しっくりさせよう「教会生活」

以前、教会について、日本では数多くのクリスチャンが教会に通わなくなっているという課題を取り上げました(ブログ記事)。「イエス様を信じているけれども、教会には行っていません。」という人が多いです。ロゴス・ミニストリーでもその問題はずっと前に取り上げています。この前の「クリスチャンの生活と証しコース」では、「それはご主人は好きだが、その奥さんは嫌い」と言っているようなものだ、という例えを使っていました。そうです、「キリスト」と「キリストの体」である教会は夫婦が一心同体だから引き離せないのと同じです。

けれども、なぜ教会に馴染めないのか?そして、教会の礼拝にはかろうじて出席しているけれども、どうしてそれ以上、入り込むことができないのか?そして、何かあるとつまずき、他の教会に移る。けれども、またつまずく。そうこうしている内に、教会そのものに通わなくなる、ということが起こってしまいます。

そういった問題というか、課題に対して、今、恵比寿バイブルスタディで学んでいる「ピリピ人への手紙」は非常に有益です。パウロは、牢屋の中で主にある喜びを抱いていました。そんな逆境でも喜ぶことができました。けれども、もっと喜びに満たされることができるように、と言って、ピリピの人々にお願したのが「一致」だったのです。ぜひ、次の二つのメッセージを聞いてみてください(あるいは読んでみてください)。

1章27‐30節「共に奮闘」(原稿 ・ 音声
2章1‐4節「へりくだりにある一致」(原稿 ・ 音声


「キリストだけ」

基本的にパウロの姿勢、その喜びの姿勢はこういうものでした。

①一にも二にも「キリスト」。
②「キリストだけ」だから「自分」のことは忘れてしまう。
③「キリストだけ」になっているから「自分」よりも「他者」を顧みる。

この順番が崩れると、イエスの名を唱えているようで、自分自身を求めていることになります。イエス様ではなくて、自分の家族。イエス様ではなくて、自分の仕事。イエス様ではなくて、自分の健康、自分の○×というようになっています。だからいつも「自分」の事情や都合が思い出されて、それで「他者」よりも「自分」を優先してしまうのです。家族も健康も、仕事も、その他の○×も、すべて悪いものではないのです、良い物なのです。だから、「そのことは神さまに任せて、まずは教会に来ようよ。」と言うと、「なんで、そうやって私のしていることを否定するのですか」と反発したくなります。けれども、否定しているのではないのです、全ての良き物は、その良い物もイエス様から出ているのだよ、と言っているだけなのです。けれども、イエス様が源なのに、自分の都合や事情を優先させた時点で、その良き物が悪くなっていきます。

自主的な忠誠と献身

もう一つの課題は、キリスト者の生活をどうしても個人プレーだと思っていることです。自分がキリスト者としてどうなのか?という自意識に傾いています。しかしピリピ書には、「御国の民」としてのキリスト者を意識させています。ピリピはローマの植民都市であり、ローマ文化とローマ市民であることを誇りとし、それに忠誠と献身をしていた「ローマのモデル都市」でありました。それに対抗すべく、パウロはキリスト者に「御国の市民たれ」と激励したのです。

人というのは、必ず自分の愛しているものがあります。そして愛しているもののために、忠誠を誓い、献身しています。他のことをするのはとても疲るし、やる気が出ないのに、あることになると急に元気を出し、精を出して取り組むことができる。それが、自分の愛しているものです。その対象が、キリストになっている時に、自ずとその体である教会にも、誰から強制されることなく忠誠を誓い、献身することができるのです。ですから、この愛による、自発的な忠誠と献身を念頭に入れておかないと、教会生活はそれはそれは、嫌なものになるでしょう。何が起こっているか分からなくなる、自分が何でここにいるのか分からなくなる、分かっていないのに何か頼まれて、義務的にやってしまう。

そしてパウロは「奮闘」という言葉を使いました。それはスポーツにも使うし、戦闘にも使います。どちらにしても、チーム・プレー、また部隊の闘いであります。サッカーのチームで、そのチーム全体で試合をしているのであり、その全体を考えて、それで自分のポジションを確かめます。

けれども、どういうわけか、教会においては「私が何ができるのか」ということは考えても、「御霊がこの教会に語られていることは、何なのか。」ということは考えない人が多いのです。教会全体の流れを見ながら、そして主が今、自分に対して何を語っておられるのかを確かめるのです。「私には、こうした能力があります。だから、これをもって貢献できるものはなにか。」と考えます。自分が活躍すること、自分が生かされることばかりを考えます。「自分」が優先されてしまっているのです。

そうではないのです、「キリストのために、何ができるか。」ではなくて、「キリストのために、何を捨てられるのか」なのです。自分の拘り、自分の執着、自分の好み、そして自分の能力や知恵でさえ、キリストの前で捨てるのです。それで初めてキリストが自分の内で、自分を通して働くことがおできになり、聖霊に満たされることができます。

「主に仕えている」からこそ「服従」できる

そしてチームには監督がいます。すべての指揮者はイエス・キリストです。そしてそれぞれがこの方の命令に聞きます。しかし、管理する者として任されている人々を神は置かれています。牧者や長老たちであります。ですから、指導者との意思疎通は不可欠です。共にいつも交わり、礼拝に参加しているならば、その人と牧者の間には、無理しなくても御霊による一致が与えられています。喜んで、頼まれたことも主からのものだとして受け入れることができるでしょうし、もしそうでないと感じるなら、率直に話すこともできるでしょうし、愛による尊敬が互いにあるので「意思疎通」ができるのです。そして監督は全体を見ているので、その意思疎通に基づき、適切な判断を、主にあって下すことができます。

ところが、何か教会の中で事を行なう時に、とりあえず牧者や担当者に伝えておくことさえ出来ない人たちがいます。牧者や担当者に伝えることが、なぜか自分が支配されると思っているのでしょうか、心を自然に広げることができません。「主に従うか、牧師に従うか?」という二項式ではないはずです。チームですから当然、互いに伝えておかなければいけないことが沢山あります。ピリピ書を見ると、パウロとピリピ人たちが、非常に通気の良い関係であったことが分かります。その反面、コリントは通気口にいろいろな思い煩いが詰まっていて、誤解やら批判がいろいろありました。指導者から心を離し、距離を取れば取るほど、彼らとの関係でうまく距離を保てず、いつも葛藤が生じるのです。

ですから、こう言えるでしょう。

①「主に言われた」から、この「教会」に来ている。
②「主から命じられた」から、この「奉仕」を担っている。
③「主に仕えている」から「牧師」と話せる。
④「牧師」と話しているけれども、
「牧師に言われたから」なんていう意識はない。
⑤「牧師」と話せているから、
むしろ「主に仕える」ことに集中できる。

教会に来ると、必ず他の信徒たちとの関係、牧師との関係でうまくいかない人たちがいます。まず、①から点検してみましょう。教会について、主に聞いていますか?教会の元々の意味はエクレシア、集会であります。召集がかけられて、集まったのです。イエス様から召集がかけられて、今の教会にいますか?それとも、「この教会でなら、活躍できる。」とでも思っていたのでしょうか。「自分が必要とされているかどうか。」というボランティアのような意識はありませんでしたか?教会に集うということは、そのような自分の可能性を求めるところではありません。教会に存在しているのは、「主から呼ばれたから」という理由一本です。

ですから、主から呼ばれたのですから、自分の意欲や力ではありません。自分の意欲や力であれば、無気力になれば教会からも離れるのです。けれども、主から言われて来ているのであれば、選択肢ではなく、とにかく来るのです。主がその熱意や力を与えられるので、困難や試練があっても持続できるのです。

そして②は大事です。何か自分にできそうだからとして何かをしたいと思います。例えば、いつも教会で話題に挙がるのは「賛美奉仕」です。聞いてみると、どこの教会も例外なくそうでした。賛美を導きたいと聞いてきた兄弟に、ある牧師はこう言いました、「トイレ掃除をしばらくして。」賛美というのは、何かできるという技能を前面に出せる最も誘惑の大きい分野の一つです。その野心が飢餓状態になって、死に絶える必要があるのです。だから、トイレ掃除なんていうのは、賛美においても主に仕えることの最短の道かもしれません。

③から⑤は逆説的ですが、本当です。聖霊シリーズの「治める賜物」でも取り扱いましたが、服従することこそ、自由になれることはありません。しかも、その服従は愛からのものであり、強制されるものではありません。イエス様は父なる神に服従されたからこそ、すべての裁きを父から任されました。最も服従されていた方が、最も自由であったのです。

ですから、服従している人ほど、指導者はその人に何か言うことは少なくなります。その人が自由に動いていても、同じ思いになっていることを知っているので、干渉したいとなど思いません。牧者などの指導者にとって大事なのは、自分に従わせることではなく、キリストにあって同じ思い、一つになれているか、ということですから。けれども、言ってもそれをやらない人であれば、「では、いったいこの人は何をしたいのだろう?」と牧師は頭を悩ませることになります。それで、本人も、主にある自由ではなく、牧師やその他の指導者との関係で自分自身を悩ませてしまうのです。

参照ブログ:「横の関係は結局、縦の関係」「分派という問題

いかがでしょうか、ちょっと細かく書いてしまいました。ですから、分からなくなった方は、ピリピ書の上にリンクした学びをぜひ聞いてみてください、もっと単純に話しています。:)

最後に、不思議にこちらの方が、同じ内容のことをツイートしていました。

でも、牧師も神の恵みがなければ愚か者です。付いて来てくれている人々すべてに、感謝!

「しっくりさせよう「教会生活」」への6件のフィードバック

  1. 最近「教会生活とは何か」というテーマが、頭の中でぐるぐるしていた所です。この記事を読んで大切な事に気付かされました。
    以前山東牧師がLCFの礼拝でされた説教も拝聴しましたが、大変学ばされました。
    明石牧師や山東牧師を用いられ、ネットを通しても学びを与えてくださる主に感謝します。
    個人プレーではなくチームプレー、しっかり覚えておきます。

  2. 教会の使命はなにか?主が教会に何を期待しているか?
    を指導者ははっきり教え、主の愛に自主的に報いて行動する群れの模範となって頂きたい、主イエスはそのことを牧師や教会の指導者に望んでおられることだと確信しています。信徒の問題ではなく指導者の問題だと思っています。

  3. 田場さん、はい、その通りだと思います。

  4. 教会は誰かがみ言葉を利用して自己実現するところ。
    教会は学校のよう。
    「一致」という言葉で「同じになれ」という同調圧力を感じる。

    これもやっぱりへりくだりが足りないせい?

  5. マルタさん、なるほど、自己実現だとしたら「一致」も同調圧力になってしまいますね。教会は多様性のあるところにある一致(unity in diversity)です。無理に合わせなくとも、御霊によって一つのことを思っている、というところだと思います。それには、一人一人がキリストにあって自分を捨てるという献身をしている必要がある、ということですね。

  6. すばらしい見解!
    ありがとうございます。
    こういうことをきちんとおっしゃってくださる方からいろいろ学んでいきたいと思います。
    また寄らせてください。

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