【補足】複合的視点の例

下の記事、「二項対立という罠」の補足として、原発問題や軍縮問題についての冷静な議論の例を引用します。

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http://diamond.jp/articles/-/13160?page=3

反原発vs.原発維持
単線的な2項対立を乗り越え、
社会の「総リスク」を減らす視点で議論をしよう
――ジャーナリスト(恵泉女学園大学教授) 武田徹

 例えば、原発事故が起きたときの避難地域の設定です。最初に行われた同心円的設定は、ずいぶん批判されました。確かにそれはその通りで、同心円的に距離に反比例して危険性が小さくなっていくことはない。風向きなどが関係しますから。SPEEDI(緊急時迅速放射能影響予測ネットワークシステム)のデータも、もっと早く公表すべきだった。その点では危険性を指摘する人たちの言い分にも一理ある。

 その一方で、たとえ現実の放射性物質の飛散状況に合わせて、危険性の分布を表す地図が描けたとしても、その先には避難することのリスクと避難しないことのリスクを比較するような視点があってしかるべきで、さらに年齢的なリスクも考えた上で、適切な避難のあり方を、もう少し議論してもよかったと思います。

 あるいは子どもたちに関しても、田舎の小学校というのは同調圧力が強い。例えば、原子力関係で働いている人の奥さんがPTAの有力な人であれば、彼女に逆らって避難しにくいという状況が生まれがちになる。

 そういった社会的な背景があって、事はそう簡単でないにもかかわらず、都市部の反原発の運動家は「なぜ避難させないのか」と、すごく簡単に議論しています。そうすると避難=反原発運動というようなイメージができて、電力関係者はかえって頑なになるかもしれないので、むしろ反対に、避難するという道をふさいでしまいかねない。だから、何が問題なのかを丁寧に見ていって、解決できるところは解決する。避難するか、しないかという乱暴な議論では、問題は解決できないと思います。

 私は最近、高坂正堯さんの言説をよく引きます。彼は絶対平和論者、絶対中立論者を批判しているのですが、その主旨は次のようなものです。目的としては尊いが議論がない。絶対中立のために、アメリカ軍は日本から撤退すべきであるというけれども、そのとき過渡的には東アジアの軍事的緊張は高まらざるを得ない。そういう議論がないのは問題で、手段の話をしたうえで、時間をかけて目的を達成していくか、目的自体を修正していくのか、そういうことをすべきで、目的と手段の「対話」が必要だと言っている。
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「二項対立」という罠

これまで、皆さんがこのブログ記事を読まれている時に、私が必死になって書いている話題の共通点が、「相反する主張、議題をどのように対処するか」ということだと気づかれているかもしれません。

以前はイラク戦争についてでした。私は、米国と米国内の福音派教会に対する過度な批判に疑問を呈し、「米国が中心なのではない。神の預言の計画が一歩進んだだけなのだ。」「神は、このような戦争(善悪を判断せず)をも用いて、ご自分の栄光のために用いてくださる。」「米国を批判する人たちは、そこには生身の人間がいることを知るべきだ。米国人は聖人ではない、怒ることもするし、間違いもする。憐れむべきだ。」ところがこのようなことを書いたら、大変な目に遭いました。教会関係の人であろう人からも、一般人でも決して書くことはない脅しのようなメールも受け取りました。

そして、今は原発問題です。私は一度も原発を推進すべきという立場で書いたことはありません。それよりも、その大きな動きに対して、あえて牽引して、冷静になるべき多角的な見方を提供しようとしたつもりでした。「神の主権の中で政府と東電には感謝すべきだ。(支持するということではなく。)」「これまで事故が起こっていなかったこと、私たちが死んでいないこと、これも神の憐れみの中にある。」「たとえ危険があっても、主が守ってくださる。そうでなくても、被爆するよりも、さらに失ってはならない健康、すなわち霊的健康(平和、愛、寛容)がある。」けれども、どうしても政府や東電を支持しているように受け止められます。これはいったいどうしてでしょうか?

二項対立を楽しむディベート

私は、救われる前後は大学で英語ディベートを行なっていました。その討論は日本国の政策を主題としており、当時(1990年前後)から原発問題は大きな話題でした。民事裁判で、弁護人がどちら側の顧客につくか分からないように、ディベーターは肯定側につくか、否定側につくか直前まで分かりません。ですから両サイドの主張を用意するのです。これは完全に思考ゲームであり、相手を叩き潰すのが目的ではなく、第三者である審判にいかに説得力のある主張をすることができるかの訓練の場です。

ちなみにアメリカでは、ディベートで良い成績を収めた人たちは法廷で働いたり、弁護士や政治家になる人が多いです。福音派のキリスト教大学リバティはこの部門に力を入れており、良い成績を収めています。世の光、地の塩となるべく、世においてキリスト者の立場を弁明することができるようにする、というのが目的です。(CBN News)

そして、私の記憶では、「原発全面廃棄」の政策主張は非常に強固でした。「廃棄すべきである」という議題に対して、肯定側が数多く勝っていました。理論構築が非常に優れているからです。「放射能の被害」の甚大さを示し、かつ、原発放射能漏れの要因を列挙すれば、その要因がどんなに可能性が低くとも、否定側は、時間内にすべての要因を潰さない限り、負けてしまうのです。そして、肯定側にとってアキレス腱である「政策実効性」のところを否定側が叩いても、「原発全面廃棄しても、他の発電方法で十分に賄える」という議論で肯定側は対抗します。

けれども、ディベーターはその結果を見て、反原発になることはありません。なぜなら、「一つの事象には常に二つの視点があり、その対立する項目を擦り合わせることによって、本質が見えるから。」とわきまえているからです。肯定側・否定側のどちらにも付ける利点は、「物事を複眼的に、多角的に見なければいけない。」と思えることです。

二項対立に必要な慎み深さ

したがって、「反原発 対 原発推進」という二項対立は、専門家が議論している相対する論点を自分が第三者として、審判として聞き、自分の頭の中で判定を下せばよい内容のものです。どちら側に付かなければいけない、というものではありません。あるいは、付いても良いのですが、「自分がすべてを知っているのではない。」という慎み深さを持っている必要があるのです。

けれども、反原発運動をしていること自体が間違っているのではありません。あらゆる市民運動には、その達成すべき目的があり、社会において一定の役割を果たします。けれども、やはり、政府があり、行政があり、世論があり、その他の社会構成要素の一部に市民運動があるからこそ、その運動に意味を持つと言う「慎み」が必要です。しかし、運動は先鋭化しやすいです。あたかも万能であるかのように、酔いしれやすいのです。そして、少しでも異見を耳にすると排除し、排斥し、酷いときは粛清するのです。

「反キリスト」の霊

共産主義運動によって死んだ人々は、ナチスが殺したユダヤ人やその他の少数派の人々の人数を超えます。なぜそうなってしまったのか?理論構築をした後に、その理論を実践しようと言う純粋さがあったからです。頭の良い人ほど、そして純粋な人ほど、その過ちに陥りました。

聖書的に話すならば、それは「反キリスト」の霊です。ダニエル書7章8節をご覧ください。反キリストは「人間の目」として登場します。その目は知性を表します。そして小さな角として登場します。「角」は権力を表します。そして「大きな口」があります。それは口がうまいのです。

この口は大きなことを言って、そして角はどんどん多くなり、他の角を切り倒します。そして、ついに既存の法則を変えようとします(25節)。さらに、神ご自身に言い逆らう言葉を吐きます。そして先代ものを一切否定します(11章37節)。我こそが神であると宣言するのです。

要は「高慢になってはならない」という戒めです。

反原発の人たちからの批判

もしこれまでの私の一連の意見を、推進派の人たちが読むならば少し拍子抜けするでしょう。大いに賛同する人はいないと思います。けれども、反原発の人は批判または非難するでしょう。「あなたは政府のこと、東電のこと、放射能のことを何も知らない。」と言って。私はただ、多角的に、総合的に、キリスト者として今の出来事を判断しようと努力しているだけなのに、なぜか推進派のレッテルを貼るのです。これが題名で書いている「二項対立という罠」です。

キリスト教神学にある二項対立

キリスト教の神学の中では、「人間の選択」と「神の主権」の間で、「アルミニウス主義 対 カルビン主義」の議論が盛んです。神は救いを選ばれたのに、信じると言う選択によって救われるのか?という疑問です。事実は、人間の知性では相矛盾するその二つを隣り合わせに神はしておられます。

けれども、アルミニウス主義の人よりも、カルビン主義者のほうが先鋭化しやすいです。それ関連の本を読むと、何か覚醒したような気分になり、そして理論構築のために時間を費やします。そして、反対意見に対する弁証法も身に付け、自分の信仰をその理論で要塞化してしまうのです。そしてむろん、このような極端なカルビン主義に対する反カルビン主義論も盛んです。

イエス様は?

イエス様は、どちらにも当てはまらない方でした。イエス様は「バランス」の中におられました。エルサレムにて律法学者らに試しを受けた時に、例えば、税を支払うことは律法にかなっているのかどうかと試した時に、「神のものは神に、カエザルのものはカエザルに。」と語られました。

サドカイ人が復活について試した時には、「あなたは聖書も神の力も知らないからです。」と言われました。それはパリサイ派の意見と一致していました。だからパリサイ派なのかと言えばそうではなく、むしろパリサイ派の安息日の解釈に真っ向から対立し、それゆえ十字架刑に処せられたのです。

けれども、主はよみがえられました。復活後、そして聖霊によって教会が誕生した後の迫害者は、むしろサドカイ派でした。なぜなら、サドカイ派は復活を信じないからです。そしてパリサイ派の人から信者になる人が多く出ました(使徒21章)。しかし、また他の問題が起こりました。「ユダヤ主義」というものです。異邦人も割礼を受けなければ救われないと主張したのです。

とらえどころのない真理

人間はどうしても極端になります。なぜか?それは私たちの肉を喜ばすからです。「自分」に理解しやすくなります。「自分」で全てを判断できると思ってしまいます。「自分」が正しくなります。肉の働きの中には、「党派心、分裂、分派」があることに注目してください(ガラテヤ5:20)。

真理はとらえどころのないところにあります。真理は、自分で理解・掌握することができないようにし、それに自らがひれ伏し、服従するようにさせます。へりくだって信じ、受け入れることによってのみしか悟れないようにさせます。知性を増幅させることができないようにさせます。

けれども、人間の理解を超えて、思いもつかないような偉大なことを行ないます。良い実を、真理を受け入れた人から見ることができるようにします。その人が無知でも、多くの知識人を賢くします。逆に私たちが人間的に賢くなる時、むしろ神の知恵を失うことになるのです。

日本が今、放射能汚染の危機にある時にこそ、より冷静になり、今、起こっている目の前の現象を見ると同時に、キリスト者であれば、神の視点から見る余裕、複眼的要素が必要なのです。「恐れてはいけない。しっかり立って、きょう、あなたがたのために行なわれる主の救いを見なさい。(出エジプト記14章13節)

なぜ神が見えないか

私は、Twitterというものがまだよく分かりません。一言一言の序列があるだけに見えてしまうのですが、最近、NHKニュース等をフォローしています。けれども、クリスチャンの間では結構いろいろ知られている人が、カルバリーチャペル西東京の牧師、山東さんです。この前の月曜日に東松島に日帰り旅行をしたのですが、車中で隣の座席になり、ツイッターの威力みたいなものを教わりました。

それで、いろいろ努力をしてはいるのですが、彼のツイートをフォローしている時、昨日でしょうか変な突っ込みがありました。

山東さんの発言

放射能問題も、原発問題も、根本的にはお金と自己保全に群がる罪の問題。 ・・・東北の本当の救援もこの罪からの救い。まったくむつかしくないよ。罪から救うために人として来たイエスを知れば。宗教に救いはない。イエスとの出会いが鍵!

上に対する返信

神を信じれば死んでも死なない永遠の命を与えられるので、放射能なんて気にする必要なくなって万々歳……と言えるでしょうか? まったく異なる次元のことを同一地平で語ると、なんだかそれ自体が馬鹿馬鹿しく思えてしまいます。

私は、「何を勘違いしているんだろうか?」と思いました。案の定、山東さんも「全然違う」と言っていろいろ説明しましたが、ますますぼろくそに言ってきました。

私たちにとっての東北救援旅行には、「次の一歩への強い祈り」があります。それは、現地の人々がまことの救い、天地万物を造られた神に、キリストを通して立ち返ることです。原発の問題の背後にある人間の罪の問題、そして全人類の、東北の被災者も含めて存在している罪の問題は、全く同じ罪の問題であり、イエス様を知ると言うことでは至極簡単なことだ、という話です。

「それは、すべての口がふさがれて、全世界が神のさばきに服するためです。(ローマ3:19)」

その相手は聖書についてのツイッターを持っています。そして自己紹介には「ノンクリ」と書いています。実に聖書のことについて詳しく知っているのですが、私たちの日本語の文章の全体を読まず、その一部一部をちぎりながら、ことごとく歪曲して批評するのです。こんなに聖書の知識があるのに、たった一文字の聖書の言葉も理解できないなんて、・・・可哀そうになってきます。

「生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それらは彼には愚かなことだからです。また、それを悟ることができません。なぜなら、御霊のことは御霊によってわきまえるものだからです。(1コリント2:14)」

山東さんが、おそらくこのことを振り返りながら、ツイッターに長い文章を書き込まれました。

なぜ神が見えないか

なぜ、ある人たちがいくら聖書の福音を聞いてもわからないか一つの原因はここにあります。それは『日本教』にです。日本で生まれた私達は知らず知らずの内に『日本教』が刷り込まれて、神はいないんですよ。でもいる事にしましょう。それによって心や生活が変わるならおるわけで、って、それはいないんですよ。

だから本当に聖書のことを知りたければ、まず聖書の言う通り『天と地を造った神が実際におる』という所からスタートすることが不可欠です。
でも、神が今直面してる経済問題、放射能汚染、大学受験に何かしてくれんですか? 
ま、こころの持ちようというのも大きいでしょうがって・・・。

 違うんです。
聖書のいう神は実際の私達の生活にもろ関わり、介入してくれるのを知らない、体験したことのない人の話で聖書を聞くから、目が閉ざされてるんですよ。

ヘブル11:6
信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。
神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には
報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。

ですね。

いない者をいることにしてなら、まるでサンタクロースといっしょでしょ?

単なるプラシーボ効果ですよ。

聖書の神は実際にいる、ここからスタートしないと見えません。
聖書の神はあなたを愛し、あなたの今日の生活に介入してくださる
これを信じて、単なる気のもちようを遥かに超えた、神を体験してない人が色々なわけのわからない神学で、聖書を語るのですよ。

それも責めません。だって彼らは知らないのですから。
では、知った私達は、洗脳された思い込みの人々ですか?

思い込みでローマ帝国がひっくり返ったり、
思い込みで1948年に1900年間地上から消えていたイスラエルが
復活しますか。

思い込みで、クリスチャンが存在しますか。
(もちろん、多くの宗教レベルの “クリスチャン”の存在も認めますが、
実際に聖霊が下って内に住むという 新生クリスチャンが存在します。)

聖書の神は実際にいる、ここからスタートです。
この神はあなたのことを心より愛しています。
ここからスタートです。

実に愛のある文章ですね。その人はクリスチャンの仲間をかき乱す、狼になりえる人ですが同時に求道者です。忍耐が試されます!

別に東京にいてもらわなくて結構です

以前「感謝の力」という題名でいくつか記事を書きました。

そして、政府や行政についても感謝することについての記事を書いています。

神によって立てられた権威

そして原発事後について感謝の足りない日本の病巣みたいなものを書きました。

「想定外」は私たち皆

それで今日、この私の意見と同じくするようなブログ記事を読みましたので、ご紹介します。

別に東京にいてもらわなくて結構です

東京都江東区にお住まいのかたがたの中に、

「原発事故前の状態に戻してこそ安心する」

と「訴え」るひとがいるということに、驚愕しました。

・・・

銀座や日本橋に近い、利便性の高い江東区を含め、狭い狭い、東京とよばれる小さな平野に、集まりひしめく3000万人の人々。彼らが出すごみ、汚水を、想像を絶する量とスピードで処理するお役所・・・ゴミ処理場に、下水処理場。下水を、信じられないほどきれいな水にして、汚泥を分離して、それも埋立るだけではなくリサイクルする。

我々3000万人の、首都圏住民たちが垂れ流す汚物を、来る日も来る日も。

そんな社会の公共施設を、運営していく、そのことが、どういうことか、一片も考えず、たぶん生まれてから一度も感謝などしたこともなく、安全と安心はタダだと思って生きてこられたのでありましょうね。

いえまさか、「広い東京の、全体の下水処理を、最後に処理しているのは海沿いにある江東区。我々だけに危険がおしつけられている」とでも、おっしゃるのでしょうか?

その言葉、福島第一原発を受け入れてくれていた、福島県の人々に、同じことを言ってみてほしいです。これまで住んでいた家に住めない、避難区域に指定された人々に向かって、都内の、下水汚泥処理建物の中に限られた、そして建物を一歩出れば毎時0・04マイクロシーベルトとなる放射線について、もう一度同じことを言ってごらんなさいと思います。

・・・別に、ムリして、東京に住んでいただかなくてもけっこうです。そうでなくても、東京一極集中で、狭くて混雑しててかなわんのです。

どうぞ、日本の、いえ、世界の、どこへでも、好きなところへお移りください。

月曜日、日帰りで東松島に行ってきました。牛網の避難所は仮設住宅に移った人が多いためがらんとしており、とても寂しい気分になりました。けれども残った数少ない人たちが、「けれども、こうやって一緒に食事作ったりして(共同生活が)楽しいよね。」と笑いながら仰っています。以前はある男性の方が、「これまで日本が嫌いだったが、今回の被害で本当に日本が良い所だと知るようになった。」と言うのです。

このような感謝の心を持つことのできた人々が、これらの良き物が神から来たことを悟る日が来ることを願ってやみません。

ですから、マスコミや外野が、被災者の人たちを可哀そうだと言って政府やその他の関係の人たちを非難していますが、よっぽど現場の人たちは明るく、腐っているのはそうした安全圏にいる私たちの精神なのです。

もちろん被災地の人たちは聖人ではありません。けれどもそれは、多くの人たちが想像するような鬱や自殺ではなく、田舎ならではの縄張り争いだったり、または人間の共同生活につきものの意思伝達における誤解であったりして、必ずしも地震や津波によって引き起こされたものではありません。

最後に、この記事を探したのは、被災している福島県民の方のブログです。当事者として放射能の危険性について決して甘く見ていないけれども、煽りの多い情報を整理して、冷静な見方を提供してくださっています。
http://blogs.yahoo.co.jp/iizakaumare

恵比寿バイブルスタディ(7月27日)

皆さんへ

ご無沙汰しております、お元気ですか?

私たち夫婦は、先週金曜日の夜に海外から戻ってきました。昨年末まで5年以上いたところです。前に出会った人々、また新しい人々と親しい交わりをすることができ、とてもうれしかったです。とても涼しく過ごしました。日本に帰ってきた時も、台風の後で涼しかったです。

次回の恵比寿バイブルスタディのお知らせを致します。

日時:7月27日(水)19:00~
場所:目黒区立 田道住区センター三田分室 / 2階 第一会議室
聖書箇所:詩篇104篇以降
※ 食事は学びの前と後で持参ですることもできます。

お気軽においでください。

8月は、10日と31日を予定しています。

主に感謝。

8月1-3日の救援旅行

長らく、ブログの書き込みをしていませんでした。実は7月11-22日まで海外にいました。神様からたくさんの恵みを受けました。

カルバリーチャペル所沢の牧師トラビスを中心にして、次回の救援旅行の準備を進めています。今回のテーマは「ハワイの祭り」です。

ハワイから二つのカルバリーチャペルのチームが来ます(CCホノルル、CCウィンワード)。そして、所沢、府中、西東京、LCF、また静岡の教会の人々が合同で、上のポスターのイベントを行います。1日の晩に松島入りをします。来週の月曜日に、日帰りで、トラビスとCC府中の牧師リッチと共に下見をしにいく予定です。このイベントのために、ぜひお祈りください。

そして、3日は、6月20-22日の旅行で掃除をした月浜海岸でバプテスマ(浸礼)式をします!私たちの初穂の一人である瀬谷さんが受けられます。また他に浸礼を受けたい人がいれば、もちろん受け付けます。被災地の復興の現地で、イエス・キリストへの信仰の告白を公にするという、斬新な試みです。このためにもぜひお祈りください!

礼拝の後に、瀬谷さんから、「バプテスマ式については、見たこともないしまったく初めてです。」と尋ねられたので、先ほどメールで下のYoutubeビデオのリンクを送りました。私たちがよく目にした、カルバリーチャペル・コスタメサのバプテスマ式です。海岸で讃美を歌い、牧師が短くバプテスマについて説明し、それから水の中に入って、祈り、信仰告白をし、水に浸かります。

I didn’t come to take sides; I came to take over.

上の題名の日本語訳は、「わたしはどちら側に付くために来たのではない。乗っ取るために来たのだ。」です。

この言葉は、「ハマスの息子」の著者モサブ・ハッサン・ユーセフ氏によるものです。ユダヤ人共同体の中でもイエスを信じる人が多く起こされ、またパレスチナ人の中でもたくさんイエス様を信じている人が起こされています。神がユダヤ人側に付くか、パレスチナ側に付くかではなく、どちら側に対してもその心を支配するために来られた、ということです。(その発言のビデオがこちらにあります。)

皆さんの中で、こういう経験はないでしょうか?自分にとって親しい人が、これまた自分にとって親しい人のことを批判している・・・。友人であれば、だれかから批判や非難を受けた時、その人を擁護するために立ち上がります。けれども、どちらも親しい人である時にはどうすればよいか迷います。

そして、それぞれの意見には一理あります。けれども、その判断はすべての事実に基づいておらず、一部だけを取り上げて話していることも分かります。意見そのものには同意できても、それが事実に基づかない判断から派生しているのも知っています。

その時に思い出すのが、上のユーセフ氏の言葉です。解決は、意見の擦り合わせや仲介も役立ちますが、それ以上に「主がどちら側も働きかけ、その心を乗っ取られる」ことによるものだと感じます。

ピリピ人への手紙にあるパウロの言葉の多くが、私には深く響いてきます。

1)パウロは感謝し、喜んでいた。

パウロがこの手紙を書いた時は、ローマの獄中にいました。けれども、この手紙には「喜び」が満ちています。彼は「獄中にいる」という否定的な要素を、親衛隊を始めとする周囲の人々が信仰を持つことになったという神の働きとして見ています。

しかも、彼が投獄されたことにより、福音を語り始める兄弟たちが一挙に増えました。中には、「党派心をもって、キリストを宣べ伝えている」という、相手を蹴落とすことによって自分の働きを広げようという、陰険な動きもあったにも関わらず、彼は、「あらゆるしかたで、キリストが宣べ伝えられているのであって、このことを私は喜んでいます。(1:18)」と言いました。

彼は、このように喜べる要素を知っていました。それは、「主にあって喜ぶ」ということ(4:4)。そして、「すべて真実なこと、すべての誉れあること、すべての正しいこと、すべての清いこと、すべての愛すべきこと、すべての評判の良いこと、そのほか徳と言われていること、称賛に値することがあるならば、そのようなことに心を留めなさい。(4:8)」と言いました。主がすべての事柄において、たとえそれが否定的な要素であっても、生きて働いておられることを知って、そこから見えてくる真実、誉れ、正しさ、清さ、愛、評判、徳などに目を留める、ということです。

そのことができると、「あなたがたの寛容な心を、すべての人に知らせなさい。(4:5)」となることができます。どちら側に付くという狭い心ではなく、すべての人に心を広くすることができるのです。

2)自分をちりあくただと思う

パウロは感謝し、喜んでいられるもう一つの理由として、「私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それをちりあくたと思っています。(3:8)」と言っています。詩篇103篇14節にも、「主は、私たちの成り立ちを知り、私たちがちりにすぎないことを心に留めておられる。」とあります。

私たちがある人に対していらだたしく感じ、怒り、恨む時のきっかけは、「この人は私に対して、これこれ、こんなことをした。」という被害意識です。けれども、そもそも「私」は何者なのでしょうか?塵しか過ぎないと聖書は言っています。これらのことは、主の許しの中で、いや主ご自身が引き起こされた問題であり、「主が支配されているのだ」と分かれば、自己の世界の中で埋没せずに済むのです。自分のことはどうでも良いのです、大事なのは神の国とその義であります。

私たちは、他の人がしていることに対して、必要であれば、御霊の促しにより、戒めたり、責めたりする必要があります。けれども、それを行うときに実際は自分の判断が入り込んでいることが多く、自分自身が裁き主になっている時があります。その人は神の御手の中あり自分が直すのではない、ということを忘れてしまい、相手に介入しようとするのです。

思い出すのがヨブ記です。その物語は、神がサタンにヨブに触れるのを許された、という「神の領域」で起こったことに対して、ヨブの友人が自分の判断や意見を入れることによって介入し、またヨブ自身が友人の裁く言葉に反応することによって、神ご自身の義に立ち入るようなことをしてしまいました。

この時も主は、ヨブの側あるいは友人の側についたのではなく、嵐によって現れて完全に掌握されました。ヨブに神の自然界や動物界における力と知恵を見せつけることによって、彼が「ちりと灰」の中に伏し、悔い改めるように導かれました。そして友人らに対しては、「あなたがたがわたしについて真実を語らず、わたしのしもべヨブのようではなかったからだ。(42:7)」と言われました。まさにGod didn’t take sides; He took it over.だったのです!

3)敬意を払う

パウロは、ピリピにある教会で起こっている、二人の女性奉仕者の間にある意見の対立を意識してこの手紙を書きました(4:2-3)。それで、「私の喜びが満たされるように、あなたがたは一致を保ち、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、志を一つにしてください。(2:2)」と言っています。

そのように一致を持つことのできる方法は、議論や擦り合わせ以上に、むしろその背後にある「へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。」という態度です。そして、「自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなさい。(2:3-4)」と言っています。つまり、相手を尊重する心、敬意を払う心が必要です。

そうすれば、自ずと今まで自分が見えていなかった、相手についての事情が見えるようになり、相手への同情心や寛容な思いが芽生えるのです。

恵比寿バイブルスタディ(7月6日)のお知らせ

皆さんへ

暑い日々が続いていますが、皆さんお元気ですか?

次回の恵比寿バイブルスタディのお知らせです。

日時:7月6日(水)19:00~
場所:目黒区立 田道住区センター三田分室 / 2階 第一会議室
聖書箇所:詩篇101篇以降
※ 食事は学びの前と後で持参ですることもできます。

私は7月11日から22日まで、昨年末まで行っていた所に短期宣教に行きます。妻はすでに行っています。お祈りください。そのため恵比寿の次々回の学びは7月27日の予定です、よろしくお願いします。

夢みたいな、カツオのクール宅急便

私たちは4月第二週に第二回の東北旅行をしたとき、気仙沼にも行きました。

第二回目 気仙沼救援旅行 4月14日

そして、次の新聞記事をご覧ください。

震災後 初ガツオ45トン水揚げ 気仙沼魚市場に活気

東京に住んでいる者には「ああ、良かったね!」という気持ちだけで、遠い気仙沼の出来事であったわけですが、今朝、ヤマト宅急便のクール便の配達の方が、にこにこしながら「かつおですよ!」と言って届けてくださったのです。

驚きました、なんと四匹も氷で冷やされている生カツオではないですか!さっそくお礼の電話をかけたところ、南町の商店街で一番初めに救援物資を渡して、タッグを組んでお祈りもした、商店街のおばあさんでした。おばあさんは、「気仙沼が復旧したら、お返しに送るからね。」と仰っていたのですが、我々皆が「いいですよ、そんなことしなくて。」とお答えしていました。まさか、文字通り約束を果たされるとは・・・(^_^;)

それで、近所の綾瀬東部教会の魯牧師に教会の聖徒たちで食べてくださいと電話したところ、3時に魚を捌くことのできる人が来るとのこと。私も間もなく訪問して、一緒に食べたいと思います。その時に写真を撮って、お礼の手紙を送りたいと思っています。

この小さな交流で、再びキリストの種を蒔くことができますように・・・。

NHKの偏向報道

今月24日で、アナログ放送がなくなることを良い機会に我が家ではテレビそのものを見ないことに決めました。理由は、NHK料金を支払いたくないからです。

NHKの放送内容に反対して料金を支払いたくないのではなく、単純にそんなに番組を見ていないのに高い料金を払いたくない、というのがあります。むしろ、NHKの淡々とした原子力発電に関わる情報や被災地情報は、二次資料としてとても役に立っています。また、一次資料や当事者へのインタビューに果敢に取り組み、NHKスペシャルなどで良質のドキュメントを制作しているのにも関心します。

進化論とパレスチナ

けれども、NHKであまりもの偏向ぶりに開いた口が塞がらない分野がありますが、一つは進化論です。これは完全に事実としてずっと流しているのには驚きです。そしてもう一つは、「パレスチナ問題」です。よくもまあ、こんなイデオロギー色に満ちた、報道ならず主張と宣伝の番組を作れたなあと思います。この分野も進化論と同じく、長いこと作り続けているようです。

クローズアップ現代
瀬戸際の中東和平 パレスチナ独立巡る攻防

一方的なパレスチナ国家独立宣言を国連に承認してもらうパレスチナ自治政府内の動きを報道していますが、ハマスとファタハが統一政府発足は具体的には全然解決策が得られていないこと、国際社会から一方的独立の支持が全然得られていないのに(ヨーロッパ連合など)、あたかも得られているかのような言い方、そしてイスラエルがこの動きを警戒しているのは、イスラエルの存続そのものが極めて軍事的に困難になることであるのに、まるで国内の宗教右派の圧力によって行っているという見せ方。

そして、ネタフヤフ政権になってから西岸の経済が順調になり、また彼が交渉の席に着くことも何度も何度も表明しているのに、歩み寄りが一切なかったという物言いなど、それをあたかも中立的、客観的に聞こえるように淡々と話しているので、「なんじゃこりゃー!」の連続でした。

「中東の民主化」⇒「一方的独立」ではない!

その中で私が悪意を感じたのは、「中東の民主化」と「一方的独立」をくっつけたことです。NHKは、周囲のアラブ諸国が自国政権に対する民衆の蜂起であるのに、パレスチナ自治区のみが民主的政府だと思っているのでしょうか?とんでもないことです、パレスチナ自治区内でも政府に対するデモが起こるのを強い監視の中で抑え込んでいました。対して、ムバラク支持のデモは許していたのです。

国外のパレスチナ難民も、シリアからはお金をたくさんもらってイスラエル国境のところでデモを行なったり、すべて「官製デモ」であります。民主主義の言う「デモの自由」というのは、あくまでも自国政府に対する自由を保証するということで、だからこそ非常に画期的なのであり、パレスチナ自治政府がそれを許した形跡を一切見ることはできません。

イスラエルでは、ハアレツ紙などまるでパレスチナ人ではないかと思われるほどのパレスチナ寄りの主張をしているのに、その表現の自由として完全に保障されているのに対して、パレスチナでは自分がイスラエル当局に協力したという嫌疑がかけられることを非常に恐れていて(一度かけられたら、パレスチナ社会全体から制裁を受けます)、公の場では常にイスラエル打倒を叫ばなければいけない状況であるのを知っているはずなのに、意図的に無視しています。

生活基盤さえない国家が必要か?

もう一つ、人というのは経済的動機が非常に強いです。飯が食えるかどうかが、抽象的独立よりも差し迫ったことであることは言うまでもありません。もしパレスチナが一方的な独立を宣言したらイスラエルから受けている民生面での協定はいったいどうなってしまうのでしょうか?イスラエルが徴収している付加価値税の送金もすべて停止するのです!国家どころか、財政や生活基盤さえ危うくなってしまうのです。

仲間のヨルダンは反対する!

そして、ヨルダンがパレスチナ国家独立に反対する意向であることをNHKは知っているのでしょうか?
http://www.ynetnews.com/articles/0,7340,L-4088927,00.html

ヨルダンには七割がパレスチナ人と言われており、隣にその人々を代表する独立国家ができることは自国の安定を大きく揺るがしかねない事情があるのです。かつてPLOがヨルダン国内にパレスチナ国家を作ろうとし、ハシミテ王国との間に内乱が起こった経験があるのです。

事はもっともっと複雑なのです。

オバマ大統領が、オサマ・ビン・ラディン殺害に浮かれて、1967年境界線までイスラエルに戻ることを要請したのと同じように、パレスチナ当局も何か浮かれているだけのような気がします。今回のNHK報道でなおさらそう思いました。