コロナ禍が現代社会に警告する神学的課題:「創造の秩序」と自然界への慎み

(4月28日にフェイスブックに掲載)

コロナ禍が現代社会に警告する神学的課題:「創造の秩序」と自然界への慎み

 こちらの論考、私もずっと、神がコロナを通して、何を語っておられるのか?という問いに、ここ1-2週間、語ってくださった応えでした。それは、「御子にあって神と和解し、自然と和解する」ということです。

 きっかけは、自身が企画していた聖地旅行です。3月に、トルコとイスラエルに人々を連れて案内する予定でした。ところが2月終わりに、イスラエルが、韓国人の観光客に陽性反応が出たことから、日本も合わせて入国拒否になったため、断念しました。とても悲しく、悔しかったです。

 その涙の心を持っていた時に、段々、これまでも見て親しんでいたイスラエルの自然が、信じられない美しさをもって回復しているのを見ました。ガリラヤ湖の水位が冬季に雨が降ったということもあり、どんどん上がり、ついに溢れるほどになったことです。自分が、ガリラヤ湖に行けなかった悔しさがある一方で、神が鮮やかに、「わたしは、わたしの造ったもので、栄光を受けているのだ」と語られた思いでした。

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ネット礼拝の神学的側面:受肉・聖礼典・グノーシス

(フェイスブック4月28日に掲載)

ネット礼拝・ネット信仰生活の是非をガチで考えてみた⑤「ネット礼拝の神学的側面:受肉・聖礼典・グノーシス」

 

ちょっと牧師さん向けの内容になってしまいますが、でも、すべてのクリスチャンに考えられる内容になります。ネット礼拝において、大きな誘惑は、まさに、ヨハネ第一に最も明確に書かれている、反キリストの霊、グノーシス主義です。齋藤牧師は、これをガチで語ってくださっていて、私も強く感じていた部分です。

あるところで、私はこう書いていました。「けれども、オンラインでいくら顔を合わせても補うことのできない、直で交わることが、主の命令であり、聖書に書かれていることであり、そうでなければ、イエス様は「仮現」しても、肉体を取られる必要はなかったのです。「仮現」は、まさにグノーシス主義者の主張でした。最近のデジタル礼拝が、生身の人間が会って礼拝しないことが通常のこととなれば、そうした異端の霊の中に引きずられていってしまうことでしょう。」 続きを読む ネット礼拝の神学的側面:受肉・聖礼典・グノーシス

桁外れに死者数少ない日本、桁外れに批判の多い日本

(4月18日に、フェイスブックに掲載)

人口100万人あたり死者数(G7)※4月21日

イタリア 399人
フランス 310人
イギリス 243人
アメリカ 128人
ド イ ツ  58人
カ ナ ダ  45人
日  本 2人

日本がG7の中で圧倒的に少ない死亡者数であることが分かるでしょう。ちなみに、指導者に対する評価は日本は最低です。

感染対策の国民支持、日本が最低
G7対象の仏紙調査で3月に続き

 もちろん今、日本は増加していますから最大の注意と警戒が必要です。けれども、海外からの煽り、日本国内の猛烈な批判で、私たちはさらに恐れ、疲弊しているのではないでしょうか?

 西側諸国(外国人、そこに住んでいる日本人問わず)から批判している人たちは、偽善です。日本のことを語る前にまず自分自身のことを見つめるべきです。

参照記事:
Why Japan gets no Covid-19 respect – Japan is criticized despite a lower death rate than regional peers. Blame it on the legacy of Fukushima

Japanese Prime Minister Shinzo Abe wearing a face mask, attends a countermeasure headquarters against a new coronavirus, COVID-19 at the prime minister’s office in Chiyoda Ward, Tokyo on April 1st, 2020. Abe announced the government will distribute face masks across the nation. ( The Yomiuri Shimbun )

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「医療の命の暴走」

(4月19日、フェイスブックに掲載、前記事の続き)

人は家畜になっても生き残る道を選ぶのか?/コロナパニックについて考える

「これまで何百年もかけて人類が一つずつ獲得してきた様々な社会的な権利。それらを一時的にとはいえ一気にむしり取るという前代未聞の体験を、いま僕たちは「コロナ」を理由に経験している。医療は、これまで誰も持ち得なかった「国民の人権さえも制限できる巨大な力」を持ってしまったのだ。「命を守る」の殺し文句がこれほど効果を持つとは。。。」

 今の医療崩壊を叫ぶ、医療現場からの声、それは切実であり、全く異存はありません。

 しかし、医療現場を守るために社会の機能そのものを停止したことによって、失業して家庭暴力が急増、自殺者多発、運送も心身の疲弊・・今日のNHKの報道でした。そして老後介護施設では、人との接触が少なくなり、そのために心身ともに弱くなり、罹患して死んでしまわれる可能性が増えると。他のニュースでは、十代の女子の妊娠(おそらく中絶)、危ないのは、医療現場だけじゃないんですよ。

 命ってそもそもなんでしょう?命よりも大事なものがあって、初めて命なんじゃないでしょうかね?その医療の現場が、ご高齢の方々が高度医療の檻に入れられているようになっている、「命ってなんだんだ?」という問いに答えられないままで、今回のコロナウイルスが起こってしまったんじゃないでしょうか?

 医療現場に元々あった「人の尊厳」の問いに答えが付かないままで「医療の命」があり、その「医療の命」が、国全体、社会全体を支配し、人の尊厳を踏みにじる危機にあるのではないでしょうか?

 ビズテリアのこの前の勉強会でも、「人を救おうとして、人を潰している」というコメントをしました。なるべく人の命を守らないといけないのは、言うまでもありません。でも、実はその根源的な問いを直視しないままでいたら、人命を救おうと思えば思うほど、人が死んでいくと思います。

 とんでもない時代になったと思います。

参照投稿:

「神ではない、我々が」

(4月18日、フェイスブックに投稿)

ニューヨークのクオモ知事:
「数は減った、それは我々が減らしたからだ。
 神がしたのではない。
 信仰によってでもない。」

 いわゆる「神頼み」ではなく、必死の努力によって減らしたのだ、努力を怠れば、また増加する、ということを言わんとしたのだと思います。しかし、だからこそ、その「善意」の中に、巧妙に、悪魔が働いています。

 人がウイルスを制圧しているのだと。為政者も、専門家も、目の前のウイルス感染と戦っていて、あたかも我こそはウイルスをとっちめるという幻想の中に陥っているのです。そしてそれが、国民全体、世界全体を覆っている、というのが世界の流れです。これ、聖書に預言されているのです、「獣の国」です。ダニエル7章、そして黙示録13章です。 続きを読む 「神ではない、我々が」

霊的コロナ対策のほうが教会の使命

(4月2日にフェイスブックに投稿)

 今、専門家会議の記者会見、また安倍首相の政府対策会議のどちらも見ました。また午前中は、ズームによってアジア地域に遣わされているカルバリーの宣教師たちが、デボーションと分かち合いと祈りの時を持ち、教会の人々とは毎日、ズームで祈りを持っています。

 そういったことから強く感じるのは、「コロナ対策に教会が吸い込まれている」という危惧です。コロナというウィルスへの対策は、私たちの体にとって大切ですが、霊について、警戒と対策が必要なのに、そちらのほうは、おざなりにされている感じがします。

 そう感じるのは、山中伸弥先生の語られる言葉から、ヒントを得たからです。

新型コロナウイルスとの闘いは短距離走ではありません。1年は続く可能性のある長いマラソンです。日本は2月末の安倍首相の号令により多くの国に先駆けてスタートダッシュを切りました。しかし最近、急速にペースダウンしています。このままでは、感染が一気に広がり、医療崩壊や社会混乱が生じる恐れがあります。一人一人が、それぞれの家庭や仕事の状況に応じた最速ペースで走り続ける必要があります。国民の賢い判断と行動が求められています。

長距離走なのに、短距離のように走っている

 短距離走ではなく、長距離走であるのに、全速で走っている感じがします。早く走らないといけない時は走るのですが、その目標地点を見据えることなく走っているので、必ず息切れします。山中先生はこうも言われています。 続きを読む 霊的コロナ対策のほうが教会の使命

コロナウイルスに対する霊的対処は悔い改め

愛し合うのではなく、裁いてきたことへの悔い改め

あなたがたは、自分がさばく、そのさばきでさばかれ、自分が量るその秤で量り与えられるからです。(マタイ7:2)」

 本当に、裁かなければいけないことってありますが、しばしば、裁いている時、まさにその裁いている根拠が本人にそのまま当てはまることが多いです。

 ある教会運動が教会に与えられた権威を逸脱していると警鐘を鳴らす人が、諸教会の上に自分は権威を持っているかごとく横暴にふるまって、声にも出せず傷ついている人々が大勢います。また、ある動きが、神の栄光を人間のレベルに引き下ろすと言いながら、実は、神をあがめている人々を、人間的な思いに満たし、言い争いのレベルに引き下ろしています。

 今朝、あるクリスチャンから「毒麦」(マタイ13章24節以降)について尋ねられました。それは、自分の中に罪があることを意味しません。そうであれば、すべての人が毒麦になってしまいます。

 毒麦は、神の憐れみによって立っている教会またその聖徒たちを、「あなたはそれではだめだ」として貶め、神の恵みではなく、何らかの霊的状態にいなければいけないとして、焦らせ、罪意識を持たせ、何かを行わないと義に到達しないと急き立てるものであり、他者の意見をうんも言わせず、自分の言っていることこそが神からのものだとして正しいと主張しているものです。「教会に毒麦がある」と言いながら、自分自身が毒麦になってしまっていることに気づきません。

批判ではなく、「執り成し」を!

 それから、ローマ13章に言及、上の権威は神からのものだから、政治家のために祈るべきだ。適切な批判はしかるべきですが、自分がたとえ好きでなくとも、祈るべきだ、とのことです。

イスラエルの執り成しのため、現実を直視する辛さ

(3月30日にフェイスブックに掲載)

私の信頼している、イスラエルとの架け橋になっているキリスト教団体や個人の一つが、「シオンとの架け橋」さんです。先週末、イスラエルのコロナ対策を、イスラエル現地からの報告と、神戸在住の石井田直二さんによる、聖書から「執り成す」ことについての学びを、疫病に関して語ってくださいました。

2月終わり頃から、コロナ対策を始めるイスラエルが進んでいる道に、応援する気持ちでいるものの、おかしいな?と感じる部分があり、ユダヤ民族にある、神の選びからくる気高さを感じられない部分がありました。ここ一か月ぐらいの間、FBでも、いろいろと批判的な投稿を書き続けてきたと思います。

けれども、僕は深く、聖書信仰からイスラエルを愛し、親イスラエルの人間だと思っていただけに、こんな自分でいいのか?と悩んでいました。

愛しているからこその問題直視

驚くことに、現地レポーターの方がその深く横たわっていた疑問を、まっすぐにそのまま語ってくださっていました。ご自身も否定的なことを説明するのは非常に躊躇していながらも、けれども、執り成すためには不都合なことも知らないといけないこと、愛しているからこそ直視しなければいけない現実を語っておられました。同じ思いであったのを知り、神から来ているものと分かり、安堵しました。 続きを読む イスラエルの執り成しのため、現実を直視する辛さ

アジア諸国にある「バランス感覚」

在イスラエルのアメリカ人のクリスチャンでもあるジャーナリストが、西側諸国におけるコロナ対策について、大きな疑問を投げかけています。「封鎖しているけれども、解決の糸口がない」という題名です。

Locked down, without answers

主旨としては、発生源である中国や韓国、シンガポールなどで採用された都市封鎖による感染の抑制に倣って封鎖しているけれども、それらのアジア諸国が経済的活動の最小限のことを保ちながら、完全な封鎖はしていないのに何とか踏ん張っているのに対して、西側諸国はさらに厳格な封鎖をしているのにかかわらず、感染は広がっていく一方であるという疑問を挙げています。

まず、準備していなかったこと。封じ込めればいいと思っていること。家に閉じこもれとばかりいって、でも、田舎に行くとか、公園に出ても距離を保つとかすればいいのに、締め付けていくばかりだとのこと。どんどん感染が拡大するから締め付けるけれども、拡大の速度は落ちないこと。また落ちても、解除したら増えていくとの予想もあること。解決なき、出口なき、封鎖ということを話しています。

そして自由民主主義体制であるにもかかわらず、市民に対してウィルスの現実を知らせていなかったこと、封鎖がうまくいかないのは、待ちすぎて、封鎖を破っている市民に処罰を与えているだけだ、ということです。ハイテク技術の監視にも触れています。また、封鎖を解除して、感染が再び広がることも予測されており、封鎖が延々と続いてしまうことを懸念しています。 続きを読む アジア諸国にある「バランス感覚」

危機対応随一のイスラエルと自然の力を知る日本

(3月26日にフェイスブックに掲載)

イスラエルで起こっていることを、長いことフォローしてきたつもりですが、近現代に建国されたこの国は、ホロコーストのトラウマによってできているとまで言われているほど、民族絶滅の危機からの救出使命を負っている運命共同体と言えます。まだ、死亡者が数名であっても、イタリアよりも厳しい鎖国・隔離対策を取り、ちょうど総選挙後の連立の動きも相まって、国会が機能していないという事態にまで至りました。

私個人にとってショックだったのは、シンベトが持っていた対テロの技術を感染者や隔離者の情報を追跡するために使っていることです。それは私にとっては、「敵からユダヤ人を守るための武器を、同じユダヤ人に向けた」というぐらいの衝撃でした。その判断は、主ご自身にお任せしていますが、ただならぬことが起こっていることだけは確かです。

疫病を敵と区別したダビデ

敵からの救いを、神の選びの民として種のように植えられているイスラエルは、けれども、疫病に敵としてみなして戦うことはできるのだろうか?と悩みます。疫病は天災の一つで、神の御手の中にありますが、敵は人間によるものです。

ダビデが、人口調査をする罪を犯した時に、預言者ガドに、三つのことの選択を迫られます。飢饉か、敵に追われるか、それとも疫病があるのがよいか?ダビデはこう言いました。「それは私には非常に辛いことです。主の手に陥らせてください。主のあわれみは深いからです。私は人の手には陥らないようにしてください。」(Ⅱサム24:14)ダビデは、疫病を人の手ではなく、主の手から来たもの、そしてそこには主の深い憐れみがあるのだとしたのです。

そこに、私がイスラエルの現在のコロナ対策で違和感を抱いている理由です。しかしながら、同時に、私の感想は当然、小さなもの、不完全なものです。明日になったらもしかしたら、この考えは、ころっと変わっているかもしれません。ずっと、政府関係者の方々、イスラエルの方々のために祈っています。 続きを読む 危機対応随一のイスラエルと自然の力を知る日本