日本におけるメシアニック・ジュー運動

最近、日本におけるメシアニック・ジュー運動の問い合わせが多くなっていて、その回答をここのブログでもしたいと思います。既に十年以上前に書いた拙記事がホームページ上に掲載されています。そこからの抜粋をまず紹介します。

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メシアニック運動とは、ユダヤ人が、その民族性を捨てることなく、イエスをメシヤとして信じることの運動である。歴史的には、「クリスチャン」という言葉は、欧米にある共同体の中に入っている名称であり、ユダヤ人はその仲間に入るためには、自分の民族性を捨てなければいけなかった。そのためユダヤ人は、「クリスチャン」になることは、「ユダヤ人を捨てる」ことと等しいと考えている。けれども、メシアニック運動に関わる人は、ユダヤ人がイエスを信じることは、ユダヤ人を捨てることではなく、むしろユダヤ人のためにメシヤが来られたのだから、「ユダヤ人として完成する」とみなす。簡単に言えば、「ユダヤ人がイエスさまを信じて、救われて、神の国に入れられる」ことを強調する運動だ。

私は、この運動についてはアメリカで聞いた。学校で使っていた教科書が、今はよく来日されている、アーノルド・フルクテンバウムによるものであったことと、また、過越の祭の食事が、近所のメシアニック・コングリゲーションで行なわれるから、という知らせを聞いて、「体験だから」と参加したことで知るようになった。けれども、それだけの体験であり、メシアニック運動についてそれほど意識していなかった。それよりも聖書の学びをとおして、イスラエルのことを知ることは聖書理解のために非常に重要であることが関心事であった。そのコングリゲーションの礼拝にも一度だけ参加したが、やはり、「自分は異邦人だから、ユダヤ的なものでは礼拝生活は難しいな」という感想であった。ちょうど、「黒人教会」と言われているところに、白人やアジア人が参加するような感触を持った。

また、その運動には弱さもあることに気づいていた。牧師チャックもときどき言及するが、「ユダヤ人未信者よりも、もっと律法的になっている」という指摘だ。例えば、ユダヤ教正統派が多い地域で、ユダヤ色がある集会を持つことは、宣教的な視点から見ると必要なことであると思うが、世俗化したユダヤ人が圧倒的に多いアメリカにおいて、ユダヤ教的側面をその会衆に持ちこむのはどうか、という疑問がある。しかし、これは、メシアニック指導者の中からも指摘されている問題であり、下のサイトには、かなり厳しい評価がされている。

イスラエルにおけるユダヤ人教会

また、上記のフルクテンバウム師も、その著書”Israelology“(イスラエル学)の中で、「ユダヤ性」として、聖書的、あるいは文化的に中庸なものだけではなく、非聖書的なユダヤ教の伝統や儀式までも持ち込んでいる場合が多いことを指摘している。つまり、この運動の弱さを、その運動の中にいる人々が気づいているのである。(後注:日本語で読める本書の参照記事「「イスラエル学」について」)

ところが、日本における報道を見ると、このような背景を伝えずに、ただ表面的なことを伝えている場合が多いことに気づく。あるいは、ユダヤ人教師が言うことは神託であるかのように受け入れ、その運動によってキリスト教会の活性化を狙っているのかという疑問さえ抱かせる場合がある。私はこの運動は、その弱さがあることは知りつつも、キリストのからだの中における一部であり学ぶところは大きいと認識していたが、日本では必要以上にもてはやされている節もある。
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十年以上前に書いたこの文章を改めて読みますと、今の自分の立場も変わっていないことに気づきます。ユダヤ人でしかも信仰を持っている教師から、私は多くのことを学びました。(デービッド・ホーキングアーノルド・フルクテンバウムジョエル・ローゼンバーグの三人です)。しかし、私が残念でならないのは、メシアニック運動の影響を受けた人々が既存の教会を批判していくことです。ローマ14章を思います。大事なのは主に対してこれらの霊的栄養を用いることであり、他の主のしもべを裁くためにそのような知識が存在しないということです。(参照記事:「神学バランスにあるキリスト者の成熟」)

そこで、ある方に返信という形で送った文章の一部をここに紹介します。(一部修正・加筆しました)

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問題は次のことです。「メシアニック・ジュー」という呼称は、欧州のキリスト教世界で反ユダヤ主義が醸成されていったという歴史的経緯、そして律法の中に生きているイスラエル人社会の中で、文化的・宣教的手法として出来上がった用語であり、ユダヤ人の存在がほとんどいない日本社会の中では、ほとんど意味のない用語であり、その多用は、まさに生粋のユダヤ人であるパウロ自身が、「ユダヤ人も、ギリシヤ人も、キリストであって一つです」と言ったその福音に逆らうものだ、ということです。

聖書的には、メシアニック・ジューではなく「残された者」であります。ローマ11章に、イエスを信じるユダヤ人がそう呼ばれています。残された民の概念を旧約聖書で見ますと、それは患難を受けて、その懲らしめの中でへりくだり、貧しき者となり、ただ主にのみ拠り頼まなければいけていけない、という存在として現れます。したがって、私たちがメシアニック・ジューをもてはやすことは、主が意図されていることと正反対のことをしているのです。

私は、母教会のカルバリーチャペル・コスタメサで多くのユダヤ人の兄弟を見ていました。私が勉強したスクール・オブ・ミニストリーにもユダヤ人兄弟が数人いました。特別視していませんでした。メシアニック・ジューの話題が学生の中に上がった時に、アーノルド師と同じダラス神学校出身の、学長であり、コスタメサの教会の副牧師であるカール・ウェストランド氏は、ユダヤ人兄弟の一人に手を置きながら、「彼はクリスチャンである。」と断言して、諌めました。

キリストにあって一つであり、特別視してはならないのです。しかし、一つである中で、神が与えられたユダヤ人への選びが、キリストの香りと共に表れる瞬間があります。例えば、その兄弟は信仰を持つ前にイスラエルのキブツにいましたが、彼は安息日を始め、様々な祭日のため休日の多いことを通して、「神は、レクリエーションを与える良い方だな。」と思ったと証しするなど、「安息日」という言葉を聞くと律法主義を連想するクリスチャンにとって、新鮮な見方でありました。

アメリカでも、コーシャ(食物規定)を守っている社会ではないので、世俗ユダヤ人がユダヤ性を強調するのは不自然です。信仰を持ったら反対に豚肉を食べなくなったなど、逆現象が起こっています。イスラエル社会であれば納得できます。マクドナルドでさえ食物規定に従っていますから、信仰をもった兄弟に無理に「あなたがたは豚も食べなければいけない」などとしたら、それは押しつけであり、パウロが「ユダヤ人にはユダヤ人のように」と言ったとおりです。

しかし、メシアニック・ジューに感化された異邦人でさえが豚肉を食べなくなるなど、行き過ぎが起こっています。健全なユダヤ人信者は、パウロと同じように宣教の観点からユダヤ人社会では守り、異邦人社会では問題なく何でも食べるようにしています。アーノルド・フルクテンバウム師は、その一人です。彼が来日したとき、札幌ラーメンを喜んで食べたと聞いています。

メシアニック・ジューにしろ、ヘブル的読み方などにせよ、何にせよ、「キリスト」以外の他のものを自分のアイデンティテイー(本性の置き所)にしてはならぬのです。むしろ、ユダヤ性でなくキリストの至上性を信仰の要にしている人が、逆説的ですが、ユダヤ人の信仰を良い意味で継承していくのだと思います。私はへブル的読み方を強調する人たちには、「別にヘブル的読み方って強調しなくていいんだよ。聖書的であれば自ずとユダヤ的なのだから。」と説明しました。

もう一つの争点は、「そんなにユダヤ人を強調するなら、ユダヤ人に伝道していますか?」という問いかけです。実際に伝道した人々に会って話を聞いてきましたが、その迫害はパウロ級の激しいものです。多くの人は精神的トラウマになりそうだ、と言っています。その一人、自身ユダヤ教の中に身を置いていた、実際に伝道している兄弟は、日本人の中にあるメシアニック運動の薄っぺらさと心配を述べていました。彼の話を聞いていると、危険な国に宣教に行くような、相当の気概がなければ伝道できないようです。つまり、「ユダヤ人は福音に敵対しているが、神に愛されている」というローマ11章の言葉の後者を強調するのですが、前者は厳然としていることを見逃しているということです。

「相手が間違っている。教会への対抗的姿勢を強めるよりも、その信じている通りにユダヤ人伝道を実際にせよ。」というのが、そうした人々に語りたい言葉です。ヤコブの言う、「聞くだけでなく、実践するものになりなさい。」という言葉の通りです。
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「日本におけるメシアニック・ジュー運動」への7件のフィードバック

  1. ありがとうございます。例え方は変かも知れませんが、探しあぐねていた大事な友達に やっっっと会えた時の様な気持ちで読み終えていました。メシアニック ジュー?とか言われる方々に会ってみたいです。

  2. これは質問ですが、ユダヤ人であったり、ユダヤ教徒であったりからの改宗者であるからこそ見えている、聖書理解や福音の奥深さ、信仰の宝などを彼らは持っているのですか?それとも、美化しすぎでしょうか…。日本の教会によっては、過越祭や仮庵祭を取り入れています。異邦人であってもそこに恵みがあるのでしょうか

  3. ailoveさま、

    はい、ユダヤ人やユダヤ教徒であるからこそ、もっている聖書理解や福音の奥深さは持っていますね。そして過越の祭、仮庵の祭をすることも教会として自由だと思います、イエス様のなされたみわざを思い起こすことができ、異邦人としても有益です。ただ、これをしなければいけないことという事は、律法主義になりますね。

  4. 質問です、ユダヤ人は安息日の夕食の時には絶対に異邦人をいれないのですか?(神殿崩壊後からAD70)
    メシアニックジューの方で安息日をまもられている方はいますか?
    一緒に安息日の夕食がもし体験できるなら、この上もない喜びなのですが、想像しているだけで勝手に感動しているんですが、行き過ぎでしょうか?笑

  5. 最近イスラエルのメシアニックジューと知り合いになりましたが、日本で活動しているグループにコンタクトする意義はありますか?まだまだ幼稚な取り組みだと思いますので‼️

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