことからのがれ、人の子の前に立つことができるように、いつも油断せずに祈っていなさい。(ルカ21:36)

ハーベスト・クルセード @ アナハイム(8月12-14日)

いつも8月になるとやってくるハーベスト・クルセード・・・

今年は少し特別です。去年、ハーベスト・クルセードに参加したある日本人の女性が、今、私たちの教会に来ています。正月に渡米した時に、カリフォルニアにいる知人の日系の方が「姪が東京に住んでいるから、教会を始めるんなら誘ってください。」と頼まれました。すると、昨年末に信仰告白をしたお二人のために始めた学びに来てくださり、それからずっと来てくださっています!

明日、渡米します。そして再びこの伝道集会に参加できることを楽しみにしているとのこと。

Harvest Crusade Anaheim 2011

私たちもインターネットで実況中継を見ることができます。終わった後も、録画されているものが残っていますから安心です。カリフォルニアは今サマータイムなので日本時間に直すと・・・

第一回目: 8月13日午前11時から
第二回目: 8月14日午前11時から
第三回目: 8月15日午前10時から

となります。通訳を見ると、残念ながら日本語はありませんが、私の友人の夫婦(カルバリーチャペル・コスタメサの奉仕者)が、数日前、右の写真を送ってきてくれました。「この日本語の意味は確かに”Harvest”で良いのか?」と確認のメールだったのですが、「そのとおり!」と答えました。

地震・津波・原発事故があったからなのでしょうか、日本人への愛を伝えたいという気持ちから作成したTシャツのようです。今年も魂の収穫を多く見ることのできる集会となりますように!

改めて「戦争」を考える その2

改めて『戦争』を考える その1」の続きです。

それでは、戦争をなくし、平和を希求するためにはどうすればよいのでしょうか?

1)「戦争」は、一人一人の心の中にある

何が原因で、あなたがたの間に戦いや争いがあるのでしょう。あなたがたのからだの中で戦う欲望が原因ではありませんか。あなたがたは、ほしがっても自分のものにならないと、人殺しをするのです。うらやんでも手に入れることができないと、争ったり、戦ったりするのです。あなたがたのものにならないのは、あなたがたが願わないからです。(ヤコブ4:1-2)

国と国との戦いを論じる前に、自分の身の周りで不和の関係になっている人はいないか?私たちの個人生活で、また自分の属している組織の中にさえ平和が存在しないのに、ましてや一・二億人の人間を抱える国家間に、争いをなくすべきだと言ってどうすんでしょうか?まず、根っこにあるのは一人一人の「心の中にある貪りや欲望」なのです。

そして人間関係以前に、「神との関係」はどうなっているのか?自分をこの地上に誕生させてくださったのは神であり、今に至るまで生かしてくださっているのも神であります。この神に背を向けていれば、それは完全な不和状態です。神は、その反抗のゆえに裁かなければいけません。

そのようなことをしている人々をさばきながら、自分で同じことをしている人よ。あなたは、自分は神のさばきを免れるのだとでも思っているのですか。それとも、神の慈愛があなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と忍耐と寛容とを軽んじているのですか。ところが、あなたは、かたくなさと悔い改めのない心のゆえに、御怒りの日、すなわち、神の正しいさばきの現われる日の御怒りを自分のために積み上げているのです。(ローマ2:3-5)

2)キリストが罪を取り除き「平和」となってくださった

キリストがその敵意を代わりに十字架上で負ってくださいました。ゆえに、罪は取り除かれました。国の戦争行為がなくなることが平和ではなく、「キリスト」=「平和」なのです!

キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。(エペソ2:15)

キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。そのためにこそあなたがたも召されて一体となったのです。また、感謝の心を持つ人になりなさい。(コロサイ3:15)

3)平和の君キリストを受け入れるよう招くことこそが、「平和を造る者」である。

イエス様は「平和をつくる者は幸いです。その人は神の子どもと呼ばれるからです。(マタイ5:9)」と言われました。それは、使徒パウロが言っているように、「足には平和の福音の備えをはきなさい。(エペソ6:15)」というものです。

私も信仰を持つ前は、ヨーロッパにおけるキリスト教に絡んだ戦争の歴史を聞き、またアジア諸国にも帝国主義と共にキリスト教が伝播したのを知るにつけ、戦争についての疑問を持っていました。けれども私が聞かされていなかったのは、例えば中国内陸に入り、現地人と同じように辮髪にして福音を伝えたハドソン・テーラーの話
など、数多くの宣教師の個人犠牲の歴史です。

ですから、私はイラク戦争にしても、その戦争の是非は問いたくありませんでした。それは、それが私たちキリスト者の中心点ではないと思っているからです。むしろ、そのイラクに福音を携えて入っていった宣教師たちに注目しています。これは、はっきりした神の御心だからです。

4)キリストのうちにあるからこそ「一つ」になれる

ユダヤ人もギリシヤ人もなく、奴隷も自由人もなく、男子も女子もありません。なぜなら、あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって、一つだからです。(ガラテヤ3:28)

かつて敵同士であった者がキリストを信じて、親愛の仲になったという証しは数知れません。例えば、真珠湾攻撃を指揮した淵田美津雄氏と、日本軍の捕虜となり拷問を受けたジェイコブ・デシーザー氏の出会い、元パレスチナテロリストと、元モサド工作員のユダヤ人がそれぞれキリストに回心し、親愛の仲になることなど、キリストが平和の源であるからこそ、この方を主とする者たちの間には、私たちの理解を超えた深い平和で結ばれるのです!

5)「平和」は、「自分に関するところ」から

国家の戦争をどのように平和裏に解決するのか、ということを考える時があっても良いでしょう。けれども、キリスト者は自分の身の周りで平和を保つように命じられています。

あなたがたは、自分に関する限り、すべての人と平和を保ちなさい。(ローマ12:18)

そして国に対しては、「服従」と「執り成し」そして「感謝」によって平和をもたらします。

人の立てたすべての制度に、主のゆえに従いなさい。それが主権者である王であっても、また、悪を行なう者を罰し、善を行なう者をほめるように王から遣わされた総督であっても、そうしなさい。というのは、善を行なって、愚かな人々の無知の口を封じることは、神のみこころだからです。あなたがたは自由人として行動しなさい。その自由を、悪の口実に用いないで、神の奴隷として用いなさい。すべての人を敬いなさい。兄弟たちを愛し、神を恐れ、王を尊びなさい。(1ペテロ2:13-17)

そこで、まず初めに、このことを勧めます。すべての人のために、また王とすべての高い地位にある人たちのために願い、祈り、とりなし、感謝がささげられるようにしなさい。それは、私たちが敬虔に、また、威厳をもって、平安で静かな一生を過ごすためです。そうすることは、私たちの救い主である神の御前において良いことであり、喜ばれることなのです。(1テモテ2:1-3)

6)「主よ、来りませ!」

そして、この世界全体に平和が来ることを求めるのであれば、それはまさに神が望まれていることです!神は初めに、アダムを造られた時にその平和な楽園を与えられました。けれどもアダムが罪を犯したために、この世界がサタンの傘下に入ってしまい、それで国家間にも不和が生じるのです。

キリストは、初めに来られた時に、私たちにある争いの心を取り除くために来られました。それから次に、この世界をご自分のものし、世界の争いを終結されます。

しかし、おのおのにその順番があります。まず初穂であるキリスト、次にキリストの再臨のときキリストに属している者です。それから終わりが来ます。そのとき、キリストはあらゆる支配と、あらゆる権威、権力を滅ぼし、国を父なる神にお渡しになります。キリストの支配は、すべての敵をその足の下に置くまで、と定められているからです。(1コリント15:23-25)

主は国々の間をさばき、多くの国々の民に、判決を下す。彼らはその剣を鋤に、その槍をかまに打ち直し、国は国に向かって剣を上げず、二度と戦いのことを習わない。(イザヤ2:4)

したがって、世界平和を願うのであれば、世界の王であり、平和の主権者であられるイエス・キリストの到来を、熱烈に慕い求めることです!

主を愛さない者はだれでも、のろわれよ。主よ、マラナ・タ(来てください) (1コリント16:22)

改めて「戦争」を考える その1

ちょっと重い内容です。けれども昨日は長崎原爆投下記念日、そして、間もなく終戦記念日なので、取り上げてみたいと思います。そして、戦争は信仰を持っていない人がキリスト教に対する疑問として、また信仰を持ってからもその整理をどうすればよいのか分からない、という方が多いかと思いますので、取り上げてみたいと思います。

昨日私は、ある福音派の教会の牧師さんのブログにコメントを入れました。元文は下のリンクに行ってください、ここでは私のコメントのみを転載します。

いま、改めて「聖戦論」を問う

私のコメント

K先生の旧約聖書における、イスラエルの戦争の説明は、私もすべてその通りだと私も強く思います。そして黙示録についての説明は、一点だけ同意できないのは(といっても小さい部分においてですが)、「象徴」と言っても、やはり実体を伴っているからこその表現だ、という点です。ノアの時代の洪水の時の裁きが文字通り物理的な「水」であったように、使徒ペテロは次の裁きは「火」によるものであると言っています(2ペテロ3:6-7)。

それが核ミサイルだ、ということではありません。けれども、その可能性はないとも断言できません。むしろ、核ミサイルを人類が製造したというところに、私は主イエスの再来というキリスト者が抱かなければいけない「目を覚ましなさい」、つまり、キリスト者として慎み深く生きていく、という終末的時代性があると思います(1ペテロ4:7-8)。これを、神からの警告的徴候と受け取るのは、私は充分に霊的に有益であると思います。

それから、アメリカの保守派のクリスチャンについてですが、K先生は、普段からどれだけ実際の人々に触れているでしょうか?私は自分の属しているグループがそうなので、四六時中付き合っているのですが、それゆえに、簡単に「アメリカ人の保守派のクリスチャン」と括られてしまうと、私の心は多少なりとも痛みます。

インターネットの記事や、あるいは政治的論議になれば、それこそ自分自身の意見を表明するかもしれませんが、核武装を聖書で是認するような議論はこれまで20年近く付き合ってきた仲間の間ではほぼ皆無でした。たとえ政治的また軍事的に個人的見解としてそれを是認したとしても、(しかも是認したとしても消極的です)、それはあくまでも個人的見解であり、聖書的見解や信仰的信条として取り上げる人はごくまれです。

ましてや、イスラムのジハード論にある「積極的に核を用いることによって、メシヤの到来を早める」という考えは、強烈に反対する保守的キリスト者のほうが圧倒的に多いでしょう。たとえキリストの名を使っても、コーランを破る牧師が出てきたり、中絶する医師を殺したりする出来事が起こるたびに、激しい嫌悪感を示しています。

したがって私は、簡単に「アメリカ人の福音派クリスチャンは」と括ってしまうことに、私は反対に、日本の福音派の人々の間で、彼らに対する偏見が生まれているのではないかと危惧しています。特に指導者が発する言葉は大きな影響を及ぼします。

普段の彼らは、主イエス・キリストのすばらしさ、罪の力から自分を解放してくださった生ける神を強く信じて、その喜びであふれている姿で満ちています。政治や社会現象に対する見解は横に追いやられています。キリストの弟子たちの間には、ローマの犬であった取税人もいたし、ローマ打倒の武闘派であった熱心党員もいました。この一致を、私は国や民族や、政治的意見を超えて存在しているところに、キリストの福音の醍醐味があるのではないかと思っています。

そして、聖戦論を掲げるのが間違っているのと同じように(私も上に申しあげたとおり、K先生の聖書理解に95パーセント以上同意しています)、絶対的平和論を聖書からどこまで導き出すことができるでしょうか?(今、K先生がそのような意見の持ち主だ、ということではなく)私が申し上げたいのは、「私たちには、すべてを知り尽くすことはできない。」ということです。勧善懲悪は、聖戦論のみならず平和論にも同じように存在します。

戦争については、私の聖書理解では「戦争は起こるもの」という人間の現実、罪に起因する現実としては述べていますが、それを起こしてはならないという「べき」論としては述べられていない、というものです。主イエスは、戦争反対運動を起こされなかったし、ローマの兵士への信仰をほめましした。あらゆる人々にご自身の姿に触れてもらうべく、全ての人々に仕えておられました。むしろ、そのような分派、意見の対立とは無関係のところで、けれども、その間に振り回されながら(イエスご自身も、使徒たちも、パリサイ派、サドカイ派、ヘロデ党などの思惑の中で翻弄されました)、イエス・キリストの福音を伝え、また示したと思います。

それは聖書理解のみならず、私の実体験でもあります。いろいろな国に行って、住んで、やはり、「戦力はいけない」という考えは日本固有のものです。むしろ、軍隊と隣り合わせで生きており、それは生活の一部になっており、それを反対するという発想も起こっていません。(だからといって、それが正しいという判断も下していません。)

お隣の韓国は、男性がみな徴兵です。弾丸を込めるし、実射訓練も受けます。そして老年の方々は、朝鮮戦争を生き抜きました。その彼らに、「共産主義」と「自由」を同列に並べるようなことを話すものなら、顔を赤らめて怒られるだけでしょう。どれほど恐ろしい目に遭ったか、その実体験を持っているからです。

イラク戦争の性悪論も日本の福音派界でも盛んですが、戦争前の状態のほうが戦争による抑圧よりもひどかったことを、フセイン大統領の側近の一人であった福音派信者のジョージス・サダが述べています。

私は「イラク戦争」が正しかったと述べているのではありません。そうではなく、アメリカに存在する「聖戦論」また正戦論に焦点を合わせるうちに、実際に自国が戦場になった人々の声が聞けなくなってしまっているのではないか?という危惧です。

以上のことを申し上げましたが、それでも、日本国のみが戦争行為の中での被爆の体験をしています。そして、平和憲法も与えられています。その日本という国にいるからこそ発信できる、キリスト者から見た戦争というのもあります。こうした「自分を神はこの国に生まれさせてくださり、この国に生きているからこそ、発信できるものがあるのだ。」という慎み深さや謙虚さを持っているのであれば、実に有意義なことだと思います。そうすれば、日本国の慎ましい希望もあります。けれども、それをすべての戦争行為の事象に恣意的に当てはめるところに無理があるのでは・・・と思わざるを得ません。

私は広島に行ったことはありませんが、長崎には行った事があります。その本島市長はかつて広島に対して「広島よ、おごるなかれ」という題名の論文を出しました。

また被爆したカトリック信者永井隆は、敵であるアメリカに対して、徹底して「愛して、愛して、赦し抜け!」と攻撃的なまでに、赦しを説いています。

お互いに許し合おう…お互いに不完全な人間だからお互いに愛し合おう…お互いにさみしい人間だから
けんかにせよ、闘争にせよ、戦争にせよ、あとに残るのは後悔だけだ。  (「平和塔」より)
敵も愛しなさい。愛し愛し愛し抜いて、こちらを憎むすきがないほど愛しなさい。愛すれば愛される。
愛されたら、滅ぼされない。愛の世界には敵はない。敵がなければ戦争も起こらない。
http://isidatami.sakura.ne.jp/heiwa3.html

カトリック信仰に支えられた発言ではありますが、それでも私は、こちらのほうに日本の希望、キリストにある希望に近いものを感じます。

そして、国家と宗教の分離についてですが、私の知っているアメリカ人保守派クリスチャンは、K先生のご意見とまったく同じです。「キリスト教が政府公認の宗教になることに対しても、私は断固たる反対を表明します。」まさに、英国から逃げてきたのがその自由を得るためであり、その伝統を守りたいと願っているのが、アメリカ保守キリスト教の流れです。

私たちが辿ってきた国家神道の歴史については、完全に同意します。けれども、その目線でアメリカという国を見てしまえば、とまどうばかりです。米国にはこのキリスト教の流れがあると同時に、リベラリズムの流れがあります。これは自由主義というよりも、キリスト教への対抗、反キリスト教の色彩が強いです。

多くの欧州・北米からの宣教師は、「日本は自由があっていい。」と言います。例えば、カナダではラジオにてキリスト教の番組は禁止されています。なぜなら、「同性愛は罪である」という信条が、政治的公正から外れるからです!ですから米国には「文化戦争」というのが繰り広げられているのであって、唯一、ユダヤ・キリスト教の価値観を保持しているのが福音派の人々です。彼らが力を失えば、そうした反キリスト教的な制度や法律が次々とできてしまうのであり、それこそ、日本の国家神道によるキリスト者が受けた抑圧を彼らが受けてしまいます。

こうした全体的背景を見なければ、それこそ「公正」という神のご性質から外れてしまうのではないでしょうか?

以前にも、「オサマ・ビン・ラディンの殺害」について米国人が喜ぶ姿を批判されていましたが、在米日系のクリスチャンで、日頃はアメリカの好戦的な姿、自由を標榜する姿に非常に批判的な方でも、「意外に私の周りでは冷静であり、意見が二手に分かれた。そして遺族のことを思えば、やみくもに喜んでしまう姿を批判することはできない。」と吐露しておられました。

以上です、文章が長くなり失礼しました。

(コメントはここまで)

この牧師さんは、私はあることでとてもお世話になっている方であり、信仰においても実践においても優れている評判を聞いています。他にも日本の福音派の牧師さんには、すばらしい方がたくさんおられる、ということをここで申し上げたいと思います。ですから、私がここで取り上げた異論は、決して個人や福音派の教会を引き落としたいのではない、ということを付け加えさせてください。

先のコメントに書き損じた部分がありますが、大きな疑問点は、「では、どうするのですか?」ということです。アメリカの聖戦論がおかしいのは分かった、けれども、では日本にいるキリスト者が何を、どうすればよいのでしょうか?

彼は、「キリストはむしろ平和の使者、愛の使者として来られた」と言われます。まさしくその通りです。でも、それは単に米軍の行っていることをブログにおいて批判することが、平和のキリストを伝えることなのか?米国人クリスチャンの戦争についての考えを批判することなのか?それとも反戦運動を展開するのか?在日米国大使館に陳述書を出すのか?ここの「手段」の辺りが、私はどうしてもわからないのです。

そして、もう一つの大きな疑問点は、米国の軍事行動を批判するキリスト者の行っている「平和」の意味も理解できません。いわゆる戦闘行為のない状態が、聖書の行っている平和なのか?・・・実際に、数多く旧約聖書には武器を持たず平和な状態が続く神の国を描いているが、それは王の王、主の主であられるメシヤが絶対的権力をもって君臨されている、再臨後の話です。それを再臨の主が来られていないのに、恣意的に持ち込もうと試みるのは、それこそ聖戦論を批判している「神がなさること」を「人間の行為」で行っていることではないでしょうか?

そして聖戦論を掲げる人の「罪の定義」を批判しているが、「平和」の意味もはき違えてはいないか?罪とは「人の自己中心性であり高慢」であるとおっしゃっているが、平和は、その罪に対する神の怒りが取り去られた状態、罪が取り除かれ、神との平和を私たち個々人が持っている状態なのではないか?「信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。(ローマ5:1)」国の戦闘行為がない状態を言っているのではありません。

私には、どうしてもいわゆる「平和論」も「聖戦論」と同類項に見えてしまうのです。

(「その2」に続く)

礼拝の心構え

来週の日曜日の夜から、水曜日のお昼まで、静岡城北教会の牧師、見城さんが主催する、有志の仲間たちによる「マラナサ・バイブル・フェローシップ」の集会に参加しに行きます。場所は「富士山麓の村」です。テーマはそのまま「再臨」で、私はテサロニケ人への手紙から二回に渡ってお話ししようと思っています。

そして、私たちが初めて南カリフォルニアのカルバリー聖書学校を訪問した時(1994年)、そこにに通われていた学生の一人が菊地一徳さん(Kaz カズ)でした。彼は今回、もう一人のスピーカーとして招かれています。また久しぶりにお会いできるので楽しみです。

彼は長野県で教会をしていて、「マラナサ・グレース・フェローシップ」と言います。そこにある内容は盛りだくさんで、読んでいてとても楽しいです。そこにある教会の紹介のページに、以下の礼拝の心構えについての言葉がありました。辛口ですが、私たちの心にちっくっと来るところがあるのではないでしょうか(私はありました!)。どうしても形式的になりがちな礼拝です。一度読んでみましょう!

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礼拝のようで礼拝にあらざるもの・・・

   日曜日だけクリスチャンになる事。  

   日曜日だけが礼拝日だと考える。

   特に用事がない時の余暇としての礼拝。

   クリスチャンは何処でも、いつ何時でも礼拝できるので、教会にわざわざ足を運ばなくてもよいと言い訳する事。

   親睦目的、ご利益目的等、神をほめたたえる事以外の他目的礼拝。

   礼拝に遅刻しそうになって慌てて苛立つ事。

   教会に着ていく服装のことで口論する事。

   礼拝に向かう車中で喧嘩し、教会に到着すると何もなかったかのように敬虔なフリをする事。

   礼拝に堂々と遅刻して人目をはばからない事。

   教会の椅子を他人の礼拝を観覧する為の客席とする事。

   礼拝厳守しない人を蔑視し、さばく事。

   賛美を説教前の前座、ウォーミングアップ程度だと考える事。

   何も考えずに国歌や校歌のように賛美を習慣的に口ずさむ事。

   カラオケのように賛美を歌い自分の歌声に酔いしれる事。

   自分に引きつけるような賛美のリード、発表会のような賛美演奏。

   人に聞かせる、作文のように読み上げる祈り。

   あたかも神が何も知らないかのように情報を並べ立てる祈り。

   念仏を唱えるような主の祈り。

   長い祈り、美辞麗句のオンパレードが立派な祈りだと考える事。

   退屈な決り文句を繰り返す、実のない無味乾燥な祈り。

   人の祈りの最中、別のことを考える事。

   祈りの課題を他人事として聞き流す事。

   礼拝中、時計をチラチラ見る事。

   礼拝前に遊び疲れて説教中に居眠りする事。

   説教を興味のない講義のように散漫な心で耐え忍ぶ事。

   先週の説教内容を忘れる事。

   説教を聖書によって吟味せず鵜呑みにする事。

   説教をいわゆるお説教として個人攻撃の場とする事。

   説教を寄席の興業、独演会のような小劇場だと考える事。

   説教を仕込みや下ごしらえを要する手の込んだ料理ではなく、レトルトやインスタント食品のように提供する事。

   説教後に説教のポイントを確認するような説教じみた祈りをする事。

   神が貧乏であるかのように献金のアピールをする事。

   献金を搾り取るような礼拝集金プログラム。

   神ではなく、人目を気にしながら献金する事。

   会費のように支払う献金。

   税金のように嫌々渋々支払う献金。

   プレッシャーの伴う献金、プライドの伴う献金。

   献金に見返りを求めるご利益主義。

   献金で牧師を食わしてやっているという思い上がり。

   献金を地域清掃に参加しない出不足金のように考える事。

   当番だから、他にやる人がいないから否応なしに機械的にする奉仕。

   奉仕に気を取られ、奉仕にかまけて礼拝どころではなくなる事。

   主の晩餐よりも今夜の晩餐の方が気になる事。

   キリストの裂かれた体と血を象徴するパンとぶどう液をスーパーの試食の如く軽率に口にする事。

   同じ礼典でも聖餐式を自分の洗礼式の時のように新鮮な気持ちで受けていない事。

   究めつけは、礼拝後が礼拝前よりもキリストの似姿に変えられていない事。

 これら全ては礼拝にあらざるもの。私たちは礼拝中に自分が礼拝していない瞬間を断続的に持つ。これら一つ一つを改めていけば、私たちの礼拝はより一層、神に喜ばれるものとなる。礼拝は自分や人を喜ばせるものではなく、神を喜ばせ、主の栄光を現わすもの。天のまことの教会における礼拝者は全てキリストに似た者とされている。そこで私たちは完全な礼拝をほふられた小羊に永続的に捧げるのだ。MGFは地上で礼拝を捧げながら携挙を待ち望みつつ、天の礼拝を目指す。
(http://www.mgf-jc.com/mgf-churchより)
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恵比寿バイブルスタディ8月10日

こんにちは!
みなさん、お元気ですか?

私たちは先週の月曜日から水曜日まで再び東松島に行ってきました。8月2日に、ハワイアン祭りを盛大に行うことができ、そして3日には、6月に清掃した月浜海岸で私たちの教会の初穂の一人である瀬谷さんが、バプテスマ式を受けられました!思えば、12月22日に、恵比寿バイブルスタディに初めて来られて、それは日本においてキリスト教関連の集会に参加した初めての時でした。

主の御名をほめたたえます。

また前回の学び(7月27日)に、一人の方が初めて学びに来られました。感謝です。また久しぶりにお会いできた方もいました、とても嬉しかったです。次回の学びは次の通りです。

日時:8月10日(水)19:00~
場所:目黒区立 田道住区センター三田分室 / 2階 第一会議室
聖書箇所:詩篇107篇以降
※ 食事は学びの前と後で持参ですることもできます。

次々回は8月31日を予定しています。

主に感謝。

本日のLCF第一礼拝の部屋変更

こんにちは。急遽、LCFの第一礼拝(19:00)の部屋の変更をお知らせいたします。

御茶ノ水クリスチャンセンター 811号室

祈り会(17:45)も、そこで行います。

今日、礼拝讃美をカルバリー所沢のピーターさんが導いてくださいますが、今、彼の母教会である、カルバリーチャペル・ウィンドワードから宣教チームが日本に来ています。それでその七名が、礼拝に参加するとの連絡を今日受けたため、急遽、部屋を変更しました。

宜しくお願いします。

東松島救援旅行 8月3日

私たちの初穂

私たちLCFにとって、8月2日に続き、3日はとても重要な日です。LCFは、今年2月に礼拝が始まったばかりのほやほやの教会ですが、12月29日に私たちの家に来てくださった瀬谷さん、そして教会には通っていたものの救いの確信がないと言われる久喜さんが、イエス様を自分の心に救い主として受け入れる祈りを捧げました。そして一月に新井さんが、そしてその他、ロゴス・ミニストリーのサイトを通して来られた、互いに全く新しい間柄で始めました。

その初穂である瀬谷さんが、バプテスマ式を受けられます。教会というものが初めてなので、勇気がいるのではないかと気にしていましたが、「えっ、特に緊張していません。」とのことで、そんな心配もまったく要らないことが分かりました!

そして6月20-22日に月浜海岸の掃除をした時に、「ここでバプテスマ式をするのはどうか?」というアイデアが私の頭に浮かびまして、復旧しつつある被災地で新しい命をお祝いするという、斬新な出来事にあずかることができました。

今回は、私の両親が来てくれました。両親には第一回、第二回の救援旅行で大変お世話になっています。その時に近所の方が、不思議にも両親と同じ教会に通い始め、そして主イエス様を信じたばかりでした。その娘さんも同時に訪問してくださり、私たち(トラビス、リッチ、山東さんを含め)はその父子とも知り合いです。さらに、両親は、福島県相馬市を実家に持つご夫婦も誘ってくれました。このブログ記事にも書きましたが、私たちは三回そこに訪問し、畳出しや泥出しを手伝わせていただきました。

このようにして、続けてキリストの証しを立てる機会を与えてくださった主に感謝しています。

海岸の案内

朝のデボーションの箇所は、続けてエリシャの話で、らい病にかかったナアマン将軍の話でした。彼がヨルダン川に七度水に浸かったら、幼子のような皮膚になったところから、あらゆる誇りを捨てて、主の命令に従うなら、幼子のようになる新しい心が与えられることを分かち合いました。

この話をしているうちに、仙台から両親のグループが来てしまいました。少し待たせてしまいましたが、瀬谷さんと私で月浜海岸の紹介をし、それから月浜地区で全壊した家々をお見せしました。海水の温度が気になっていましたが、最初はひんやりするものの、十分に入ることができる程度でした。雨も降らず、だからといってかんかん照りにならず曇りで、昨日の祭りもそうでしたが主に天候のことも感謝しました。

バプテスマ式

そうこうしているうちに、松島のホテル大松荘に宿泊しているチームが到着し始めました。私は、アメリカからのチームに、市が重機で解体した木村さん宅の跡地を見せながら、主がしてくださったことの経過をお話ししました。

私は、讃美は見城さん、そしてバプテスマ式は山東さんにお手伝いをお願いしていました。セットアップも終わり、開始です。この後は、下の二つのビデオをお楽しみください。

讃美と祈り

御言葉とバプテスマ

マルコ3章31-35節から、バプテスマとは、キリストの十字架と復活にあずかる者になったことだけでなく、肉の家族から神の家族に入ったことを分かち合いました。そしてなぜ、ハワイからわざわざこの地に来て救援活動をしているのかというと、神の家族になったことの証しだから、ということを話しました。

そしてビデオでご覧になれば分かりますが、瀬谷さんが本当に喜んでいる姿を見ることができますが、彼女から後で聞くと、水から上がった瞬間に、バプテスマの大きな意味を初めて知ったとおっしゃっていました。水から上がると、砂浜には数多くの兄弟姉妹が祝福しています。自分がまさに、神の家族の中に招き入れられた祝福を感じ取られたそうです!

そして、砂浜のところでしばらく互いの交わりの時間を持ちました。昨日は奉仕で忙しかったけれども、余裕をもって交わりができたのではないかと思います。

そして、トラビスたちはおそらくその後、石巻に行き、初めて来た人たちにその被災地を見せて回ったのだと思います。私たちは、車の運転の安全のために、日が暮れる前に東京に到着したいと思っていたので、すぐに帰りました。事故もなく無事、昨日、7時頃到着できました。

全てのことを主に栄光をおかえしします!

東松島救援旅行 8月2日 その2

祭りの開始

私たちが戻ると準備はすべて終わり、すでに参加者が集っていました。昨日であった、能面作りの方も、面を持っていらしてくださいました。まったく新しい人々はもちろんのこと、牛網の人々もたくさんいました。牛網学習等のリーダーである千葉さんはこの日のために仕事を一日休んで、ずっといっしょにいてくださいました。彼は、石巻で壁紙を貼る仕事を再開していますが、車にはしっかりとハワイ祭りのちらしを貼っておられます。

食事を受け取る、途絶えることのない長い行列に、食事は足りるのか心配しましたが、案の定、4時ぐらいには、かき氷を除いてほぼすべてなくなっていました。用意していた人数を鑑みると、参加者は千人を超していたと思います。

月浜避難所の掃除

そしてLCFのメンバーは、奉仕を切り上げて月浜海岸の避難所に向かいました。ここはすでに、誰一人も残ることなくすべてが仮設住宅に移れたことを知りました。物の取り出しと、床拭きです。

そして実は、宜野湾カルバリーのチャックさんも来て、掃除しています。彼らは前回(6月20-22日)、東松島の奉仕の後、サマリタン・パースと、コミッティド・リリーフでの奉仕もして、そして帰路の途中、再び月浜に立ち寄ってスパムおむすびと、庭の掃除のお手伝いをしました。今回も似たようなスケジュールで、3日からサマリンタン・パースを手伝い、8日に月浜で何かをしたいと私に尋ねていたのです。それで、月浜避難所の担当の方に聞いたら、道の向かい側に室浜公民館があるからどうか?との提案でした。その事務室に行ったら、すぐに快諾です。チャックさんたちが用意したポスターとチラシに、日程と場所を手書きしてお渡しすることができました。

掃除が思ったよりも早く終わりましたが、皆さんが集まった時にチラシを渡しました。けれども、「小野地区のことですよね。」という言外の反応を感じ取りました。・・・この地域全体に言えることですが、地域の方々はとても暖かく私たちを迎え入れてくださるのですが、町ごと、地区ごとに地域意識が細分化しており、なかなか地区を超えたこのようなイベントに所属意識が芽生えにくいようです。けれども、月浜の方々に私たちがいつもいっしょにいますよ、というメッセージを掃除の手伝いを通してお伝えすることができたと思います。

祭りも終盤

そして私たちが戻ったら、食べ物はほとんどなくなっていました。そしてハワイの女性たちによるフラダンスが行われていました。

唯一、日本語による福音が語られる場は静岡城北教会の見城さんによるカントリー・ゴスペルとyoshiyaさんによる讃美のみです。もう終わったとのことですが、yoshiyaさんは、はっきりと神の愛、イエス・キリストの十字架も語ることができた と言っていました。ハレルヤ!

そして、時間に余裕ができたので、私たち奉仕者も他の人と語り合う時間もできました。私は牛網の千葉さんと話すことができました。彼が突然、「今がら、どうもろごし、とってくっからしゃ」と言って席を立ちました。「えっ、とうもろこしって、あの5月初めに津波の砂に覆われたところに植えた、とうもろこし?」と思ったらそのとおりで、20分ぐらいしたら戻ってきました。すごい、生でもものすごく甘くておいしいです!植えた時に千葉さんは、「あなたたちが、この実を食べるのだ。」と言っていましたが、はたしてそのとおり私たちが食べることができました。今度は、「来年は、もっどおおぎくづくるがら」と、来年までの付き合いをほのめかしていました!

他にもいろいろな人と話しましたが、時間が来たのでみなで急いで片付けを始めました。人数も多いので、時間がかからず済みました。

それから小野市民センターの担当の方が、「お礼の言葉」ということで話してくださいました。私たちのほうがこの施設をお借りすることができ大変うれしいのに、かえって来てくださり、ありがとうございましたとの言葉をいただきました。そして撮った写真を加工して印刷した紙をトラビスに贈呈しました。ブログがあるので、記事をアップしますとのこと。今見たらありました、ご覧ください!

こまちちゃんの四季物語 ①
こまちちゃんの四季物語 ②

イーオン利府で夕食

みなで主をほめたたえながら、帰途に付きました。山東さんによると、これだけ大人数が食べられる場所があるとのこと。私たちLCFは、万一にそなえて自分たちの昼食を朝に用意していましたが、彼らは余ったものを食べる予定でした。ところが足りないぐらいで、彼らは昼から何も食べていません。けれども、たまたま宣教師の一人がトイレに行きたいと言って高速から降りたところに見つけたのが、イーオン利府とのことです。

私はいつも利府町に住む姉のことを、利府を通過するたびに思い出していました。それで今回は、久しぶりに電話しました。元気そうで何よりでした!

そしてイーオンでは、寿司一パックが498円など、非常に安いものがたくさん売られていて、フードコートでは、マックなど他のお店もあって、確かに大人数が一緒にしかも安く食べられるところで助かりました!LCFの仲間もおなかが空いていて、たくさん食べてしまいました。