パレスチナ国家独立について

中東情勢について、今、忘れてはいけないのは、パレスチナ自治政府が9月20日に「パレスチナ独立国家」の承認を国連に求める問題です。すでに、「NHKの偏向報道」において触れましたが極めて非現実的な試みであります。

ハーベストタイムのメールマガジンの最新号でも、このことを指摘しています。

パレスチナの独立国家建設

私が以前指摘していたのとほぼ同じことを述べています。

(1)パレスチナ側は、独立国家になる準備がまだできていない。特に、テロの完全放棄が為されていない現状で、国際社会がその正当性を認めるなら、将来に禍根を残すことになる。
(2)ハマスとファタハの権力闘争が依然として続いており、平和的に国家運営を行える状態にはなっていない。
(3)国家運営に必要な経済基盤は、国際社会からの援助金である。また、経済活動の面でも、イスラエル経済に全面的に依存している。
(4)パレスチナ国家の独立に強硬に反対する声が、パレスチナ人自身の中にある。反対の理由は、パレスチナ国家の独立を宣言することは、イスラエル国家の存在を認めることになるからだという。

そして、イスラエルからのメールとして、承認されるか、されないかに関わらず、暴動や新たなインティファーダが起こる可能性が高いということです。

もう一つ紹介したいのは、「パレスチナ世論調査の結果は非平和的」という記事です。

たとえば、パレスチナ人に向けた『ニ国家解決案』については、34パーセントが賛成と答えながらも、それはワンステップであり、最終的にはパレスチナ国家だけが、残るというものだった。
 エルサレム市については、92パーセントがパレスチナの首都であるべきだと答え、1パーセントがイスラエルの首都、3パーセントが両国の首都、4パーセントが国際都市と答えている。
 イスラエルのエルサレムに関する歴史についても、72パーセントが嘘だとし、62パーセントが人質を支持し、53パーセントが学校で子供たちに、反イスラエルの歌を、教えることを支持している。
 イスラエルを打倒するためには、80パーセントがアラブとイスラム諸国から支援を受ける必要があるとし、73パーセントがユダヤ人を殺す必要があるとしている。
 そして、パレスチナ問題の解決には45パーセントが、ジハード(聖戦)が必要だとしている。パレスチナ人は65パーセントが交渉によって、問題を解決すべきだとし、20パーセントが戦いによって、解決するべきだとしている。

これは、イスラエル情勢を見てきている人々にとっては、ずっと前から分かっている結果ですが、イスラエルが強硬なのではなく、むしろパレスチナが強硬なのです。しかし、こうした内部の現実があったとしても、ネタニヤフ首相が、「ユダヤ人国家を認める、ということだけを言ってほしい。」と、二国案に対してアッバス首相に訴えて、譲歩しているのです。(後記:アッバス議長は明確に、『私はユダヤ人国家を承認しない。』と言いました。二国案ではなく、相変わらず一国案(ユダヤ人を追い出しすべてをパレスチナ国家にする)なのです!)

けれども、この対面式世論調査は興味深い側面を見せています。

 国連によるパレスチナ国家の承認については、64パーセントが賛成しており、そのうちの57パーセントが、ヨルダン川西岸地区住民、ガザ住民の間では、79パーセントが支持している。
 その結果として、国連への働き掛けが、パレスチナ国家を実現する、と考えている人たちが37パーセント、16パーセントが逆効果、44パーセントは何の変化も無いと考えている。
 マハムード・アッバース議長に対する要望では、83パーセントが雇用機会の創出、国連承認が4パーセント、2パーセントが和平交渉の継続、ということだ。

 国連への働き掛けに対して一番多いのは「何の変化もない」であり、盛り上げてはいるものの、現実はそう甘くないということも心得ているようです。そしてもっと切実な問題は、国連承認よりも「仕事をくれ!」ということであり、これが私にとって、民族的誇りにまさる現実的訴えであると考えています。

明日の飯が一番気になる

 ベイルート通信というサイトの記者の人も「イスラエル」と「パレスチナ」の対立をこう説明しています。

世にいう「イスラエルとパレスチナの対立」です。
 メディアに頻出するこのキャッチフレーズのおかげで、イスラエル人とパレスチナ人は不倶戴天の仇敵であるかのような印象を抱く人は少なくないでしょう。
 しかし、いわゆるイスラエル人=イスラエル国籍保有者のうち、およそ5人に1人は「イスラエル・アラブ」、つまりユダヤ人ではなく、パレスチナ・アラブ人なのです。
 さらにこの「イスラエル・アラブ人」の中には、ドルーズ教徒や一部のベドウィンのように、イスラエル建国以来、イスラエルの兵役にすすんで参加し、他の「イスラエル・アラブ」と対立する人々も居ます。

 また、ヨルダン川西岸地区にあるイスラエル入植地の問題があります。
この入植地のほとんどは、1967年の占領後に、物理的にイスラエルが領土的妥協出来ないように、つまり占領地領有の既成事実をつくるために、政策的に建設されたものです。
 従って、「入植地は和平の障害」という表現は正しいと言えるでしょう。
 ただ、同時に、イスラエルの封鎖政策によって収入源を断たれた西岸地区住民にとって、皮肉なことに入植地での労働が貴重な雇用機会になってしまっているのも事実なのです。

 「イスラエルとパレスチナの対立」という図式や表現にこだわると、見落としてしまう点がたくさん出てくることが理解していただけると思います。

「イスラエル残滅!」と叫んでいるハマス支持者が、次の日にはユダヤ人の入植地住宅建設の仕事に出かける、ということは、彼らの頭の中では矛盾なく行なわれている事でしょう。また、イスラエル国籍を持っているアラブ人で、パレスチナ国家設立後、国籍を変えようと思っている人はほぼ皆無だと聞いています。理由は、「仕事がないから」あるいは「生活水準が一気に落ちるから」です。

いずれにしても、国連承認前後のインティファーダは第二次の結果を見てのとおり、イスラエルのみならずパレスチナにとっても酷い禍根を残すでしょう。主の憐れみによって、そのような暴挙に出ないよう祈るのみです。

エイラット近郊テロ事件

遅まきながら、8月18日、イスラエルの南端の町エイラット近郊で起こったテロ事件から、今のイスラエル周辺状況についてお話ししたいと思います。

まず、何が起こったかについて

*イスラエル南部で複数のテロがあり7人が死亡、31人が負傷した。最初のテロでは乗客でいっぱいのバスに大量の銃弾が撃ち込まれた。国防軍が駆け付けテロリスト7人をその場で射殺。(「シオンとの架け橋」ニュースから)

テロリストは、ガザ地区にいる過激派が、シナイ半島、つまりエジプト領経由でイスラエルに侵入、そして、おそらくは目的はイスラエル兵を誘拐するためではないかというものでした。そして、イスラエルは首謀者への制裁のためにガザ地区を攻撃、それに対してハマスが応酬し、イスラエル領にロケット弾を撃ち込んだ、という経緯になっています。

拙ブログで、「エジプトの騒乱 - 危険な振り子」そして「エジプト軍最高評議会下のエジプト」でお話しした通りのことが起こっているので、確かに不穏な動きになってきたと思いました。

この事件で大事なのは、ハマスを代表するガザ地区とイスラエルの対立ではなく、エジプトとイスラエルの安全保障です。エジプト領を介して侵入できた、というぐらい、シナイ半島の国境地域はエジプト側の警備が手薄になっているということです。

その前にすでに数か月前から、シナイ半島にある、イスラエルに供給する天然ガスのパイプラインがテロリストによって爆破されたニュースが入ってきていました。(参照:「シナイ半島ガス・パイプライン爆破の不気味」)

そして今回のエイラット・テロ事件において、テロリストとの戦闘の中でイスラエル軍がエジプト軍人を射殺してしまったことで、エジプトで大規模なデモが発生しました。(後日、イスラエルは謝罪しています。)在エジプトのイスラエル大使館の国旗を引きずりおろし、エジプト国旗に替え、それをある知事が称賛するという愚直なことを行なっています。

その中で活躍しているのがムスリム同胞団です。彼らは穏健的な政治手法を取っていますが、信条としてはイスラム原理主義であり、エジプト国内のイスラム化を急がせています。(参照:「エジプト・ムスリム同胞団の暴挙」 「シナイ半島がイスラム国家になる危険」)

リビアのカダフィ失墜、そしてシリアの政権崩壊間近など、いわゆる“アラブの民主化”は進んでいますが、それはバラ色どころか、さらなる混迷をもたらすかもしれない可能性を多分に含んでいます。

ところで、教会のある姉妹が、「エイラットのテロ事件がイスラエル軍のガザ攻撃の発端なのに、後者だけが日本では報道されていますね。」と指摘してくださいました。そうです、相変わらず「話の途中」からしか報道せず、一般の日本人は「イスラエルによる攻撃」という印象だけが残されています。

今回の記事を書くのに参考になったアラブ情勢サイトをここにご紹介します。

中東TODAY
中東の窓 

あとついでに、イスラエル情勢ニュースは、おなじみの「シオンとの架け橋」、そしてイスラエル・ユダヤ全般の情報はミルトス社長のブログも参考になります。

21世紀にキリスト者日本人として社会に生きる

いのちのことば社の冊子のウェブ版の、「時代を見る目」の項目の中に二回に渡って、実に大切な提言をされている方の記事がありましたので、ここに紹介させていただきます。まず、一つ目です。

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21世紀にキリスト者日本人として社会に生きる 1 巨大津波が露わにしたこと
柳沢 美登里 「声なき者の友」の輪

千年に一度の巨大津波が東日本太平洋岸を襲ってから3か月。被災地域の方々だけでなく、日本のすべての人が、この大災害がもたらした社会の地殻変動におののいている、と言っても言い過ぎでないだろう。

2004年12月26日に発生したインド洋大津波の半年後、復興移行支援のためにスマトラ島で過ごした。家々が立ち並んでいた場所が、今回の日本の震災場面と全く同じように、爆撃後のように無残な土台だけになっていた。そこで一つのことに気づかされた。巨大津波という危機は人々の表面を剥ぎ取り、奥底を露わにするものだと。

日本社会も、奥底が露わにされ始めている。高度経済成長時代を終え、必要が十分に満たされ、航空機なら「巡航高度」に達した80年代後半から日本人が大切にしてきたものは何だったのか、と。経済先進国と同様に、「お金で保障された、すぐに手に入る個人の快適さ、居心地よさ、安心の飽くなき追求」ではなかっただろうか。自分が暮らす地域と世界の隣人の必要に目をとめ、自分の生き方を省みることには目を閉ざして。

巨大津波は、私たちに快適さを保障していた原発の事故を引き起こし、科学・技術への過信は収束長期化をもたらした。私たち日本人にはこの出来事の意味を理解する世界観がないために、不安と無力感で覆われている。

永続する世界観を持つはずの日本のキリストの体が今、問われているのだ。「飽くなき追求」という偽りの生き方を正しいとし、見せかけの「巡航高度」を保ちながら「無縁社会」へと崩壊した日本社会で、キリストが教えてくださった「地の塩」として生きてきたのか、と。

日本経済が「失われた20年」と言われ、情報伝達速度と量が劇的に加速・増大して個人の嗜好が多様化し、すべてが「私」に仕えるような錯覚をもたらす「時代」に、巨大津波が露わにしたのは、私たち日本の教会こそ、時代の見極めと行動を怠ってきた、という厳粛な事実なのかもしれない。

「ことば」が人となり、当時のユダヤの社会に「塩」として生き、11人の頼りなさそうな弟子を残しながら永遠の「神の国」の土台を築いたキリスト。この21世紀の大震災後の日本で祈らずにいられない。「主よ、この目を開けていただきたいのです」と。
(http://www.wlpm.or.jp/cgi-bin/db/kiji_t.cgi?keys34=0002728)
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そして、もう一つの記事も紹介させていただきます。

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21世紀にキリスト者日本人として社会に生きる 2
柳沢 美登里 「声なき者の友」の輪

混迷を深める原発事故は、私たちが知らないうちに何を頼りに生きてきたかを突きつけている。科学・技術への絶大な信頼の底にあるのは「将来を予測したい。私たちはすべてをコントロールして安心を手に入れよう」という思いだ。政府による年金や個人の保険などの保障制度も、将来が変わらないことを前提にした安心保障と言えよう。現代日本社会は科学を駆使し、公私共に保障制度を備え、人生すべて万全の守りで固めて思い通りになる、かのような錯覚をもたらす社会になっている。日本社会が目指すことを言い換えれば「未来のすべてを見通せる神の能力を持ちたい。そして思い通りに未来をコントロールして永遠に安心したい」という願いにほかならない。まさに「神なき人間万能主義」、ヒューマニズムが栄華を極めている社会だ。

が、人間は「万能の神」にはなれない。この主義を前提にした社会で生きる私たちの予測と準備は裏切られ続け、「安心」とは逆に個人の不安は雪だるま式に膨れ上っている。今回の震災ではライフラインを失い、不便で不安な日々を送られた方々が大勢いた。ライフラインを失わなかった日本人の多くも「予想を超えたことが起きたらどうしよう」と不安に怯えた。

私たち日本人キリスト者は、この「人間万能」社会で、どのように生きてきただろう。そう思いながら福音書を読んだ。ユダヤ社会で神に従いたいと願う人々へのイエスさまのチャレンジは、「目先の損を取ること、将来の保障を手放すことを選ぶように」だった。この生き方は、一見、不安が倍増しそうだ。が、そのときこそ、全能の神の指の働きが見えてくる。「人間万能」社会が囚われているもの、すべてがわからないと不安になることから解放され「永遠のいのちを生きるようになる」と。

日本では、自分も含めてキリスト者の生活に「世の光」の輝きが感じられないのは、自分の計画や生活を一分の隙もなく固めてしまい、周りの人に神の指の働きが感じられないからかもしれない。日本と世界の隣人のために「将来が未確定である部分」を自分の生き方に導入してみる。そのとき、「人間万能」の日本社会で「聖書の神を万能とする生き方」が輝きだすのかもしれない。

(注: 読みやすいように改行を加えました)
(http://www.wlpm.or.jp/cgi-bin/db/kiji_t.cgi?keys34=0002741)
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非常にするどい指摘です。私も以前、「政府や東電を信頼するな? 」という記事で指摘したことですが、今回の震災で日本人は、究極的なまでに創造神以外の物に対する絶対信仰があったことが暴露されました。これこそが日本人の根本的な霊的問題であり、キリスト者はこれを最大の不幸とみなさなければならないのです。

私は海外生活をしている時は、日本社会では絶対にありえないすごいことが起こっていました。社会的には最低の生活です。実は先進国のアメリカでさえ、医療制度の酷さを妻の怪我や病気を通して体験しました。けれども、その両国にあったのは霊的な自由でした。神にそのまま拠り頼み、神にそのまま祈っていくことのできる自由と、単純な信仰がありました。けれども日本はそれをさせない強い力が働きます。

それでも、生活で苦しみや試練を通して神に近づくことができる人々に出会います。悲しむ人は幸いである、というイエス様の御言葉はその通りなのです!

生活をきれいにまとめて、きれいに整理して、きれいにクリスチャンらしく(?)批評して、そして自分は安全圏の中にいる・・・、で良いのでしょうか?人間というのは、もっともっと、どろどろしているはずです。詩篇のダビデ、創世記のヨセフ、そしてイエス様ご自身が、予想のつかない、そして損をする、計画とは反対のことが起きる、「不便」な生活を送られました。

神への絶大の信頼、これが少しでも日本で生まれ出てくることを願ってやみません。

「ナザレのイエスは神の子か?」

LCFの礼拝が開始して、早7か月になろうとしています。信仰を持たれた方々から続けて出てくる神についての質問、また伝道を試みる時に出てくる未信者からの質問をたくさん受けています。このロゴス・ミニストリーのホームページにも、「イエス様を知らない方へ」というページを設けていますが、キリスト教に関する真摯な質問についての邦訳された良書は次です。

「ナザレのイエスは神の子か?」 リー・ストロベル著 いのちのことば社出版

上のリンクに出版社からの、詳しい紹介と説明がありますのでご覧ください。自分の本棚の図書として置いておきたい一冊です。

私がスクール・オブ・ミニストリーで、”Apologetics”という題名の授業を受けました。日本語に訳すると、「弁証学」あるいは「護教論」になります。信仰を持っていない人の前において、自らの信仰の弁明をすることです。ペテロがこのことを次のように言っています。

むしろ、心の中でキリストを主としてあがめなさい。そして、あなたがたのうちにある希望について説明を求める人には、だれにでもいつでも弁明できる用意をしていなさい。(1ペテロ3:15)

使徒の働きにも、パウロ等が福音を伝えている時に「論じた」という言葉が数多く出てきますが、キリスト教史において、数々の著名な教会指導者は、各時代にあったキリスト教に対する反対論や異端に対して論駁する形で、キリスト教の支柱たる真理の説明を書き残しています。本書のリー・ストロベルのような人も、現代社会においてその遺産を受け継いでいると言えます。

私の学校の授業の先生は、ドン・ステュワートという人で、その分野で多くの奉仕をしている人です。英文ですが、私が受けた彼の講義とほぼ同じ内容のノートがネットで見つかりました。 → Apologetics Course (13年10月22日現在、リンク切れ こちらに新たなサイトがあります。)

本書「ナザレのイエスは神の子か?」では、著者が法廷ジャーナリストということで、現代風にさまざまな疑問をその専門家らにぶつけていますが、それらはほぼ、私が学んだ弁証学の基本を網羅しています。例えば、

「キリスト教も、仏教も、イスラム教も、みな結局は同じことを話しているのです。すべての道は神や天に至る。」という意見に対しては、

「互いに根本的に相反する教えをしているのであるから、同じであるはずがない。」
「イエス・キリストは、他の宗教の創始者とは別格の、独特な存在である。
– 宗教の創始者は『教え』を垂れたに対して、
イエスは自分自身が信仰の対象であるとされた。
– その主張を、証拠をもって見せられることによって権威を示された。
– イエス・キリストは、何百年も前から預言されている
数々の条件をその生涯で満たされた。
– 復活された。」

「・・・と言っても、それは聖書に載っていることだろう。聖書は後世に弟子たちが作り上げた神話ではないのか。」に対しては、

「新約聖書の写本と初期の翻訳を合わせると約二万四千ある。しかも、発見された本文は初めに書かれてから50年以内に書き写されている。似たような時代に、信憑性のある文献として認められている写本は、例えばカトュルス(ローマの詩人)は写本が六つ、そして原本が書かれてから1600年後の写本である。著名な「ホメーロス」も、写本は643で、期間は500年経っている。」

リー・ストロベル氏は、これを「福音書はスクープ記事のような新鮮なものだ。」と表現しています。

そして日本版に直してみますと、私はよくこう訊ねます。「では、豊臣秀吉が存在していたことは信じられますか?」当然、日本人なら誰も疑うことはありません。この人物についての第一資料は大量に残されており、その人生は非常に詳細に浮かび上がらせることができるわけですが、イエス・キリストについての記述も同じように膨大であり、しかも実在してからたいした時間を経ることなく記述されているのです。

そして、同著者は、第二弾として次の本も書いています。

「それでも神は実在するのか?」

これもぜひ手にしてみたい一書です。目次を拾い出してみますと・・・

悪や苦難がこの世に存在する以上、「愛の神」は存在し得ない
神の奇蹟は科学の法則に相反する。よって、奇蹟は真実たり得ない
生命の神秘は進化論が証明した。よって神は必要ない
罪のない子供を見殺しにする神は賛美に値しない
「イエスだけが救いの道」と説くキリスト教は傲慢極まりない
愛の神は、人間を地獄で苦しめたりしないはずだ
愛を説くはずのキリスト教史が抑圧と暴力に彩られているのはなぜか

いかがでしょうか?ある書評では、「こちらのほうが日本人には必要かもしれない。」とありましたが、同感です。イエス・キリストの前に、「神の存在」に対して疑問がわきます。この世の苦しみの現実と、神の愛や公正との間に矛盾があると感じます。

世界に起こる戦争、飢餓、そして地震や津波など、「なぜこのような悪を神は許しておられるのか?」という質問が多いです。特に身近にいる、愛する人が死んだ時にはその葛藤は熾烈になります。原発の被災者の人のブログにも、「人災と言われても、世界中に数多くある原発は安全に稼働していて、なぜ福島だけなのか?」という問いが書かれていました。

私自身も、そのようなお話を聞くとき、自分自身「なぜ?」という問いの重みを体の中で感じます。そしてやみくもに、軽々しく答えを提供したくないと思います。ただその中で分かってくるのは、「神は解答を提供されないが、その苦しみの渦中に共にいてくださり、そして究極の慰めと、永遠の希望を与えてくださる。」ということです。苦しみは、これまで「対人」で生きてきた人が、神に向き合うきっかけになるということは確かです。

ロゴス・ミニストリーの「イエス様を知らない方へ」のページにも、こうしたキリスト教に対する疑問に回答する欄を設けてみたいと思います。

IMAX 3Dで見るエルサレム

2008年にイスラエル旅行に行った仲間から以下のビデオリンクが送られてきました。このプロジェクトは2013年に、IMAX 3Dで劇場で見せる目標を持っているようです。

Jerusalem | Filmed in Imax 3D from JerusalemGiantScreen on Vimeo.

ぜひ、上の映像をそのまま見るのではなく、最大化させてみてください。(映像の右下の拡大マークをクリックします。)

東北救援旅行 8月23-24日

遅れの報告ですが、私たちのところに8月22-25日、韓国にあるカルバリーチャペル天安(チョナン)の金インウォン牧師ご夫妻が来日され、23-24日に東松島市と石巻市に行ってきました。

インウォンさんとは長い付き合いで、以前、日本でカルバリーチャペルのカンファレンスに参加されたとき、私たちの家に泊まったこともあり、最近は今年一月末に私どもが来韓した時、お世話になりました。

韓国での宣教報告

月浜仮設住宅

今回は前回と同じように、宮戸島の月浜地区にある仮設住宅の木村さん宅をお借りして宿泊しました。そして東京で用意したキムチと、韓国から持ってきた団扇と高麗人参茶を用意して、そしてトラクトも用意し、その仮設住宅を一軒一軒廻り、挨拶しました。

大きな収穫は、そこの区長さんとじっくり月浜の状況をお話しできたことです。6月20-22日の旅行で月浜海岸を掃除したのですが、今回の台風などでまた汚くなっているとのこと。これを、数回に渡り掃除をすることによって、また、東日本の海岸地域の人たちが同じように掃除することによって、海にあるごみが全体的に減ることによってきれいになる、とか、貴重な情報をいただきました。

そして、月浜地区は民宿の密集地域でしたが、軽トラックが走ることのできるような網目状の道路があったけれども、それは他の地区にはないとのことです。何百年前に大火事によって集落が焼かれた時に、それを契機にして宅地整備をしたのではないかという推測をされていました。したがって、このような災害が、地域復興の根本的な改革をすることのできる契機として捉えていることなども教わりました。

さらに、仮設住宅には十畳ほどの談話室があり、水道もガスもあるので、そこで炊き出しができる可能性があること、またボランティアが宿泊もできるのでは、と提案してくださいました!仮設の人々とほとんど寝食をともにする奉仕で、これほどすばらしいことはありません。

世界的にも有名な建築家である妹島和代さんが、宮戸島全体の復興プランに携わっており、ちょうどその日が彼女のプランのプレゼンテーションとのことで、お誘いを受けました。言ってみると、NHKや河北新報、TBCなど地元のマスコミも集まっていました。

そしてそこで、月浜避難所の担当者の方にも再会できましたが、前のキムチがおいしかったのでぜひおみやげをもらいに行きたいとのこと!それで、私たちが泊まっているところまで来てくださり、初めて個人的に団欒の時を持つことができました。

今回は、最近、沖縄カルバリーチャペルでご奉仕されていた日系アメリカ人のロイ・トマさんが仙台に引っ越し、宣教拠点を移したのですが、彼が23日の夜、この仮設住宅に泊まり、いっしょに時間を過ごすことができました。そして次の日、石巻に連れて行っていただきました。

石巻渡波地区訪問

ロイさんは、コミッティド・リリーフという、米国側のカルバリーチャペルで、日本への救援活動を取りまとめている組織の中で奉仕されています。石巻には既に、カルバリーチャペル国分寺の牧師、桜井知主夫さんが取りまとめている「カルバリー東北リリーフ」が長いこと奉仕している渡波地区があります。そこにロイさんは連れて行ってくださり、これまで見慣れてきた東松島とは違う被災状況を眺めることができました。やはり大きな違いは、石巻は大きな都市だという事です。そのためか、東松島よりもまだまだ実際的な奉仕(泥出しや家屋の改修など)が必要であることを感じました。

そして、今建設中のカフェも見学しました。渡波地区の交通の多い通りに面しているので、これから良い働きができるのではないかと思います。

さらに、その日ちょうど、サマリタン・パ―スの人たちが渡波地区等で同じく救援活動をしているキリスト教会の人々を集めて、顔合わせと交わりをする会合を用意されていました。そこに少し顔を出し、そして私たちは、引き返して牛網地区に行きました。

牛網の仮設住宅へ

8月の初めに牛網の避難所でわずかに残っていた人々は、すぐ近くにある仮設住宅の完成を待っていました。大きな所帯も入居できる住宅なので、それを狙っていたわけです。それで、ようやく私たちが長いこと奉仕していた牛網学習等には、ちょうど私たちが尋ねた24日で最後の一人が出所され、誰一人もいなくなったそうです。

そこには、牛網地区の人たちの他に宮戸島の付け根にある野蒜地区の人々も入居しているそうで、その人たちはもっと大変なところを通られています。その被害状況の大きさは私たちが第一回目の救援旅行でも目撃しました。米軍や自衛隊がその救援のためにかなり関わったところです。

この仮設住宅にも、月浜のよりもさらに大きい談話室があり、使えそうです。ただ問題なのは、牛網の避難所にいた人々は、複数の仮設住宅にばらばらになったので、元の人たちにどのようにしてまた接することができるのか、ということです。それで、牛網の人は「続けて牛網学習等で活動されたら、いかがでしょう。」という提案をしてくださいました。そうすれば、仮設に移った人々もその日だけ元避難所を訪問できるし、また自宅に住んでいる近辺の人々も訪ねることができるのでは、とのこと。一案として考えてみたいと思っています。

そして私たちは東京に戻りました。

また、秋の季節のための継続的な救援活動のために祈っていきたいと思います。

恵比寿バイブル・スタディ 8月31日

皆さんへ

こんにちは!
みなさん、お元気ですか?
少しずつ涼しくなってきましたね。

次回の恵比寿バイブルスタディの予定をお知らせします。

日時:8月31日(水)19:00~
場所:目黒区立 田道住区センター三田分室 / 2階 第一会議室
聖書箇所:詩篇111篇以降
※ 食事は学びの前と後で持参ですることもできます。

次回は9月14日を予定しています。

主に感謝。

新シリーズ <使徒の働き>

明日から、毎週土曜日の聖書の学びは「使徒の働き(口語訳は「使徒行伝」)」を始めます。

これまでは、新しく信じた人たちのために、救いの教理を体系的に知らせるため、ローマ人へ手紙の学びを行なっていました。けれども、これからは「教会」を知るために、その誕生の歴史を知ることによって今の教会への原動力になればと願い、使徒の働きを学びます。

誰でも「教会」について知りたい方はぜひお越しください。この学びによって、教会が霊的復興する渇望が心の中に起こされることを強く願います。そして学ぶだけでなく、それを実際の行動に移すことができるようなご聖霊の働きを待ち望みます。

日時: 毎週土曜日午後2時から
場所: 足立区 こども家庭支援センター 別館

以下は、カルバリーチャペル・コスタメサの牧者チャック・スミス氏による著書、「カルバリーチャペルの特徴」からの抜粋です。

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 ヨハネの黙示録の中で、イエスはアジアにある七つの教会に対して、彼らの問題を語っておられます。使徒ヨハネがまだ地上に生きている時代においてさえ、イエスは教会に悔い改めを呼びかけて、彼らの中に存在する致命的な欠陥を指摘されました。イエスご自身や使徒のものとは明らかに違う教えが忍び込み、すでに教会の中に腐った種が蒔かれていたのです。・・・・

 これは最初の教会の基礎が据えられてから、六十年も経っていない時期に起こったことなのです。ということは、教会が腐って生ぬるくなるまでにそれほど時間がかからなかったわけです。主はいつでも彼らを口から吐き出すことができたのです。このような教会の実態は、イエスに吐き気をももよおさせたのです。教会の歴史を眺めるとき、現在も少しも向上していないように思えます。逆に教会は、道徳や倫理に関して悪化の一途をたどっているようです。主が七つの教会に語られたことは、そのまま現代の教会にも当てはめることができます。

 教会の歴史を見直しても、よいお手本を見つけることはできません。それは人間の歴史を見ても人間は堕落しているので、神の願いと意図をそこに見出すことができないのと同じです。・・・教会についてもそのまま言えることです。神が願っておられる教会は、教会史の中にお手本を見つけることはできないのです。

 あるべき姿の教会は、新約聖書の使徒の働きの中にあります。これは力みなぎる教会です。この教会は聖霊によって導かれ、聖霊によって権威を与えられた教会です。この教会が、よい知らせである福音をこの世に示したのです。パウロは、ペンテコステの出来事から三十数年後に、コロサイの人々に手紙を書きました。「それらは、あなたがたのために天にたくわえられてある望みに基づくものです。あなたがたは、すでにこの望みのことを、福音の真理のことばの中で聞きました。この福音は、あなたがたが神の恵みを聞き、それをほんとうに理解したとき以来、あなたがたの間でも見られるとおりの勢いをもって、世界中で、実を結び広がり続けています。福音はそのようにしてあなたがたに届いたのです。(コロサイ書1章5-6節)」初期の信仰者たちは、福音をこの世に力強く表わしていた教会を体験したのです。

http://calvarychapel.com/pdf/translations/ja_distinctives.pdf 「第一章」神が与えておられる教会のモデルより)
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2011年マラナサ・バイブル・フェローシップ 第二・第三日目

2011年マラナサ・バイブル・フェローシップ 第一・二日目」の続きです。

私たちが野外散策を終えたその時に、菊地さんが到着しました。道がよく分からなくなっていたけれども、ちょうどクリスチャンぽい(?)輪が見えたので近づいたら私たちだったとのこと。その後、男たちの何人かが濃霧の中、ソフトボールを楽しみました!

二日目の夜は、ノアのメンバーでもある牧者、石原さんと奥様が歌ってくださいました。

二曲目はこちらをクリック

そして菊地さんことカズさんが、患難前携挙説の基本的教理を上手にまとめてくれました。

患難前携挙説の根拠

患難前携挙説の霊的効果

こんなに淡々と、患難前携挙説をきれいにまとめてくださったことを、主に感謝しています!私自身、このようなシンプルな教えは久しぶりで、新鮮で、改めて、悔い改めに導かれ、また携挙の希望に心が燃やされました!

説教中のカズさん

蛇を掴むカズさん!

コテージの下から這い出てきたとのこと。幼い頃から蛇を掴んでいたので慣れているそうです。

そして私たちは三日目、午後に解散しましたが、多くの人は朝霧高原の富士ミルク・ランド白糸の滝に立ち寄りました。白糸の滝の辺りは、雪解け水の冷却効果でとても涼しく、五合目にある富士山麓の山の村といい、私たちは下界の暑さから実に癒されました。