フランス新聞社へのテロ

私がアメリカで旅行している時に、この事件のニュースを耳にしました。折しも、宣教会議で食事の同じテーブルに、フランスのカルバリーチャペルの牧師さんと一緒にいた時に、その話を聞きました。映像を見ていないため、あまり実感を持てずにいたのですが、これは大きな意味を持つ事件であることがじわじわと分かってきました。四つの論点があると思います。

①イスラム教テロの拡がり

イスラム国の台頭においては組織のある実体を伴っていますが、今の動きは、組織を超えた思想によって個別に起こるテロが頻繁に起こっています。予てから当ブログで話していますが、テロリズムに闘うのは警察力や武力以上に、また経済的状況や教育以上に、「思想」や「価値観」によるものであり心の中の問題だということです。参考になる記事をご紹介します。

専制独裁主義の価値観と民主主義のそれとの戦争=フランス銃撃テロ事件(ミルトス社社長、河合一充氏)
「フランスの新聞社銃撃テロ事件の本質は何か。一般には、「言論の自由」への挑戦だと受け止められている。しかし、イスラエルの識者はそうではないという。「イスラム過激主義の価値観」と「西洋の民主主義、人道主義の価値観」との戦争だ。どちらかが勝つまで続くことを覚悟しなければならない、と。この見方はまだ、ヨーロッパ人に受け入れられていないが、イスラエル人ははっきりと見抜いている。」

イスラム過激テロは 人事でないヨーロッパ 日本も(同上の氏)
「日本では、フランスのテロ襲撃事件をどのように感じているのだろうか。対岸の火事ではなかろうか。イスラエルの指導者は、90年代からパレスチナ過激派(ハマスなど、イスラム原理主義)との戦いの最中、世界に警告していた。『イスラエルで起きていることはやがて、世界に広がるぞ。何も、イスラエル内だけに限定されるわけではない!』それを現実に実感しているのが、ヨーロッパ人であろう。ヨーロッパのメディアを見ていると、イスラム国、アルカイダなどの危険を訴え、新たな脅威の時代を意識しだしている。おそらく9・11の時にも、あれはアメリカで起きたこと、ヨーロッパは関係ない・・とは言わないまでも、どこか人事だったかもしれない。しかし、今やイスラム原理主義や過激派の恐ろしさが身近に迫っている認識にある。日本にもこのテロ戦争がやって来ないとは、絶対に保証できない。そのことを認識すべきだ。」

コメント『産経新聞』1月9日朝刊(池内恵准教授)
「今回のテロ事件により、西洋社会は、これまでなるべく直視しないようにしてきた問題に正面から向き合わざるを得なくなるだろう。すなわち西洋近代社会とイスラム世界の間に横たわる根本的な理念の対立だ。西洋社会において、イスラム教徒の個人としての権利は保障されているが、イスラム教徒の一定数の間では神の下した教義の絶対性や優越性が認められなければ権利が侵害されているとする考え方が根強い。真理であるがゆえに批判や揶揄(やゆ)は許されないとの考えだ。一部の西側メディアは人間には表現の自由があると考え、イスラムの優越性の主張に意図的に挑戦している。西洋社会は今後も人間が神に挑戦する自由は絶対に譲らないだろう。それがなくなれば中世に逆戻りすると考えているからだ。」

実は日本でも、かつて、オウム真理教による地下鉄サリン事件があります(「NHKスペシャル「オウム真理教 17年目の真実」)。また、「悪魔の詩」を翻訳した筑波大の教授が殺された事件も起こっています。

②キリスト者にとっての自由意志

そこで、私たちキリスト者はなぜ、イスラム教徒のように暴力をもってまでして怒ることのがないのか?ということを考えてみたいと思います。巷には、イスラム教への批判など比べたら無に等しいぐらいの、聖書、イエス・キリストに対する批判や揶揄が膨大にあります。キリスト者は、言論上も物理的にも攻撃の的とされこそすれ、攻撃者となることはありません。キリスト者は「イエスは、単なる人間で復活などというのは戯言」などと言われても、心は痛んでも、その発言者に怒りを発して暴力を振るおうとは到底思わないでしょう。その理由は二つあります。

一つは、「神の国は超越している」ことです。イエス様がピラトに、「わたしの国はこの世のものではない。」と答えられました。もしこの世のものであったら、弟子たちが武器をもって戦ったであろう、とのことです。神とキリストに反対することを発した者がいても、第一に、私自身が神に反対する反逆者であり、罪人であり、キリストがこの罪のために死なれたという意識があります、第二に、神にのみ義があり、神は自分の戦いなしに、ご自身で戦ってくださることを知っています。その人が罪を犯していても裁くのは神であり、地獄において苦しめるにしても、地上に患難が下るにしても、自分がすることではありません。

しかし、イスラムは「神の国が地上のもの」になっています。私たちキリスト者は霊の戦いだとして祈るところを、彼らの中には祈りもするが、物理的な武器もとって神の国を死守しようとするのです。

まずもって私たちは、神が人をご自分のかたちに造られた、つまり自由意志を与えて造られたというのが真理だと信じています。主イエス・キリストの神は、宿命的、機械的な存在ではなく、理性を働かせて、愛を動機にして礼拝させる方です。「愛をもって、主体的に絶対的に服従する」という、「愛による主体性」と「服従」の両者を持ち合わせているのが、キリスト者の信仰です。ですから、神に反抗する自由もありうるという前提があって信仰が存在するので、このような風刺が行われても、それは神にもっと信頼を寄せる動機になりこそすれ、怒りの対象とはなりません。

もう一つは、「敵を愛せ」というキリストの命令です。敵を愛すること、赦すことは人にはできないこと。しかし、人の義を実現するのではなく、神の義を実現するのが自分たちの責任であることを私たちは知っています。だから、危害は甘んじて受けたとしても、自分たちで加えることは言語同断だと考えるのです。

「赦す」と「許す」の違い

こちらに、クリスチャンの人が書いた、今回の事件についての記事があります。上手に、キリスト者の考える表現の自由について説明しています。

シャルリー・エブド紙Tout est pardonné(All is forgiven)に込められた真意

jesuischarlie「ゆるす」という言葉は、漢字で「許す」と「赦す」の二つがあります。漢字には違いがあるのに、日本ではしばしば混同される場合があります。「赦す」ことが「悪を許容する」という「許す」であると誤解され、反対に悪を行なった者たちを「赦す」ことをせずに、憎む選択しかないと誤解します。赦しは、非常に高い水準の倫理です。キリストが十字架の上で祈られた、人間のできることではない、神の憐れみの中で初めてできることです。日本社会にかけているもの、それは「赦し」です。

私は、イスラム教を福音の真理の観点から厳しく批判していますが、実際のムスリムの方々を目にするときは、不思議と親愛の思いが湧いてきます。福音にしたがえば、彼らこそは救いに近い、愛された人々であると思います。行っている罪は明らかにしても、それがその人を受け入れないことにならない、という信仰があります。

③日本の言論状況

池内恵氏は、今回の事件によって日本の言論状況にある深刻な問題があることを確信し、フェイスブック上で数々の発言をしています。

https://www.facebook.com/satoshi.ikeuchi

「民放ニュースを一通り見たが、日本には報道機関もジャーナリストも、近代知識人としての立場からコメントをできる知識人もいないということがよくわかりました。ヘイトスピーチはいかん!という人がヘイト殺人には沈黙したり「理由がある」とか言ったりする。226事件をやるのがどっちの勢力かよくわかった。歴史の教訓から学べば、テレビ朝日とTBSは「格差があるからテロが起こる」「資本家・エリートに選挙で勝てないから議会制廃止」と言い出すんだろうなあ・・・安倍政権のファシズム化の可能性は薄いが、もっと危険なのは安倍政権がふれこみ通りの経済的成果なしに鳴かず飛ばずで終わった後に、「革新派」で「民族派」の野党勢力が結集して「欧米中心主義」のグローバリズムを否定してテロを肯定し、ファシズムになる、というのがもし歴史が繰り返した場合のより生じそうな道筋だろう。みなさん、経済発展頑張りましょう。」https://www.facebook.com/satoshi.ikeuchi/posts/10202483262761888

「日本思想の現状。「右翼=戦前に戻りたい人」だとすれば(そうじゃない人もいるだろうが)「左翼・リベラル派=中世に戻りたい人」という印象が確信に変わろうとしている。「リベラル派」が、「自由は制約だ、封建時代は幸せだった」と言っているにすぎない議論を得意げに展開して、それにメディア産業の中では誰もツッコミを入れない、入れてはいけない雰囲気には、「軍靴の響き」を感じる。日本は非西洋だからねじれているんだよ。西洋から受け売りして西洋批判。西洋が何百年もかけて勝ち取ってきた自由の価値は知らないから簡単に捨ててしまう。あるいは捨てる、と言える。」https://www.facebook.com/satoshi.ikeuchi/posts/10202483296042720

「ごめんね。非寛容への寛容ってのは、ないんだよ。」https://www.facebook.com/satoshi.ikeuchi/posts/10202483407365503

「今回の事件でやりとりしてていて、日本のメディア産業の人たち、大学の人たちが、ここまで「報道の自由には制限があって当然」「ムスリムは差別されていて格差があるからテロが起こる」という発想でいることに愕然とした。剥き出しの暴力と絶対的真理を掲げる存在を目の前にすると、「空気読んで黙れ」と一斉に言い出す発想を、それに原理的に反対すべきメディアや学術・芸術関係者がむしろ率先して持っていることは、薄々気づいていた。しかしやはり目の前で語っているのを見るのはショックだったな。その際に「弱者」を隠れ蓑にすることも、卑怯である。イスラーム教は支配的な世界宗教であり、批判を排除する権力を持っている「強者」でもあることを単に知らないのか、知ろうとしないのだろう。犯人の動機など現場で分かりようもないのだから、今言えることは、神の権威の支配に対する人間理性の自由というシャルリー・エブド紙の編集長や作家たちが、殺されてでも守ると宣言していたものを、ジハードの規範を掲げた者たちが暴力で排除したという事実だけだ。これを機会に、自らの欧米コンプレックスをむき出しにし、事実関係の究明も行わずに「差別が原因だ」といった議論を行う人々に、我々の自由を託すことはできない。」https://www.facebook.com/satoshi.ikeuchi/posts/10202489574959689

「日本は右傾化しているのではなく、内向化し、夜郎自大になり、かつそれぞれの勢力や組織が硬直化し、組織に属する一人一人が失点を恐れて萎縮し、帰属集団の漠然とした「空気」の制裁を恐れて各人が発言をたわめているだけである。そのような社会では「言論の自由への挑戦」が深刻に受け止められないのは当然だろう。そのような自由を、国家の介入にも宗教権力の圧力にもよらず、各個人が内側からすでに放棄しているからである。おそらく、すでに捨ててしまっているものに対する挑戦の存在は認識できないのだろう。なお、私は絶望はしていない。日本は国家や宗教規範が発言と思考を縛っているのではないため、個人のレベルで自由を獲得することはまだ可能だ。日本では社会の同質化圧力による言論統制が非常に強いこと、それによる弊害によって、社会が国際情勢を認識し判断する能力において、先進国の中で落ちこぼれやすいことを自覚した個人が、今後道を開いていってくれるものと信じている。その意味では、日本は自由にも「格差」が生じる社会となるだろうと予想している。」http://chutoislam.blog.fc2.com/blog-entry-253.html

特に最後の投稿の文章は、戦時中から続いている日本のキリスト教会の霊的問題の本質をも抉り出しています。今日の教会が、右傾化という思想の流れを警戒するのですが、私は全く違うことを考えていました。「同調圧力の中での信仰告白の自主的放棄」が内因であり、自ら当局の意向に従い信仰もそれに合わせ、そのことで心を痛めたりするどころか矛盾を感じていなかった、というのが本質的問題であったと考えているからです。

今日、キリスト者が人を受け入れることが、相手に合わせることであると勘違いして、日本のマスコミと同じように、自分が何を信じているか公に言い表すより、自らその自由を放棄してしまっているような気がします。人目を気にしながら生きることは「人を恐れること」そのものであり、それははっきりと罪であり、この罪のゆえ信仰を持てなくさせる、あるいは信仰を捨てるようになります。地獄に行く者には、「臆病者」がいることを忘れてはいけません。(黙21:8)

④反ユダヤ主義

最後に、今回の事件の後、連動して「ユダヤ食品店人質事件」をイスラム過激派が引き起こしています。これは明らかにユダヤ人を狙った、反ユダヤ主義の表れです。

イ国とイム国の事情

「フランスのユダヤ人協会代表者のインタビューによると、昨夏のガザ戦争以降、反イスラエル反ユダヤの風当たりが非常に強く、そのことをフランス政府や各報道機関に訴えていたが、まったく聞き入れてもらえなかったとか。フランスの反ユダヤ思想は今に始まった話ではなく、第二次インティファーダの時にかなりユダヤ教フランス人がイスラエルに移民また避難したり、起業している人は事務所をイスラエルに移転したことなどもありました。昨夏のガザ戦争の時のフランスの「親ガザ・反イスラエルデモ行動」には、中東アフリカ系の不法移民が多く参加して一部暴徒化したこともあり、ユダヤ系フランス人は身の危険を感じることもあるそうです。

ユダヤ系ショップで殺害された1人は、2週間前にユダヤ人協会主催のツアーでイスラエルを初訪問したばかりでした。夏のガザ戦争の時はフェイスブックを通じて若いイスラム教徒と対話するなどもしていたそうですが。」

・・とのことです。憎悪の容認を「イスラム教への寛容」の名の下に行ない、ユダヤ・イスラエルに対しては「あなたがたは主張しすぎる」と言わんばかりに無視し、その二つが相重なって、ユダヤ人を標的にした暴力行為を許すのです。「親イスラエルはすぐにレッテル貼りをする、私は反ユダヤ・イスラエルではない。」と言ながら、パレスチナ可哀想と言うのですが、こうした構造を歴史を通じて経験している彼らは、その狭間に落ちている悪がしっかり見えています。ネオナチのような民族主義テロには敏感に反応できても、「弱者」「少数派」の装いをするイスラム主義の過激さは直視を避けてきたので、そのリベラル的な姿勢こそが、反ユダヤ主義の温床になっています。

長くなりましたが、以上が私の今回の事件の見立てです。すごい時代になったと思います。しっかりとした聖書の学びと、信仰の養いと告白がこれほど必要になっている時は現代において、これまでなかったと思います。

「フランス新聞社へのテロ」への1件のフィードバック

  1. 2015年11月のパリ同時多発テロも、ユダヤ人を標的にしたものでした。
    「バタクランがなぜ、テロリストに狙われたのか。この現場は今回のテロの無差別性を示す例と見なされがちだが、実は容疑者側に明確な狙いがあった節もうかがえる。バタクランはこれまでも、ユダヤ人を狙った攻撃の対象となってきたと、パリのユダヤ系メディアが指摘しているからだ」
    パリ同時テロ:わかってきた「標的」(上)「バタクラン」はなぜ狙われたのか?

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です