ラオデキヤの教会から学ぶこと

東十条バイブルスタディ:黙示録3章14‐22節(音声 ・ 原稿

ついに終わった、黙示録の七つの教会!一つずつの教会に対するイエス様への言葉を、みっちり当時の歴史や遺跡を眺めながら見てきたので、ものすごく時間がかかりました。もちろん、線路は続くよ、どこまでも~で、次回は4章、「その後に起こること」を見ていきます。

所感:「神の賜物だけを求め、神ご自身を退ける時代

ラオデキヤの教会についての学び、深かった。現代社会に空気のように蔓延している最大の危機を取り扱っています。それは、「神とイエス様がなくても、神とイエス様と同じように自分たちで間に合っている」ということ。しかも、それが教会にある。つまり、「イエス様を必要としない、”間に合っています”教会」という究極の相矛盾した状態です。

世界、殊に日本のような自由が保障され、先進的な豊かな国だと、あまりにも当たり前で当然のように、一つ一つの権利を持っています。人権であるとか、自由であるとか、そういったものは、歴史の中で長年かけて、紆余曲折、キリスト教的な価値観に基づいて獲得した神からの賜物なわけで、神なしに考えるとおかしくなります。

神の賜物であるから、神を恐れて、神の御言葉に聞き従わないといけないけれども、神なしでその恵みと賜物だけが暴走して、マンモス化、モンスター化、偶像化しています。

例えば「平和」。平和でない状態は即、完全悪ととらえる。けれども、聖書は戦争をさえ用いる神の姿が出てきます。「人権」はどうでしょう?もし人権がない状態が完全悪であれば、神は人権を侵害された張本人であります。人を裁かれる時に、鳥獣にその死体を食わせるようなことまでされる方ですから。

「植民地主義」はどうでしょう。これは、進歩的な人だけでなく、日本の場合、保守的な人たちも、欧米列強からの解放ということで、完全悪だと捉えているようです。でも聖書には何と、「奴隷は主人に仕えなさい」という教えまでがある。

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どうやら神の言葉は、進歩的な人からも、保守的な人からもボコボコに叩かれそうです。

しかしイエス様は、「すべて造られたものの根源なる方」であり、神と人との関係は、そのような制度の中でキリストに従いなさいと言わせてしまう程の、もっともっと深い、根源的な善を求めている。

だから、戦争のある所にキリストの平和が同時に進み、人権が蹂躙されているところに、むしろ人々の尊厳が福音によって回復され、かつて植民地支配によってずたずたにされた国々で、今、霊的大覚醒が進行中です。福音は、人々をそれら悪とみなす制度に従いなさいと教えます。しかしその制度の中で、福音によって変えられた人々が増えていきます。それでその制度さえも、結局は無力化、形骸化させ、ついには瓦解していきます。社会改革をせずとも、根本的なところで、時間をかけて、主は変えてくだいます。これが、神の国のリアリティーではないのか?と思います。

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今は、神から恵みを受けて、その賜物のゆえに、源なる神を退ける悲しい時代です。それゆえ、どんどん病的な状態が顕在化しています。しかも、ラオデキヤのように、教会の中にそれがしみ込んでいる、ということです。アーメンである方に、その方の語られることに、どんなに自分がそう感じなくても、そう思わなくても、どんなに自分の価値観と正反対のような文言が出てきても、「アーメン!」と言い続けないといけない、と感じます。

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