911と311

上の数字を見ていただければお分かりの通り、米同時多発テロの日と東日本大震災の日は同じです。日本では菅前首相がインタビューに応じ、ちょうど六か月になるということで当時の原発事故対応について話しましたが、ブッシュ前大統領も、ちょうど十年前に起きたことをふりかえってインタビューに答えています。

ビンラディン殺害に「喜びは感じず」 ブッシュ前大統領

原発事故は人災、説明も伝言ゲーム…菅前首相
(次の記事も参照「原発危機と日本」)

二人に共通しているしているのは、混乱の中で最終決断あるいは判断をしなければいけなかったという国の最高指導者としての苦悩です。

「戦争という霧の中を旅しているようだった」(ブッシュ前大統領)
「説明を求めても伝言ゲームのようで、誰の意見なのか分からなかった」(菅前首相)

そして911も311も、それぞれ世界を変え、また日本全体を変えてしまいました。

私はこのような惨劇について、キリスト者としての態度を再考しました。やはり、心は、「なぜそんなことをしでかしたのか?」という悔しい思いや怒りは出てきません。911であればブッシュ氏の政治倫理性を咎める人がいるでしょうし、様々な陰謀論や憶測が飛び交っています。菅氏であれば隠蔽や杜撰な危機管理と言って咎めるのでしょうが、私はお二人のインタビューを聞いて、そのような思いが出てきませんでした。

むしろ次のイエス様の言葉を考えます。

またイエスは道の途中で、生まれつきの盲人を見られた。弟子たちは彼についてイエスに質問して言った。「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。」イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現われるためです。(ヨハネ9:1-3)

主が、この苦しみと悲しみの中に入られて、そこから神の栄光につながることをしてくださる、という思いです。原因探しや粗探しではなく、事実、苦しんでいる人々のそばに行き、そこにいることによって神の愛を伝える、ということです。911が近づいているので、いろいろな教会指導者が意見を発表していますが、フランクリン・グラハム氏も父が911の直後に話した言葉を紹介しています。

十字架は、神が理解してくださっていることを教えています。というのも、この方は、イエス・キリストという人物の中で、ご自身の上に私たちの罪と苦しみを負ってくださったからです。十字架から神は「わたしはあなたを愛している。あなたの感じている心痛も、悲しみも、痛みも、知っているけれども、あなたを愛しているのだ。」と告げておられます。
( “Who can ever forget?” by Franklim Graham)

キリストの十字架こそが、神が私たちの痛みと苦しみを遠くから眺めているのではなく、むしろ一つになって苦しみ、痛み、悲しみ、泣いてくださっていることを証明するものです。

そして、ホライズン・クリスチャン・フェローシップ(カリフォルニア州サンディエゴ)の牧者、マイク・マッキントッシュ氏は、世界貿易センターが倒壊した直後に、心的・霊的ケアのチャプレンとして現場に赴いた時のことを思い出し、記事を書いていますが、まさに311を経験し、救援活動を行っているキリスト教団体の気持ちと重なります。

God’s Love Was at Ground Zero(神の愛が、グラウンド・ゼロにあった)

彼は、「遺体がくすぶり燃えている臭気よりも、そこには神の愛のかぐわしい香りがはるかにまさっていた。」と言っています。悲しみの中にいる人々に祈るとき、そこには神を信じている人もいない人も、だれもが祈りを必要としていた。そこには日本で言う「宗教アレルギー」は存在しなかったと言っています。そしてそこでは、改宗させようとか、説教を垂れようとするのではなく、ただ寄り添い、天の御国を代表する、必要に応じる奉仕者が大勢いたのであり、それが神の愛の芳しい香りになったのだ、とのことです。

そして、私がもう一つ思い出す惨劇に対するイエス様の御言葉は、上の記事にも触れられていますが、ルカによる福音書13章1-5節です。

ちょうどそのとき、ある人たちがやって来て、イエスに報告した。ピラトがガリラヤ人たちの血をガリラヤ人たちのささげるいけにえに混ぜたというのである。イエスは彼らに答えて言われた。「そのガリラヤ人たちがそのような災難を受けたから、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い人たちだったとでも思うのですか。そうではない。わたしはあなたがたに言います。あなたがたも悔い改めないなら、みな同じように滅びます。また、シロアムの塔が倒れ落ちて死んだあの十八人は、エルサレムに住んでいるだれよりも罪深い人たちだったとでも思うのですか。そうではない。わたしはあなたがたに言います。あなたがたも悔い改めないなら、みな同じように滅びます。

津波で死んだ人々、ことさらに大きな罪を犯したからそうなったのでしょうか?いいえ、むしろ、生きている私たちに対する警告なのです。「なぜ、神は多くの人々を死なせるような酷いことを行なうのか?」という人には、はっきり、このように申し上げたい。「なぜ、神はあなたを含む数多くの人々を、今もこうやって生かしておられるのですか?」今、生きていて滅んでいないことが神の憐れみであるのに、そして自分はいつ滅び、死に、そして神の裁きを受けてもおかしくない存在なのに、それでもいま生きているという事実を感謝したことがあるでしょうか?

人は死に、死後に裁きを受けることが定められています。また生きていても、この地上にこれまでにない大患難を下されることを警告しておられます。けれども私たちが生きていて、そしてまだ大患難に遭っていないというのは、神があえて、それらの災いが起こらないようにし、私たちが悔い改めることができるように忍耐しておられるのです。それでも、心を脂のように鈍らせ、日本の安定と繁栄の生活の中で神などいないと言っている人々に、神は憐れみをもって、ご自分に注意を寄せてもらおうと、その災いのごくごく一部、その最小限度をお見せになったのです。

「けれども、津波で死んだ多くの人は、福音を聞く機会がなかったのでは?そのように早死にさせる神は何を考えているのか?」という人に対しては、「平和ボケするんじゃない!」と言いたい。津波でなくとも、何万人、何十万人の人々が毎年、病気、交通事故、事件、その他の要因で苦しみ、また死んで行っているのです。命というのは実にはかないのです。それをあたかも、健康と長寿が当たり前のように考えていること自体が傲慢です。人は必ず死にます。神のみが、その命の短さと長さを決めておられますが、全ての人が死ぬようにされています。それは最初に造られた人アダムが犯した罪のゆえです。この生きている間に、神はご自分の御子イエス・キリストを受け入れるように、全ての人々に招きを行なわれているのです。

そして、そのような苦しみと悲しみにいる人たちこそが、これまで「対人」関係で生きていたけれども、人の関係や社会との関係を超えたところにある「対神」関係を求めるようになります。

苦しみにあったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました。(詩篇119:71)」「貧しい者は幸いです。神の国はあなたがたのものですから。いま飢えている者は幸いです。あなたがたはやがて飽くことができますから。いま泣いている者は幸いです。あなたがたは、いまに笑うようになりますから。(ルカ6:20-21)」そしてイエス様は、富んでいるあなたがたは哀れだ、食べ飽きているあなたがたは哀れだ、いま笑っているあなたがたは哀れだ、と仰っています。つまり、主イエスは徹底的に苦しみと涙の中に神の国が臨むようにされています。