恵比寿バイブルスタディ(2月29日)

みなさん、こんばんは!
二週間空きましたが、今週は恵比寿BSがあります。

日時:2月29日(水)午後7時から
場所:目黒区立 田道住区センター三田分室 / 2階 第一会議室
聖書箇所:サムエル記第一12章以降
※ 食事は学びの前と後で持参ですることもできます。
(次回の予定は、来週の水曜日3月7日になります)

サウルが王位に着いたけれども、彼が主にある確信が薄いために、主からの権威ではないものを振り回すようになっていきます。神の国を表すダビデの統治と対照的なサウルの統治は、「人の統治」の代表です。そこから私たちが、神から任されている自分の持ち場を果たして神によって行なっているのか、自分で行なってしまっているのかを吟味することができます。

ぜひ、期待して学びにいらしてください。

東松島救援旅行 2月22-23日 その2

その1からの続き)

それから朝食を、チャック&由美宅でいただき、そして午前10時から、この新居の献堂式を行ないました。同僚のサマリタン・パースで働く姉妹が三名、そして東松島市にある唯一のキリスト教会、宮城聖書教会の牧師、田中先生もいらしてくださいました。たくさん賛美した後に、トラビスさん、山東さん、そして私が主の御言葉を分かち合い、そしてバッドさんが、オリーブ油をお二人とこの家に塗り、みなで手を置いて彼らをここでの働きのために聖別する祈りを捧げました。聖霊のご臨在を強く感じる、すばらしい集会になりました。

それから交わりの時に、田中牧師のいろいろな率直な気持ちや意見を拝聴することができました。外部の者たちが被災地に入ってくることに対する感想、被災している教会と免れた教会との違い、被災者の援助物資への対応など、マスコミに出てくる話とは異なる視点での話をたくさん聞くことができ、とても感謝でした。その中で最も印象に残っているのは、「被災して初めに来てくれたグループは、自衛隊とクリスチャンたちであった。」です。以前も、ここのブログ記事「東松島とイスラエル」で少し紹介させていただきましたが、ご自身が被災された体験を持っておられます(クリスチャン新聞 ・ リバイバル新聞 ・ ツラノ出版

そして私たちは牛網に行きました。同じくハヤシシチューがメニューです。足りなくなった材料を由美さんが買い出しに行き、チャックさん、アレックスさん、私は周囲の在宅の被災者に案内チラシを配りに行ったりしました。けれども、基本は避難所の責任者だった千葉さんと、もう一人の女性の方が周囲の人々に案内してくださっていたので、訪れた人々はずいぶん沢山になりました。

驚いたのは、元、この避難所におられた方々の顔よりも新しい人々が大勢おられたことです。在宅被災者の方もたくさんおられて、日頃は支援物資の恩恵から取り残されている人々なので、とても嬉しかったです。

そして全てが終わってから、私たちは健康ランドに行きました。大きな露天風呂を持っているのになんと400円!疲れが一気に取れました。

そして早朝に出発、トラビスさんの猛スピードの運転(?)のおかげで、なんと午後1時前に所沢に到着しました。

ぜひ、「東北・希望の祭典」のためにお祈りください。震災によって受けた傷は、神がキリストにある愛を知るという報いが伴っていることを被災者の方々が知ることができるよう祈ってください。うちの教会から私の妻と、姉妹二人が当日、無料送迎バスに同乗し、案内役を務めにいきますので、そのこともお祈りください。そして、クリスチャンのミュージシャンとフランクリン師に聖霊の油注ぎが降り注がれるよう、お祈りください。

後記】ときと君が、同じ旅の模様を自分のブログに書き記しています!

Tohoku Trip

東松島救援旅行 2月22-23日 その1

祈ってくださった方々、ありがとうございます。無事に昨日、今年初めの救援旅行に行くことができました。冬の東北に行くのには、雪道走行が一番の課題で、それで月一の頻度で行っていた旅行も約二ヶ月ぶりになりました。

けれども、今年から主が不思議なことを行なわれています。私たちが四月から主によって通っていた東松島に、今年初めに、沖縄CCBCで奉仕されていたチャックさん・由美さんご夫婦が引っ越されました。去年の秋、不動産を巡っても何一つ空いている物件はなく、それというのも被災者の方々が借りているためですが、月浜地区には津波を免れた家が数軒あり、すべて岩の上に建てられています。(思いっきり、イエス様の言われた、「御言葉を聞き、それを守る人」の喩えの通りです!)その一軒を借りることができるようになりました。

そして主がお二人に、貴重なお仕事を与えてくださいました。国際的キリスト教救援団体である、サマリタン・パースにおける仕事です。石巻・東松島地域の担当ということで、その地域を知り、かつ生活の糧が与えられるという、すばらしい備えです。

今回の旅行は、サマリタン・パース共催の「東北・希望の祭典」に、私たちがこれまで奉仕させていただいた、宮戸島の月浜地区の方々と鳴瀬の牛網地区の方々にお誘いするためです。「東北・希望の祭典」では、数々のクリスチャン・ミュージシャンが来ると共に、伝道者フランクリン・グラハム氏が、福音にある希望の言葉を語ってくださいます。これが、彼らにキリストの愛を伝える貴重な機会となるようお祈りしていますし、みなさんにも祈っていただきたいと願います。

東京からのチームには、第一回の救援旅行で一緒だった、ホノルル・カルバリーチャペルの牧師ビル・ストーンブレーカーさんの息子で、バッドさん(ご本人も教会の牧師)がおられます。はるばるハワイから来てくださいました。そしていつものメンバー、トラビス(CC所沢)、山東さん(CC西東京)がいて、新しくできたバイブル・カレッジ東京のトキトさんとアレックスさんもいて、そして私たち明石二人が便乗しました。そして仙台におられる、カルバリー所沢に通っておられた姉妹も奉仕してくださいました。

22日は、月浜で炊き出しとコンサートをしました。炊き出しのメニューはハヤシシチューで、元プロのシェフ山東さんの味付けが最高でした。そして小さな公民館でコンサートをしました。バッドさんは賛美も導き、また福音を語ってくださいました。その後で、チャックさん、由美さんから、無料送迎バスの案内がありました。

夜は、三人がチャック&由美宅にて、四人が仮設住宅内の木村宅にて就寝です。翌朝、後者の四人は、最終的にバスに乗りたい人を一軒一軒周り尋ねていきました。

その2に続く)

LCF活動場所(2月25,26日)

先ほど、2月22-24日の東松島の救援旅行から無事帰ってきました。ひどい風邪を引いていたのですが、旅行中によくなり、奉仕を無事行なうことができました。また追って、報告させていただきます。

明日と明後日のLCF活動場所のお知らせです。

2月25日(土)場所:足立区こども家庭支援センター 別館三階 「子育て支援室1」
  14:00 聖書の学び会(使徒の働き24章)
  16:00 祈り会

2月26日(日)場所:足立区勤労福祉会館 「第三洋室」
  11:00 午前礼拝 申命記4章1-9節 「十全な御言葉」
  14:00 午後礼拝 申命記1-4章

明日、明後日のLCFの活動場所

LCFの活動場所をお知らせします。

2月18日(土)場所:足立区こども家庭支援センター 別館三階 「子育て支援室1」
  14:00 聖書の学び会(使徒の働き23章)
  16:00 祈り会

2月19日(日)場所:足立区こども家庭支援センター 別館三階 「子育て研修室」
  11:00 午前礼拝 民数記32章5節 「満足という不満足」
  14:00 午後礼拝 民数記32-36章

明後日で民数記を全て読みおえます!

ロゴス・ミニストリー主催イスラエル旅行(暫定見積もり)

記事「ロゴス・ミニストリー主催イスラエル旅行」の続きです。先ほど関係者の方々に送信したメールの一部をここにも掲載いたします。興味のある方はぜひご連絡ください。(当記事への投稿も可能です。)

続けて、先日お知らせした「イスラエル旅行」の企画について、その進捗状況をお知らせします。 改めて、イスラエル旅行を企画している経緯をお分かちします。これまで三度、アメリカの団体が企画したイスラエル旅行を経験しています。

イスラエル旅行記 

そこで心に強く思わされていることがあり、祈りの中で暖めていました。旅行記を読んでいただければお分かりになりますが、内容の密度がかなり濃いものです。後世に建てられたカトリック等の教会巡りをするのではなく、イスラエルの地を舐めるようにして巡り、その地形と聖書時代の歴史、そして現代イスラエルにある聖書的意義にまで突っ込んだ旅行でした。こうした類のものは、アメリカ等の英語圏では当たり前のように提供されていますが、日本ではごく少ないことに気づきました。そして、観光以上の「研修旅行」に近いものを日本語で提供できないものかと強く願っていました。

私の知人で、キリスト教関連の旅行社に勤めていた方からの紹介で、在イスラエルの日本人ガイドさんの存在を知りました。その知人が知っている日本人ガイドの中で、イスラエルの地やユダヤ文化のことを彼女ほど詳しく知っている人はいないとのことです。その方が属している現地旅行社を通して旅行を企画しています。参加者には旅行前からしっかりと聖書を始めとする前勉強をしていただき、旅行中も夕食後に復習・予習時間を設けたいと思っています。さらに御心であれば、イスラエルで福音の働きをしている友人・知人を招いて証しをしていただくことも念頭に入れています。

日本側の窓口には、教会の聖地旅行を企画している熟練の旅行社の方と交渉しています。こうした意図と目的をもって、旅行の企画を進めています。そして具体的な暫定見積もりが出ましたので、お知らせします。

「ロゴス・ミニストリー 2013年イスラエル旅行」
日程: 2013年2月19-3月1日
    大韓航空利用(主に成田空港・関西空港から出発)
旅程: 下を参照

15名の場合: 338,000円
20名の場合: 318,000円
25名の場合: 308,000円
一人部屋追加料金:69000円
(海外在住の方は現地集合も可です。ここから10万円程度差し引いた料金になります。)

1) 料金に含まれるもの
航空運賃、バス等の乗り物料金、ホテル代、入場料、全食事、ガイドとバス運転手に対するチップ
2) 料金に含まれないもの
 ①燃油税等 約55,000円(2012年1月現在)
 ②海外旅行障害保険(加入者のみ)
3) ホテルは四つ星

以上はあくまでも暫定的な料金です。旅行社の方から「これ以上、料金が上がることはないと思う。」と言われています。ここから料金を減らすには、1)ホテルのランクを下げる、2)昼食や夕食の一部を含めない、等が考えられますので、その方向で進めていきたいと思っています。また、大きく値段を下げるもう一つの方法は、「航空会社に、具体的に旅行する人の名前を入れて前もって予約を入れる」ことです。そうすると、安く団体予約が確保できるのだそうです。

それで、お祈りとお願いがあります。まず、ぜひお祈りください。昨日も自分の教会の仲間には、「今、たとえ仕事や経済的理由で行けない状況があっても、行きたいという願いがあるならば祈ってみてください。」と勧めました。イスラエル旅行には、ある程度の決心が必要になります。表面的な状況の変化や日本の忙しい仕事状況があっても、そうした人間的な障壁を超えた所にある主からの促しと導きが必要です。

もう一つは、「料金を見計らって、それから申し込もう」と思っていただきたくない、ということです。普通はそうするのでしょうが、初めから前もって行くと決めている人が多ければ多いほど、航空運賃、ホテル代等で、値段が安くなっていきます。そして上の見積もりでもお分かりのように、人数が多ければそれだけ、ガイドとバス運転手への一定額のチップを、多人数で分担できるようになります。けれども25名以上になると、それほど値段は下がることはない、とのことです。私も25名程度が理想だと思っています。

それで、現時点で行くことを決めておられる方はぜひ、なるべく早く私のほうにお伝えいただければ幸いです。もちろん正式な申込は後になりますが、その分具体的に旅行を企画しやすくなります。

牧師や教会奉仕者の方には、改めて別途にメールを差し上げます。そしてご連絡も個別に差し上げたいと願っています。教会が合同で旅行する、また教会としてでなくとも、教会の方々にこの旅行を薦めていただければ幸いと存じております。

以上です、何卒よろしくお願いいたします。
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聖地イスラエル 11日間の旅 日程表

2月19日(火)
成田(関西)空港 韓国仁川国際空港 テルアビブ空港到着 【テルアビブ泊】

2月20日(水)
テルアビブ、カイザリヤ、メギド、カルメル山、ナザレ等 【ティベリヤ泊】

2月21日(木)
ガリラヤ湖遊覧、クルシ、ベツサイダ、カペナウム、コラジン、タブカ、イエスの舟博物館など 【ティベリヤ泊】

2月22日(金)
ゴラン高原、ベンダル山、ピリポ・カイザリヤ、テル・ダンなど 【ティベリヤ泊】

2月23日(土)
ハロデの泉、ベテ・シャン、エン・ゲディ、クムラン、マサダ等 【死海泊】

2月24日(日)
死海、ティムナ(荒野の幕屋)、エイラット(紅海)、ネゲブ砂漠 【ベエル・シェバ泊】

2月25日(月)
ベエル・シェバ、シェフェラ(ラキシュ、ベテ・シェメシュ、エラの谷)等 【エルサレム泊】

2月26日(火)
オリーブ山、ゲッセマネの園、城壁周囲、神殿の丘、ベテスダの池、ヴィア・ドロローサ、聖墳墓教会、園の墓など 【エルサレム泊】

2月27日(水)
旧市街ユダヤ人地区(嘆きの壁、西壁トンネル、南壁考古学博物館、カルド、神殿再建協会など) 【エルサレム泊】

2月28日(木)
ベツレヘム、ダビデの町、イスラエル博物館、ヤド・バシェム等
テルアビブ空港 【機中泊】

3月1日(金)
仁川国際空港 → 日本各地の空港着

バレンタインなので夫婦で中華料理食べます

またもや、過激というか、訳の分からない題名を付けてしまいました。昨日はすばらしい礼拝を持つことができました。いつも、LCFを自分の教会だと思っている兄弟姉妹がみな集まった、という感じです。礼拝を始めたのが去年の二月初め、主に感謝しています。

昨日のメッセージ民数記26-31章(原稿音声)の中で、30章の中に「女性が誓いを立てること」について書いてあるところがありました。古い世代もシナイ山から旅を始める直前に主が、夫婦関係について教えられ(5章)、ここでも新しい世代が約束の地に入る直前に教えられています。それだけイスラエル共同体について、男女関係や夫婦関係が土台になっているということ。イスラエルの国の存亡に関わる事柄と言っても過言ではありません。キリスト教会においては、夫と妻はまさにキリストと教会を表す、神がこの世に立てられた制度。これほど神聖なものはありません。

その男女関係が、何だか訳の分からない「恋愛」と称するもので埋もれている世間を見ますと実に嘆かわしいという、ちょっと過激な発言をしてしまいました。

明日バレンタインなのですが、私は日本のバレンタインの習慣が好きではありません。女の人がチョコレートを男の人にあげる?義理まであって、実に煩わしいのではないでしょうか?そしてホワイトデーを作り、韓国では両日に外れてしまった人のためのブラックデーまで存在するとか。アメリカにおいては、結婚前だけでなく、むしろ夫婦が互いの愛を確認するために時間を取って、レストランに行ったりプレゼントを買ったりするのが習慣です。教会でもこの時期に、夫婦のための集会が持たれたりします。

私たちはアメリカ型バレンタインの方が好きで、そしてちょっと高級な中華料理を結婚記念日にも食べたので、今回もランチメニューですが中華にしようということになりました。

元々のバレンタイン、これはローマ皇帝が兵士に対して士気が下がらないようにという目的で結婚を禁じていたけれども、聖バレンタインがそれでも兵士のために結婚式を執り行ったところ、処刑されたというものです。神が立てられた結婚の重要性を知っていたために、殉教したというのが由来です。

以前、来日して好評を博した”I Kissed Dating Goodbye”(僕はデートにさよならのキスをした)の著者が、次のような内容を述べているそうです。

ジョシュアがデートをやめた理由には、他に以下のものがある。

 ・肉体的な関係と愛とを勘違いする
 ・デートに夢中の二人は、自分たち以外の人間関係を大切にしない
 ・将来への備えから心がそれ、今の楽しみに夢中になる
 ・相手を正しく評価できない不自然な状況を作り出す
 ・結婚ではなく、恋愛そのものが目的となりやすい

 では、結婚に備えるには、何が必要なのか? 創世記24章に出てくるリベカが一つの模範だ。彼女はラクダに水を与えるという目の前の責任を忠実に果たしていたので、神が与えようとしていた特別な選びに応じることができた。
 現代の若者にとって「水を与えるべきラクダ」とは何か? それは家族同士の親密なコミュニケーションであり、神との交わりであり、貯金や献金の実践であり、弟妹の面倒を見ることであり、教会での奉仕、家の買い物、献立作り、炊事、洗濯などの家事を、親に教えられながらやってみることだ。
 結婚を真剣に目指す、きよい交わりを「コートシップ」と呼ぶ。著者が自分の信念通り安易な恋愛関係を断ち切ってから5年目に、今の奥さんシャノンと出会い、愛を確かめて結婚した。
http://www.ffj.gr.jp/new/bookspdf/renai.pdfから引用)

すばらしいコメントです。どうか恋愛を第一に求めて大切な人生を無駄にしないでください!(ちなみに、この著書は「聖書が教える恋愛講座」の邦訳で出版されていますし、日本でのご本人による講座をCGNTVでビデオで鑑賞することもできます。)

その他、聖書と恋愛について良いサイトを紹介します。

ブログ「命と性の日記~日々是命、日々是性」の「聖書的恋愛論」のカテゴリー

Mark & Maki with Jesus(国際結婚の夫婦のブログ)

LCFの活動予定(2月11,12日)

次回の教会の活動場所のお知らせです。

2月11日(土)場所: 足立区こども家庭支援センター別館3階
 14:00 聖書の学び(使徒の働き22章)
 16:00 祈り会

2月12日(日)場所: 足立区こども家庭支援センター別館3階
 11:00 午前礼拝 民数記27章1-11節 「女たちの相続地」
 14:00 午後礼拝 民数記26-31章

明日、明後日は同じ場所になります。
まだいらっしゃったことのない方もぜひいらしてください!

男よ、お前が悪いのだよ! その2

その1からの続き)

では解決への道は何でしょうか?フェミニズムのように、女性を社会構造的な弱者として見て、その構造を変革することが必要なのでしょうか?もちろん制度上の精力的な変革の努力は必要でしょう、けれども福音信仰に立つ者は、それが根本解決ではないことを知っています。

終わりの日には困難な時代がやって来ることをよく承知しておきなさい。そのときに人々は、自分を愛する者、金を愛する者、大言壮語する者、不遜な者、神をけがす者、両親に従わない者、感謝することを知らない者、汚れた者になり、情け知らずの者、和解しない者、そしる者、節制のない者、粗暴な者、善を好まない者になり、裏切る者、向こう見ずな者、慢心する者、神よりも快楽を愛する者になり、見えるところは敬虔であっても、その実を否定する者になるからです。こういう人々を避けなさい。(2テモテ3:1-5)

終わりの日の困難さは、第一に「自分を愛する」ところから出てきます。自己愛、これこそが問題の根源です。自分の上に権威がないのです。自分が一番であり、自分が神なのです。そして現代は他の社会的規範などで抑えられていた権威が取り除かれ、自我が制御されることなく漏出することによって、諸問題が噴出しているのです。

私はダビデが大好きです。ヨナタンがなぜダビデを愛していたのかがよく分かります。その反面、サウルが嫌いです。いや、サウルに自分の醜さを見る、と言ったら良いでしょう。彼はまさに、今の言葉で言えば「パワー・ハラスメント」の男でした。彼は元々おとなしい人でした。臆病でさえありました。けれども一度、権力の座につくとたちまち高慢になりました。最後まで自分の非を認めることができませんでした。言い訳を言い続けました。認めたようにふるまってもすぐに態度を翻しました。そして、自分が認められていないと被害意識を抱きながら、祭司を虐殺するという攻撃性を表しました。

それに対してダビデは真の男です。ダビデが息子ソロモンに、「強く、男らしくありなさい。(2列王2:2)」と言いましたが、男らしい、とはどういうことでしょうか?彼は知っていました。彼も自分の権力によって、姦淫の罪を犯した女の夫を殺すという重罪を犯しました。けれども、彼はこう告白したのです。

私はあなたに、ただあなたに、罪を犯し、あなたの御目に悪であることを行ないました。それゆえ、あなたが宣告されるとき、あなたは正しく、さばかれるとき、あなたはきよくあられます。(詩篇51:4)」

サウルが神の前に出ると言う経験がなかったのと対照的に、ダビデは初めから神との交わりが中心となった生活を送っていました。そして自分が犯した過ちも神の前で告白しました。神の前に崩れ落ち、泣き悲しみ、悔いる心、この砕かれた魂こそが、男らしいのです。サウルはそれが最後までできませんでしたが、ダビデは行なったのです。神の裁きを甘んじて受け、けれどもその裁きよりもさらに根源にある神の憐れみを信じて、神の前に出ました。責任をただ自分にあることを認め、自分が子供のように小さくなりました。

このように自分の弱さを認めるのです。弱さと罪を認めることは、ものすごい勇気の要ることです。その勇気こそが、「万物をあなたに支配させる」という意図で神が創造された、その全責任を自らが担うという人間本来の姿、または男本来の姿に回帰することなのです。ダビデも、罪を告白した後の姿は弱くなりました。その家に、彼がかつて犯した罪(姦淫と殺人)が蔓延しました。全然格好良くありません。でも、これこそが神の前では格好良いのです。自分が弱くなること、これこそがキリストの恵みが完全に現れ、その力が働く時です。

他人のせいにしない。そして果敢に神の前に出て行き、自分の心をすべて明け渡し、泣きじゃくってもいいから祈る。そして神によって心を柔らかにしていただく。その柔和さで、弱い人の弱さを担います。

そして友が必要です。先の性暴力事件の加害者が属していた教団の検証を読みますと、教団に対する批判的な態度、主任牧師に従えない、自分のしていることには誰も干渉させない、というような問題がずっと前からあったようです。神学校時代や信徒の時代からの友がいることが大切、という話も書かれています。

特に牧師として生涯を全うするためには、「△△教会の○○牧師」といった付加価値抜きの、素の自分を見せられる相手、一人の人として自分を見、意見してくれる存在が不可欠である。できることなら、こうした肩書や、成果を求められる状況が生じる以前、信徒、修養生時代にそのような相手を得られることが望ましい。と同時に、継続した訓練が必要である。

ですから男たちに問いたい、「あなたに友はいますか?」私自身も恐れるのは、交わりを失うことです。他者や自分の属しているグループなどに問題を感じたとしても、その関係を断つことは致命的であると考えています。そんな批判ができるほど自分が優っているのか?という、自己のうぬぼれに対する警戒も必要です。「交わる」ことは、直、へりくだりにつながります。

記事の題名は、実はフェミニストの人が書いた性暴力についての本「あなたが悪いのではない」をもじったものです。女の人が、自分が悪いと思ってしまうことについて「そうではないのだよ」と断言している言葉でしょう。けれども私はさらに一歩踏み込んで聖書的立場から、「男よ、お前が悪いのだ」という見解で書かせていただきました。

男よ、お前が悪いのだよ! その1

ものすごく過激に聞こえる題名ですが、今横たわっている虐待にまつわる問題のことを考える時、また結婚などの男女関係にかかわる問題を考える時に、結論はこれだと思いました。これから、この女性と男性の間にある支配関係のことを書いてみたいと思います。これまで、家庭内暴力や性暴力、そして何と教会の牧師がそのような犯罪に加担しているというニュースも見聞きして、その中で深く考えさせられることは、男と女の違いであります。

あなたは夫を恋い慕うが、彼は、あなたを支配することになる。(創世記3:16)」これが、エバが蛇に惑わされたために神から受けた呪いの一つです。女性は、相手に拠り頼み、信頼を寄せることに全神経を使いますが、その女の依頼を男が自らの支配欲によって利用するという醜い関係が描かれています。

家庭内暴力の問題を抱えている方が自分の悩みを打ち明けてくださったり、または人づてで話を聞いたことがありますが、どちらも「自分が耐え忍べば、夫は変わってくれるかもしれない。」という期待をかける場合でした。私がいつも思うことは、「本当に相手を愛しているのであれば、警察に彼を連れ出さなければいけない。」ということです。彼が自分のしていることの結果を刈り取ることによって、彼が改悛する可能性が出てくる、と私は思っています。けれども、その点が女性の理解しにくいところであり、どうしても自分に原因があると思ってしまうのです。

男というものを考えてみましょう。聖書の言葉を、フェミニズム(女性同権論者)の人も封建的な人も、いやクリスチャン自身も曲解していることがありますが、それは「男は女のかしらである」という言葉です。このことによって、女は男に従わなければいけない、という従属関係を教えていると話します。また男はこれを梃子にして「女が自分に従っていない」と嘆きます。とんでもない話です。この「かしら」というのは、女が男に従うということ以上に「男が女のことについて全責任を負う」という、人間的に乱暴に言えば、ものすごく男に不利な(?)宣言であります。

アダムが罪を犯しました。エバが罪を犯した、とは聖書には書かれていません。蛇に惑わされた、とだけ書いてあります。もちろんエバも人間として罪を犯したのですが、神は人の救済史において、アダムが神の声を直接聞き、そしてそれに反することを行なったので、彼によって全世界に罪が入った、としています。これが「かしら」の始まりであり、男女において男は第一に責任を取らなければいけない、という意味です。

そして、第二のアダムとなられたキリストは、ご自分がすべての人の罪をご自分になすりつけるということを行われたことによって、信じる者たちに対する「かしら」となられたのです。男はこの方にあって初めて、女に対するかしらの務めを果たすことができます。

現代になって、「男たちに男らしさがなくなってきた」と言われるようになりましたが、それと共に男が女性を精神的・物理的に蹂躙する事件が増えています。(母親が幼児虐待する事件も増えていますが、それも結論から話しますと問題の根っこは同じです。)これは一見矛盾しているようで、実は一つなのです。男が、勇気を出して神の前でへりくだることができなくなっているので、その責任のなすりつけを女や他の弱いと見える人に対して、暴力やその他の攻撃性を示すことによって表現しています。

こちらのブログ記事で、牧師による性暴力の事件が取り扱われていますが、その被害者女性(自殺によって他界)の母親が実名を出して小冊子を出しています。インターネット上でもその概略をご本人が書いたものが掲載されています。その一部を引用します。

- 性暴力の加害者はあくまでも、力や地位や権力や脅しを利用できる状況をしっかり「選択」し、容易周到に準備していることがほとんどです。「性欲」による「反応」が加害であるとは言えません。
- 加害者が利用できる状況をしっかり「選択」し、用意周到な準備をして被害者に接触することがほとんどです。宮本の知る限りでは宗教界での事件の多くが加害者は高度なテクニックを使います。
- 性暴力加害者に共通するのは「自身の弱さ」です。弱いからこそ、持った「地位、権力」を確認するために、あるいは持っている以上の力を誇示しようとするために、自分より弱い者を被害者にする、あるいは、自身の男としての力「こうあるべきとの思い込み」の確認もあります。
- 力関係の中での性的行為で、自分が絶対的な力を持っている場合、その行為は、他のセックスよりもより刺激的になります。(妻や特定の女性がいても同じです) 加害者はエスカレートしていきます。何度もくり返したくなる最も強い誘因は、セックスの刺激と力を感じることであり、一度これを手に入れると、やめられなくなります。

ですから、これは単に男の情欲だけの問題ではないことです。性的嫌がらせの被害者は、女性のみならず男性もいるとのことです。なぜなら、その根底に男女に関わりなく「自我の増大」があり、それを満たすための「支配欲」がありますからです。そして存在感の弱い人、「おとなしい人は加害者にはならない」ということではなくむしろ、自分よりも弱い人を捜していて、その相手に「自我をぶつけていく」ということを行ないます。しかし自分は弱い者(劣等者)であると思い込んでいるので、自分が加害行為をしている意識はまずありません。

ですから、性的虐待のみならず、他のいろいろな虐待やまたは支配関係の中で、共通の問題が横たわっているのです。

その2に続く)