映画「ハクソー・リッジ」

今日、楽しみにしていた映画「ハクソー・リッジ」を妻といっしょに観ることができました。戦闘中に手足がもげたりと、残虐な場面が多出する中で、涙が溢れ出てどうしようもありませんでした。キリスト者が戦争という現場で、その泥沼を飲みながらもなおのこと、証しを立てて行った、ということで、本当に凄い内容だと思います。

沖縄戦で武器を持たずに75人を救ったクリスチャン兵の実話 映画「ハクソー・リッジ」

3月に行われた「カルバリー20’sキャンプ」で、「社会に仕える」というテーマで、この映画のことを言及しました。ロイド・ジョンズ著の「働くことの意味」において、奴隷制度という不条理な制度の中で、なおのこと主にあって主人に仕えなさいと使徒たちは命じましたが、泥沼の中でその泥水を飲みながらも、祈り、証しを続けて行く時に、信頼関係が醸成されて、時が来て、御心がなっていく、という原則を見ることが出来ます。戦争に従事するという、究極の不条理の中で、なおのこと神に与えられた良心に裏切ることなく、証しを立てたのだろうと、主人公デズモンド・ドスの生涯を見て思いました。

最も感動する場面は、次の場面。ドスの果敢な救護活動の後に、上官が彼に赦しを請い、そして部隊の仲間が、彼のように自分たちは信仰を持っていないけれども、ドスが神を信じていることは本当に信じている。その奇跡の中の一部に自分たちもなりたいと思っている、ということ。それからドスが祈り終わるまで、部隊は出発しなかったことです。完膚なきまでに信仰の証しを立てています。

信仰の持ち方が少し違っても、輝いている証し

因みに誤解なきよう、何点か書き留めたいと思います。

①デズモンド・ドズ氏の信仰は、セブンスデーである。
セブンスデー・アドベンティストは、プロテスタントの教会の中で亜流と言われています。土曜の安息日を守ること、その他の律法を守ることについて、恵みと律法の境界線があいまいです。
②キリスト者は必ずしも非戦ではない
武器を取らないことが、信仰上の良心になっていますが、必ずしもキリスト者が全員、武器を取らないとは限りません。殺してはならないということと、殺害してはならないということは別であり、戦争をどう受け止めるかで、人々の命を守るために武器を取ることもある、という立場もあります。
③大事なのは、「良心を清く保ち、なおのこと世に仕えること」
それでも、その信仰による良心を清く保ち、なおのこと主にあって世に仕えるというテーマにおいて、この証しは輝いています。

覚えるべき沖縄戦

そして沖縄戦であるということについて、興味がありました。3月に平和祈念公園やひめゆりの塔を訪れたので、他の日本の戦争の中でも沖縄戦の特異さを知って衝撃を受けたのですが、広島や長崎、大都市の空襲と共に沖縄戦のことも覚える必要があると感じた次第です。

本映画は、もちろんアメリカ側から描いたということで限界があります。いつか、難しいかもしれないけれども日本側から描いたものができてほしいですね。非常に詳細な戦争の記録はオンラインでありますし、本としては「前田高地の戦い」に関連するものはあるようです。でも、激戦地になった浦添市のウェブサイトに、市民の視点にたった前田高地の戦いのページがあるようです。

『ハクソー・リッジ』〜作品の舞台をご案内します〜
『ハクソー・リッジ』の向こう側 〜沖縄戦の記憶〜

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です