イスラエルを祝福するとは

以下の記事について話します。

イスラエルを祝福する者は祝福される?

教会の中にも、この文章を読んで疑問に感じた方もおられたので、おそらく同じように考えておられる人がいるであろうという公益も踏まえ、こちらで私の聖書理解とその立場を書き記したいと思います。

霊の救い以上のアブラハムへの祝福

「イスラエルの定義」について。これは、ご自身が引用されたアブラハムへの祝福によって定義されます。アブラハムへの祝福は、キリスト・イエスにあって、エペソ1章にあるように、またガラテヤ書にあるように、天にある霊的祝福に表されています。したがって、今はキリストによって、ユダヤ人のみならず、異邦人にもこの祝福は伸ばされています。難しい用語を使うのであれば、村上師の主張は「教会論」においては全くその通りです。(参照記事:「日本におけるメシアニック・ジュー運動」)

しかしここで抜け落ちているのは、アブラハムへの祝福はさらにもっと大きな約束が含まれているということです。霊的祝福に留まらず、明確に、土地の所有、国が大きくなること、子孫の繁栄であります。それがモーセに受け継がら、ダビデによって確固たるものとなり、バビロン捕囚の直前、エレミヤによって新しい契約の約束によって予告されていたものでした。

何百、いや千を越える膨大な約束が、このように旧約時代の聖徒らに啓示されていました。新約聖書に出てくる、このような非常に濃厚なユダヤ的背景において、これらの約束が前提にあって、そこで、信仰による義であるとか、罪の赦しであるとか、聖霊の約束であるとか、霊的祝福が語られていたのです。

聖書を順番に読む習慣があれば、このことは自ずと気づきます。そのまま読んでいき、その本文の意味を辿っていけば、その膨大な約束を単に私たちの内面における祝福だけで収めることは到底できず、しようとすれば恣意的な比喩的解釈に陥るでしょう。たぶん、行き詰まって読み進められないと思います。

「イスラエル→異邦人→イスラエル」という経綸

この記事の中で抜け落ちているのは、ローマ9‐11章に展開されている神の経綸であります。つまり、神が取り扱われる順番であります。これは、モーセが死ぬ前に述べた、イスラエルの歴史と重なります。つまり、イスラエルは9章で述べられているように選びの民であるが、10章で述べているようにその心のかなくなさで、祝福を受けられないようになっている。しかし11章にあるように、その約束が反故にされたのではなく、むしろそのかたくなさを用いて、今は異邦人に救いが届いている。そして救いが完成して、イスラエルが救われるという流れであります。

「いや、これはユダヤ人の霊の救いについてのことだけだ。」という反論も聞いたことがあります。パウロは一つの手紙で「信仰による義」に焦点を合わせているのですから、強調されていないということだけです。しかし9章の冒頭にはっきりと、「子とされることも、栄光も、契約も、律法を与えられるということも、礼拝も、約束も彼らのものです。(9:4)」と言っており、霊の救い以上の回復を示唆しています。

そしてもっと大事なのは、主イエスご自身の言葉です。マタイ23章37節から24章34節までには、ユダヤ民族とその土地への帰還も含め、旧約における終末の預言をそのまま字義的に引用、適用して弟子たちに語っておられるイエス様の姿を見ることができます。師は新約聖書から導き出せないと言われていますが、まさにここが、国や民族、土地を含むアブラハムの約束が言及されている箇所であります。

したがって、アブラハムに約束されたその他の側面、土地の所有、国の形成、子孫の繁栄について、異邦人への救いが現在、終末的速度で世界中で勢いよく進んでいると同時に、少しずつその萌芽と発展を見ることができる、というのが私の聖書理解です。

個人的救いと世界的救いの連動

教会の霊的内面だけに焦点を合わせれば、それは聖書信仰ではないと思います。聖書信仰とは、内面のみならず、国や民族、その歴史、経済や政治に至る営み、その背後にある神の正義と憐れみ、これらをすべて包括しているものです。そして聖書は、これらのことについてイスラエルという国と民族と、その土地が、世界に対して証しをしていると明言しているのです。

そしてこれは、終末に対する見方にも影響します。私たちの終末は、自分個人が救いを受け、天国に行って完成するというものではありません。個人的終末と連動して、世界的終末が展開しています。私たちのこの罪ある肉体が変えられて、栄光の体がキリストの到来によって与えられるのと同じように、キリストが地上に再臨される時に、罪の呪いを受けているこの地が刷新されて、神の祝福の中に入ります。

したがって、個人的救いのみを考えるのではなく、社会や世界で起こっていることを見つめつつ、キリスト者は伝道していくのではないでしょうか?

公平で公正なイスラエルの見方

そしてしばしば、このような聖書理解をしている者たちは、イスラエルに政治的に偏りすぎているという指摘をお受けします。しかし、果たして、神から与えられた正義と公平の中で、そのような指摘をしている人々がイスラエルやユダヤについての公正な情報に基づいて判断しているのか、と言われますとかなり疑わしいです。イスラエルの情報を受け取っている者は、自ずとパレスチナ側の情報にも触れるようになります。そこにある現実、例えば、毎日の飯を得るために一生懸命働いているアラブ人の姿も見ます。もちろん、イスラエルはこれらの在留異邦人を憐れむという神の律法に従わなければいけません。私は、ユダヤ人も人間で罪人ですからもちろん民族的差別は存在しますが、他のアラブ諸国以上に、アラブ人への人権が保障されている国だという観察です。

イスラエルを祝福するとは、単なる教会論では済まされない、キリスト者の歴史観、倫理観、終末論、宣教論など、あらゆる生活の領域に及ぶ非常に重要な神の命令なのです。

アッセンブリーは、イスラエルと教会を区別している

筆者が所属しておられるアッセンブリーも、以上と同じようなイスラエル観を持っているはずです。信条を読む限り、私の聖書理解とほとんど同じです。(Wikipedia)

今、手元に確認できる情報はありませんが、アッセンブリーは、イスラエルの建国される1948年以前に、国が聖書の約束通りにできることを信じて祈っていた、ということも聞いています。かつての日本のホーリネス運動でもそうでした。これが彼らの時代における、「イスラエルを祝福」することの一つでした。しかしもちろん、それだけではありません。ユダヤ人が霊的に救われることを祈ることも祝福することだし、そこにいる貧しい人々に助けることも祝福することだし、そして、イスラエルの救いを思いながら、自分に与えられている周囲の人々(その大部分は異邦人)に働きかけることも、究極的にはイスラエルを祝福することにつながります。おそらく最後の部分が、日本社会に住んでいる私たちには大きな使命でしょう。

「ユダヤ人か、異邦人か」という考えではなく、「ユダヤ人も、異邦人も」という発想が大事ではないかと思います。


【後記】(7月15日付)

この方は、再び同じ論旨の記事を、おそらくイスラエルのガザ空爆を意識して書かれておられます。

親イスラエルの動き

仰ろうとしている点は、何とか分かります。イスラエルを祝福するという創世記12章3節に言葉だけで、イスラエル支持をやみくもに連呼するのであれば問題でしょう。そして前述のとおり、教会論と終末論の混同は日本ではメシアニック運動を支持する人々の間で起こりがちです。また、政治が教会に食い込むというという事も、離散ユダヤ人の多いアメリカの教会には起こりがちであることも分かります。しかし、果たしてその論旨に当てはまる人々が日本で優勢なのか?というと、言い過ぎなのではないかと思います。ほとんど無いことをあるもののようにして書き、それで「私は親イスラエルを支持しない」という書き方は、それこそ偏見ではないでしょうか?(英語ではこれを、ストローマンの議論と言います。)

キリストの幕屋は確かに、事実イスラエル政府に食い込み、かつイスラエルに絡んで日本政治にも食い込んでいることは事実ですが、少数派のキリスト教会に政府関係者が来るという話は私は知りません。私もこれだけイスラエル贔屓(?)ですが、イスラエル政府関係者や学者から接触を持たれたことは一度もありません。

それよりも、「イスラエルを敵視しているわけではない。イスラエルを特別視することに反対しているだけである。」と言われていますが、もっと前提に「真のイスラエル=教会」とする置換神学があるからではないかと思います。またご自身のリベラル(左派)政治思想の反映もあることでしょう。私はここら辺がずるい(unfair)と思うのです。

「イスラエルを祝福するとは」への4件のフィードバック

  1. きよまささんの意見にはおおむね同意ですし、議論が穏健なのですが、
    キリストの幕屋、国粋主義的親ユダヤ教は、異端ですか? それとも良くない群れに過ぎないですか?
    アブラハムが祝福された時、その時神様は全知全能遍在のお方ですから、ヘブライ語を話していたわけで、それに近づけるほうがより、神様を愛するのではないでしょうか?
    もちろん知的理解に偏ってはいけない。
    寺島崇拝に陥ってもダメ。
    ですけど、昨今の福音派教会をみていると、やれPentecostalはダメだとか、韓国のメガチャーチは高い給料もらって妬ましいであるとか、「大人げない」態度が目立つんですよね。。。

    そこできよまささんの「「原始福音 キリストの幕屋」に関する意見」を聞きたいです。
    私の理解では、ヘブライ語語学と大和魂に傾注している右翼的キリスト教と思っとります。w

    ・・・
    ちなみに、私の今の所属教団は「日本ルーテル同胞教団=ブレザレン+ルター系」で、聖書無謬説と神様の福音、三位一体説を完全に信じきるに至りました。
    最近ではネットのセカンドライフというサイトでも、盛んにアウトリーチ(ノンクリ宣教)をしていて、なかなか精力的だなと感じました。優れてる。

    また目黒区の明石さんのサムエル記の学びに、参加したことが有ります。

    以上、ハレルヤ、インジーザスネーム、アーメン。

  2. 但木さん、コメントありがとうございます!そうですか、恵比寿の学びにいらしたんですね、お顔を拝見すればすぐに思い出せるはずなのですが・・ごめんなさい。

    「幕屋」については、私もいろいろと周辺からの情報が入ってくるのですが、なにせ実体験していない(つまり、その集会に参加したり、じっくり何を教えているかじっくり調べていない)ので、なんとも言えないというのが正直なところです。ただホームページを見たり、これまでの僅かなやり取りで見えてきているのは、次の通りです。

    1)聖書を字句においても霊感を受け、誤りが無いという信仰は持っていない。原意を読み取るという主張であり、ここに主観的な読み方が入ってきて、逸脱の余地を大きく残している。

    2)日本の習俗宗教や伝統宗教の中に埋没してしまっている。日本という一般恩寵と、神のキリストにある救いという特別恩寵を区分けしていない。日本の自然や文化は神の恵みであるが、それとキリストの救いは別物であり、むしろそうした誇りはキリストの十字架につけてしまうことによって取り除かなければならないのに、その過程を踏んでいない。

    3)イスラエルと日本の両政府への食い込みは、物凄い。事実、人間的には彼らの働きには敬意を感じるほどである。良質なイスラエル情報、ヘブライ語の教育、そして日イ友好に貢献していると思う。しかし、それで彼らのしていることが正しいと思っていない。純粋にキリスト教団体として見るならば、それは、政治との密着であり不健全である。

    4)イスラエルは、自らを支えてくれる団体であれば、信条を問わず活用・利用している。日本では幕屋であるが、アメリカのロサンゼルスにあるMuseum of Toleranceには、創価学会が大きな貢献をしている。キリストの幕屋も、正統なプロテスタント教会の一部からは異端視もされているということも、おそらくわかりつつ付き合っているのではないか、と思います。

    大体、こんな感じなのですが、なんか変な部分がありましたらご指摘願えませんか?

    ちなみに、そこの信者さんだろうなと思われる人々とは、とても友好的で親切なので、無碍に警戒はしていないし、イスラエルやユダヤの日本語による情報提供には感謝しているぐらいです。社会的カルト性は少ないのではないか?と思っています。

    書きながら、私のブログ上にも、「親ユダヤ」「日本の保守派にも対話・伝道を」という意見を流しているので、混同する人たちもいたりして、と想像しています。(笑)

  3. ウェブマスターadminさん、返信遅れて申し訳ありません。
    懇切丁寧な説明をありがとうございます。

    「信者さんだろうなと思われる人々とは、とても友好的で親切なので、無碍に警戒はしていないし、イスラエルやユダヤの日本語による情報提供には感謝しているぐらいです。社会的カルト性は少ないのではないか?」

    私もそう思いました。正統的クリスチャンではないけれど、社会的カルト性は少ない。全く同意権です。

    1)はそのとおりですね。神様はギリシャ語もヘブライ語「も」話せるのであって、あくまでも全知全能。ゆえに言語のみの聖書釈義にこだわるのではなく、66巻全体の主張を拝読する必要性があります。

    2)の特殊恩寵(新約時代)と一般恩寵(異邦人への恵み)の区別ができていないのも、その通りですね。あくまでも一般恩寵はプロセスであって、それを目的とするのはクリスチャン団体としてではなく、ご指摘にように、政治活動家になってしまう恐れがあります。

    3)親イスラエルはMessianic Jewの立場を再評価するものであり、リチャード・コシミズ氏やYoutubeにあがる、聖書的に不勉強な陰謀論的反ユダヤ主義を払しょくするものであり、ヘブライ語原典への思い入れ、聖書の通読回数も、「ハンパない」(笑)
    やはり評価すべきところは評価すべきですね。

    4)そうなのです。BFPJなどの正統的クリスチャンかつ、Messianic Jew(事実上福音派)の立場としては、イスラエルに深い思い入れをするべきではなく、旧新約聖書に記された神様の「啓示」と「預言」こそを成就するべく祈るべきですね。
    イスラエルを支持する「親イスラエル」なのではなく、むしろ「親聖書」であるべきなのだと。それもPROTESTANTのBiblical infallibility,聖書無謬説で。

    まあ日本のクリスチャンは、アメリカ南部Southern BAPTISTなどにくらべると相当程度、リベラル過ぎますので(※キリスト教と国家等参照)、ある程度は日本の愛国保守派や共同体主義者たちの需要に答えてもいいのでは、とも思っております。

    そうです。親イスラエルとメシアニック・ジューは全く別物なのですが、一見すると、人々はヒトラーとシオンの議定書の反ユダヤ主義になれすぎていて、なにか我々福音派プロテスタントが「ユダヤになびいた?」と混同される可能性もあります。

    ですが、終末にはユダヤ人はイスラエルに集まるのです。

    主の恵みに感謝しつつ、主イエス・キリストの御名、父なる神、聖霊様のまじわりにより、アーメン。

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