教会での会話にある霊の戦い

友人の牧者が、毎年の秋の合同修養会で話すことは、「修養会の中での言葉のやり取りなどでも、誤解や意見の違いなどで、試みを受けることがある。そういったことも含めて、霊の戦いの側面があることを知って祈ろう。」ということです。

教会においては、何気ない言葉のやり取りで、思いもよらない誤解があります。例えば、興味深いのは、関西出身の人たちの表現が気が利いたもので、関東の人が文字通り受けとめて、傷を受けたり、憤慨したりするとか。その他、本人がちょっと気が逸れて、挨拶することができなかったり、また、その人が一週間、信仰の戦いがあって、それで疲れていたとか、いろいろあるでしょう。

conversationそこから出てくる言動で、自分の気分が害されても、大事なのは次です。

①裁かない

だって、その言葉を正しく自分が理解しているか、大方分からないからです。「こんなこと言われて傷ついた」という言葉をしばしば聞きますが、そう言っている時に「自分が、早まった判断をしてしまっていることはないか?」と心の中で戒めてみませんか。

あなたがたは、主が来られるまでは、何についても、先走ったさばきをしてはいけません。(1コリント4:5)」

本当に後でどんなことが分かったら、深刻に考えていた自分が阿保らしくなるほど、とんだ誤解だったということが多いです。それよりも、大事なのは、言葉のあやを超えた、その兄弟や姉妹との愛に基づく、信頼関係ですね。記憶から無くすことはできなくても、それを自分の心の中に留めない、聞き流すことです。

②神に祈る

次に、相手を責めている時に自分を責めていくようになります。「こうやって、私は相手を赦せていない、怒っている。」と責めます。けれども、自分を責めていながら、自分は正しいと思っているので、やはり相手を責めています。

教会の中の人間関係でのポイントは、キリストが頭だということを忘れないことです。頭につながって、初めて各器官が機能しているので、神と自分との垂直の関係があってこその、他の兄弟たちとの関係です。横との関係をいくら変えようとしたところで、ちょうど綱引きのようになってしまって、調整しようと思ったところで、上手く行きません。

期待するのは、相手でなく神です。神のみが人の心を変えることができます。そして、神が自分の心を変えてくださいます。だから、大事なのは、人々の中で調整するのではなく、自分自身が神ご自身に行き、むしろ人々から離れて、祈ること。イエス様の全ての働きは、父なる神への祈りから始まっていました。どんなに人の期待が高くても、イエス様は父から言われたことだけをやっていかれていました。(マルコ1:35‐38)

すべて教会で起こることは、キリストを頭として、聖霊が運ばせてくださっているのですから。教会は自分のことではないのです、神とキリストのことです。

③自分を責めない

そして、「自分を責める」自体も実は間違っています。心の中が騒いで、騒いでいること自体に罪意識を感じ、自分がクリスチャンとしてきちんとできていない、何がいけないのだろうか、とか、自分探しをし始めます。そして自己反省します。けれども、これも実は曲者なのです。なぜか?だって、主ご自身しか、他人だけでなく、自分自身のことも裁けないからです。

私にはやましいことは一つもありませんが、だからといって、それで無罪とされるのではありません。私をさばく方は主です。(1コリント4:4)」

もし自分が何か悪いことをしているのではないか、自分はできていないとか、自意識が強くなる時、「聖霊が、必要であれば罪を示してくだる。」と、そうした裁きをも主に任せることが必要です。

④御国は自分ではない、神とキリストのもの

大事なのは、そういった分析をしているなかで、因果関係で物事を考えてしまいます。「自分がこうすれば、ああならなかったのに」とか、あたかも自分が教会を支えているかのように考えます。

神の御国、教会によって進む御国の働きは、私たちにとっては思いもよらない方法で動くことがあります。それが、人間的には不効率で、失敗のように見えても、それでも神が動かしておられるだけだった、ということもあります。私たちのしていることは、もちろん大事ですが、あくまでも、「御霊が語られることを聞いて、その御声に応答して動く」ということがあってのことです。

ですから、全ての良きものは神から来ます。神によって成ります。そして神に至ります。(ローマ11:36)その中に「自分」は消えています。これが痛いのです、自分が見えなくなるということは、自尊心が許しません。しかし、そこに立っていく時に、神の麗しい恵み、その主権の中に生きていることを知ります。

「教会での会話にある霊の戦い」への3件のフィードバック

  1. 僕は、カルバリーチャペルの教会に行ったことはないのですが、いつも共感、するお教えばかりです。
    近くにあれば通いたいのですが、大分にはないみたいなので、ネットで拾い読みしています。いつかお交わりの機会があればと願います。

  2. はじめまして。ええ、ぜひお交わりしたいですね。大分ですか、そうなんです、カルバリーチャペルはありません。東京にいらっしゃる時、またカルバリーチャペルのある地方に行かれる時に、声をかけてくだされば、そこの人々に前もって、いらっしゃることをお伝えすることもできます。

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