北朝鮮問題とキリスト者(横田家の救い)

今日、すばらしいニュースを読みました。以下のフェイスブック投稿です。

これで、横田家には少なくとも、二人の魂が主の救いを受けています。横田めぐみさんのお母様の早紀江さんと、そして滋さんです。滋さんのことは、拉致問題が発覚した当時、拉致被害者救出のために祈るクリスチャンの集まりで、滋さんがご自身がクリスチャンではないと言われていたのを思い出します。当時のリバイバル新聞というキリスト教の新聞記事を以下のページで紹介していました。

「すべてが神の御心の中で」    横田早紀江さん、自らの信仰を語る    めぐみさん「キリストって信じられる気がする」

一方、父親の滋さんは「神は人間の頭の中で作ったもの。祈ったから見つかるということはあり得ない。もしめぐみが死んだのなら、神が死ぬことを望んだのではないか、ということになる。今は金正日を憎んでいますので、それが心の支えになっています」と語り、人間の努力を強調する。

しかし、今は違います。主は横田家に救いをもたらしてくださいました。

そして、めぐみさんも救われていてほしい、天国に行ってほしいと願います。しかし、上の記事によれば、拉致される前に、中学校一年生の時にめぐみさんは、キリストって信じられる気がすると言っていたのです。

「お母さん、キリストって信じられる?」。1979年夏の夕暮れ時、取り込んだ洗濯物を畳む早紀江さんのところにヨーヨーをしながら現れためぐみさん(当時中学一年生)は、楽しそうにそう聞いた。「お母さんの実家は仏さまだけど、神さまはいると思うよ」と早紀江さんが答えると、めぐみさんはニコニコしながら「私、なんとなくキリストって信じられる気がする」と答えたという。隣に住んでいた一年先輩の女子中学生が聖書の学びを始めており、イエス・キリストについて聞いていたようだ。

キリスト教の強みは、こんな信仰があるからです。「こんな苦しみがあるなら、神はおられないはずだ」と言われるような状況の中で、かえって、「神がおられる」という確信が与えられることです。苦しみの中で主の命令を知り、苦しみの中で神の御業が現れます。

横田早紀江さんによる書籍は数冊出ています。その中の、クリスチャンではない方の書評が本当に身に沁みます。ここにも、早紀江さんの信仰の特徴である、苦しみの中におられる神がしっかりと証しされています。一部を抜粋しますが、ぜひリンクして全文読んでみてください、筆者はしっかりと、「これはいわゆる「信仰」とか「キリスト教」以上のものだ」ということを述べています。

[書評]愛は、あきらめない(横田早紀江)

(引用始)彼女がクリスチャンになったのは、拉致問題が公にされる前のことだった。めぐみさんの生死もわからずに過ごした日々のことであったらしい。

そのうち雪の降る季節がやってきて、雪が降るまでに見つかってほしいと思っていましたが、見つかりませんでした。なぜ娘がいなくなったかもわからず、本当に苦しみました。あの子に対して何か悪いことをしたのだろうか、親として至らなかったのであの子がいなくなったのだろうか、と自分を責めました。追い詰められて、死にたいとも思いました。

あっさり書かれているが、こうした不可解な絶望に触れたときに、人が辿る思いがきちんと書かれている。そこには確固とした普遍性のようなものがある。

そのような時に私は聖書に巡り会いました。お友達が「読んでごらん」ともってきてくれて、初めて聖書を手にしました。その人は「難しいけれど、大事なことが書いてあるから」と言いました。ヨハネ福音書に、1人の盲人の人について弟子たちがイエスに尋ねているところがありました。「これはこの人に罪があるからでか、それとも両親にあるのですか」。イエスは、「この人が盲人なのは、本人の罪でも、両親の罪でもなく、この人の上に神のみわざが現れるためです」と言いました。
私には難しくてよくわかりませんでしたが、でも何だか救われた気がしました。神のなさったことなら、ものすごく大きな意味があるのかもしれない。そう思いながら聖書を読んでいきました。(後略)

彼女はそこからキリスト教を、というか、その神を信じるようになる。その信じるありかたは、素直にこう書かれている。

新約聖書のマルコの福音書5章を読むと、ヤイロの娘が亡くなって、父親がもうあきらめていた時、イエスは「恐れないで、ただ信じていなさい」と一言おっしゃいました。それは今の私と同じだと思いました。神様がいらっしゃることは確信していますが、神様が何をお考えになり、何をなさろうとしているのか私にはわからないので、信じるだけなのです。

「信じる」というということの一つの普遍的な形が簡素に表現されている。神の御業は理解できないが、信じる、あるいは、それの理解できない状態であることが信じるというということである。微妙なので、こう言ってもいいかもしれない。御業が理解できたらそれは信じるというのは少し違うのかもしれない、と。

私にはそういう信仰はない。まるでないと思う。人生にはなんらかの意味がなければ生きることは難しいだろうと思うし、人生は無意味だという人もどこかで意味を隠して生きているのだろうと思う。私が思うのはそこまでである。

だが、振り返って横田早紀江さんの人生に示されたものは何だろうかと考えると、畏敬の念に打たれる。私の人生にはありえないことだ。では、それは奇跡だと言えるのか。

私は奇跡と言っていいと思う。それを生み出したのが信仰だというなら、そう思う。(引用終)

「北朝鮮問題とキリスト者(横田家の救い)」への3件のフィードバック

  1. 横田滋さんも洗礼を受けたとのこと。
    今日、韓国の「独島エビ」の件でコメントを
    投稿する予定でしたが、
    クリスチャンにとっておめでたいニュースの記事を、
    変なコメントで汚すのもなんですので、
    次の貴殿の記事の投稿を待つことにします。

  2. ありがとうございます。返事が遅れて申し訳ありません。
    韓国の件でもコメントしようと思っていましたが、
    やはり止めておきます。今少し体調がよくないので。。。

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