「依存」と「信頼」を聖書から見る

先日、記事「横の関係は結局、縦の関係」のコメントで話しましたが、日本人の「神と自分との関係」、また「人と人の関係」において、「依存」と「信頼」の違いを知ることはとても大切であることを、昨日の午後礼拝の後の交わりで話しました。次のブログ記事はとても適切な説明をしていると思います。(神を「利用」する信仰と、神に「信頼」する信仰

一部抜粋「信仰とは本来、「依存」である前に「信頼」であると私は思う。前者には盲目的、他力本願的、思考停止的な姿勢が含まれているけれど、後者には積極的な選択が含まれている。自らの考えで神を選び取り、その愛に信頼し、多少の不利益があってもその言葉に従って生きる。そういう生き方は、「神への依存」というより、むしろ「神への自立的信頼」だ。

この言葉を何度も読み直し、どのようにして依存と信頼の違いを説明すればよいのか、と思い巡らしていました。(今日はプールに行って泳いでいましたが、その時に御言葉が与えられました!)

ルカ14章25‐35節です。

25 さて、大ぜいの群衆が、イエスといっしょに歩いていたが、イエスは彼らの方に向いて言われた。26 「わたしのもとに来て、自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、そのうえ自分のいのちまでも憎まない者は、わたしの弟子になることができません。27 自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしの弟子になることはできません。

28 塔を築こうとするとき、まずすわって、完成に十分な金があるかどうか、その費用を計算しない者が、あなたがたのうちにひとりでもあるでしょうか。29 基礎を築いただけで完成できなかったら、見ていた人はみな彼をあざ笑って、30 『この人は、建て始めはしたものの、完成できなかった。』と言うでしょう。31 また、どんな王でも、ほかの王と戦いを交えようとするときは、二万人を引き連れて向かって来る敵を、一万人で迎え撃つことができるかどうかを、まずすわって、考えずにいられましょうか。32 もし見込みがなければ、敵がまだ遠くに離れている間に、使者を送って講和を求めるでしょう。

33 そういうわけで、あなたがたはだれでも、自分の財産全部を捨てないでは、わたしの弟子になることはできません。34 ですから、塩は良いものですが、もしその塩が塩けをなくしたら、何によってそれに味をつけるのでしょうか。35 土地にも肥やしにも役立たず、外に投げ捨てられてしまいます。聞く耳のある人は聞きなさい。

ここに出てくる「群衆」は、イエス様と依存関係にあります(25節)。つまり、イエスが語られ、その行なわれている意味や意義は何なのかを、深く考えることなく、盲目的に付いて行っているだけです。大して考えておらず、そういったことはイエス様に丸投げして、思考停止状態にありました。

そこでイエス様は、「信頼する」ことについて教えました(26-27節)。それは、最も近しい関係で、頼りにしている関係よりも、さらにご自身を信じて、頼りにしますか?という問いかけをしました。自分の両親、妻、息子、兄弟姉妹、自分の最も大事にしている命にしても、それらを捨てでも、主を信頼して、その言われることに従う心構えができているか?という問いかけです。

そして二つの例えを、イエス様は語られています(28‐32節)。塔を建てるのも、戦に出るのも、どちらもしっかりと計算して、その費用対効果を考えなければいけません。主に信頼して生きるのには、このような「自ら考える」主体性が必要であり、「自立的な信頼」なのです。

そしてイエス様は、依存と信頼の決定的な違いを33節で述べておられます。「不利益」になるように見えても、それでも主に従うぐらいの信頼を寄せないといけません。依存は、相手を信頼していないのです。自分に不利益になるようなものなら、相手を簡単に捨ててしまいます。ルカ伝には、群衆がイエス様の言われる言葉の真意を取らず、自分に利益になるかどうかの視点でイエス様に質問をしている場面があります、例えば「私と遺産を分けるように私の兄弟に話してください。(12:13)」と言っています。イエス様は、そのような要求にはお答えにならず、その背後にある心の動機を明らかにされます、「貪欲」の問題です。それを取り除かないとイエス様に付いてくることはできません。

そして、依存関係の中にいる人は、イエス様のそばにいても役に立たない塩のようになってしまう、と警告されています(34-35節)。つまり、クリスチャンと名乗っても、この世と変わりなく変化のない生活をし、役に立たない者になるということです。

教会の中には、いろいろな人がいます。つまり「主体的に主を選び取る弟子たち」がいます。自らを捨てて、不利益になるかもしれない状況でも主に従います。彼らは、問題がないということではありません。弟子たちはたくさん問題がありました。けれども、教えられ、戒めを受け、砕かれ、悔い改め、そして復活の主を体験し、聖霊の力によって変えられます。成長があるのです。

けれども、物理的に存在しても「依存している群衆」がいます。つまり、してもらうだけ。礼拝も自分の霊的(?本当は肉的)素養のためだけ、他の面倒くさい部分は関わらない。自分に関わる事柄を優先させて、それが神に仕えていることだと思い込んでいる。自分の利益を追求できる事柄を自ら作り出して、全体の秩序を乱す(参照記事「分派の問題」)。ブログの筆者が言っているように、神さえも利用する偶像礼拝になっているのです。

いろいろな依存

上のブログの中には、牧師依存や何かの信仰書への依存というのを取り上げていますが、その他、信者間の相互依存もあります。「仲良しサークル」「互助グループ」と名づければよいでしょうか。主に各人が拠り頼むのではなく、教会の疑似・代用として互いに拠り頼み、自分の利益を温存しようとする仲間内です。その他、イエス様ご自身取り上げられた、家族内、母と子の中の共依存について書いてあります。

ファミリーフォーラムに学ぶ家庭内共依存

その他、アルコール中毒、麻薬中毒といった問題も、同じ「依存」が問題でしょう。

シンプルな信頼

信頼とは何でしょうか?「他に依頼するものがなく、ただ主だけを見つめている。」状態です。その一方、「他にたくさん依頼しているのに、都合の良いものだけ神に頼る」のは依存です。次の記事をぜひクリックしてください。ほとんどが写真また動画なので、英文が読めなくても全然大丈夫です。

世界で最も危険な通学路
From a 1,300ft zip wire in Colombia to a cliff-edge trek in China: Incredible photos of the world’s most dangerous walks to school

Determined: Students in Indonesia cling to steel bars on a broken bridge as they cross Ciherang River near their village in Lebak Regency. A pillar supporting one side of the crossing collapsed, leaving the wooden planks that acted as a path tilted to one side
この子たちは、私たちと同じように小学校の授業を受けるために、毎日通学しています。しかし、その通学路が5時間もかける崖っぷちであったり、片方のワイヤーが切れた架け橋だったり、急流の川をゴムタイヤの上に乗ることだったり、毎日の生活で危険と隣り合わせで生きている子たちの姿です。

しかし、ここに「ただ天地を造りたもう神に拠り頼んで、毎日を過ごす」という、シンプルな信仰の姿に通じるものがあります。つまり、自分の頭と体をしっかりと使わなければ、その頼っているものから離れて、落ちてしまいます。しかし、しっかりとそれらに頼ることによって、自分を支えています。我々先進国にある、何も意識しない、頭を使わない、体を動かさなくても、機械的に動けば目的地まで行ける、安全な通学路、通勤路と対照的です。

「信頼」している人は、例えば安全に見えるような状況でも、「もしこれが無くなったのであれば・・」という危機意識を持っています。「主の御心だから、これこれがある。」という用心深さがあります。「これはあって当然」という、勝手な仮定はしないのです。そして、ただ主だけが自分の支えであることを、絶えず考えながら、知恵を尽くしながら祈っていくのです。

もう一つ、依存と信頼の違いを知る良い箇所は、ヒゼキヤの信仰でしょう。アッシリヤが南進してきた時に、彼はエジプトに助けを呼んでしまいました。これは「依存」です。しかし、完全にエルサレムが取り囲まれた時、彼は主の宮の中に入りました。これが「信頼」です。依存から信頼に移る時、自分を救いたい、守りたいという保証を捨てて、主が私を救う、守られるという保証を身にまといます。

「立ち返って静かにすれば、
 あなたがたは救われ、
 落ち着いて、信頼すれば、
 あなたがたは力を得る。」
 (イザヤ30:15)

「「依存」と「信頼」を聖書から見る」への4件のフィードバック

  1. 明石 牧師へ

    大きな御世話だったら、御免なさい。

    自立した主に対する信頼を持ちましょう、という主旨は素晴らしいと思うのですが、「依存」のところで

    御利益を期待して主に付いて行ったであろう「群衆」と自分が蒔いた種とはいえ、激烈な渇望現象(禁断症状)と強迫観念と向き合わなければならないアルコールや薬物依存症者をいっしょくたに「依存」の一言でくくってしまうのは、どうなのかなぁ…、と思いました。

    スティーブ・メイズ牧師をはじめとして、カルバリチャペルは依存症の問題に理解と配慮があると思っていたので、少し残念です。

  2. コメントありがとうございます。ちょっと、「うん?」となりました。スティーブ・メイズなど、その通りです、数多くのカルバリーの牧師やそこに通っている人々は、元薬物依存者でした。(私も、スクール・オブ・ミニストリーで共に学んだ兄弟たちの多くが「元」でした。)

    そしてそれぞれが、自分の欲のために、神ではないもので心を満たそうとして、薬物に依存したわけですが、イエス様への「信頼」によって、その「依存」から断ち切ったわけです。自分を捨て、キリストに従うという、主体的な信仰を持ったからこそ、解放されました。

    そして、そのことを知って、あまりにも激しい禁断症状と強迫観念の中で、まだ抜け出せない人、また再び戻ってしまう人もいるでしょう。しかし、イエスこそが救いなのだという認識と前提があって葛藤し、悩んでいるのであれば、その人は列記とした「キリストの弟子」です。

    それと、「このままでもよい」と開き直って昔の生活に戻り、葛藤さえも感じない、それで教会に通ってもいい、となれば、それは群衆がイエス様に付いていっているのと同じになります。

    そして日本において、いろいろな領域で依存しているというのも、イエス様に主体的に従っていこうとするとき、とてつもない葛藤を経ている人たちが多いです。そして昔に戻ってしまい、信仰から離れる、あるいは信仰に情熱がなくなると言う人は跡を絶ちません。こちらは大したことなくて、薬物やアルコール依存のほうが壮絶だ、と見えるかもしれませんが、いいえ、それはその葛藤を過少に見ています。日本人で信仰を持っている人が1%以下、というのがそれを物語っています。

    確かに同じ「依存」という言葉で、いろいろな依存を取り上げたのは無理があったかもしれません。しかし、以上のとおり霊的な原則としては十分に同じ適用ができると思います。

  3. 明石 牧師へ

    「霊的な原則としては十分に同じ適用ができる」

    おぉー、激しく聖書的ですね。確かに仰る通りなのでしょう。

    ただ、牧師依存や家庭内共依存のようなカウンセリングや12ステップ、適切な学びをすれば対応可能なこと(余程重症でなければ社会生活に支障をきたさない)と、あっけなく人生が崩壊してしまうアルコールや薬物依存は、そこを通った者としてはあまりにも深刻度が異なります。

    まぁ、長いブログ記事の中の短い一文に反応してしまう私の方がどうかしているのでしょうけれど…。

    丁寧な返信、ありがとうございました。

  4. ちょっと前に、自分でも神様との関係における依存と信頼の違いについて、考えていたところでした。客観的な事実としては、私たちの存在そのものが根本的に神様に依存しているものですよね。しかし神様は、だからお前ら吾輩の言うことを聞け!聞かなかったら即刻お前らを消すぞ!とは仰らない。人格的な関係の中で、私たちが神様の偉大さ、恵み深さ、愛、ご真実、、、そのような高尚なご人格に触れていく中で、神様への尊敬と信頼を養われて、そちらを自発的に選び取るようになることを望んでおられるんですよね。隷属的な主人と奴隷の関係ではなくて、親が子どもの人格を尊重してくれている親子関係ですよね。昔、父親が「誰のおかげで飯を食えてると思ってるんだ!」というセリフを時たま聞いたような気がしますが、教育的な面からは言ってはならない言葉だと聞いたことがあります。実際は客観的な事実としては親が養っているのは事実だとしても、そんな事を言って従わせるようなことをしてたら卑屈な、人の顔色をうかがう人間に育ってしまってはいけないから、ということでしょうか。もちろん、子どもの側が大きくなって、自発的にそう思って、感謝をするのは良い事ですが。

    御言葉がこう言ってるから、自分は理解できないけれども、それに従う、という表現も、注意が必要だと思います。一歩間違うと、盲信、カルト的、単なる依存である場合があると思います。機械的に、御言葉こう言ってるからこう信じなければいけない、という条件反射的な反応といいますか。それに対して、神様への信頼から、御言葉がこう言っているから、自分には理解できないけれども、従う事を選び取ろう、という事があります。前者と、表面的にはというか、形の上では、同じようですが、実質は大きく違うのでしょう。前者は、機械的な反応、後者は人格的な応答と言いますか。

    私は自分が長い間、前者の信仰だったのではないか、と最近、思う事があります。もちろん、自分では神様のご愛に応答して何事でも行おう、と思っていましたが、それすらも「こうでなければならない」という形式に当てはめていただけで、本当の人格的応答とはなっていなかった。先日、このブログにTim Kellerの名前が出ていましたが、彼は福音の本質と適用に深い洞察を持っていて、彼の書いたものは私もずいぶん読みました。それを頭では理解するのですが、人格はなかなかかわらないんですよね。変わろう!と思って変わるものではないというか。もちろん、神様には変えることができるわけですが、それは神様の方法と神様のタイミングがあるんですね。そういう陶器師なる神様のお取り扱いの中で、人格が造り変えられていくんだなあ、と最近、しみじみ思うこのごろです。

    とりとめもなく、思いつくままに書いてしまいました。

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