皇室とキリスト教

昭和天皇実録今、皇居にて「昭和天皇実録」が公開されています。それに基づいて、週刊朝日が次の記事を書いて、ちょっとした話題になっています。

昭和天皇、キリスト教に関心の理由

(オンライン化されたこの記事は貴重だと思いますので、コメント欄に保管させていただきます。)

同じ週刊朝日の関連記事には、眞子さまと佳子さまが国際基督教大学に入学したことについても、「“佳子さまICU志望”で考えた 皇室とキリスト教はどんな関係?」という記事に書いています。

このような報道で驚く方々も多いと思います。それは、私たちが受けてきた教育がそうであったからでしょう。路傍伝道をしても、「日本は仏教と神道の伝統をもった国であり、キリスト教は西洋の宗教だ。」と考える一般の方々が圧倒的で、クリスチャンになっても、そうお考えになっているかもしれません。

けれども、皇室とキリスト教の関係は明治時代からかなり広く、深いです。むしろ、一般市民よりもキリスト教にもっと触れており、人間関係の中でも、知識的にもキリスト教に近い人々であると言ってよいと思います。今上天皇が少年であられた時、家庭教師は、クューカー教徒のヴァイニング夫人であったし、現皇后は聖心女学院出身であり、カトリック信仰を持っていたのではと言われています。そして、私の身近な人でも皇室に接触があるであろう宣教師がいます。

https://youtu.be/2k5IpnMPprs

社会に浸透しているキリスト教

日本社会におけるキリスト教の影響は、皇室だけではありません。日本は、ある意味で柔軟にキリスト教文化、西洋文化を他のアジア諸国以上に取り入れてきて、それが自分たちの一部になっている国です。どのアジア諸国よりも西洋化された人々であると言えるでしょう。明治維新の近代化に登場する有名人で、キリスト教の宣教師等に触れなかった人を探す方が難しいと言えるかもしれません。そして現代に至るまで、政治家でも、文化人でも、企業人でも、隅々まで何らかの形でキリスト教に触れています。

・現千円札の肖像「野口英世」は、クリスチャンでした。(参照記事
・前五千円札の肖像「新渡戸稲造」は、熱心なクウェーカー教徒でした。
・安倍首相夫人、昭恵さんは森永製菓創始者、森永太一郎の曾孫であり、森永氏は熱心な福音伝道者でした。

日本のクリスチャン有名人一覧(ウィキペディア)

聖書に触れた人々

生活に根づくアジアの教会と、洗練された日本の教会

日本社会へのキリスト教の影響はかなり大きいと思いますが、けれども、日本人の心の中にどこか「棲み分け」をしているのではないか?と思います。クリスチャン人口を圧倒的多数で持つ韓国が、キリストの香りを放っているのかと言えば、必ずしもそうではない社会問題を数多く目にします。そして中国もクリスチャンが一割に達していると言われているけれども、キリスト教の影響をその体制も社会構造にも、見ることができません。むしろ日本のほうが、そういった意味でキリスト教の価値観が根付いている部分が多いです。

けれども、教会生活そのものを見ると、韓国や中国のほうが自分の生活にしっかりと信仰が根付いています。西洋というものから離れた、アジア文化の中にある信仰を見ることができます。日本の教会ではそこまで達していないジレンマがあります。教会の中に入ると、西洋化といいますか、洗練されている部分の自分と言いますか、それも疑いのない自分の一部がいます。けれども、それだけではない他の自分もおり、それはそれで一般生活で生かしているのです。

日本にいるキリスト者と言われている有名人の姿を見ても、生活においてどこまでその信仰を貫いているのか、端的に言うならば「信仰が弱い」と思わざるをえない人々が多いです。心の中では神を信じているのですが、それがご自分の仕事や社会の中で変化や摩擦が起こると思われるところでは、外の流れに合わせている部分が大きいのではないかと思います。キリストに拠り頼むというより、その人の生来の誠実さに拠っているところも大きいのではないか、と。

試練があるからこその神の国

この前の東アジア青年キリスト者大会の事前合宿で、中華系の兄弟が教えてくれたことですが、彼は日本の教会の動向を調べているのですが、「災害が起こると、日本では教会が減る。けれども他の国では、国難において教会が伸びる。」という指摘をしておられました。この発言に私は愕然としました。ということは、日本人の福音理解にズレがあるのではないか?と思ったのです。

イエス様は、「義のために迫害される者は幸いです。」と言われました。神の国というのは、反対のある中で、試練や困難のある中で、むしろ拡大していきます。そのように神がデザインしておられ、福音の性質がそうなっているのです。だから韓国では朝鮮戦争後に霊的復興があり、中国大陸では文化大革命後に現在にまで至る霊的大復興があるのです。

単純な信仰、そして妥協しない、対立をも避けないで取り組む信仰、詩篇にある戦いの中でのダビデの必死の祈り、つまり、自由とは外からの圧迫のない状態ではなく、キリストを主として従うところにある内的自由であること、これらを体得していく必要があるでしょう。以下のブログ記事をまだお読みでない方は、どうぞ。

単純な信仰のススメ

きちんとした「牧師」の欠け

キリストを主とする自由

「皇室とキリスト教」への6件のフィードバック

  1. 昭和天皇、キリスト教に関心の理由

    歴史学者や作家が「昭和天皇実録」を読み解くなかで、新たな昭和史の断面、昭和天皇の素顔が浮かび上がってきた。政治学者の原武史・明治学院大学教授(52)は母、貞明皇后との微妙な親子関係に注目し、そこからつながる昭和天皇のカトリックへの傾倒とその狙いを分析した。

    *  *  *
    「昭和天皇実録」で私が注目したのは御告文(おつげぶみ)です。これは天皇が神に自分の思いを告げるための文。神社の祭神に伝える御祭文(ごさいもん)というのもある。終戦の詔書(しょうしょ)など、国民に対して出す詔書は公表されてきたが、御告文や御祭文はほとんど明らかではなかった。それが今回、いくつか公表されたことに驚きました。

     たとえば太平洋戦争開戦直後、1941(昭和16)年12月9日の祭祀(さいし)の際の御告文。「海に陸に空に射向ふ敵等を速に伐平らげ皇御国(すめらみくに)の大御稜威(おほみいつ)を四表八方に伊照り徹らしめ給ひて」とある。

     これが1894(明治27)年に日清戦争を開戦した際の明治天皇の御告文とそっくりなんですよ。「明治天皇紀」によると、日清戦争の時は「海路陸路に射向ふ冦等を速に伐平らげ食国の大御稜威を天下に照輝かし」と言っている。明らかに昭和天皇は、日清戦争の御告文を下敷きにしている。

     もっとびっくりしたのは日本が降伏する直前の1945(昭和20)年7月30日から8月2日にかけて、宇佐神宮(大分県)と香椎宮(福岡県)、氷川神社(埼玉県)に勅使を送ったことです。宇佐と香椎へ使いを送る「勅使参向」は10年に1回の恒例行事。氷川神社は例祭。そこで「敵国撃破」を祈らせた御祭文が実録に記されている。

     氷川神社の例祭は8月1日なので、これに合わせて勅使を送ったという見方もできるでしょう。しかし、宇佐神宮と香椎宮は本来10月に勅使を送るべきところ、7月30日と8月2日に送っている。ここには意図的なものが感じられます。

     香椎宮の主祭神は神功皇后で、宇佐神宮は応神天皇。神功皇后は、応神天皇を身ごもりながら三韓征伐に行ったという逸話が「日本書紀」などに書かれている伝説の皇后です。

     10日あまり後に日本は降伏する。天皇は戦争終結の気持ちをほぼ固めていたであろうこの時期に、なぜ強い調子で敵国撃破を祈らせたか。しかも、なぜ伊勢神宮ではなく、香椎宮と宇佐神宮だったのか。

     これは天皇本人の意思というよりも、母・貞明皇后の意向を反映していたのではないか、というのが私の説です。

     貞明皇后は神功皇后に対する思い入れが強く、22(大正11)年には自ら香椎宮を参拝して、神功皇后の霊との一体化を願う和歌まで詠んでいます。神功皇后の三韓征伐を史実と信じた貞明皇后は、45年になっても戦勝を祈り続けていました。昭和天皇が香椎宮と宇佐神宮に勅使を送ったのは、母親向けのポーズだったのではないか。

     祭祀や儀式に厳格だった母親との関係を想像させる話をもう一つ。父親の大正天皇が病気のため、皇太子だった昭和天皇はヨーロッパから帰国して間もない21年11月に20歳で摂政になります。

     摂政になると、天皇の代わりに祭祀もやらなければならない。天皇にとって最大の祭祀、毎年11月の新嘗祭(にいなめさい)も摂政の務めになる。

     しかし翌22年の11月23日、皇太子は新嘗祭に出ていない。陸軍特別大演習の統監と地方視察のため四国にいたからです。当日は迎賓館として建てられた松山市の久松家別邸、現在の萬翠荘で終日、謹慎することになっていた。ところが今回の実録で、皇太子はビリヤードと将棋をしていたことが明らかになった。

     謹慎すべき日に遊んでいたことが貞明皇后にも伝わり、宮中に激震が走ったんじゃないかと私は推測しています。というのは翌23(大正12)年の実録を読むと、皇太子は半年前の5月に、もう新嘗祭の習礼、つまり練習を始めているからです。この年は新嘗祭をしっかりやらねばならない状況になっていた。

     摂政になる直前の21年、皇太子は半年かけて欧州各国を訪問しました。この訪欧で私が興味をひかれたのは、最後にイタリアに行きローマ法王ベネディクト15世に会ったことです。

     法王はカトリック教会の逸話を紹介し、日本が教会と提携するよう皇太子に勧めた。朝鮮独立をめざす3.1運動が19(大正8)年に起きた際、カトリック教徒が動かなかったことに触れ、「カトリックは確立した国体・政体の変更を許さない。世界の平和維持・秩序保持のため過激思想に対し奮闘しつつある最大の有力団体」と述べた。たとえ日本がカトリック国になっても、天皇制は微動だにしないですよ、と説いたわけです。

     訪欧最後のこの体験が、若き昭和天皇に強い印象を与えたのではないでしょうか。というのは、対米開戦直前の41年11月2日、天皇はローマ法王を通じた時局収拾の検討を東条英機首相に提案しています。開戦直前から、バチカンを通じての戦争終結の手段を考えろと言っていたわけです。

     敗戦後の占領期、天皇はキリスト教、とくにカトリックに接近しました。キリスト教徒に頻繁に会い、たとえば牧師の植村環(たまき)からは香淳皇后とともに聖書の進講を受けています。植村が訪米する前後にも会い、トルーマン米大統領への伝言を伝えている。

     実は皇后は戦前からキリスト教徒と親しかった。開戦後の42(昭和17)年から44(同19)年にかけて、皇后はキリスト教徒の野口幽香(ゆか)を宮中に招き入れて定期的に聖書の講義を受けています。天皇はこれを黙認していました。

     天皇は外国人とも会っています。聖心愛子会というカトリック団体の聖園(みその)テレジアというドイツ生まれの修道女。慈生会のフロジャックというフランス人神父。48(昭和23)年1月23日の実録によると、天皇はフロジャックが日本のカトリックの現状を報告するためローマ法王庁を訪れる前後に会っている。6月9日にはローマ法王庁から来日したスペルマン枢機卿らの一行とも会いました。

     側近に地方のキリスト教事情も調べさせている。46年9月7日の実録によると、元侍従次長の木下道雄が7月28日から8月17日まで、九州でカトリックの状況を視察して天皇に報告しています。

    敗戦直後の天皇にとって、九州は特別な場所だったのではないか。まず何よりも、終戦直前に敵国撃破を祈ったのが九州の宇佐と香椎だった。しかしその1週間後、長崎に2発目の原爆が投下されました。そのため天皇は、もともとカトリック信者の多かった九州で人心が動揺し、信者が増えたかもしれないと思ったのではないでしょうか。

     49(昭和24)年5~6月に九州を訪れたときには、各地で熱狂的な歓迎を受けるものの、天皇は長崎県大村市や大分県別府市のカトリック施設を訪れたとき、予定よりも30分長くとどまったり、予定にない聖堂の視察をしたりしたことが、実録から確認できます。

     48年8月24日にウオーターズというオーストラリアの新聞主筆と会った際は、キリスト教に帰依するか質問され、「外来宗教については敬意を払っているが、自分は自分自身の宗教を体していった方が良いと思う」と答えている。当時は天皇がキリスト教に改宗するといううわさが広まっていたので、打ち消したわけです。

     天皇がカトリックに接近した理由は、やはり21年の訪欧の経験が効いていると思います。敵国撃破を祈ってしまった神道に対する反省があったことや、共産党が合法化されて左翼活動が盛んになり、革命の恐怖があったことも挙げられるでしょう。しかし最大の理由は、GHQ(連合国軍総司令部)やマッカーサーに従い、皇太子の英語教師としてクエーカー教徒のヴァイニング夫人を呼ぶなど米国経由のキリスト教を取り入れる一方で、米国に対抗できる別のチャンネルも確保しておきたいという思惑があったからではないでしょうか。

     天皇は、退位すべきかどうか悩んでいたはずです。内大臣だった木戸幸一による「木戸幸一日記」には、45年8月29日に「戦争責任者を聯合(れんごう)国に引渡すは真に苦痛にして忍び難きところなるが、自分が一人引受けて退位でもして納める訳には行かないだらうか」ともらす天皇の姿が描かれています。

     一方、実録では、同じ場面が「御下問になる」と表現されており、ニュアンスが異なっています。実録の68(昭和43)年4月24日には、天皇が占領期を回想して稲田周一侍従長に「退位の意思はなかった」と言ったと記され、実録全体が天皇は一度も退位の意思を示さなかったという前提で編集されているのです。

     昭和天皇は、日本統治のため天皇の存在は有用だと考えたマッカーサーにより、退位の道を封じられた。では、それ以外のどんな方法で戦争責任を取れるのか。昭和天皇が占領期にカトリックに接近したのは、退位しない代わりにカトリックに改宗する道を探り、戦争責任と米国からの相対的自立という二つの課題にこたえようとしたからではないでしょうか。

     しかし、東京裁判の判決を受け入れる代わりに日本の独立回復を認めた51(昭和26)年のサンフランシスコ平和条約と日米安保条約により、改宗の可能性もまた封じられてしまった。そう私は考えています。

    ※ 週刊朝日  2014年10月3日号

  2. 皇室(や宮家)に仕える人にキリスト教徒が多いという話、その影響もあるのかもしれません。

  3. まず、皇室職員そして皇族の大半がクリスチャンであることは「公然の秘密」という位置だと思います。
    また、伊勢神宮および主要神社の創建に深く関与したのが渡来豪族でユダヤ系の血を引く古代東方キリスト教の「秦氏(秦河勝)」であるので皇室神道は古代東方キリスト教がオリジナルだと考えるのが自然だと思います。
    そして、古代東方キリスト教の発祥地と日本とのシルクロード経由の連絡は長く途絶えてしまっているので、現在の皇族は西方キリスト教(カトリックなど)の人を入れて(お嫁さんに迎えて)体質のリニューアルをしているというのが現状だと思います。
    上記の理由からなのか、現代の皇室へ嫁ぐお嫁さんはキリスト教系の名家からというのが事実上の不文律になっているようです。(美智子皇后:カトリックの正田家、三笠宮信子妃:カトリックの麻生元総理の妹、雅子妃:実家はカトリックで妹たちの洗礼名も公表されている、紀子妃の家系も古くからのキリスト教家系・・・などなど)
    皇室神事を執り行っている式部職(雅楽奏者など)は前記の「秦氏」の末裔(東儀家など)が代々務めていますが、それらの皇室職員は自分の家系(古代東方キリスト教)を理解しているようで大半がクリスチャンとして都内の名門教会数か所に分散して属しています。
    日本雅楽協会も「雅楽は古代東方キリスト教音楽」と公式に認めているようです。
    また、式部職だけでなく、歴代の宮内大臣(宮内庁長官)、侍従長、女官長、書陵部長、その他各種部門長などの多くがクリスチャンであることは公開情報としても有名です。さらに皇室参与に起用された各界の人物もほとんどがクリスチャンです。
    たとえば、現職の川島裕侍従長(元外務事務次官)はカトリック信徒であり、国際機関で活躍の緒方貞子氏(カトリック系の重鎮)といとこ同士、前職の渡邊允侍従長(元外務省高官)は聖公会クリスチャンで明治元勲の大山巌元帥と大山捨松夫妻の子孫。
    その他の歴代侍従長もクリスチャンが大半です。
    女官長はこの50年近くクリスチャンがリレーし続けています。
    田島道治宮内庁長官(無教会派)、宇佐美毅宮内庁長官(クエーカー)などもクリスチャンです。
    上記両長官と同時期に皇室に仕えた三谷隆信侍従長(元外務省高官・無教会派クリスチャン)は女子学院の創立者でキリスト教女子教育界の大物である三谷民子氏とは異母兄妹です。
    昭和天皇の即位後初代の侍従長珍田捨巳伯爵(元外務次官)はクリスチャンであるだけではなくメソジスト派の牧師でもありました。
    珍田伯爵と同時に起用されたのが牧野伸顕宮内大臣と関屋貞三郎宮内次官ですが、関屋次官は無教会派クリスチャンで、その妻の関屋衣子氏(聖公会クリスチャン)は貞明皇后の生涯にわたる相談役を務めました。
    牧野宮内大臣は自分の信仰を明らかにしてませんが、欧州駐在中に娘(雪子、後の吉田茂夫人)が幼児洗礼を受けており、曾孫に麻生元総理がいますのでカトリックだと推定できるでしょう。(リベラル派の要職が次々と暗殺の対象になる時代だったのでキリスト教信仰の表明には危険がともなっていた)
    また、幕末の大名の「最後の藩主」たちには一般庶民への禁教令が解ける以前から熱心なキリスト教信仰を始めていた大名が多く、それらの大名は廃藩置県の後は皇室に入って要職に就いています。
    具体的には岡部長織(岸和田藩最後の藩主)、九鬼隆義(三田藩最後の藩主)・・・などなど。
    岡部長織は法務大臣や東京市長なども務め、名門の霊南坂教会や東京キリスト教青年会(YMCA)の創立にも尽力しています。そして晩年は大正天皇と貞明皇后の夫妻に側近として仕えました。
    さらに、眞子さまと佳子さまの大叔父にあたる三笠宮崇仁親王のライフワーク(古代オリエント文明の研究)の本拠地であり、三笠宮さま自身が設立と運営をしている「中近東文化センター」は国際基督教大学(ICU)の敷地の一角にあります。
    これらのことから帰納的に導ける結論としては、皇室は日本で最も長く続く伝統的なキリスト教信仰の家柄であり、眞子さまと佳子さまが国際基督教大学(ICU)にご入学なさることは全く「不思議なこと」ではなく、あまりにも「自然なこと」だと推定できるのではないでしょうか。

  4. 私は、確かに皇室の中に一般に考えられている以上にキリスト教の影響はあるという考えですが、1)元記事で書いたように、イエスを主とする明確な告白はしていないこと(影響を受けているが、個人的なキリストとの関係はない)、列挙されている皇室の人々の中で、公の場で「私はキリスト者である」という言葉がありません。2)数々のキリスト教との関係には憶測が多分にあり、何も結論づけることはできない、むしろ1)の理由から、「キリスト教信仰の家系ではない」と結論づけることができます。

    そして、古代神道をユダヤ・キリスト教に結びつける考え方は、歴史的根拠が乏しいだけでなく、その根本真理において異なる信仰を接ぎ木することによって、信仰的、霊的な弊害が大きいという見方を持っております。

    参照記事:「神道を摂取する宣教?」「左から右に揺れる教会」「「狭き門」という開かれた戸

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