「反対」の前にすること(政治について)

「殺す」と「殺害」の違い

上の副題から唐突かもしれませんが、モーセの十戒「殺してはならない」からのお話しです。

Ten Commandments “Do Not Murder”

発言者はデニス・プレガーというアメリカの政治論客で、自身、敬虔なユダヤ教信者です。モーセの十戒の、第六「殺してはならない」のヘブル語は単なる「殺す(Kill)」ということではなく、「殺害(Murder)してはならない」ということ。Murderとは、「不法に、不道徳に人の命を奪うこと」という意味です。

そして、モーセ五書の中ではっきりと命じられていることは、「殺害者は殺されなければならない。」ということです。もちろん思想の自由があるから、動物愛護の観点から動物を殺してはいけないと考えてもいいし、平和主義(死刑もだめ、自衛行為もだめ、殺すことはすべてだめ)と考えるのも自由だけれども、その考えを話す時にモーセの十戒を引用するのは、完全な誤用であるとのことです。

私も同じように考えていました。ブログ「左から右に揺れる教会」で言及したように、平和主義は聖書から導き出せるものではありません。モーセ五書全体に、「命を取る者は、人によって命が取られる。」という命令が書かれており、すべての殺人を第六戒が禁じているのなら、律法の中で自己矛盾をきたしていることになります。

このことを持って、即座に死刑制度賛成であるとか、戦争賛成という話ではもちろんありません。それよりも、何を持って殺害なのか、つまり、不法で不道徳な殺人なのか、その根拠や「内容」をしっかり吟味して、適用する努力を怠ってはならないということだと思います。

参照ブログ:「「平和主義」で傷つき、悩むキリスト者たち

神は敢えて悩ませておられる

このような立場は単純に反対するよりも、大変で、面倒な作業です。けれども、そのような悩みを持ちつつ取り組むことこそが、神の御心だと思います。神の国とその義は絶対ですが、この地上に起こっていることはキリストの再臨の前は不完全です。けれどもその不完全で限界を持っている人間やその制度を、ご自身の憐れみによって神は立たせておられるのです。

そして、一つ一つの争点において悩み考えていくうちに、自分の考えていることは絶対ではない、神のみが絶対で、神のみに義は属しているという、心の余裕ができるのです。だから、反対の意見を持っているような人に出会っても、その異なる視点から真実に関わる事を読み取ることさえできます。

過去に特定秘密保護法案について、ブログ記事で福音派の中で見られる反対運動について疑義を表現しましたが、そこでも問題は、「何をもって特定秘密なのか?」という問いかけはあまりなされず、秘密にすること自体が悪であるかのように、反対が先んじていることが問題であります。下のブログはその点を取り扱っています。

誰が適用対象者なのか?

不信者にさえ与えられる神の権威

「神は、神を信じていない者さえ立たせ、用いておられる」という部分が、今日のキリスト教会、殊に福音派の一部に欠けています。ある政治の争点においてそれを聖書で判断して、合致しなければ退け、それに反対するというに二項論に陥っています。例えば、天皇制について考えてみましょう。キリスト教会の中では、

「天皇は神道の祭司である」
「神道は偶像礼拝だ」ゆえに、
「天皇制に反対することが、御心だ」

という単純公式が主流となっています。しかし私は、聖書は、

「ローマ皇帝は神としてあがめられている」
「しかし、皇帝は人間である」ゆえに、
「人間としての皇帝を、敬え」

ということで、皇帝を人間にして、神が立てた人として敬うように言っていると思います(1ペテロ2:13‐17)。不信者は、神と人との区別があいまいにし神格化をしていく中で、キリスト者はそれをしないから迫害される、ということはありますが、皇帝そのものに反対したという記述は、聖書のどこにもないばかりか、そうしないように戒めています。

次のブログは、そのことを上手にまとめています。これを知るだけでも、聖書信仰を持っているキリスト者が、地上の人の政治についてどういうアプローチで臨めばよいか深い理解が与えられるでしょう。引用以外の文章も読まれるとよいでしょう。

今、日本の政治を考える(1) から

(引用始)自称「福音派」の問題の根本には、聖書の読み方の歪みや、聖書の世界観・歴史観に関する理解のズレがあるのかもしれません。

聖書の世界観では、主(YHWH)は唯一の神、永遠の存在、万物の創造主、全宇宙(cosmos)の支配者です。主は完全に善なるお方です。悪魔は神ではなくて天使であり、神=主の支配下にあります。

ゾロアスター教の世界観は、善なる神と悪なる神の力が拮抗しているという二元論でした。案外、クリスチャンでも、それに似た世界観で考えて、生きている人が多いのではないでしょうか。

神=主は、この地上世界の歴史を支配し、導いておられます。主は、選民たちの共同体(イスラエル民族、キリスト教会)を支配しておられるだけでなく、主を神として認めない異教の国々も、主の計画の中に位置づけて、動かしておられます。このような考え方を「二王国論」あるいは「二統治説」といいます。

なぜ主イエスは、「自分は見えている」と言い張るパリサイ人を、批判なさったのか。なぜ王なるキリストが「罪人の仲間」=アウトサイダーとして生きておられたのか。なぜ「最も小さい者のひとり」を大切になさったのか。なぜ「カイザルのものはカイザルに、神のものは神に」と言われたのか。筆者は、パクス・ロマーナと現代世界を重ねつつ、その意味を考えさせられております。(引用終)

いかがでしょうか、キリストは再臨されれば戦争をやめさせますが(イザヤ2章)、百人隊長には剣を捨てよと言わず、その信仰をほめたたえられました。キリストご自身が不完全な人間の制度の中に、父なる神から来ているものとして自ら服されたのです。「戦争反対」とキリスト者が連呼する時に、私はかえってパリサイ派的なものを感じるのですが、いかがでしょうか?

「「反対」の前にすること(政治について)」への5件のフィードバック

  1. 〜12月初旬の日本を愛するキリスト者の会の記事について〜
    >>
    私はキリスト者として強い反対を表明しなければいけない根拠となっております。

    確認ですが、このコメントは、あなた様の言葉ですか?
    そうじゃあないですよね!
    誰が言ったかは興味ありませんが、私には、理事のコメント欄が、信仰について何一つ書かれていないように感じます。一般的なプロフィール内容や、日本人クリスチャンとして、意思表明にすぎない単純な内容と理解しています。
    同じクリスチャンとして、理事コメントの記事内容からは、神道の混在は、読み取る事が出来ませんでした。
     また、会の発足から1ヶ月くらいしか、経過しておりません。
    あなた様のおっしゃる通り、「強い反対の前にする事」(表題拝借しました)は、「祈り」ではないでしょうか。

  2. 私が、そのコメントを書きましたが、もう一度、お読みいただけますか?仰っているように、理事の方々のコメントには神道についてのことは書いていないことを述べています。むしろ、個人的には、同感できる面もあることを記しております。

    けれども、「自虐史観からの脱却が、リバイバルのきっかけとなる」という面には反対している、と申し上げました。ここは政治的なことではなく、霊的な部分であり、福音理解にずれがあるという懸念を申し上げています。

    私がお話ししていたのは、事務局長の趣意書と副事務局長のコメントのことです。どちらにも神道のことに触れられており、深刻な霊的問題を感じます。私は政治的立場ではなく、福音の固持という意味でこの会に反対表明を出しています。

    (ところで、話は変わりますが、当初おられた理事のお一人がいなくなっておりますね。)

  3. 私には少し難しく解りにくい事もありますが、、、
    >>自虐史観からの脱却が、リバイバルのきっかけとなるには反対している
    >>個人的には、同感できる面もあること
    これら全て主は、えきに変えてくれますね。
    しかし、ありがとうございます。
    関わる方々も同じ兄弟姉妹ですから、意見を言う事は大切ですよね。
    ますます、祈っていきましょう。そして、温かく見守ってください。
    宜しくお願いいたします。

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