「セカンドチャンス」は本当にあるのか

先週末、この冊子を購入し、ざっと読み終えました。


「セカンドチャンス」は本当にあるのか
●未信者の死後の救いをめぐって
ウィリアム・ウッド著 いのちのことば社

ここで言っている「セカンドチャンス」は、人生で失敗した人がキリストの福音にとってやり直しができるという二度目のチャンス、という意味ではなく、副題のとおり「生前に福音を信じていなくても、死後にそれを聞いて信じ、救われる機会がある」という意味です。そして本書は、その論に対する反証を聖書から行なっています。

日本の伝道の現場では、極めて重要な問題です。このことに関連する記事を後日詳しく書けたらと思いますが、一読後の感想をここで述べます。

第一に、この議論は日本に始まったことではなく、既に米国に存在しているものです。「神の忍耐論(Divine Perseverance)」と呼ばれるそうです。セカンドチャンス論者は、西洋的キリスト教の対抗軸を作り出していますが、それよりも私は、この世界の底流が普遍的救済の方向であると感じています。

そして私の経験では、西洋との対立軸とも無関係であるように感じます。他の東洋の兄弟姉妹の国も同じように先祖供養が盛んですが、死んだ後の人の救いについて日本人のように悩むことはありません。家族の間でさえ、宗教に関しては「あなたはあなた、私は私」という区別ができています。

その他に、「包括主義論(Inclusivism)」というものがあります。これは、「仮に人がキリストについて知る機会がなかったとしても、自然界を通して与えられる光に応答し、造り主なる神を信じれば、その信仰のゆえに義とされる」とするものです。これは前回のエッセイ(教会から分離する人々)と前々回のエッセイ(神道を摂取する宣教)の中にも触れた議論にも関連することで、非常に興味を持ちました。福音という真理の体系を通さずして救われることの可能性を探る向きがあります。

その他「万民救済論」がありますが、これは信仰がなくても十字架の功績のゆえに救われるという教えです。

第二に、著者は本物にある輝きと力に触れています。輝きについては、自分たちが金だと思って集めた川底にあった光る物体を、町の宝石店に持って行ったら、そこにある金を見て、その輝きの圧倒的な違いに驚いた、という例話を書いています。

また力については、「福音の力が現れるのは、それが誤りなく伝えられた時です」と述べています。これには感動しました。私自身が、このことを信仰と伝道の努力の中で体験してきたからです。両親に対して、彼らが福音を受け入れなければ地獄に行くという考えは苦しみ悶えるほど辛いことでした。けれども、「福音の真理からぶれてはいけない、私が曲げて伝えたところで、私の知恵や力など、どうしようもなく陳腐なものだ」と思って、伝え続けました。二人は今、福音の真理からまったくぶれることなく、信仰生活を送ることができています。もし、私がその苦しみから脱却すべく異なる内容を伝えていたら、今頃どうなっていたであろうか?と思います。

また、日本に帰国後すぐ昨年末から新しく信仰を与えられた人々に対しても、心の中では涙を流しながら、それでも「福音を受け入れることなくして死んだのであれば、天に入ることはない」という教えを伝えました。けれども、それぞれの方が課題を克服して、生ける神の栄光と恵みの中に浴しておられます。ここでも、もし私が少しでも歪めて語っていたらどうなっていたことだろうと、思います。

どんなに自分が辛かろうが、自分ではなく純粋に「福音にのみ力」があるのだということを少しずつですが実感しています。

そして混ぜ物なしの福音こそが輝いています。創世記から黙示録まで順番に、飛ばすことなく読み進めると、そこに流れる神の栄光に浴するには、膨大に啓示されている、神に対する申し開き、そして死後における裁きという定め、ゆえにそこから救おうとする神の熱情と涙、その熾烈な愛を私たちは感じ取っています。セカンドチャンス論や包括主義論に流れる「日本人に救いを」という情熱は凄いですが、そこにある火は主からのものとは異なったものを感じます。

第三に、私は最後に著者が触れておられる、宣教師の話には男涙を流しました。未開の地で、たった一人の物売り少年にしか福音を伝える機会がなかった。そして娘が生まれたが妻はマラリヤで死んだ。そして本人は、その娘をもう一組の宣教師夫婦に託して、自分は神を呪い帰国しました。ところが、五十年も経ったときに、その娘が、その未開地には立派な学校が建てられ、600名はみなクリスチャン、村長もクリスチャンになり、自分の教団を作り、十万人の信者がいる、という記事を読みました。その創立者をキリストに導いたのは、自分の生みの母親だったのです。

そのことを伝えに、生みの父を探しにいきました。彼はすでに再婚し子供たちもいましたが、「神の名をこの家では決して発してはならない」という掟を作っていたそうです。けれども彼女は、この話を伝えました。彼女が神の名を出すと彼の体は硬直しましたが、続けてその知らせを告げると、「その堅くなっていた体はだんだんほぐれてきました。彼は五十年ぶりに、神に対して心を開き、悔い改めました。そして、その数週間後に、天に召されたのです。」

五十年も堅く心を閉ざしていたこの男に、神は十万人の信者という知らせをもって、憐れみを示し、悔い改めに導いてくださったのです。私も、この宣教師と同じようになってもおかしくない愚かな者だと思っています。けれども、神はこれほどまでに真実な方なのです!

私は今の時代の人々は、「自分の悟り(理解) 対 神の摂理と主権」という相克の中に生きていると思います。どちらに流されるのか、という問いかけが私たちに迫ってきます。

神道を摂取する宣教?

昨日は、カリフォルニアから日本に訪問されている、カルバリーチャペル・コスタメサに長年通っておられる旧知のご夫婦が恵比寿バイブルスタディにいらっしゃいました。他のメンバーと一緒に、有意義な語り合いの時を持つことができました。日本に来るたびに感じるのは、霊的土壌の堅さだそうです。それがどのようにして砕かれるのかは、全ての人が抱いている課題であり疑問でしょう。

そこでその方策として、一般の日本人に受け入れられやすい宣教を考えてのことでしょう、神道の儀式の中で福音を伝えようとする記事を見ました。神道にユダヤ教やキリスト教のルーツがある、という探求はキリスト教会で流行になっているので、その危険性をエッセイにしたためました。興味のある方は一読ください。

神道を摂取する宣教?

バチカンが「新世界経済秩序」を提唱 その2

その1からの続き)

そもそも、今回のように、外交的手段で影響力を行使するという考え自体が、聖書にあるキリストの体には存在していないのです。使徒ヨハネは、神の子どもについて、「この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。(ヨハネ1:13)」と言いました。神のみが、その人の霊に対して行われる働きによって教会は構成されるのです。「人の意欲」つまり、人間の恣意的行為によってその人が教会の中に入ったと認知することはできないのです。

カトリックは第二バチカン会議にて、これまでの閉鎖的な教会の改革を行ない始めたと言いますが、上の点で、「ローマ・カトリック」という組織そのものがその始まりから間違っているのです。

ローマ帝国の中でご聖霊が誕生せしめた教会は、歴代のローマ皇帝の中で激しい迫害を受けました。ところが、その迫害に関わらず、反対に信仰者は増え続けました。ついに、皇帝自身が信仰を言い表しました。コンスタンティヌス帝です。彼は信教の自由の勅令を出しましたが、テオドシウス帝はキリスト教を国教化したのです。ローマの住民がある日を境に一夜にしてみなキリスト教徒になったのです!これがローマ・カトリックの始まりです。

「国教」にしたといっても、実際はその反対です。教会がローマを支配したのではなく、ローマ帝国が教会を支配したのです。主イエスは、ピラトに対して、「わたしの国はこの世のものではありません。もしこの世のものであったなら、わたしのしもべたちが、わたしをユダヤ人に渡さないように、戦ったことでしょう。しかし、事実、わたしの国はこの世のものではありません。(ヨハネ18:36)」と言われました。まさに、ローマ・カトリックはキリストの国をこの世のものにしようとする試みです。

そして国教化したために、あらゆる異教徒を取り込まなければいけませんでした。ローマ帝国の軍事的精神がそのまま採用されることになり、テオドシウスは強制的に偶像崇拝を禁じました。あるいは、改宗は異教徒をそのまま包摂することによって行なわれました。ローマの宗教にそのまま「キリスト」という名前を付け足しただけでした。

初代教会の礼拝は簡素なものであったのに、手の込んだ堂々としたものになり、他の異教と同じようなものになりました。祭司制度は、キリスト者一人ひとりが担ったという神の奥義が新約聖書で啓示されたにも関わらず、仏教や神道にもある仲介者としての司祭を作りました。イエスの母マリヤも崇拝対象となりました。それは、異教の中に女神崇拝があるからです。バビロンのイシュタル、エジプトのイシス、カナンのアシュタロテ、そしてギリシヤのアフロディテ、そしてローマのビーナスの延長です。

今日のバチカンは、「宣教」という言葉を使わず「新しい福音化」という言葉を使います。それは、キリスト教の教義を信じ、告白すべく働きかけるのではなく、生活や社会、教会一致運動などによって福音の影響力を広めるという趣旨です。その延長に、今回の世界中央銀行という提案もあります。

しかし、真に御霊によって支配を受けていない人々に対して、神ご本人が各人を聖霊によって新生せしめる福音の言葉を語らずに影響力を及ぼそうとしている点において、すでに「世」に組み込まれています。「教会がローマを征服したのではなく、ローマが教会を征服した」ことの繰り返しなのです。それゆえダニエルが預言した「第四の国」の一端を担い、さらに宗教という名のもので経済や政治に介入していることで、使徒ヨハネの見た「大淫婦」となっているのです。

私たちも気をつけるべき

ローマ・カトリックについて、すべてを否定する訳では決してありません。彼らが公会議において固辞した聖書の正典化、三位一体等の根本教理は、神の摂理の中で行なわれたと信じています。その他の数々の聖書釈義や信仰告白も、カトリックの中で発展しました。イエス様は、「天の御国の奥義」の中で御国は、毒麦の種が蒔かれた良い麦の畑であると言われました。毒麦もあるのですが良い麦もある、というのが今日の組織としての教会の姿です。

ルターが腐敗したカトリックに対して抗議したことによって、「宗教改革」が起こりましたが、改革はその時だけでなく、今も行なわねばなりません。例えば、会社の社長さんがクリスチャンで、従業員に礼拝に出ることを奨励したりすることがありますが、キリストの霊的権威のみで回心するという純粋性から逸脱しないように、強制にならぬよう気をつけなければいけません。

また、最近キリスト教団体の中で、「神道はキリスト教をルーツとしている」と称して、神道の儀式の中にキリスト教を見出してもらおうという動きがありますが、そのような方々は、すでにローマ・カトリックで大失敗していることを思い出してもらいたい。パウロは、異教に取り込ませることで福音を宣べ伝えませんでした。むしろ、「あなたがたがこのようなむなしいことを捨てて、天と地と海とその中にあるすべてのものをお造りになった生ける神に立ち返るように、福音を宣べ伝えている(使徒14:15)」「この世界とその中にあるすべてのものをお造りになった神は、天地の主ですから、手でこしらえた宮などにはお住みになりません。(17:24)」と、異教の神々と対比させて、まことの神、主を宣べ伝えました。異教を取り込んで語っている「福音」は、すでに性質を変えた「異なった福音」になっていることを知ってください。

バチカンが「新世界経済秩序」を提唱 その1

世界中に広がる経済・金融不安に対して、バチカンが金融規制をする世界中央銀行の設立を訴えています。

「ウォール街を占拠せよ」デモ、バチカン枢機卿が支持-金融規制要望」

Vatican Calls for ‘Central World Bank’ to Be Set Up

皆さんは、今の日本また世界中で起こっている経済格差デモについてどうお感じでしょうか?私は、日本で生活保護が戦後最多になったことも含めて、今の日本と世界がどうなってしまったのだろう?と思っていました。

しかし、これを世界的に管理する金融機関を創設することによって解決するのか?というと、私はその考えに空恐ろしさを感じます。忘れてはならないことは、現在の金融制度や経済制度に代わる制度も、同じ人間が管理するということです。理想を高く掲げれば掲げるほど、現実との乖離の中でその欺瞞の中で人間は今よりも何重にも苦しめられることでしょう。

さらに、この記事は唯一の公同のキリスト教会と称するバチカンが発言しているものです。世界の政治指導者に対する彼らの外交は良く知られていますが、国々の金の動きにも支配を広げようとしています。

以前、「世界統一通貨」の記事を書きました。世界が統一化されていく動きは、すでに紀元前六世紀に生きていたダニエルに対して神が、啓示として与えられていました。「第四の国は地に起こる第四の国。これは、ほかのすべての国と異なり、全土を食い尽くし、これを踏みつけ、かみ砕く。(7:23)」それに呼応するかのように、カトリック教会は二十世紀以降、一つになった世界をふまえてその影響力を行使しつづけています。

黙示録17章には、世界の諸国の王が不品行をしている、世界帝国の上に座っている大淫婦の姿を描いています。

地の王たちは、この女と不品行を行ない、地に住む人々も、この女の不品行のぶどう酒に酔ったのです。」それから、御使いは、御霊に感じた私を荒野に連れて行った。すると私は、ひとりの女が緋色の獣に乗っているのを見た。その獣は神をけがす名で満ちており、七つの頭と十本の角を持っていた。この女は紫と緋の衣を着ていて、金と宝石と真珠とで身を飾り、憎むべきものや自分の不品行の汚れでいっぱいになった金の杯を手に持っていた。(2-4節)」

次の新書はぜひ、手にして読んでみたいと思っています。なぜこうも、世界で政治や経済の中心的人物がバチカンに謁見するのか、日本の元バチカン大使が書いた本です。

「『バチカンの聖と俗』 - 日本大使の1400日」 上野景文著 かまくら春秋社

次に、ローマ・カトリックの問題点を述べたいと思います。 (その2に続く)

「聖書の日本語」

本日、図書館で借りてきて、飛ばし読みですが読み終わりました。この本題に惹かれたのが、「日本語訳の聖書」ならず、「聖書の日本語」と、日本語のほうに焦点を当てているのではないかと思った点です。

「聖書の日本語」 鈴木範久著 岩波書店

以前、「据わらないキリスト教用語」という記事を書きましたが、まさに「目から鱗が落ちる」点が二つありました。

一つは、私たちは「日本のキリスト教は西欧からの輸入」と思っていますが、聖書翻訳について言えば中国訳にかなり依拠しているということです。

日本のキリスト教受容は,西欧人によって伝えられたために,ともすると西欧の影響のみが表立っていた.ところが,今回改めて思い知らされたのだが,日本の聖書翻訳に占める中国語訳の大きな比重は,キリスト教受容にも影響を与えずにはおかなかったであろう.あえていうならば,日本のキリスト教の受容は,聖書語に関する限り,儒教や仏教の経典と同じく,中国経由なのである.(本文から)

もう一つは、日本語には、聖書に使われている言葉がかなり多く定着している、という点です。始めに挙げた「目から鱗」というのは、パウロが水のバプテスマを受けたときに、聖霊のバプテスマも受けて「目からうろこのような物が落ちて」という使徒の働き9章18節から来ています。「豚に真珠」もそうですし、日本語に十分定着しています。

ルター訳がドイツ語の基礎を作ったとは,よく言われることですが,日本語への翻訳の歴史の中でも,聖書はまた格別の意義をもつようです.聖書の言葉,言い換えればキリスト教の考え方が,どれほど深く近代日本の精神に喰い込んでいるか.数々の発見に満ちた,聖書翻訳物語です.(編集部から)

英語と日本語の翻訳の違い、また韓国語と日本語の翻訳の微妙な差異から、説教そのものの内容まで変わるという場面をしばしば見てきたので、聖書の「言葉」というものが気になっていました。

ちなみに、ウィキペディアで、聖書翻訳の変遷の歴史を読むことができます。→ 「日本語訳聖書

聖書本文の違い

そして、もう一つ聖書説教の準備で大きく立ちはだかるのは、「底本」です。旧約聖書はヘブル語、新約聖書はギリシヤ語ですが、現存している写本の校訂版のどれに依拠するかによって、当然翻訳が変わってきます。旧約のヘブル語は「マソラ本文」で統一されていますが、新改訳では、旧約聖書のギリシヤ語訳である「七十人訳」やシリヤ語訳を採用している場合、また直訳ではない言い回しが頻出するので、とまどうことがしばしばあります。けれども新改訳の良さは、頁下にある「引照」です。そこに直訳や、ヘブル語の訳など翻訳の背景になっている説明が数多く出てきます。それを皆さんも参考にされると良いかと思います。

そして、さらに厄介なのが新約聖書です。しっかり聖書を読んでおられる方は気づいているでしょうが、「節」が飛んでいる場合があります。例えば、ヨハネ5章4節を探してください・・・ありませんね!それで引照を見ると、異本には3節後半から4節には次を含む、という説明があります。これは章と節を振った時と、今の翻訳の底本が異なるためです。往々にして、現代の翻訳では省かれています。参考までに、チャック・スミス牧師の「マルコ16章」の講解(日本語訳)を読んでみてください。

私は、本書でギリシヤ語の底本として何が使われているかが参考になりました。明治元訳においては、「公認本文(テクストゥス・レセプトゥス)」が使われていたけれども、英語のRevised Versionを参照した「大正改訳」では「ネストレ校訂文」を使ったそうです。これが、現代私たちが目にする「文語訳」になります。

そして、戦後直後「口語訳」、それから「共同訳」「新共同訳」と変遷しますが、本書では福音派の人たちが使う新改訳は取り扱われていませんでしたが、新改訳も文語訳で確立した基本的な聖書用語はほぼ全て踏襲していることも分かりました。また、新改訳もネストレ校訂文を底本にしていますから、現存している日本語訳聖書で、英語の欽定訳(King James Version)の依拠している公認本文を底本にしているのは、明治元訳以外に存在しないということになります。

ところで昨年、翻訳されたとされる「現改訳」は、ビザンチン・テキストを底本としているようで、とても期待しています。

聖書翻訳の比較

聖書を学ばれるときに、ある箇所の意味が分からなくなったら、まずはその前後を読んで、文脈を把握してください。それで多くの場合、その言葉の意味が分かってきます。それでも分からなければ、他の翻訳を参照することをおすすめします。ネット上にもたくさん存在します。

新改訳聖書

口語訳と新共同訳

大正改訳・明治元訳・口語訳

恵比寿バイブルスタディのお知らせ(10月26日)

みなさんお元気ですか?

次回の恵比寿バイブルスタディのお知らせをします。

日時:10月26日(水)19:00~
場所:目黒区立 田道住区センター三田分室 / 2階 第一会議室
聖書箇所:詩篇120篇以降
※ 食事は学びの前と後で持参ですることもできます。

その次は11月9日で、その次が30日です。

みなさんのご参加をお待ちしています!

主に感謝。

イランによる駐米サウジアラビア大使の暗殺未遂

米政府、イランによる駐米サウジ大使暗殺計画を阻止

ワシントン(CNN) 米国のホルダー司法長官は11日、イランによる駐米サウジアラビア大使の暗殺計画を阻止したと発表した。計画の指示はイラン政府内部から出ていたという。

米連邦捜査局(FBI)によると、米国籍を持つイラン人のマンスール・アルバブシアル容疑者(56)と、イラン革命防衛隊に所属するゴラム・シャクリ容疑者が、外国当局者の殺害と大量兵器使用を図り、テロ行為を計画した共謀罪で起訴された。アルバブシアル容疑者は9月に逮捕されているが、シャクリ容疑者は捕まっていない。
(中略)米当局者らによれば、容疑者らはサウジ大使だけでなく、ワシントンやアルゼンチンの首都ブエノスアイレスでイスラエル、サウジ両大使館を攻撃する計画も検討していたとみられる。なぜサウジ大使が標的とされたのかや、イラン政府内部で計画がどの程度知られていたかなどは明らかでない。

・・・とのことですが、CIAのスパイとして革命防衛隊にいた人によるA Time to Betrayを最近読んでいたので、十分ありえる話だなと納得しました。もし阻止できていなければ、今頃、大変な騒ぎになっていたことでしょう。

ここでの重要な点は、「サウジアラビア」が標的にされていることです。イランがアラブではないことは、歴史的、民族的に明らかであり、また宗教的(イランはシーア派、サウジはスンニ派)な違いと、中東の覇権争いが続いています。

よろしければ、この機会に「エゼキエル38章」の聖書講解を一読してみてください。今の情勢と、預言者エゼキエルが見た幻が酷似していることを説明しました。その時点で明らかでなかったのは、1)トルコの動き、と、2)サウジアラビアでした。けれども、トルコは2010年の「ガザ支援船拿捕事件」を契機にイスラエルとの外交関係を切る脅しをかけ、ロシア、イラン、周辺アラブ諸国との連携に躍起になっています。そしてサウジアラビアは、「シェバとデダン」であり、イスラエルを攻める動きに対して反対表明を出すけれども、何の行動も出せない状況を表していますが、今回の事件でイラン(聖書上ではペルシヤ)との対立が表面化しました。

ところで、エゼキエル38,39章の預言を基調にして世界情勢小説を連載で描いている、ジョエル・ローゼンバーグ氏は、再び新著において、この出来事を言い当てるノストラダムス(?)になってしまいました。

ローゼンバーグ氏は、小説の原稿を出版社に出した後で、911を始めとする数々の中東情勢がその通りになりました(Epicenterの書評)。今回は、”Teheran Initiative“(テヘランの先制)という新書が出ましたが、イランのテロ攻撃が、米国内のアメリカ人、アラブ人、イスラエル人の指導層に対して行なわれ、この攻略によって米国の大統領府はイスラエルに対して、イラン国内の核施設に対して先制攻撃をしないように圧力をかけることから始まります。アメリカが武力攻撃も辞さない姿勢を見せていないこと、また先制攻撃を行なうな、という圧力は既にクリントン国務長官の口によって表面化しました。

ところで、「イラン」という国について、とても面白い本を先ほど読み終わりました。

「イランはこれからどうなるのか 『イスラム大国』の真実」 春日孝之著 新潮社

毎日新聞の記者としてテヘランに在住していた経験を生かして、日常生活で起こっている卑近な例を引き合いに出しながら、国内外で起こっていることを柔軟に説明してくれています。A Time To Betrayの著者レザ・カーリリ氏の反体制的な視点とは一見正反対の姿を描いていますが、どちらも真実なんだろうな、という感想を持ちました。イランの不透明さと不測な動きは、「悪の三枢軸」の中で一緒になっている北朝鮮とではなく、むしろ共産主義を国是にしながら市場経済を導入している現代中国に似ているかもしれません。

今回の暗殺未遂の事件も、既に、宗教指導層側がアフマディネジャド外しを行なっている動き(英語日本語)に呼応した形で起こしたのではないかと言われています。大統領の取巻きにはない革命防衛隊の一部が行ったものである、とか、ハメネイ氏側が米国との限定的武力衝突を狙って行ったものだとかいう情報があります。そうすると、アフマディネジャド自身が「こんな計画は知らない。」と反論しているのもうなずけます。上記の書物にも、イスラム法学者の動きと大統領制の二重構造を上手に説明しています。