最近流行りの「新しい福音」 その2

その1からの続き)

なぜ、そんなに人気なのでしょうか?

 キリスト教の良い知らせをこのように伝えるのは、非常にいかしています。人気を博しているのは、いくつかの理由があります。

1.部分的に本当だからです。御国は到来しました。クリスチャンは愚かなことをしえます。新しい福音の諸部分は、正当であることが多いです。

2.架空の議論の相手を作っています。その悪人は、終末を煽る路傍伝道者、十字軍、福音派の救いの見方を風刺したものです。

3.新しい福音は、間違った事を、はっきりそれらの間違った事を言わずして信じさせていきます。すなわち、新しい福音を信奉するクリスチャンは、批判を受けずに済みます。なぜなら、信じることは重要ではない、地獄はない、イエスだけが唯一の道ではない、神の怒りはない、悔い改めは必要ない、とは実際には言わないからです。これらの歪曲ははっきりとは述べられませんが、新しい福音は、未信者が、その構成から当然なのですが、そういった結論を出すように伝えられるのです。つまり、新しい福音は、クリスチャンではない人が、自分の好きなように行くことができる余地を与え、けれども、他のクリスチャンからの批判を避ける抜け道を備えています。新しい福音の説教者は、挑戦を受けた時はいつも、「それらのことを私が信じていないとは、言ったことがありません。」と言うことができます。

4.新しい福音は取り扱いやすいです。人々をそのままの姿に届き、そのままの姿に置いたままにします。愛しなさい、自分の隣人を愛しなさい、という呼びかけができます。人を裁く態度、不寛容、宗教臭さを何一つ想起させない方法で訴えることができるのです。これは当然、人気を博するでしょう。自分の聞きたいことを教え、自分のできる事柄を与えるからです。

5.新しい福音は新しい息吹を感じます。それゆえ、特に若い人々にこのメッセージは魅力的です。彼らは感動、興奮し、この大きな使命の一員になったという目的を得ます。そこには、キリスト教の歴史、教理、堅苦しいものを抱えることなく、参加することができます。愛の革命に、誰が加わりたくないでしょうか?

6.新しい福音は、つまずきを与えません。だからこのメッセージは魅力的なのです。悪い者たちは、自分たちの仲間の「外」にいます。これは、私たちは誰でも問題になることです。福音を抑えて言う傾向を持っています。魅力的なところだけを伝え、キリストは慰めるだけでなく、対決されることもあることを話しません。他人の罪を問い質す以上の対決が必要です。他の悪いクリスチャンと自分を区別するために、新しい福音を用いるのは非常に簡単です。それによって、あなたは良く見られるし、クリスチャンではない人が信仰を持つことができないのは、他者の偽善や失敗が妨げになっているからだ、ということを念押しすることができます。悔い改めや裁きについての話はありません。イエスはご自分を神としたという法外な主張によって殺されたのであり(マタイ26:63-66;27:39-43)、包含する愛のゆえであるとほのめかしている部分は一つもありません。新しい福音は、救いのことを、宇宙論的なものだけに厳密に絞って語っています。実際は、地獄というものが仮にあったとしたら、それはほとんどの人にとっては大した問題にはならないだろう、と想像する余地を大きく残しています。

何がそんなに間違っているのでしょうか?

 新しい福音に欠けたものを見るのは難しいことではありません。欠けているのは古くからある福音です。使徒たちによって宣べ伝えられた福音、コリント第一15章で定義されているもの、後に使徒信条で要約されたものです。

「けれども、あなたが新しい福音と呼んでいるのは、古い福音に取って替わるものではないですよ。それらのものはみな信じています。」

 分かりました。でもなぜ、言わないのですか?自分の友人に私的に話すだけでなく、どこかの信仰表明に載せているだけではなく、公の場で言わないのでしょうか?意地悪になれ、と言っているのではありません。でも、もっと明らかにすべきです。組織神学の全てのお荷物を紐解く必要はありませんが、地獄は大した問題ではないというのが、いかにイエスらしくないのか(マタイ10:26-33)という印象は残すべきです。そして、信仰と悔い改めの必要を語らないとき、非常に非使徒的になっているのです(使徒2:38;16:31)。

「けれども、今は橋渡しをしているだけです。まず文化に合わせて、理解できる言葉で語り、最も合点の行く福音の部分を伝えているのです。信頼と注意を勝ち得ることができたら、その後で弟子作りをして、罪、悔い改め、信仰、また他のことを教えます。これは単に、福音伝道の前座です。」

 その通りです、私たちは終わりに話さなければいけないことを、初めの会話で持ち出す必要はありません。けれども、新しい福音は伝道のきっかけを本当に作っているのでしょうか、それとも、クリスチャンではない人たちに単に誤った安心感を与えているだけではないでしょうか?さらに会話を続けるための戸を開いておくことと、クリスチャンではない人が既に行っていることと同じように聞こえるように、キリスト教を心地よくさせてしまうのとは話が違います。新しい福音についての最も良いものの形態を取って、水面下では、古い福音を締め出しているのが現実なのです。

 パウロの、アテネにいるクリスチャンではない人々への接し方から、私たちは多くを学びます(使徒17:16-34)。まず、その町が偶像でいっぱいなのを見て、憤りを感じました(16節)。彼の福音説教は、他のクリスチャンに落胆して導かれたのではなく、不信仰に対して怒りが燃え上がったのです。次に彼は語る許可を得ました(19-20節)。彼は厳しく非難することはしませんでした。進んで聞きたいと思う人々に語りました。けれども、どうやったか見てください。彼は文化の文脈の中で語りましたが(22-23,28節)、そこから彼は、アテネの人々の神理解と実際の神の姿とを対比しています(24-29節)。彼のメッセージは、生活のありようについてではなく、まことの神を正しく拝むことについてでした。その後で彼は、悔い改めを説き(30節)、裁きを警告し(31節)、イエスの復活を話しています(31節)。

 その結果、あざ笑う人たちがいました(32節)。新しい福音をあざ笑う人がどこにいるでしょうか?そこには好ましくないもの、というのがありません。野暮なクリスチャンについて、愛する神について、世界を変えることについて、そしておそらくほとんどの人は地獄に行かないであろうということについて、こうしたメッセージにはつまずくものがありません。このメッセージには、あざ笑う要素がないのですが、アレオパゴスにおけるパウロの説教にはあったのです。そして留意していただきたいのは、アテネにおけるこの教えは、キリスト者の語るべき言葉全ての導入部にしかすぎなかったのです。これは単に始まりにしか過ぎず、何人かはもっと彼から聞きたいと願いました(32節)。パウロは初めの一声で、クリスチャンによれば決して言う勇気のないことまでを言いました。アテネでパウロが言ったことのすべてを一度に言えないかもしれませんが、「福音伝道の前座」において、悔い改め、裁き、信仰の必要、正しく信じる重要性、十字架と復活の中心性、罪の奥深さ、人の堕落など ― これらが私たちの実際の伝道だと一部の人たちが言っているものが ― 意地悪い、人を傷つけるキリスト教の、時代遅れの遺物なのだ、という印象を与えては決していけないのです。

最後の訴え

 どうかお願いです、もしあなたが新しい福音というような類に魅力を感じているのであれば、他の仲間のクリスチャンをいつもスケープゴートに仕立て上げるのがはたして公平であるかどうかを考えてください。もしイエスのように宣べ伝えるのであれば、イエスは、生活の有りようについてではなく、悔い改めの信仰を呼びかけられたこと(マルコ1:15)を考えてください。そして、クリスチャンではない人々に優しく語る忍耐や謙遜にかけているかどうか考えるにあたって、あなたの神が一方に偏った姿の漫画のような神になっていないか考えてみてください。つまり、罪を問題視しない神(ここでの罪は、単に隣人愛がないという以上のものです)、怒りを下されない神(時々、裁く者に対して裁きを行われる以外は)になっていないか、考えてみてください。十字架と、世の罪を取り除くためそこにつけられた神の小羊に、相応の注意を寄せてください。あなたのクリスチャンのメッセージが、使徒の働きにおける使徒たちが世の人たちに接した時に語ったことと同じように聞こえているか考えてください。

 これは軽視できる問題ではありません。強調点が異なる、という問題ではないのです。新しい福音では教会を維持できません。心を変えることができないのです。救いを与えることはできません。したがって、私たち福音派の学校、大学、会議、出版社、教会が、古い福音と新しい福音を見分けることができるようにしておくのは、非常に重要です。

最近流行りの「新しい福音」 その1

アメリカの教会情報として、いろいろなものが日頃から入ってきますが、良くないものは日本に大きな影響を与えていないのであれば、あえてご紹介することはありません。けれども昨日、フェイスブックである友人の牧師が「とても良い。日本語訳もほしい。」と書いてあったので、ざっとですが訳してみました。

背景は、ロブ・ベル(Rob Bell)という若手牧師が書いた”Love Wins(愛は勝つ)”という本に代表される、大論争になっている最近の宣教・伝道方法があると思われます。この動きについて日本語で紹介しているブログ記事があったので、背景をさらに知りたい方はそちらで読んでください。また、カルバリー・コスタメサの副牧のブライアン・ブローダソンさんも、ご自身のブログで本書の検証をしています。

このような動きがある度に私はがっかりしてしまうし、日本という宣教地にいて良かったと思うのですが、米国というのは良くも悪くも情報や考えの発信地です。韓国キリスト教会が悪いものも米国からそのまま受容し、他の国々にそれを輸出している姿も目撃しました。けれども、下の記事を読むにつけ、アメリカのそのような動きがなくても、私たちが福音を伝える時にありがちな過ちを上手に指摘していると思います。

ではご紹介します。(筆者に翻訳・掲載許可済)

The Gospel Old and New – Kevin DeYoung (Senior Pastor at University Reformed Church in East Lansing, Michigan)

古びた福音と新しい福音  ケビン・デヨング

 新しい福音というのを聞いたことがありますか?成分化されているわけでもないし、誰かのものでもないし、どこかの運動のものでもありません。けれども、確実に増えてきて、行き渡っています。

 新しい福音は、大抵、四つの部分によって成り立っています。

 この福音は、普通、謝罪から始まります。「同じクリスチャンがしてしまったことを赦してください。キリスト教をなぜ憎んでいるかよく分かります。ガンジーが言ったとおりで、「クリスチャンはなぜ、もっとキリストらしくないのか。」というものです。十字軍、奴隷制度、魔女裁判など、私たちは大失敗をしてしまいました。ただ言えるのは、「申し訳ない」ということです。信じるに値する理由を、私たちは提供してきませんでした。」

 それから、愛の神に訴えかけます。「看板や拡声器で、『悔い改めなさい、さもないと死にます。』と説教しているのをご覧になったと思いますが。けれども、神は愛であることを伝えたい。イエスを見てください。この方は遊女や取税人と付き合っておられました。無条件に愛しておられたのです。この世界はめちゃくちゃになっていますが、聖書にある良い知らせは、神はそのめちゃくちゃになったところの只中に来られて、生きておられたことです。この方はめちゃくちゃな神で、その使命は愛でした。『神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。(ヨハネ3:17)』とイエスは言われたのです。この方は全ての人を愛しておられました。あなたがどんな人であろうと、あなたが何を行ったにしても。この愛のゆえに、彼は殺されてしまったのです。」

 三つ目の部分は、この世における神の使命に加わるように招くことです。「クリスチャンが、この神を世界に見せてこなかったというのは恥ずかしいことです。これこそが私たちの召命です。神の国は、この地上で立てられているのです。この地上において、です!死後の、遠くにあるような天においてではなく、まさにここに、たった今、進行しています。私たちが失態を犯したとしても、私たちは神の愛を示し、この国をもたらすための神の代理人なのです。宗教的用語で人々を恐れさせたり、宗教の型に押し込む方法で行うのではありません。愛によって行うのです。それがイエスの方法です。それが、イエスに従うことです。私たちは隣人を愛して、平和と正義のために働きます。問題の多いこの地球にとって、私たちがその良い知らせになることを神は望んでおられます。」

 そして最後に、作為ある曖昧さをもって永遠を語ります。「誤解しないください。私は今でも死後の命を信じています。けれども、私たちの焦点は、たった今、どのような人生を送ることができるかに当てるべきです。死んだ後に地獄に行く人はいるでしょうか?その問いに私はどう答えればよいでしょうか。天国に入るのに、神は、正しい祈りや正しい信仰表明を要求されているのでしょうか。私には分かりませんが、けれども、この疑問に対しては神にお任せできると思います。私の務めは、人々を裁くことではなく、祝福することです。最後には、神の驚くべき恵みが私たちをすべて驚かすことでしょう。これこそ私が望んでいる、確かなことです。

その2に続く)

カルバリーチャペル牧者修養会@奥多摩

11月7-9日に、日本のカルバリーチャペルの牧者またスタッフが会して、奥多摩の氷川キャンプ場で、修養会を開きました。私は初めてですが、おそらく既に五回は開催されていると思います。カルバリーチャペル所沢のトラビスさんが、ハワイのカルバリーチャペルの牧師を説教者に招いています。今回は40人強の人が来ました。賛美と御言葉の時間以外は、ある人たちは(私も含めて!)子供みたいにはしゃいだり、温泉に行ったり、鍾乳洞を見に行ったり、マラソンに行ったりと、自由に思いのまま時間を過ごしていました。

今回は、三人の牧師がいらっしゃいました。CCホノルルのビル・ストーンブレーカー(Bill Stonebraker)さんとは、四月初めの第一回東北救援旅行で一緒でしたので、再会をとても喜びました。CCウィンドワードのティム・ニューマン(Tim Newman)さんとは、日本で何度かお会いしています。彼も日本やアジアへの宣教の思いをずっと持っている人です。そしてもう一人は、私たちがCCコスタメサに通っていた時の宣教担当の牧師で、ボブ・ヘーグ(Bob Haag)さんです。十年以上ぶりの再会でした!

今回のテーマは、”Simply Grace”(単純に恵み)です。「恵み」という言葉は教会の中では使い古された言葉であるし、またカルバリーチャペルの特徴の一つでもあるのですが、今回の五回の説教で、いかに神の恵みが私たちの理解を超えたすぐれたものであるかを知り、圧倒されました。ロゴス・ミニストリーのサイト内に音声ファイルを掲載しましたのでぜひお聞きください。通訳付きです!

第一回:
「恵みを宣べ伝えるために召された」”The Call to Preach Grace”
ガラテヤ書1章1-10節  ビル・ストーンブレーカー

第二回:
「アブラハム:並外れた恵みの手本」”Abraham: An Extraordinary Example of Grace”
創世記20章 ティム・ニューマン

第三回:
「神様の真の恵み」”The True Grace of God”
ペテロ第一5章12節 ボブ・ヘーグ

第四回:
「パウロ: 最高級の恵みの手本」”Paul: An Example of Super Grace”
テモテ第一1章12-17節 ティム・ニューマン

第五回:
「与える恵み」”The Grace of Giving”
コリント第二8章1-5節 ビル・ストーンブレーカー

バチカンが「新世界経済秩序」を提唱 その2

その1からの続き)

そもそも、今回のように、外交的手段で影響力を行使するという考え自体が、聖書にあるキリストの体には存在していないのです。使徒ヨハネは、神の子どもについて、「この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。(ヨハネ1:13)」と言いました。神のみが、その人の霊に対して行われる働きによって教会は構成されるのです。「人の意欲」つまり、人間の恣意的行為によってその人が教会の中に入ったと認知することはできないのです。

カトリックは第二バチカン会議にて、これまでの閉鎖的な教会の改革を行ない始めたと言いますが、上の点で、「ローマ・カトリック」という組織そのものがその始まりから間違っているのです。

ローマ帝国の中でご聖霊が誕生せしめた教会は、歴代のローマ皇帝の中で激しい迫害を受けました。ところが、その迫害に関わらず、反対に信仰者は増え続けました。ついに、皇帝自身が信仰を言い表しました。コンスタンティヌス帝です。彼は信教の自由の勅令を出しましたが、テオドシウス帝はキリスト教を国教化したのです。ローマの住民がある日を境に一夜にしてみなキリスト教徒になったのです!これがローマ・カトリックの始まりです。

「国教」にしたといっても、実際はその反対です。教会がローマを支配したのではなく、ローマ帝国が教会を支配したのです。主イエスは、ピラトに対して、「わたしの国はこの世のものではありません。もしこの世のものであったなら、わたしのしもべたちが、わたしをユダヤ人に渡さないように、戦ったことでしょう。しかし、事実、わたしの国はこの世のものではありません。(ヨハネ18:36)」と言われました。まさに、ローマ・カトリックはキリストの国をこの世のものにしようとする試みです。

そして国教化したために、あらゆる異教徒を取り込まなければいけませんでした。ローマ帝国の軍事的精神がそのまま採用されることになり、テオドシウスは強制的に偶像崇拝を禁じました。あるいは、改宗は異教徒をそのまま包摂することによって行なわれました。ローマの宗教にそのまま「キリスト」という名前を付け足しただけでした。

初代教会の礼拝は簡素なものであったのに、手の込んだ堂々としたものになり、他の異教と同じようなものになりました。祭司制度は、キリスト者一人ひとりが担ったという神の奥義が新約聖書で啓示されたにも関わらず、仏教や神道にもある仲介者としての司祭を作りました。イエスの母マリヤも崇拝対象となりました。それは、異教の中に女神崇拝があるからです。バビロンのイシュタル、エジプトのイシス、カナンのアシュタロテ、そしてギリシヤのアフロディテ、そしてローマのビーナスの延長です。

今日のバチカンは、「宣教」という言葉を使わず「新しい福音化」という言葉を使います。それは、キリスト教の教義を信じ、告白すべく働きかけるのではなく、生活や社会、教会一致運動などによって福音の影響力を広めるという趣旨です。その延長に、今回の世界中央銀行という提案もあります。

しかし、真に御霊によって支配を受けていない人々に対して、神ご本人が各人を聖霊によって新生せしめる福音の言葉を語らずに影響力を及ぼそうとしている点において、すでに「世」に組み込まれています。「教会がローマを征服したのではなく、ローマが教会を征服した」ことの繰り返しなのです。それゆえダニエルが預言した「第四の国」の一端を担い、さらに宗教という名のもので経済や政治に介入していることで、使徒ヨハネの見た「大淫婦」となっているのです。

私たちも気をつけるべき

ローマ・カトリックについて、すべてを否定する訳では決してありません。彼らが公会議において固辞した聖書の正典化、三位一体等の根本教理は、神の摂理の中で行なわれたと信じています。その他の数々の聖書釈義や信仰告白も、カトリックの中で発展しました。イエス様は、「天の御国の奥義」の中で御国は、毒麦の種が蒔かれた良い麦の畑であると言われました。毒麦もあるのですが良い麦もある、というのが今日の組織としての教会の姿です。

ルターが腐敗したカトリックに対して抗議したことによって、「宗教改革」が起こりましたが、改革はその時だけでなく、今も行なわねばなりません。例えば、会社の社長さんがクリスチャンで、従業員に礼拝に出ることを奨励したりすることがありますが、キリストの霊的権威のみで回心するという純粋性から逸脱しないように、強制にならぬよう気をつけなければいけません。

また、最近キリスト教団体の中で、「神道はキリスト教をルーツとしている」と称して、神道の儀式の中にキリスト教を見出してもらおうという動きがありますが、そのような方々は、すでにローマ・カトリックで大失敗していることを思い出してもらいたい。パウロは、異教に取り込ませることで福音を宣べ伝えませんでした。むしろ、「あなたがたがこのようなむなしいことを捨てて、天と地と海とその中にあるすべてのものをお造りになった生ける神に立ち返るように、福音を宣べ伝えている(使徒14:15)」「この世界とその中にあるすべてのものをお造りになった神は、天地の主ですから、手でこしらえた宮などにはお住みになりません。(17:24)」と、異教の神々と対比させて、まことの神、主を宣べ伝えました。異教を取り込んで語っている「福音」は、すでに性質を変えた「異なった福音」になっていることを知ってください。

LCF修養会(9月22-23日)

先日、秋分の日をはさんで、ロゴス・クリスチャン・フェローシップの修養会を行いました。場所は、足立区の経営する、「鹿沼野外リクリエーションセンター」というところです。祝日前日ということもあり、泊まっていたのは私たちだけで、お風呂もその他の施設も思う存分、楽しむことができました。

私は、本格的に教会開拓をしたのは今回が初めてなのですが、親ばかならず、牧者ばかなのかもしれませんが、私はこんなにすばらしい兄弟姉妹に巡れて本当にうれしいです!いつも明るく、そして御言葉の学びと交わりに熱心な人々を私たちに与えてくださった神に感謝しています。

山崎さんが自分の車で私たちの所まで来てくれて、食材を調達し、そして高速道路に乗りました。途中で大雨になりました。施設に着いてからも雨は続きましたが、6時頃には小雨になり助かりました。他のメンバーは午前中に用事があったり、また仕事があるので、それぞれ直接、東武線に乗って最寄り駅に夜、到着しました。

泊まったのは二つのコテージです。夜遅くに、一つ聖書の学びというか、分かち合いをしました。箇所はサムエル記第一24章で、ダビデの子としてキリストをお与えになる神は、ご自分の国を柔和な者に受け継がせるという内容でした。ダビデが、サウルの衣のすそを一部切っただけで心を痛めたというところに、ダビデには復讐を嫌う思い、さばかれる方は主のみであるという柔らかい心があることを学びました。

それから、兄弟の一人が自分の友人で上司についての悩みを打ち明けられたことを話しました。そこから私たちが赦すことについて、また裁かないことについて話し合いました。

それから次の日の朝、ご飯をいっしょに食べた後に、聖書の学びを続きで25章を読みました。そこでは、ダビデは怒ってナバルを殺そうとしましたが、妻アビガイルを通して過ちを知るところとなり、主が直接、ナバルを打たれたところを読みました。復讐は主がなさることを知ることはとても大切です。

そして私は、かねてからLCFの仲間に教えたかったことがあり、それは、「聖書の学びを自分で行っていく方法」です。ロゴス・ミニストリー内の音声や原稿を熱心に聞いている人々ばかりなのですが、自分自身で読んで、そこに書かれてあることを発見する喜びを知る必要があります。いわゆる「帰納的聖書研究法(Inductive Bible Study)」を、私がかつて教科書として読んで使った、”Joy of Discovery“を使って紹介しました。

それからコテージの前にあるバーベキュー場で昼食の準備です。韓国風バーベキューにしようと当初思いましたが、普通の日本のバーベキューも加わり、さらに食後にマシュマロを焼くアメリカ式もやったので、多国籍バーベキューになりました。けれども、こんなにキムチをみんなが好きとは思いませんでした!

それから、キャンプ場の側を流れている川を見に行きました。台風のせいで水が濁っているとのことですが、それでも十分きれいでした。いつもは、信じられないぐらい透明できれいだそうです。

そして、川遊びをずっとしていました。のんびりして、とても気持ちよかったです。いつの間にか、向こう岸にいる兄弟二人が、こちら側にいる姉妹と、「石投げ合戦」が始まりました。石を川に投げ入れ、飛び散った水を相手にかかるようにする合戦です。大人たちが童心に返ったような、楽しいひと時でした!

キリスト者と「左翼・右翼」

キリスト者が社会問題に取り組む時に、頻繁に出てくる意見を、私なりに考察してみました。「左翼」と「右翼」という軸を使って、キリスト者の持つべき視点を見出してみようと思いました。文章が長くなったので、ブログ記事ではなくロゴス・ミニストリーのサイトの「きよきよの部屋」の中に書きました。

キリスト者と「左翼・右翼」

以下の図は興味深いです。ちょっと考えてみて、それから上のリンクにある引用記事を読んでみてください!

21世紀にキリスト者日本人として社会に生きる

いのちのことば社の冊子のウェブ版の、「時代を見る目」の項目の中に二回に渡って、実に大切な提言をされている方の記事がありましたので、ここに紹介させていただきます。まず、一つ目です。

***************
21世紀にキリスト者日本人として社会に生きる 1 巨大津波が露わにしたこと
柳沢 美登里 「声なき者の友」の輪

千年に一度の巨大津波が東日本太平洋岸を襲ってから3か月。被災地域の方々だけでなく、日本のすべての人が、この大災害がもたらした社会の地殻変動におののいている、と言っても言い過ぎでないだろう。

2004年12月26日に発生したインド洋大津波の半年後、復興移行支援のためにスマトラ島で過ごした。家々が立ち並んでいた場所が、今回の日本の震災場面と全く同じように、爆撃後のように無残な土台だけになっていた。そこで一つのことに気づかされた。巨大津波という危機は人々の表面を剥ぎ取り、奥底を露わにするものだと。

日本社会も、奥底が露わにされ始めている。高度経済成長時代を終え、必要が十分に満たされ、航空機なら「巡航高度」に達した80年代後半から日本人が大切にしてきたものは何だったのか、と。経済先進国と同様に、「お金で保障された、すぐに手に入る個人の快適さ、居心地よさ、安心の飽くなき追求」ではなかっただろうか。自分が暮らす地域と世界の隣人の必要に目をとめ、自分の生き方を省みることには目を閉ざして。

巨大津波は、私たちに快適さを保障していた原発の事故を引き起こし、科学・技術への過信は収束長期化をもたらした。私たち日本人にはこの出来事の意味を理解する世界観がないために、不安と無力感で覆われている。

永続する世界観を持つはずの日本のキリストの体が今、問われているのだ。「飽くなき追求」という偽りの生き方を正しいとし、見せかけの「巡航高度」を保ちながら「無縁社会」へと崩壊した日本社会で、キリストが教えてくださった「地の塩」として生きてきたのか、と。

日本経済が「失われた20年」と言われ、情報伝達速度と量が劇的に加速・増大して個人の嗜好が多様化し、すべてが「私」に仕えるような錯覚をもたらす「時代」に、巨大津波が露わにしたのは、私たち日本の教会こそ、時代の見極めと行動を怠ってきた、という厳粛な事実なのかもしれない。

「ことば」が人となり、当時のユダヤの社会に「塩」として生き、11人の頼りなさそうな弟子を残しながら永遠の「神の国」の土台を築いたキリスト。この21世紀の大震災後の日本で祈らずにいられない。「主よ、この目を開けていただきたいのです」と。
(http://www.wlpm.or.jp/cgi-bin/db/kiji_t.cgi?keys34=0002728)
********************

そして、もう一つの記事も紹介させていただきます。

*********************
21世紀にキリスト者日本人として社会に生きる 2
柳沢 美登里 「声なき者の友」の輪

混迷を深める原発事故は、私たちが知らないうちに何を頼りに生きてきたかを突きつけている。科学・技術への絶大な信頼の底にあるのは「将来を予測したい。私たちはすべてをコントロールして安心を手に入れよう」という思いだ。政府による年金や個人の保険などの保障制度も、将来が変わらないことを前提にした安心保障と言えよう。現代日本社会は科学を駆使し、公私共に保障制度を備え、人生すべて万全の守りで固めて思い通りになる、かのような錯覚をもたらす社会になっている。日本社会が目指すことを言い換えれば「未来のすべてを見通せる神の能力を持ちたい。そして思い通りに未来をコントロールして永遠に安心したい」という願いにほかならない。まさに「神なき人間万能主義」、ヒューマニズムが栄華を極めている社会だ。

が、人間は「万能の神」にはなれない。この主義を前提にした社会で生きる私たちの予測と準備は裏切られ続け、「安心」とは逆に個人の不安は雪だるま式に膨れ上っている。今回の震災ではライフラインを失い、不便で不安な日々を送られた方々が大勢いた。ライフラインを失わなかった日本人の多くも「予想を超えたことが起きたらどうしよう」と不安に怯えた。

私たち日本人キリスト者は、この「人間万能」社会で、どのように生きてきただろう。そう思いながら福音書を読んだ。ユダヤ社会で神に従いたいと願う人々へのイエスさまのチャレンジは、「目先の損を取ること、将来の保障を手放すことを選ぶように」だった。この生き方は、一見、不安が倍増しそうだ。が、そのときこそ、全能の神の指の働きが見えてくる。「人間万能」社会が囚われているもの、すべてがわからないと不安になることから解放され「永遠のいのちを生きるようになる」と。

日本では、自分も含めてキリスト者の生活に「世の光」の輝きが感じられないのは、自分の計画や生活を一分の隙もなく固めてしまい、周りの人に神の指の働きが感じられないからかもしれない。日本と世界の隣人のために「将来が未確定である部分」を自分の生き方に導入してみる。そのとき、「人間万能」の日本社会で「聖書の神を万能とする生き方」が輝きだすのかもしれない。

(注: 読みやすいように改行を加えました)
(http://www.wlpm.or.jp/cgi-bin/db/kiji_t.cgi?keys34=0002741)
**************************

非常にするどい指摘です。私も以前、「政府や東電を信頼するな? 」という記事で指摘したことですが、今回の震災で日本人は、究極的なまでに創造神以外の物に対する絶対信仰があったことが暴露されました。これこそが日本人の根本的な霊的問題であり、キリスト者はこれを最大の不幸とみなさなければならないのです。

私は海外生活をしている時は、日本社会では絶対にありえないすごいことが起こっていました。社会的には最低の生活です。実は先進国のアメリカでさえ、医療制度の酷さを妻の怪我や病気を通して体験しました。けれども、その両国にあったのは霊的な自由でした。神にそのまま拠り頼み、神にそのまま祈っていくことのできる自由と、単純な信仰がありました。けれども日本はそれをさせない強い力が働きます。

それでも、生活で苦しみや試練を通して神に近づくことができる人々に出会います。悲しむ人は幸いである、というイエス様の御言葉はその通りなのです!

生活をきれいにまとめて、きれいに整理して、きれいにクリスチャンらしく(?)批評して、そして自分は安全圏の中にいる・・・、で良いのでしょうか?人間というのは、もっともっと、どろどろしているはずです。詩篇のダビデ、創世記のヨセフ、そしてイエス様ご自身が、予想のつかない、そして損をする、計画とは反対のことが起きる、「不便」な生活を送られました。

神への絶大の信頼、これが少しでも日本で生まれ出てくることを願ってやみません。

新シリーズ <使徒の働き>

明日から、毎週土曜日の聖書の学びは「使徒の働き(口語訳は「使徒行伝」)」を始めます。

これまでは、新しく信じた人たちのために、救いの教理を体系的に知らせるため、ローマ人へ手紙の学びを行なっていました。けれども、これからは「教会」を知るために、その誕生の歴史を知ることによって今の教会への原動力になればと願い、使徒の働きを学びます。

誰でも「教会」について知りたい方はぜひお越しください。この学びによって、教会が霊的復興する渇望が心の中に起こされることを強く願います。そして学ぶだけでなく、それを実際の行動に移すことができるようなご聖霊の働きを待ち望みます。

日時: 毎週土曜日午後2時から
場所: 足立区 こども家庭支援センター 別館

以下は、カルバリーチャペル・コスタメサの牧者チャック・スミス氏による著書、「カルバリーチャペルの特徴」からの抜粋です。

***********************
 ヨハネの黙示録の中で、イエスはアジアにある七つの教会に対して、彼らの問題を語っておられます。使徒ヨハネがまだ地上に生きている時代においてさえ、イエスは教会に悔い改めを呼びかけて、彼らの中に存在する致命的な欠陥を指摘されました。イエスご自身や使徒のものとは明らかに違う教えが忍び込み、すでに教会の中に腐った種が蒔かれていたのです。・・・・

 これは最初の教会の基礎が据えられてから、六十年も経っていない時期に起こったことなのです。ということは、教会が腐って生ぬるくなるまでにそれほど時間がかからなかったわけです。主はいつでも彼らを口から吐き出すことができたのです。このような教会の実態は、イエスに吐き気をももよおさせたのです。教会の歴史を眺めるとき、現在も少しも向上していないように思えます。逆に教会は、道徳や倫理に関して悪化の一途をたどっているようです。主が七つの教会に語られたことは、そのまま現代の教会にも当てはめることができます。

 教会の歴史を見直しても、よいお手本を見つけることはできません。それは人間の歴史を見ても人間は堕落しているので、神の願いと意図をそこに見出すことができないのと同じです。・・・教会についてもそのまま言えることです。神が願っておられる教会は、教会史の中にお手本を見つけることはできないのです。

 あるべき姿の教会は、新約聖書の使徒の働きの中にあります。これは力みなぎる教会です。この教会は聖霊によって導かれ、聖霊によって権威を与えられた教会です。この教会が、よい知らせである福音をこの世に示したのです。パウロは、ペンテコステの出来事から三十数年後に、コロサイの人々に手紙を書きました。「それらは、あなたがたのために天にたくわえられてある望みに基づくものです。あなたがたは、すでにこの望みのことを、福音の真理のことばの中で聞きました。この福音は、あなたがたが神の恵みを聞き、それをほんとうに理解したとき以来、あなたがたの間でも見られるとおりの勢いをもって、世界中で、実を結び広がり続けています。福音はそのようにしてあなたがたに届いたのです。(コロサイ書1章5-6節)」初期の信仰者たちは、福音をこの世に力強く表わしていた教会を体験したのです。

http://calvarychapel.com/pdf/translations/ja_distinctives.pdf 「第一章」神が与えておられる教会のモデルより)
************************

2011年マラナサ・バイブル・フェローシップ 第二・第三日目

2011年マラナサ・バイブル・フェローシップ 第一・二日目」の続きです。

私たちが野外散策を終えたその時に、菊地さんが到着しました。道がよく分からなくなっていたけれども、ちょうどクリスチャンぽい(?)輪が見えたので近づいたら私たちだったとのこと。その後、男たちの何人かが濃霧の中、ソフトボールを楽しみました!

二日目の夜は、ノアのメンバーでもある牧者、石原さんと奥様が歌ってくださいました。

二曲目はこちらをクリック

そして菊地さんことカズさんが、患難前携挙説の基本的教理を上手にまとめてくれました。

患難前携挙説の根拠

患難前携挙説の霊的効果

こんなに淡々と、患難前携挙説をきれいにまとめてくださったことを、主に感謝しています!私自身、このようなシンプルな教えは久しぶりで、新鮮で、改めて、悔い改めに導かれ、また携挙の希望に心が燃やされました!

説教中のカズさん

蛇を掴むカズさん!

コテージの下から這い出てきたとのこと。幼い頃から蛇を掴んでいたので慣れているそうです。

そして私たちは三日目、午後に解散しましたが、多くの人は朝霧高原の富士ミルク・ランド白糸の滝に立ち寄りました。白糸の滝の辺りは、雪解け水の冷却効果でとても涼しく、五合目にある富士山麓の山の村といい、私たちは下界の暑さから実に癒されました。