サブカルへの伝道

昨晩は、「世における聖霊の働き」(原稿音声)ということで西日暮里バイブルスタディを終えました。聖書メッセージの中で触れた「背教」が、自分の身近に数多くあるという話を分かち合いました。

背教はいろいろな形で起こりますが、初めは非常に些細なものです。これは聖書に啓示されている真理とは違うでしょう?と少し感じるのですが、表向きはすべて正統に見えます。けれども、そこで修正しなかったために、今やあまりにもあからさまに逸脱していきます。ある牧師が、こんな例えをしていました。「(本人は南カリフォルニア在住)ロサンゼルス港から船がハワイ向けに出航する時にそれが方角に一度のずれがあって、大したことがないと思っても、ハワイのところまで来る頃には、何十キロも外れるようになる。」これが、背教や偽りの教えの特徴です。

アイドル伝道??

ところで、私が「これは変だ!」と思っている動きがあります。それは「アイドルの教会導入」です。写真は、最近、キリスト教関係者らが主催したイベントでのものです。ネット上でも批判があり、主催者側からの弁明や反論、また批判するような者を批判する逆批判(?)も読みました。

ミニまとめ:「アイドルを礼拝する」「アイドル宗教」と「いのりフェスティバル」がコラボ – NAVER まとめ

アイドルという存在について、私は幼い時に、薬師丸ひろ子とかポスターを自室の壁に貼っていましたが、周りがアイドルを求めていたのでやっていた面があり、やはりそれに”はまる”心理が分かりませんでした。けれども、教会に来ている、求道している若い女性が、上の写真を見て「呪われよ」とコメントしていたのを見て、はっとしました。どうしてそこまで嫌悪感が出るのか?アイドルについての心理で役に立った記事が次です。

AKBの正体見たり!「プラトニック・フーゾク」?

サタンの会議「AKM48計画」

アイドルに夢中になる女性心理「強い性的欲求を満たすため」

三つの記事に共通しているのは、これが性的欲求発散の手段になっていることです。けれども、現実の接触をするのは勇気がない、それで空想の中で発散しているというものです。これは二重の深刻な罪を孕んでいます。一つはもちろん不品行、もう一つは聖書的定義の「愛する」ということを回避していることです。

後者をもっと説明しますと、神を愛し、また人を愛するには、人格的な関わりあってこそのものであり、キリストの十字架はまさにその関わりのゆえ傷を受けている姿であります。これを神は永遠の、最後に示された愛としておられるのですから、私たちは傷を受けるという危険性も承知の上で、互いに主にあって交わるのです。これを基本的に避けているのが、アイドル・オタクということでしょうか。

上のイベントの主催者の一人の弁明は、「教会に来ることのできない人々が、来ることができるようにする実験の一つ」としていますが、これは、それ以前の問題です。世の中には、当然、教会にはどうしても足を運べない負い目を持った人たちで満ちています。事実、私自身、今、教会に集っている者たちも神の恵みによって集っている、元々負い目を持った者たちです。イエス様はそのような罪人と食事をする方です。しかし、イエス様はそのような人々が「悔い改める」ために食事をしたのであり、イエス様にその罪を犯す場を提供することは、断じてなかったのです。

教会は、罪を悔い改める罪人の集まる場であり、罪を犯す場ではありません。

水商売にいることの悩み

アイドルではないですが、私は身近なところで、ナイト・クラブ等、水商売に関わっている人がクリスチャンになったという人々の手助けをしたことがあります。ある兄弟は、ナイトクラブでヴォーカルをしていました。けれども教会とのギャップで悩み苦しみ、いつしか教会に来なくなりました。僕たちは彼に連絡を取り自宅に来てもらいました。

そして、こう言って励ましました。「ナイトクラブで働いているからといって、二流クリスチャンだということではない。どうだろうか、礼拝出席を再開させて、また家でも聖書の学びをしないか?」彼はそれ以降、教会の礼拝と、また聖書の学びのために週一度自宅を訪れるようになりました。かつては職場で酒と女という問題で悩んでいましたが、その誘惑にも打ち勝つことができました。そうしているうちに、教会で賛美チームにも入るようになり、主に熱心な者となりました。

彼自身は、けれども機会あらば、ナイトクラブで働くのを止め、歌を教える教室を開きたいと願っていました。

真実に魂の救いを得た者は、できればそうした職をやめたいと願っています。けれども、その機会が与えられるまでは、その職の中で何とか自分を聖く保つ道を主によって備えていただくのです。そして、その微妙で、宙ぶらりんにも見えるような状況をも主は用いてくださり、ナイトクラブにいる客や同僚などを教会に連れてくる、主のところに人々を連れてくるアンドレのような弟子になりました。

概して、水商売に関わっている方々は、人を見る目があります。初めて会った時に、その人はどのような人かを見分ける目を持っています。そして、ごく自然に人々と関わることができ、それで教会にも自然に人を連れてくることができます。

けれども、繰り返しますが、水商売はできるならやめたいと思っているのです。

ただ、おのおのが、主からいただいた分に応じ、また神がおのおのをお召しになったときのままの状態で歩むべきです。私は、すべての教会で、このように指導しています。召されたとき割礼を受けていたのなら、その跡をなくしてはいけません。また、召されたとき割礼を受けていなかったのなら、割礼を受けてはいけません。割礼は取るに足らぬこと、無割礼も取るに足らぬことです。重要なのは神の命令を守ることです。おのおの自分が召されたときの状態にとどまっていなさい。奴隷の状態で召されたのなら、それを気にしてはいけません。しかし、もし自由の身になれるなら、むしろ自由になりなさい。奴隷も、主にあって召された者は、主に属する自由人であり、同じように、自由人も、召された者はキリストに属する奴隷だからです。あなたがたは、代価をもって買われたのです。人間の奴隷となってはいけません。(1コリント7:17-23)」

こうした状況に最も適した御言葉が、上であると思っています。機会があるなら、その職や立場から自由にされなさい。けれども、主の命令を守ることが大事であり、それを無理やりに変える必要はない、という立場です。

アイドルの提供ではなく、アイドルからの救いを!

アイドル・オタクについては、どうでしょうか?もしその動機が性的欲求の発散であったり、人との接触を避けているというものであれば、新生したクリスチャンなら、「やめたい」という思いが当然与えられるはずです。そういう人々を私たちは助ける奉仕をすべきであって、かえってつまずきを与える機会を、「伝道」という場で設けるというのは、私の想像力をはるかに越えてしまいます。

このような意見を「パリサイ的だ」と非難するのであれば、私は反論したい。「それこそが、キリストの愛を冷やす元凶だ。」と。事実、私たちの中で拒絶反応を起こした求道者の方がおられる。他にも、そうした文化に近いところにいる人々からは、ものすごい強い反発が出てくるでしょう。

そして遠くにいる人々からも、不必要に教会の中に賛否両論の対立を起こす。これが、聖なる召しによる、主の御霊の働かれる突破口となっているのあれば、それは起こるべくして起こっている摩擦でありますが、この件については、コリントの教会で起こっているような、痛みと悲しみを伴う分裂を引き起こすのではないかと思います。

まず第一に、あなたがたが教会の集まりをするとき、あなたがたの間には分裂があると聞いています。ある程度は、それを信じます。というのは、あなたがたの中でほんとうの信者が明らかにされるためには、分派が起こるのもやむをえないからです。(1コリント11:18-19)」

サブカルチャーへの伝道

私はサブカルへの伝道を否定する者ではありません。むしろ、妥協なき福音宣教をサブカルの中で展開することを願っています。しかし、手段はサブカルでも、罪を受け入れるのではなく、罪を悔い改め、神に立ち上がる、十字架のことばを伴った宣教です。ちなみに、母教会カルバリーチャペル・コスタメサでは、サブカル伝道を毎週しています。

Shine Outreach

見た目は完全にサブカルですが、その中身は「自分を捨てよ」という、キリストの弟子になる呼びかけです。教会に行かない人々は、むしろ私たちが妥協しない姿を見て、その塩気が気になって、魅かれていくのではないでしょうか?彼らと同じところに立って、けれどもキリストの立場を決して妥協せず、むしろその光を見せていくのです。これこそ、その人々を神の愛で包み込むことであり、教会に招くことではないでしょうか?

The Whosoevers
(「誰でも」(ヨハネ3:16から)

メンバーの一人
https://www.youtube.com/watch?v=I4EPOvJay2w

「サブカルへの伝道」への2件のフィードバック

  1. 私は、神の愛は本当に大きなモノだと分かりました!!

    自分で悪いと分かっていながら
    現状から未だ抜け出せて居ない
    自分が、まだ環境に馴染めて居ない。

    過去の自分が、今になれば嫌いで仕方ありません!!これからは、新鮮な気持ちで入れる様に、健全なクリスチャン生活を再び追求して行く!!

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