聖書を学ぶことの難しさ、イスラエルも

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バプテスマ式を終え、この前の日曜日に新しい教材を使っての、新しい信者の学びについての説明を教会の人々に行いました。信仰的に新しい人々だけでなく、他の人々にも開かれた学び会にしたいと思っています。

というのは、これをずっと前に学んだ人が「最近になってようやく分かった」と仰られたからです。その時はただ宿題をこなすような気持ちだった、とのこと。これは信仰者全般の課題で「分かっているようで分かっていない。」というのが現状です。何度も聞いているから、分かっていると漠然と思っていたけれども、いざ言葉として口から出すことができるのか、また聖書に書かれてある通りの意味合いで、例えば、「悔い改め」「救い」「信仰」「聖霊」などの言葉を使っているのか。そして伝道の時に、福音の神のご計画を、相手に合わせながら、かつ真理を曲げることなく語ることができているか、そんな課題があると思います。

私も同じです。大学二年生になる直前に明確に信仰を持ちましたが、教会や伝道に熱心になっていた自分が就職二年後に渡米し、そこで牧会訓練校に通い始めたのですが、「悔い改め」という言葉を忘れたクリスチャン生活であったことに気づいたのです。それで、牧師などという大袈裟な話ではなく、クリスチャンのイロハに戻ろうという初心に帰りました。

こうした過程が、信仰生活の中であると思います。これはヤコブ書1章にある、「聞いているだけでなく、御言葉を実践する者になりなさい。」につながる過程です。つまり、聞いていて分かっているつもりが、生活の中で生かされていないという課題です。これをじっくりと、時間をかけて主に働きかけていただくことが霊的生活ではないでしょうか。

分かっているつもりで分かっていない聖書

聖書の学びも同じでしょう。知識的には分かっているはずの話、聖書箇所であったりします。そして教会生活が長くなると、説教を聞けば「また同じ話をしている。」と思います。そして牧者に対しても批判的になります。「俺たちは現実の生活でもがいているのに、聖書ばかり見てなんかのうのうとしているな。」

けれども牧会者は会社よりも、幼子を持っている家族のような生活です。つまり、休日や退勤がありません。暇なように見えて、そこから離れることがまずない母親や父親のような生活です。そして母や父のように、それを業務ではなく、愛をもって行なっていく”心の作業”です。お母さんが子供とアンパンマンのアニメを見ている時に、「暇しているな、テレビばかり見て。」とは言わないでしょう、牧者にも似たような場面があります。

私は以前、聖書の学びには一つの説教のために一日五時間ぐらいかけていました。つまり、五時間かける火から土、二十時間以上ということです。今は、慣れてきたのでかなり短くなりました。けれども、説教は日曜日は午前と午後の二つがあり、平日は少なくとも一つ以上あります。そして、説教を準備している合間に、いろいろな雑用をこなしています。

一つの聖書の箇所、そこにある宝を発掘する時に、あっちから見てみたり、こっちから見てみたり、つまり文脈や前後関係で見て、そして注釈書を見、他の翻訳や原語の辞典で調べて、そうしているうちに何か、もやっとした風景が見えてきて、それで最後に、教える聖書箇所の全体像が見えてきます。こうやってようやく、「ここの箇所はこういうことです。」と説教壇から話すことができます。もちろん、それらを導いておられるのは聖霊ご自身です。

聖書を読む時、初めはもちろん触りだけで良いのですが、解釈や適用など一つの判断を下すまでには、このような忍耐を要する帰納的な研究姿勢があります。

イスラエル情勢は霊的生活と連動

題名に、「そしてイスラエルも」と付け加えました。なぜか?「神はあらかじめ知っておられたご自分の民を退けてしまわれたのではありません。(ローマ11:2)」ここの「あらかじめ知っておられた」という神の予知は、8章29節で「あらかじめ知っておられる人々を、御子のすがたと同じ姿にあらかじめ定められた」につながるご性質であり、イスラエルに対する神の選びをもって、異邦人も含むキリスト者を選ばれました。

どうか、この基準に従って進む人々、すなわち神のイスラエルの上に、平安とあわれみがありますように。」(ガラテヤ6:16)

つまり、キリスト者に対して起こっていることは、イスラエルに対して起こっていることと連動しているということです。イスラエルにおける事象は、神の経綸の中で、目に見える形で地上で起こっていますが、キリスト者や教会は、永遠の救いの中で、天につながりながら、霊的に起こっています

ハマスから発射されたミサイルが近づいたサイレン音によって、身をかがめるバス停の人々
ハマスから発射されたミサイルが近づいたサイレン音によって、身をかがめるバス停の人々

イスラエルの全滅を図っているイスラム過激集団は、キリスト者も全滅すべく動いています。ニュースの中に埋もれているのは、ISISが、かつてのアッシリヤの首都ニネベの遺跡が近くにある、イラク第二の都市モスルから一人残らずキリスト教徒を追い出してしまった事です。今、宗教的理由で迫害されている世界の人々で、キリスト教徒が断トツであることを知らなければなりません。

イラクのISIS:モスルのクリスチャン社会消滅へ 2014.7.20

自由な国ゆえの想像力欠如

イスラエルについて私が学び始めたのは90年代からですが、聖書預言についての本も書かせていただいたし、それからイスラエル旅行のために、特に2010年の旅行では、中東紛争の詳細を含む多くの書物を読まされた(?)し、その中で気に入った本は今まで、ここのブログでも紹介してきました。それでも私は、今のガザ紛争の全貌を知ったなどとは到底言えない、分からないというのが感想なのです。もちろん、ある程度の状況は把握できるのですが、そこにいる現地の人々の心情、そしてそこに介在されている主の御思いについては、あまりにも奇しく、自分の思いをはるかに超えているのです。

信仰の制限されている国にいたという体験も、理解には大きな助けになっています。想像を膨らませるだけですが、ガザの市民はどうしようもないやるせなさの中にいると思います。現地のことを知る人や、内部通報者による人々の話を総合しますと、そこは少しでもイスラエル寄りのことを話したら、リンチにされる警察社会です。もちろん、イスラエルに対する怒りはあります。だからその部分を発散させて公の場では話しますが、ハマスに対する怒りは、家の中や、本当に頭に来た時に道端でも不満をぶちまける程度でしょう(参照動画)。そのような中にいると、「ひたすら黙っている」という習慣が付いていますし、しかし、そのような圧迫の中でも毎日の生活を楽しんでいこうという生活の術を身につけていると想像します。

それを、自由を前提とした日本のマスコミが、イスラエル批判の市民の反応だけ、また思想的に偏っている活動家(目立つから、ニュースネタになりやすい)のことだけ報道する。これを鵜呑みにして、イスラエルを批判するという構図です。

自国政府を批判するというのは、民主主義国のシンボルです。デモがそうです。私は日本がそうした国であることを誇りに思います。安倍首相の顔の書いた紙を破っても、それが表現や思想の自由として保障されている国です。しかし、これが水道のように、電気のようにあまりにも当たり前に恩恵とされているから、そのような圧迫の中で生きることが想像できないのです。

参考記事: 「生かす国」

知りもしないことを言い立てる

けれども、それでも現地の人々の思いと、それに介在されている主の御思いについては分からない。ヨブの言葉を思い出すのです。「あなたは全能であり、御旨の成就を妨げることはできないと悟りました。「これは何者か。知識もないのに、神の経綸を隠そうとするとは。」そのとおりです。わたしには理解できず、わたしの知識を超えた、驚くべき御業をあげつらっておりました。(42:3-4 新共同訳)」

普段は、イスラエルやパレスチナについては何の関心も示していない。彼らに対して、これっぽっちも心や祈りを持っていない。日本に直接関わるのであれば、少しだけでも関心を示してくれるかと思っていましたが、ネタニヤフ首相が来日した時は、毎日新聞以外は実質的な取材は皆無に近いほどしていませんでした。ある人が、中東情勢について「大いなる田舎、それは日本」と言った通りです。

ところが、ガザ爆撃が行われると、日本だけでなく世界こぞって無神経にイスラエルを批判する。この矛盾は、「知識もないのに、神に言い立てている」人間の姿そのものではないでしょうか?

イエスを主と認めるまで反対しつづける世界

そしてキリスト者への戒めは、世界のイスラエルを非難していることと同調しているとまずいよ、ということです。なぜなら、そのまま霊的に自分たちにも降りかかっているのですから。つまり、キリスト者として誠実に生きようとすればするほど、世から批判と非難の矛先が向きます。日本人キリスト者なら、仏式の葬儀で焼香をしないことで、非難の言葉をかけられませんでしたか?そこで葛藤し、どうすれば彼らが言うような、家族や親族に対して冷酷非道なことをしているのではないことを、理解してもらえるか知恵を使わないでしょうか?それでも、究極的には本人たちがキリストを認めなければ分かってもらえるものではありません。

同じように世界がイスラエルの神を認めるまでは、イスラエルで起こっていることを本当に理解することはないでしょう。すなわち、イエスが王の王、主の主として天から地上に戻って来られる時に、全世界は嘆き悲しみます(黙示1:7)。

生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それらは彼らには愚かなことだからです。それを悟ることができません。なぜなら、御霊のことは御霊によってわきまえるものだからです。御霊を受けている人は、すべてのことをわきまえますが、自分はだれによってもわきまえられません。」(1コリント2:14‐15)

補足情報

アニメ動画:イスラエルの立場を上手に表しています。

日本語で読めるガザ発情報:比較的中立で読みごたえのある現地発情報は、毎日新聞の大治朋子記者によるものです。普段はエルサレムに在住していて、また紛争地域からのルポも以前したことがあるようで、起こっていることを冷静に報道しています。

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例:ガザ:イスラエルが猛爆 ハマスは「人間の盾」戦術
ガザ空爆:死者100人 「被害、女性と子供ばかり」 ハマス幹部は潜伏

さらに補足・注意:毎日新聞の大治記者について、イスラエル在住の方からは次のような批判記事が載せられています。

毎日新聞 朝刊のポエム?

この批判は傾聴せねばなりません。私たちキリスト者についても、基礎知識を知らないことによる偏向記事は数多くあることを知っていますので、こうした宗教的背景を抑えないことは非常に失礼(イスラム教においては冒涜)に当たるという視点は非常に重要だと思います。

記者はおそらくアラビア語を介さないであろう、とのこと。中東における取材は国内と違って、裏取りも少なく、伝聞のものが多いとの指摘もあります。

「聖書を学ぶことの難しさ、イスラエルも」への1件のフィードバック

  1. 次のニュース記事は重要です。

    ガザからハマスの人間の盾をツイートするマスコミ関係者、死の脅迫を受ける

    ハマスは何年もかけて人口密集地域を要塞化してきました。それができたのは、無言・有言の脅迫や通報によってであり、ガザ市民は武器に囲まれて生きていることを知っています。今、多くのマスコミ人が入り、その掟を破ることで彼らが死の脅迫を受けているわけです。

    私はこうした報道に敏感です。なぜなら、上に書きましたように、私もこのような制限を受けながら生きたことがありますし、未だに、その無言の掟は守っているからです。なので、安全地帯から論評する者たちにどうしても強く反応してしまうのです、「お前ら、何にも分かってないんだ!」と。

    水や電気がなくなった、津波や地震で被災された方々なら、生活必需品の尊さを知っていることでしょう。同じように、言論や表現の自由も当たり前ではないのです。今回の戦争は、表現の自由度においても非対称の戦いであります。

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