「科学者とキリスト教」

今、科学とキリスト教、また進化論と聖書の内容について、未信者・求道者向けの文章を書きました。

科学はキリスト教を否定する?

個人的には悩みながら書きました。私は理系肌では全然なく、できればこの問題は避けたいとの思いがあるのですが、けれども人々が気にしている話題である以上、取り組まなければいけません。それで、何冊かの本を読みましたが、下もその一冊です。

「科学者とキリスト教」 渡辺正雄著

私たちは大抵、近代・現代科学はキリスト教のような宗教とは無関係のもの、いや対立するものと考えていますが、今の自然科学における基本になっている理論が、キリスト教の世界観によって構築されていったことを鮮やかに見ることができます。欧州の科学者にキリスト者が多かったという偶然的なものでは決してなく、むしろキリスト教信仰を支えにして、自然と宇宙の中にある秩序を発見しようという、信仰的情熱に支えられていました。

進化論は救いの教理を否定する

この書物では、途中で進化論を容認するような発言もあります。ご本人はおそらくキリスト教信仰を持っているように見受けられますが。このことについてちょっと論じたいと思います。

確かに、進化論の説くところは伝統的なキリスト教の世界観および人間観とは相容れないものがある。進化論は、『聖書』の記述とも合致しないところが少なくないのである。それでは私たちは、その一方をとって他方を棄てるべきだろうか。そういう気持ちに駆られることもないわけではないが、それは結局、科学への誤解と『聖書』の読み方についての誤解ということになってしまうのではあるまいか。ここでも私たちは、地動説をめぐる『聖書』と科学の問題に対してガリレイがとった態度を見習うべきではないかと思われる。(172頁)

そういって、本書の最初で取り上げたガリレイの述べたことを再び引用して、こう言っています。

『聖書』はもっぱら魂の救いについて教えているのであって、科学や天文学を教えようとしているのではないと述べ、『聖書』が私たちに教えようとしていることは、”how to go to heaven”「どのよいにして天国へ行くか」であって、”how the heavens go”「どのように天が動くか」ではない、と述べたのであるが、私たちもこれにならって、『聖書』と進化論の問題についても、『聖書』が私たちに教えようとしていることは、「人間はどのようにして天国にまで進むか」であって、「人間はどのように進化してきたか」という類の問題ではない、と答えることができるのではあるまいか。(同頁)

ガリレイの言葉から、進化論にまで引き延ばして同じことを言うことはできません。なぜなら、ガリレイの説く地動説によって、「救い」の教理は曲げられることは全然ありません。けれども進化論においては、救いの教理に極めて深刻な挑戦を与える思惟を持っています。

そういうわけで、ちょうどひとりの人によって罪が世界にはいり、罪によって死がはいり、こうして死が全人類に広がったのと同様に、・・それというのも全人類が罪を犯したからです。 (ローマ5:12)

人間の創造の後、初めの人が罪を犯したことによって初めて死が世界に入りました。そしてこの地上も呪いを受けたのであり、それでローマ8章18-23節において、「神の子の現われを待ち望んで被造物全体がうめいている」と言っているのです。進化論によれば、人類の出現までに無数の死が存在していたのであり、「死」が「罪から来る報酬」という、救いの教理の根幹を否定する構図になっています。

そして、「すべての被造物を支配しなさい」という神が人に命じられた、上のローマ8章にもあるような万物の長、「神のかたち」としての人間存在も、「アメーバ―から始まり、そして植物、動物と進化し、その延長線上に人間がある」という構図によって否定されてしまいます。

初めが否定すると、終わりも否定することになります。神の子どもの現われ、つまり人の救いの完成によって被造物も回復させ、キリストを長子として人に万物を治めさせるというのが終わりの日の神のご計画です。人の堕落の逆算を神は回復において行なわれます。

ですから、単なる聖書記述や解釈の違い、という問題では済まされないのです。神の救済史の全体像に対抗する全体像を進化論は内包しているのです。

・・・とは言っても、本書は、「進化論によって懐疑の中で絶望の淵に陥ったテスニン」、「日本に来た進化論者で宣教師でもあったギュリックが、従来の進化論を修正したものとなっている」こと、また「日本に進化論が導入された時は、あまりにも無批判に取り入れられ、危険な思想である社会進化論がはやったが、少数のキリスト者が進化論に反対の立場を取った」など、科学の歴史を有体に順序立てて述べていることには好感が持てました。

参考になるブログ記事
天動説と進化論
有神的進化論反対の理由

後記: ダーウィン進化論を否定し、生物の主体的進化を提唱している今西錦司教授は有名ですが、彼のホームページには唯物論に対する批判論が展開されています。神や精神界が堂々と論じられており、唯物的な科学論ばかりが横行する日本においては新鮮な空気を感じます。「今西錦司の世界

「今は救いです」

よく訪れているMGFの牧仕カズさんのブログに、すばらしい本の紹介と引用がありました。


「今は救いです」 沢村五郎著 いのちのことば社

第一回目の記事にある本書の紹介を引用します。

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 タイトルの『キリスト教案内』は、私の敬愛する沢村五郎牧師の名著の書名である。本書は1930(昭和5)年に出版されて以来、通算70刷以上を重ね、さらに1975年に書名を『救いは今です』に改訂新版して以来、今年で9版となるベストセラーである。伝道説教本として現代にも十分通用するツールとして多くのクリスチャンに活用してもらいたい。

 ちなみに、1930年と言ったら、内村鑑三(1861年生まれ)が召天した年であり、谷口雅春が”宗教のデパート”と呼ばれる「生長の家」を開教した年でもあり、銀座三越開店した年でもあり、米国・マサチューセッツ州で、世界初の冷凍食品が販売された年でもあり、米国3M社がスコッチテープ(セロハンテープ)発売開始した年でもあり、米国で、世界初のスチュワーデスが就任した年でもあり、 第1回FIFAワールドカップが開催された年でもある。そんな時代に本書は産声を上げた。

 沢村五郎(1887~1977年)は熊本県出身。牧師、神学教育者、関西聖書神学校創設者。在任50年間に660名余、韓国20数名の教職者を養成する。1922(大正11)年渡英してエディンバラ聖書学校に学んでいる。その8年後に本書は書かれた。

 本日より、沢村牧師の名著『キリスト教案内』(『救いは今です』)を毎日1章ずつ本ブログに引用することにする。とにかく、キリスト教について知りたい方におすすめしたい。日本人が日本人のたましいの救いのために書き下ろした本書は貴重本である。
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早速、「イエス様を知らない方へ」の中にも一連記事の紹介を加えました。ここまで平易に、そして日本人の魂に沁みこむように語られた福音の言葉はないかもしれません。ぜひ一読をおすすめします。

キリスト教ガイド・シリーズ全15
(一番下の記事「キリスト教ガイド(案内)」から一つずつ上に順番にお読みください。)

「バチカンの聖と俗」 その2

その1からの続き)

そして著者は、文明論的に日本人がプロスタントよりもカトリックのほうが馴染むのではないかという理由として、次のように述べています。

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 純化思想であり、「型」の文化(注:「中間項」にある形あるもの)」に欠けるプロテスタンティズムは、「個人の内面に神の声を聴く」というような主観的解釈を生み出し ― つまり、個人に下駄を預ける度合いが強い ― 極端な解釈に突っ走る危険性を内包しています。もう少し砕けた言い方をすれば、「プロテスタントは、何を言い出すか分からないところがある。」ということです。この点は、プロテスタントの影響が色濃く残る米国社会を眺めれば容易に気づいてもらえる点だと思います。また、プロテスタントの流れを汲みつつ、西欧北部を中心に強まりつつある「新しい信仰(注:「科学信仰」「表現の自由信仰」「人権信仰」「環境信仰」などの「脱キリスト教文明」のこと。)」にも同様の体質 ― 独善的になりがち ― があります。
(太字は著者 116頁)
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捕鯨に強行に反対するシー・シェバードの例も著者は出しています。日本の人たちは、クリスチャンも含めて、米国にあるキリスト教原理主義の政治への介入を問題視していますが、それは欧米社会の一面だけの見方です。その背後には、極端にキリスト教価値観に反対して、反キリスト的になっている動きが政治の中にも浸透しているという現状があります。実は、そうしたリベラルな人たちも、著者のいう「一神教的プロテスタンティズムの原理主義」から脱却できていないのです。

本書を読んで、自分自身や周辺の目を向けてみました。私たちは確かにカトリックの作り出した「中間項」を持ってはいけません。自分自身が、聖霊の力によってキリストご自身に出会い、聖書ににらめっこしていく過程が大前提です。そうでなければ、まさに偶像崇拝の罪を犯しており、黙示録が警告するバビロン化を免れません。神はご自分の「言葉」によって世界を造られたのであり、そして「言葉」によって私たちと親密な語らいを持ってくださいます。ちょうど仲の良い男女が、その容姿以上に、よく語り合って互いの人格を知るように、です。

けれども、使徒ヨハネは、「目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません。 (1ヨハネ4:20)」と言いました。またヤコブは、「さらに、こう言う人もあるでしょう。『あなたは信仰を持っているが、私は行ないを持っています。行ないのないあなたの信仰を、私に見せてください。私は、行ないによって、私の信仰をあなたに見せてあげます。』(2:18)」と言っています。見なければ、分からないのです。言葉だけでは分からないのです。真実に、行いをもって兄弟を愛し合っていることが、また貧しい人に施しをすることなどの慈善、また実際的な純潔が(ヤコブ1:27)、聖書の定義する「中間項」なのです。私たちにありがちなのが、「私を見ないで、イエスを見てください」という態度ですが、ペテロとヨハネは、「私たちを見なさい(使徒3:4)」と堂々と言えました。

個人の内面のみを強調するあまり、極端な解釈に突っ走る傾向が、特に他のクリスチャンと交わることを好まない人々に顕著に現れます。また、単に文化的な活動を教会に取り入れただけで、「それは異教的だ」と断じる人たちもいます。

私は以前、ハワイのクリスチャンたちによる「フラダンス」に反対する人に対して、聖書的に許容されることを弁護しなければいけませんでした。けれどもカルバリー所沢や、カルバリー府中などの、ハワイ出身の宣教師の良いところは、祭りをしたり、ご飯をたくさん教会で用意したり、いっしょにただ時間を過ごして遊びにいくなど、ごく自然にクリスチャンが交わる場を提供できており、それらによって、神の愛を肉眼の目で見ることができる中間項を設けていることです。

あと一ヶ月もすればクリスマスですが、その時に、今、何をしようかなと考えています。神が肉体を取って現れてくださったことを感謝するために、聖霊様が、礼拝後の愛餐等の交わりにおいてもご臨在してくださることを期待しています。

「バチカンの聖と俗」 その1


バチカンが「新世界経済秩序」を提唱 その1」と「その2」で、バチカンを中心とするカトリックについてお話ししましたが、そこで言及した次の本を、一気に読み終えました。

「バチカンの聖と俗 日本大使の一四〇〇日」 上野景文著

とても参考になる本でした。前知識のない人々にも十分に理解できるように何度もかみくだいて説明し、まるで一般人に公開された大学の講義のように語りかけている文体になっています。

本題に私はとても魅かれました。バチカンは「聖」つまり宗教的側面があるだけでなく、「俗」つまり世俗性を最大限駆使している、という点です。バチカンは、大国を含む世界の国々が謁見訪問するほどの外交力を持っており、各国もその力を活用していることです。宗教改革者たちは、カトリックを黙示録17章の「大淫婦バビロン」としましたが、そこにはこう書いてあります。

地の王たちは、この女と不品行を行ない、地に住む人々も、この女の不品行のぶどう酒に酔ったのです。」それから、御使いは、御霊に感じた私を荒野に連れて行った。すると私は、ひとりの女が緋色の獣に乗っているのを見た。その獣は神をけがす名で満ちており、七つの頭と十本の角を持っていた。(17:2-3)」

イエス様が、「わたしの国はこの世のものではない」と言われたにも関わらず、その発祥から世俗国家に対して権力を行使する教会体を築き上げたその重厚な、目に見えない力は物凄いものがあります。そしてバチカンは、国連を好んで言及するようです。国家を超越する世界的機関による管理を好みますが、この女が乗っている獣はまさに世界統一された国家であり、その総統である反キリストであります。

そして「聖」に関してですが、著者は文明論から、バチカンが日本にとって良い外交相手になることを、「一神教」を唱えながら「多神教」も取り入れている現実主義を採用していると言って、プロテスタントと比較しています。長文ですが、引用してみます。

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<その3> 「中間項」の維持 ― 工夫・妥協の名手
 考えてみれば、カトリック教会は、二千年を「生き延びる」過程で、あるいは「世界性」を達成・維持する過程で、多くの「工夫」をしてきました。たとえば、中世初期ケルト族への布教の実をあげるべく、地母神信仰を取り込んで聖母信仰としたこと、各地で民衆の尊敬を集めた人を「聖人」や「福者」として顕彰し、民衆の心を引き留めたことなど、カトリック教会の示している柔軟性、工夫の事例と言えます。

 そもそも、創造主(神)だけではあまり抽象的であるということで、神と人間の間にキリストという「中間項(パラメーター)」を設けることで生まれたのがキリスト教です(イスラムはそのようなパラメーターを設けていない)。その後、それだけではまだ足りないということで、聖母、聖人・福者、聖遺物、法王、教会など様々な「中間項」を追加しました。その結果、「分かりやすさ」「親しみやすさ」は格段に増しました。それに対し、個人はキリスト・聖書と直接向き合うべきで、「中間項」の如き「不純物」は不要だとして、聖母信仰、聖人・福者尊崇などを排除し、ローマの法王庁に反逆したのがプロテスタントでした。まさに、イデオロギーの純粋性にこだわる「純化思想」であり、「原理主義」です。カトリック教会はイデオロギーの純粋性より、民衆にとっての分かりやすさ(現実性)を優先させており、プロテスタントとの対比で言えば、「清濁併せ呑む巨人」との形容が可能でしょう。
(太字は著者。41-42頁)
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クリスチャンであれば、「プロテスタントとカトリックの違いは何ですか。」という質問を受けていると思いますが、私もしばしば受けます。礼拝前に教会案内のチラシを配っている時「キリスト教も教派がいろいろあるからな。」という言葉が耳に入りました。近いうちに、初心者向けの「プロテスタントとカトリックの違い」の記事を書いてみたいと思います。

上の文章でお分かりのように、カトリックの過ちは「歪曲した教えを唱えている」ことではありません。そうではなく、「純粋な神への信仰と福音にたくさん付け足している」のが問題です。私は、以前、長崎のキリシタン名所とカトリック教会を訪問する旅行に行きましたが、なぜ戦国時代、日本に至る所にキリシタンがいたのか容易に想像できました。土着化に非常に長けているのです。

その2に続く)

「セカンドチャンス」は本当にあるのか

先週末、この冊子を購入し、ざっと読み終えました。


「セカンドチャンス」は本当にあるのか
●未信者の死後の救いをめぐって
ウィリアム・ウッド著 いのちのことば社

ここで言っている「セカンドチャンス」は、人生で失敗した人がキリストの福音にとってやり直しができるという二度目のチャンス、という意味ではなく、副題のとおり「生前に福音を信じていなくても、死後にそれを聞いて信じ、救われる機会がある」という意味です。そして本書は、その論に対する反証を聖書から行なっています。

日本の伝道の現場では、極めて重要な問題です。このことに関連する記事を後日詳しく書けたらと思いますが、一読後の感想をここで述べます。

第一に、この議論は日本に始まったことではなく、既に米国に存在しているものです。「神の忍耐論(Divine Perseverance)」と呼ばれるそうです。セカンドチャンス論者は、西洋的キリスト教の対抗軸を作り出していますが、それよりも私は、この世界の底流が普遍的救済の方向であると感じています。

そして私の経験では、西洋との対立軸とも無関係であるように感じます。他の東洋の兄弟姉妹の国も同じように先祖供養が盛んですが、死んだ後の人の救いについて日本人のように悩むことはありません。家族の間でさえ、宗教に関しては「あなたはあなた、私は私」という区別ができています。

その他に、「包括主義論(Inclusivism)」というものがあります。これは、「仮に人がキリストについて知る機会がなかったとしても、自然界を通して与えられる光に応答し、造り主なる神を信じれば、その信仰のゆえに義とされる」とするものです。これは前回のエッセイ(教会から分離する人々)と前々回のエッセイ(神道を摂取する宣教)の中にも触れた議論にも関連することで、非常に興味を持ちました。福音という真理の体系を通さずして救われることの可能性を探る向きがあります。

その他「万民救済論」がありますが、これは信仰がなくても十字架の功績のゆえに救われるという教えです。

第二に、著者は本物にある輝きと力に触れています。輝きについては、自分たちが金だと思って集めた川底にあった光る物体を、町の宝石店に持って行ったら、そこにある金を見て、その輝きの圧倒的な違いに驚いた、という例話を書いています。

また力については、「福音の力が現れるのは、それが誤りなく伝えられた時です」と述べています。これには感動しました。私自身が、このことを信仰と伝道の努力の中で体験してきたからです。両親に対して、彼らが福音を受け入れなければ地獄に行くという考えは苦しみ悶えるほど辛いことでした。けれども、「福音の真理からぶれてはいけない、私が曲げて伝えたところで、私の知恵や力など、どうしようもなく陳腐なものだ」と思って、伝え続けました。二人は今、福音の真理からまったくぶれることなく、信仰生活を送ることができています。もし、私がその苦しみから脱却すべく異なる内容を伝えていたら、今頃どうなっていたであろうか?と思います。

また、日本に帰国後すぐ昨年末から新しく信仰を与えられた人々に対しても、心の中では涙を流しながら、それでも「福音を受け入れることなくして死んだのであれば、天に入ることはない」という教えを伝えました。けれども、それぞれの方が課題を克服して、生ける神の栄光と恵みの中に浴しておられます。ここでも、もし私が少しでも歪めて語っていたらどうなっていたことだろうと、思います。

どんなに自分が辛かろうが、自分ではなく純粋に「福音にのみ力」があるのだということを少しずつですが実感しています。

そして混ぜ物なしの福音こそが輝いています。創世記から黙示録まで順番に、飛ばすことなく読み進めると、そこに流れる神の栄光に浴するには、膨大に啓示されている、神に対する申し開き、そして死後における裁きという定め、ゆえにそこから救おうとする神の熱情と涙、その熾烈な愛を私たちは感じ取っています。セカンドチャンス論や包括主義論に流れる「日本人に救いを」という情熱は凄いですが、そこにある火は主からのものとは異なったものを感じます。

第三に、私は最後に著者が触れておられる、宣教師の話には男涙を流しました。未開の地で、たった一人の物売り少年にしか福音を伝える機会がなかった。そして娘が生まれたが妻はマラリヤで死んだ。そして本人は、その娘をもう一組の宣教師夫婦に託して、自分は神を呪い帰国しました。ところが、五十年も経ったときに、その娘が、その未開地には立派な学校が建てられ、600名はみなクリスチャン、村長もクリスチャンになり、自分の教団を作り、十万人の信者がいる、という記事を読みました。その創立者をキリストに導いたのは、自分の生みの母親だったのです。

そのことを伝えに、生みの父を探しにいきました。彼はすでに再婚し子供たちもいましたが、「神の名をこの家では決して発してはならない」という掟を作っていたそうです。けれども彼女は、この話を伝えました。彼女が神の名を出すと彼の体は硬直しましたが、続けてその知らせを告げると、「その堅くなっていた体はだんだんほぐれてきました。彼は五十年ぶりに、神に対して心を開き、悔い改めました。そして、その数週間後に、天に召されたのです。」

五十年も堅く心を閉ざしていたこの男に、神は十万人の信者という知らせをもって、憐れみを示し、悔い改めに導いてくださったのです。私も、この宣教師と同じようになってもおかしくない愚かな者だと思っています。けれども、神はこれほどまでに真実な方なのです!

私は今の時代の人々は、「自分の悟り(理解) 対 神の摂理と主権」という相克の中に生きていると思います。どちらに流されるのか、という問いかけが私たちに迫ってきます。

「聖書の日本語」

本日、図書館で借りてきて、飛ばし読みですが読み終わりました。この本題に惹かれたのが、「日本語訳の聖書」ならず、「聖書の日本語」と、日本語のほうに焦点を当てているのではないかと思った点です。

「聖書の日本語」 鈴木範久著 岩波書店

以前、「据わらないキリスト教用語」という記事を書きましたが、まさに「目から鱗が落ちる」点が二つありました。

一つは、私たちは「日本のキリスト教は西欧からの輸入」と思っていますが、聖書翻訳について言えば中国訳にかなり依拠しているということです。

日本のキリスト教受容は,西欧人によって伝えられたために,ともすると西欧の影響のみが表立っていた.ところが,今回改めて思い知らされたのだが,日本の聖書翻訳に占める中国語訳の大きな比重は,キリスト教受容にも影響を与えずにはおかなかったであろう.あえていうならば,日本のキリスト教の受容は,聖書語に関する限り,儒教や仏教の経典と同じく,中国経由なのである.(本文から)

もう一つは、日本語には、聖書に使われている言葉がかなり多く定着している、という点です。始めに挙げた「目から鱗」というのは、パウロが水のバプテスマを受けたときに、聖霊のバプテスマも受けて「目からうろこのような物が落ちて」という使徒の働き9章18節から来ています。「豚に真珠」もそうですし、日本語に十分定着しています。

ルター訳がドイツ語の基礎を作ったとは,よく言われることですが,日本語への翻訳の歴史の中でも,聖書はまた格別の意義をもつようです.聖書の言葉,言い換えればキリスト教の考え方が,どれほど深く近代日本の精神に喰い込んでいるか.数々の発見に満ちた,聖書翻訳物語です.(編集部から)

英語と日本語の翻訳の違い、また韓国語と日本語の翻訳の微妙な差異から、説教そのものの内容まで変わるという場面をしばしば見てきたので、聖書の「言葉」というものが気になっていました。

ちなみに、ウィキペディアで、聖書翻訳の変遷の歴史を読むことができます。→ 「日本語訳聖書

聖書本文の違い

そして、もう一つ聖書説教の準備で大きく立ちはだかるのは、「底本」です。旧約聖書はヘブル語、新約聖書はギリシヤ語ですが、現存している写本の校訂版のどれに依拠するかによって、当然翻訳が変わってきます。旧約のヘブル語は「マソラ本文」で統一されていますが、新改訳では、旧約聖書のギリシヤ語訳である「七十人訳」やシリヤ語訳を採用している場合、また直訳ではない言い回しが頻出するので、とまどうことがしばしばあります。けれども新改訳の良さは、頁下にある「引照」です。そこに直訳や、ヘブル語の訳など翻訳の背景になっている説明が数多く出てきます。それを皆さんも参考にされると良いかと思います。

そして、さらに厄介なのが新約聖書です。しっかり聖書を読んでおられる方は気づいているでしょうが、「節」が飛んでいる場合があります。例えば、ヨハネ5章4節を探してください・・・ありませんね!それで引照を見ると、異本には3節後半から4節には次を含む、という説明があります。これは章と節を振った時と、今の翻訳の底本が異なるためです。往々にして、現代の翻訳では省かれています。参考までに、チャック・スミス牧師の「マルコ16章」の講解(日本語訳)を読んでみてください。

私は、本書でギリシヤ語の底本として何が使われているかが参考になりました。明治元訳においては、「公認本文(テクストゥス・レセプトゥス)」が使われていたけれども、英語のRevised Versionを参照した「大正改訳」では「ネストレ校訂文」を使ったそうです。これが、現代私たちが目にする「文語訳」になります。

そして、戦後直後「口語訳」、それから「共同訳」「新共同訳」と変遷しますが、本書では福音派の人たちが使う新改訳は取り扱われていませんでしたが、新改訳も文語訳で確立した基本的な聖書用語はほぼ全て踏襲していることも分かりました。また、新改訳もネストレ校訂文を底本にしていますから、現存している日本語訳聖書で、英語の欽定訳(King James Version)の依拠している公認本文を底本にしているのは、明治元訳以外に存在しないということになります。

ところで昨年、翻訳されたとされる「現改訳」は、ビザンチン・テキストを底本としているようで、とても期待しています。

聖書翻訳の比較

聖書を学ばれるときに、ある箇所の意味が分からなくなったら、まずはその前後を読んで、文脈を把握してください。それで多くの場合、その言葉の意味が分かってきます。それでも分からなければ、他の翻訳を参照することをおすすめします。ネット上にもたくさん存在します。

新改訳聖書

口語訳と新共同訳

大正改訳・明治元訳・口語訳

イランによる駐米サウジアラビア大使の暗殺未遂

米政府、イランによる駐米サウジ大使暗殺計画を阻止

ワシントン(CNN) 米国のホルダー司法長官は11日、イランによる駐米サウジアラビア大使の暗殺計画を阻止したと発表した。計画の指示はイラン政府内部から出ていたという。

米連邦捜査局(FBI)によると、米国籍を持つイラン人のマンスール・アルバブシアル容疑者(56)と、イラン革命防衛隊に所属するゴラム・シャクリ容疑者が、外国当局者の殺害と大量兵器使用を図り、テロ行為を計画した共謀罪で起訴された。アルバブシアル容疑者は9月に逮捕されているが、シャクリ容疑者は捕まっていない。
(中略)米当局者らによれば、容疑者らはサウジ大使だけでなく、ワシントンやアルゼンチンの首都ブエノスアイレスでイスラエル、サウジ両大使館を攻撃する計画も検討していたとみられる。なぜサウジ大使が標的とされたのかや、イラン政府内部で計画がどの程度知られていたかなどは明らかでない。

・・・とのことですが、CIAのスパイとして革命防衛隊にいた人によるA Time to Betrayを最近読んでいたので、十分ありえる話だなと納得しました。もし阻止できていなければ、今頃、大変な騒ぎになっていたことでしょう。

ここでの重要な点は、「サウジアラビア」が標的にされていることです。イランがアラブではないことは、歴史的、民族的に明らかであり、また宗教的(イランはシーア派、サウジはスンニ派)な違いと、中東の覇権争いが続いています。

よろしければ、この機会に「エゼキエル38章」の聖書講解を一読してみてください。今の情勢と、預言者エゼキエルが見た幻が酷似していることを説明しました。その時点で明らかでなかったのは、1)トルコの動き、と、2)サウジアラビアでした。けれども、トルコは2010年の「ガザ支援船拿捕事件」を契機にイスラエルとの外交関係を切る脅しをかけ、ロシア、イラン、周辺アラブ諸国との連携に躍起になっています。そしてサウジアラビアは、「シェバとデダン」であり、イスラエルを攻める動きに対して反対表明を出すけれども、何の行動も出せない状況を表していますが、今回の事件でイラン(聖書上ではペルシヤ)との対立が表面化しました。

ところで、エゼキエル38,39章の預言を基調にして世界情勢小説を連載で描いている、ジョエル・ローゼンバーグ氏は、再び新著において、この出来事を言い当てるノストラダムス(?)になってしまいました。

ローゼンバーグ氏は、小説の原稿を出版社に出した後で、911を始めとする数々の中東情勢がその通りになりました(Epicenterの書評)。今回は、”Teheran Initiative“(テヘランの先制)という新書が出ましたが、イランのテロ攻撃が、米国内のアメリカ人、アラブ人、イスラエル人の指導層に対して行なわれ、この攻略によって米国の大統領府はイスラエルに対して、イラン国内の核施設に対して先制攻撃をしないように圧力をかけることから始まります。アメリカが武力攻撃も辞さない姿勢を見せていないこと、また先制攻撃を行なうな、という圧力は既にクリントン国務長官の口によって表面化しました。

ところで、「イラン」という国について、とても面白い本を先ほど読み終わりました。

「イランはこれからどうなるのか 『イスラム大国』の真実」 春日孝之著 新潮社

毎日新聞の記者としてテヘランに在住していた経験を生かして、日常生活で起こっている卑近な例を引き合いに出しながら、国内外で起こっていることを柔軟に説明してくれています。A Time To Betrayの著者レザ・カーリリ氏の反体制的な視点とは一見正反対の姿を描いていますが、どちらも真実なんだろうな、という感想を持ちました。イランの不透明さと不測な動きは、「悪の三枢軸」の中で一緒になっている北朝鮮とではなく、むしろ共産主義を国是にしながら市場経済を導入している現代中国に似ているかもしれません。

今回の暗殺未遂の事件も、既に、宗教指導層側がアフマディネジャド外しを行なっている動き(英語日本語)に呼応した形で起こしたのではないかと言われています。大統領の取巻きにはない革命防衛隊の一部が行ったものである、とか、ハメネイ氏側が米国との限定的武力衝突を狙って行ったものだとかいう情報があります。そうすると、アフマディネジャド自身が「こんな計画は知らない。」と反論しているのもうなずけます。上記の書物にも、イスラム法学者の動きと大統領制の二重構造を上手に説明しています。

A Time to Betray (裏切る時)

先ほど、この本を一気に読み終わりました。妻から「昼は暑かったのに、よく我慢できたわね。」と言われたぐらい、のめり込みました。

A Time to Betrayのサイト

イラン革命防衛軍内部のCIAスパイの驚くべき二重生活を送った、レザ・カーリリ(Reza Kahlili)氏による自伝です。現在進行中のイランの動き、つまり、イスラム過激派と世界テロリズムを裏で操っているという背景を踏まえれば、この本は多くの人に読まれるべきでしょう。

ブログでは何度となく、1979年に起こったイラン・イスラム革命を言及しましたが、この自伝によって、国内で起こっていたその空気を肌で感じ取ることができました。パーレビ国王下の独裁制から始まり、ホメイニ師のカリスマ性によって達成した革命は、すぐにこれらムッラー(イスラム宗教家)による乗っ取りによって、とてつもない専制が敷かれます。そして、この自伝に出てくる悲劇は、レザともう二人の間にある友情が、この革命によって引きちぎられていくことです。その一人カゼムはイラン革命防衛軍の中枢に入り、もう一人ナセルはイスラム革命の幻滅し、その反対派に属したためエビン刑務所で拷問を受け死亡します。

十代の女の子たちは、兄や彼氏が反対派にいたからという理由で同じように拷問を受け、処女は天国に入ることができるというイスラムの教えがあるため、処刑の前に強姦するというおぞましい仕打ちをします。

レザは、アメリカでコンピューター工学を専攻したため、カゼムの誘いで革命防衛軍に入りましたが、ナセルの死とその残虐な行為を目撃し、心の中でこの体制に反逆することを、自分の信じている神に誓います。彼は在米のおばの病の世話をするという機会を捉えて再び渡米し、そこでCIAに接触しました。CIAが彼に再び革命防衛軍に入って情報を提供し続けてくれという願いに応えて、それからスパイ活動の生活が長年のこと続きます。

けれどもその二重生活は、自分の友人、自分の最愛の妻や両親、そして祖国を裏切っているのではないかという重圧との格闘であり、けれどもイランが再び自由を取り戻さなければいけないという切望は途切れることなく続き、家族でアメリカに亡命し、十数年後、妻が乳癌を患うときに始めてその心の苦しみを打ち明けました。今は家族で幸せに暮らしていますが、妻の励ましの言葉にも支えられて、偽名を使い、顔も声も隠しながらでありますが、数多くのニュースに登場し、イランの自由のために内部情報を提供しています。

そして幸いなことに、この長年の良心の葛藤の中で、彼はイスラムを捨て、キリストに従う決断をしました!(ブログ記事)本書にはキリスト信仰についての直接の内容は出てきませんが、彼がなぜキリスト者になったのかが分かる、彼の心の飢え渇きの姿も垣間見ることができます。そしてリンク先のブログによると、おばあさんからイスラムについて教わり、愛や正義、平和を信じていましたが、イスラムの名を借りて行っている残虐行為に幻滅した一方で、コーランに書かれている教えと、イエス様の教えを比較して、後者の言葉に魂が捉えられていったそうです。

イスラム革命後のイランをその中枢から見ている姿を、肌で感じ取ることができるのですが、レザが働いていたとき、イラン・イラク戦争が起っていました。
そして革命防衛隊は、シリアはもちろんのこと、レバノン、パレスチナ過激派など、世界テロリズムを後ろで操作するまでに膨張していきます。
ベイルート・アメリカ海兵隊兵舎爆破事件パンアメリカン航空103便爆破事件を含め、その裏でイランが関わっていたのが手によるようにして分かります。

それから、レザは欧米諸国、特に米国が強く介入することによって、イランの自由化が達成できると信じていたけれども、歴代の米政権がイランに対して強い姿勢で臨まなかったために、その「ごろつき政体(thugocracy)」がますます力を増していったことを暴いています。それは民主党や共和党、保守やリベラルを問わず、カーター大統領から歴代の政権が犯した過ちでした(レーガン政権時のイラン・コントラ事件の内情も明かしています)。オバマ現政権に対してもその融和の姿勢に警鐘を鳴らしています。

最近のイランを米国のクリスチャン番組から紹介したハーベストタイムを見れば、その雰囲気とさらにイランという国のために祈る思いが与えられるかと思います。

「イランの今」

イランについて取り扱っているのが、次のブログ記事です。

イラニウム(Iranium)
エジプトとイラン、そしてEU・アメリカ
Inside the Revolution(革命の内幕)
エゼキエルの見た幻(36-39章)
2010年に核戦争の可能性
安定経済と核戦争危機

「中東 危機の震源を読む」

先ほど完読しました。「現代アラブの社会思想」を読んで以来、池内恵氏による著書は、アラブとイスラムに関わる情勢分析としてとても役に立っています。内容については、以下の書評から一部をご紹介します。

新潮社サイト

「イスラーム」を知るための必読書。
「論壇」を考えるための必読書。

本書は、中東・イスラームの「入門書」として最適の一冊です。
パレスチナ紛争・自爆テロ・イラク戦争・イラン核疑惑・新疆ウイグル・ソマリア海賊・ドバイ経済など、日本の読者が知りたいと思うであろう諸問題が、ほぼすべて網羅されています。
特に「イスラーム世界と西欧近代社会の価値観の衝突は回避できるのか?」というテーマについては、深く考察されています。日本の言説空間でまかり通っている「イスラーム教は他宗教に寛容」「テロの原因は格差と貧困」「すべてはイスラエルとアメリカが悪い」というような一面的な議論に満足できない読者にとって、本書は必読書です。

これは、「フォーサイト」という雑誌に2005年一月から2009年五月までに掲載された記事を編集したものですが、エジプトの国内事情を読むと、今年から起こっているアラブの民主化を容易に予測できそうな雰囲気です。事実さえ知っていれば、今回の出来事は不意に湧き上がった話ではないことがわかります。上の書評記事はこう続けています。

 また、本書の「むすびに」に書かれている、日本の論壇に対する鋭い批判にも要注目です。
著者は、論壇誌が次々と廃刊になるのは、空疎な「論争」の軸を提起して盛り上がり、乏しい事実認識からなされる短絡的で情緒的な主張を「想像力」ともてはやすばかりで、肝心の「事実」に到達するための営為を軽視しているからではないのか、と問います。

――「単なる事実」を求める「レポート」の価値を感じられない人は、何か大きなものへの怖れを失った人であると私は思う。――(349頁より)

その他、具体的記事の紹介については、次の書評が良いでしょう。

書評216:池内恵『中東 危機の震源を読む』その1
書評217:池内恵『中東 危機の震源を読む』その2

ただ、イスラエルについては、流布している論評に比べると、確かに政治的公平さと客観性に極めて優れていますが、イスラエル事情を追ってきた者としては、前提の事実が違うのでは疑問に思うものも結構あります。それでもやはり、「イスラム・アラブ研究者」という限界もあるでしょうし、そして単なる知的作業以上の、聖書信仰者であるからこそ見えてくる霊的ダイナミズムが見えない点もあるでしょう。

もう一冊、「イスラーム世界の論じ方」も図書館から借りています。

「ナザレのイエスは神の子か?」

LCFの礼拝が開始して、早7か月になろうとしています。信仰を持たれた方々から続けて出てくる神についての質問、また伝道を試みる時に出てくる未信者からの質問をたくさん受けています。このロゴス・ミニストリーのホームページにも、「イエス様を知らない方へ」というページを設けていますが、キリスト教に関する真摯な質問についての邦訳された良書は次です。

「ナザレのイエスは神の子か?」 リー・ストロベル著 いのちのことば社出版

上のリンクに出版社からの、詳しい紹介と説明がありますのでご覧ください。自分の本棚の図書として置いておきたい一冊です。

私がスクール・オブ・ミニストリーで、”Apologetics”という題名の授業を受けました。日本語に訳すると、「弁証学」あるいは「護教論」になります。信仰を持っていない人の前において、自らの信仰の弁明をすることです。ペテロがこのことを次のように言っています。

むしろ、心の中でキリストを主としてあがめなさい。そして、あなたがたのうちにある希望について説明を求める人には、だれにでもいつでも弁明できる用意をしていなさい。(1ペテロ3:15)

使徒の働きにも、パウロ等が福音を伝えている時に「論じた」という言葉が数多く出てきますが、キリスト教史において、数々の著名な教会指導者は、各時代にあったキリスト教に対する反対論や異端に対して論駁する形で、キリスト教の支柱たる真理の説明を書き残しています。本書のリー・ストロベルのような人も、現代社会においてその遺産を受け継いでいると言えます。

私の学校の授業の先生は、ドン・ステュワートという人で、その分野で多くの奉仕をしている人です。英文ですが、私が受けた彼の講義とほぼ同じ内容のノートがネットで見つかりました。 → Apologetics Course (13年10月22日現在、リンク切れ こちらに新たなサイトがあります。)

本書「ナザレのイエスは神の子か?」では、著者が法廷ジャーナリストということで、現代風にさまざまな疑問をその専門家らにぶつけていますが、それらはほぼ、私が学んだ弁証学の基本を網羅しています。例えば、

「キリスト教も、仏教も、イスラム教も、みな結局は同じことを話しているのです。すべての道は神や天に至る。」という意見に対しては、

「互いに根本的に相反する教えをしているのであるから、同じであるはずがない。」
「イエス・キリストは、他の宗教の創始者とは別格の、独特な存在である。
– 宗教の創始者は『教え』を垂れたに対して、
イエスは自分自身が信仰の対象であるとされた。
– その主張を、証拠をもって見せられることによって権威を示された。
– イエス・キリストは、何百年も前から預言されている
数々の条件をその生涯で満たされた。
– 復活された。」

「・・・と言っても、それは聖書に載っていることだろう。聖書は後世に弟子たちが作り上げた神話ではないのか。」に対しては、

「新約聖書の写本と初期の翻訳を合わせると約二万四千ある。しかも、発見された本文は初めに書かれてから50年以内に書き写されている。似たような時代に、信憑性のある文献として認められている写本は、例えばカトュルス(ローマの詩人)は写本が六つ、そして原本が書かれてから1600年後の写本である。著名な「ホメーロス」も、写本は643で、期間は500年経っている。」

リー・ストロベル氏は、これを「福音書はスクープ記事のような新鮮なものだ。」と表現しています。

そして日本版に直してみますと、私はよくこう訊ねます。「では、豊臣秀吉が存在していたことは信じられますか?」当然、日本人なら誰も疑うことはありません。この人物についての第一資料は大量に残されており、その人生は非常に詳細に浮かび上がらせることができるわけですが、イエス・キリストについての記述も同じように膨大であり、しかも実在してからたいした時間を経ることなく記述されているのです。

そして、同著者は、第二弾として次の本も書いています。

「それでも神は実在するのか?」

これもぜひ手にしてみたい一書です。目次を拾い出してみますと・・・

悪や苦難がこの世に存在する以上、「愛の神」は存在し得ない
神の奇蹟は科学の法則に相反する。よって、奇蹟は真実たり得ない
生命の神秘は進化論が証明した。よって神は必要ない
罪のない子供を見殺しにする神は賛美に値しない
「イエスだけが救いの道」と説くキリスト教は傲慢極まりない
愛の神は、人間を地獄で苦しめたりしないはずだ
愛を説くはずのキリスト教史が抑圧と暴力に彩られているのはなぜか

いかがでしょうか?ある書評では、「こちらのほうが日本人には必要かもしれない。」とありましたが、同感です。イエス・キリストの前に、「神の存在」に対して疑問がわきます。この世の苦しみの現実と、神の愛や公正との間に矛盾があると感じます。

世界に起こる戦争、飢餓、そして地震や津波など、「なぜこのような悪を神は許しておられるのか?」という質問が多いです。特に身近にいる、愛する人が死んだ時にはその葛藤は熾烈になります。原発の被災者の人のブログにも、「人災と言われても、世界中に数多くある原発は安全に稼働していて、なぜ福島だけなのか?」という問いが書かれていました。

私自身も、そのようなお話を聞くとき、自分自身「なぜ?」という問いの重みを体の中で感じます。そしてやみくもに、軽々しく答えを提供したくないと思います。ただその中で分かってくるのは、「神は解答を提供されないが、その苦しみの渦中に共にいてくださり、そして究極の慰めと、永遠の希望を与えてくださる。」ということです。苦しみは、これまで「対人」で生きてきた人が、神に向き合うきっかけになるということは確かです。

ロゴス・ミニストリーの「イエス様を知らない方へ」のページにも、こうしたキリスト教に対する疑問に回答する欄を設けてみたいと思います。