「帝国の慰安婦」の書評から考える

私が予てから注目していた、朴裕河(パク・ユハ)教授による「帝国の慰安婦」の日本語版が最近出版されたようです。私はこの本をまだ読んでいないどころか、女史の他の著書もまだ読んでいないのですが、インターネット上に出てくる記事を読む中で、日韓の和解について、最も心に沁みて、癒される思いのする言葉を持っておられる方として注目しています。

まずはぜひ、書評をお読みください。

(書評)『帝国の慰安婦 植民地支配と記憶の闘い』 朴裕河〈著〉

(論壇時評)孤独な本 記憶の主人になるために 作家・高橋源一郎

(参考:彼女の主張について、良く分かる記事が次にあります。「それでも慰安婦問題を解決しなければいけない理由」)

私は女史の論じる二つの点について、私なりの感想を述べさせていただきます。

①「当事者である女性」の視点
②「帝国主義」という責任

「弱者」をありのままに受け入れる

まず、①「当事者である女性」の視点についてお話ししたいと思います。この論争において、一番置き去りにされているのは被害を受けた慰安婦たちの声、ということです。彼女たちの声を、必ずしも韓国政府や運動体が代弁していないこと、むしろ彼女たちの声を阻害さえしている面がある、ということです。

書評によると、慰安婦は、淡々といろいろなことを証言しています。それの大半は悲惨な状況でありましたが、しかし、人生の中でそれも自分の一部になっているという事実もあります。慰安婦に限らず、何らかの被害を受けた人々にとって、最も必要なのは、そういった、痛みを持っているけれども、それを寄り添って聞き、静かに受けとめてくれる人々、またその環境です。

記憶さえも奪われる

書評には、次の本書の引用があります。「『被害者』としての記憶以外を隠蔽するのは、慰安婦の全人格を受け入れないことになる。それは、慰安婦たちから、自らの記憶の〈主人〉になる権利を奪うことでもある。」

もちろん文字通り性奴隷化され、話すのも嫌だという究極の苦しみを味わった方もおられるでしょうが、自由が全くなかった訳ではありません。しかし、国家賠償を要求する政治的・外交的圧力をかける中で、その記憶さえ語らせてもらえていない状況になっています。

北朝鮮拉致被害者の蓮池薫さんのことを思い出します。蓮池さんは、ご自身が身に付けた朝鮮語を駆使して、韓国の出版物の翻訳などを手かげております。確か、お母様が息子が朝鮮(韓国)を使って仕事をすることに、嫌悪感を示されたということを蓮池さんが話していたのを覚えています。母親としては当然の反応でしょう、しかし蓮池さんにとっては、「奪われた24年間」と言っても、その人生の中にあるもの全てを否定されたら、それこそ記憶さえも奪われてしまいます。その痛みと苦しさの中にさえ、かすかな希望をもって生き抜いてきた中で習得した朝鮮語です。それを生かすことを今、屈辱だとは思っておられないと思います。

そうした記憶は、日本の統治時代を生きたことのある老齢の韓国・朝鮮人の方々も同様であります。もちろん、反日感情を露わにする方もいますが、それよりも「あの時代では、こうだったな。」としみじみと、善悪判断付けず、その時の思い出を語っておられた姿にも、何度か出会いました。

隠された真実も明るみに出す

もちろん、そうした本音は敢えて表に出さなくてもよい時があります。被害があまりにも甚大な時に、そうではない要素を話すことによって、その甚大さを軽減してしまうという弊害もあるからです。

東日本大震災で、津波被害に遭った方々のことも思い出します。私も、救援活動、復興支援活動に関わらせていただきましたし、今も祈り等で関わらせていただいています。その中で直接伺った話は、必ずしもマスコミの報道に出てくるようなものだけではないことを知りました。被害による悲しみの中に、他にも人生や生活の中でそうした複雑な思いは当然ある訳です。ですから普通はその本音を、報道に出すことは必要ではないと私も思います。

しかし、慰安婦問題については、あらゆることを表に出さないといけない所まで来ています。話がこじれにこじれて外交問題にまで発展してしまったからです。これまで隠れていた複雑な感情を表に出して、冷静に分析せしめたのが本書ではないかと想像します。

神の正義は「制度」より「人」

本書では、政治や主義・主張の中で埋もれてしまった「人」を焦点にして論じたことで意義があると思います。不正義や不正を「制度」の問題にして、それを是正しようとするのが政治・社会団体の特徴です。しかし、キリスト者の正義とは、もっと「人そのもの」です。生まれつきの盲人に目を留められたイエス様のように、分析よりも、その人自身への働きかけをすることこそが「正義」ではないのか?と思うのです。

そのことがあって、当ブログでも、韓国や中国との関係の問題を取り扱うに当たって、「生身の彼らに会ってください」とお願していました。(参照記事)キリスト者であれば、中韓のキリスト者に出会うことは非常に大切です。ただ彼らが通ってきたことを聞けば、主張せずとも「声」が聖霊によって私たちにも伝わるのです。

私たちは「全て」を知らない

そして私の感ずるもう一つの問題は、「全てを知ったかのような物言いをする」ことであります。日本の福音派のキリスト教会では、韓国のキリスト者に対して謝罪が一種のブームになりました。その証拠に戦争責任の謝罪声明をいろいろな教団が出しましたが、それが1990年代に集中しています。それに強い違和感があると私は申し上げました。(参照記事

そして韓国のキリスト者に会った人が、しばしば体験することです。謝罪すると、しばしばこういう答えが返ってきます。「君は本当に、”知って”謝っているのか?」その歴史を負って生きている国の人々のどこまで痛みを知って、謝っているのか?ということです。知らずに軽々しく謝罪することは、悪いことを知っていて謝罪しないのと同じぐらい、悪いことだと私は思います。

二つ目の書評、論壇を書いた高橋源一郎氏が、ツイッターで次のように発言しています。

C・イーストウッドの映画「父親たちの星条旗」の冒頭には、「ほんとうに戦争を知っているものは、戦争について語ろうとしない」という意味のことばが流れます。深く知っているはずのないことについて大声でしゃべる人間には気をつけたい、とぼくは思ってきました。もちろん、ぼく自身についてもです。

もちろん私たちは、過去の戦争についての是非を論議してよいと思います。またそこから生じた気持ちを言い表してもよいと思います。けれども、常に、私たちがその場に居合わせなかった、いや居合わせたとしても全てを知っている訳ではない、という心の余裕が必要だと思うのです。

主よ。私の心は誇らず、高ぶりません。
及びもつかない大きなことや、奇しいことに、
私は深入りしません。
まことに私は、自分のたましいを和らげ、静めました。
乳離れした子が母親の前にいるように、
私のたましいは乳離れした故のように
御前におります。

(詩篇131:1‐2)

「帝国」以上の問題

本書の二つ目の特徴は、②慰安婦の問題を、日本や欧米の「国民国家体制」にしている点、であります。もう一つ、韓国(また日本の)「家父長制度」にしている点です。この点について、著者の主張というか思想について、本書を読まねば何とも言えないと思いますが、私は信仰者としての立場を書かせていただきたいと思います。

初めの書評で言及されているとおり、責任の具体的な追及はかなり広がります。今は日本政府の国家賠償、公式謝罪に留まった議論でありますが、それ以上の、近代の始まりに対する疑問の投げかけとなっており、それに対しては責任の追及はほぼ不可能ではないか、と言えます。日本そして韓国も、欧米を中心とした国民国家の世界秩序の中に入れられているからです。

また、家父長制度についても、古くから韓国に、また日本にもある制度、いや「制度」と言えるのか分からないぐらいの因襲的なもの、人の心のあり方を問う内容になっています。

したがって、慰安婦問題への解決は、責任の追及よりも、「この哀しみを、いかに共有するのか。」という癒しの働きへと転換させねばならないでしょう。

確かに事実として、大枠として、欧米列強及び日本のアジア支配の中で起こった問題です。しかし構造的また制度上の問題は、それを造っている人間たちの心から発しているものです。したがって構造や制度が変わったとしても、今日、世界の至るところで「既に解決済み」だと思いたかった問題や対立が噴出しています。最近のアメリカの黒人暴動はその一例です。

私個人は、今、この時点で世界超大国である米国に社会の不公正の原因として焦点を合わせる、いろいろな動きに警戒心を持っています。かつては共産主義がありました。米国を帝国主義として今でも北朝鮮は対抗していますが、もちろん破綻しています。次に米国を「大きなサタン」として始まったイスラム革命がありますが、現在進行中でおぞましい殺戮と圧政の下に人々を置くことは自明です。

そして何よりも、米国自身が自らの力を意図的に弱くしなければ国際協調はできないと考えているのに、事態は良くならないばかりか、もっと酷くなっていることです。今のオバマ政権こそが、これまで米国を帝国主義として非難した諸国の希望に叶った動きをしてきました。米国の人々、殊に保守派にとってはこれまで考えられない方策をオバマ大統領は取ってきて、国内の二極化は深刻になっています。そこまでして、オバマ大統領は米国の世界における相対的地位を低めています。(参照記事

しかし、世界中で嫌悪感、憎悪、歪んだ正義感によって引き起こされる動きは後を絶たず、むしろ増殖し、世界中で不穏な空気が広がっているのです。著者は今、日韓にある悪い感情を何とかして解決するために、この問題を取り組まれていると理解しておりますが、それゆえ今ある世界的潮流にも目を向けなければいけないと私は感じます。構造問題をアメリカのみに起因させる傾向は、平和への貢献ではなく、むしろ争いへの助長にもなりかねない、諸刃の剣であると感じています。

罪の支配

そこで、私は敢えて信仰者として、そのような帝国主義の問題以上に、もっと大きな課題として取り上げたい事があります。それは、世界に蔓延してしまっている、すべての人が免れることのできない「罪」の問題です。

そういうわけで、ちょうどひとりの人によって罪が世界にはいり、罪によって死がはいり、こうして死が全人類に広がったのと同様に、―それというのも全人類が罪を犯したからです。」(ローマ5:12)

著者は「帝国」にある悲劇を語っておられますが、その言葉をお借りするならば、この全人類が「アダム帝国」の中にあります。アダムが初めに罪を犯したので、アダムを頭として全人類が罪の下にあります。そして、罪という権力者が人類を虐げているのです。これこそ、帝国主義よりも是正がはるかにできない、大きな課題であります。

その証拠に、人間の奴隷制度、また性奴隷の制度は、日本で(そしておそらく韓国でも)存在し、その被害者は万単位であります。人身売買は横行しています。(参照:「2014年人身売買報告書(日本に関する部分)」私たちは何十年もかけて過ちを追及する中で、形を変えて、何ら変わらず「現在進行形」で問題を引き起こしているのを見るのです。これは絶望的です、しかし、直視を避けてはならない根源的な問いかけです。

「アダム帝国」から「キリストの御国」へ

人による帝国主義をなくすには、その頭のすげ替えが必要です。アダムによる罪の支配する帝国も、頭のすげ替えが必要です。神は二千年前に、頭のすげ替えを行われました。その罪を御子の十字架において取り除き、新しい命をその復活によって始められたのです。アダムではなく、キリストが頭となる国です。

罪を取り除き、新しい命を与えるキリストにあって生かされることこそ、様々な不正や不義の問題に対処する唯一の力であります。アダム帝国ならず、「キリスト帝国」いや「キリストの御国」こそが、正義と平和の確立を保証します。

ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。
ひとりの息子が、私たちに与えられる。
主権はその肩にあり、その名は、
「不思議な助言者、力ある神、
永遠の父、平和の君」と呼ばれる。
その主権は増し加わり、その平和は限りなく、
ダビデの王座に着いて、その王国を治め、
さばきと正義によってこれを堅く立て、
これをささえる。今より、とこしえまで。
万軍の主の熱心がこれを成し遂げる。
(イザヤ9:6‐7)

制度や体制の問題ではなく、「人の罪」の問題であるというのがキリスト者の主張です。

しかし、罪の力を打ち破る命があります。この罪のために神が肉体を持って現れたのが、キリストです。キリストは、ローマの苛酷な帝国主義を始めた、アウグストが皇帝であった時に、徴税のための住民登録で、臨月になっていたマリヤを、ヨセフが自分の故郷の町ベツレヘムに連れて行かねばならなかったところで現れました。そして、家畜小屋という悪環境の中でキリストがお生まれになりました。

この方が、ローマへの反逆罪の見せしめであり、権利を完全に剥奪された「十字架刑」に処せられました。虐げられたあらゆる人々の苦しみを、キリストはすべてご存知です。

しかし三日目によみがえったのです。帝国主義、その中にある虐げ、その根源にある罪を根こそぎ取り除いて、罪のもたらす死に打ち勝たれました。ですから、この方に出会い、この方に生きる時に、これまで受けた尊厳の喪失を埋めるだけでなく、あり余る神の恵みによって満たされることができます。

そして、新しい命を与えられた者たちの間で、キリストの国が拡がります。キリストを頭とする教会を通して拡がり、そしてキリストご自身の再臨によって、正義と平和が確立します。

(関連記事:「慰安婦問題」「『風俗』と男の尊厳」「風俗発言&慰安婦問題の参考情報」)

「「帝国の慰安婦」の書評から考える」への9件のフィードバック

  1. 「書評によると、慰安婦は、淡々といろいろなことを証言しています」と証言を集めたのは、日本軍「慰安婦」被害者を支援する挺対協の人々であるのに、「『被害者』としての記憶以外を隠蔽するのは、慰安婦の全人格を受け入れないことになる。それは、慰安婦たちから、自らの記憶の〈主人〉になる権利を奪うことでもある」とは矛盾しませんか。
    むしろ、著者の朴裕河氏が、被害者が認めがたい解釈を行い、「記憶の〈主人〉になる権利」を奪っているから、被害者たちから訴えられたのではありませんか。
    朴裕河氏の恣意的でご都合主義的な解釈の問題点については、明治学院大学の鄭栄桓准教授が詳細に解説されておりますので、下記の記事もご参照の上で「帝国の慰安婦」を評価していただけたら幸いです。

    朴裕河『帝国の慰安婦』の「方法」について [2014年 6月21日]
    http://kscykscy.exblog.jp/22813455/

    朴裕河『帝国の慰安婦』の「方法」について (2)[2014年12月31日]
    http://kscykscy.exblog.jp/23946973/

    朴裕河『帝国の慰安婦』の「方法」について (3)[2015年 1月 3日]
    http://kscykscy.exblog.jp/23960512/

    朴裕河『帝国の慰安婦』の「方法」について (4)[2015年 1月 6日]
    http://kscykscy.exblog.jp/23976255/

    朴裕河『帝国の慰安婦』の「方法」について (5)[2015年 1月 8日]
    http://kscykscy.exblog.jp/23984796/

    杉田敦「根源は家父長制・国民国家体制」(『帝国の慰安婦』書評)について[2015年 1月 9日]
    http://kscykscy.exblog.jp/23986643/

    朴裕河『帝国の慰安婦』の「方法」について (6) [2015年 1月17日]
    http://kscykscy.exblog.jp/24019015/

  2. 「「書評によると、慰安婦は、淡々といろいろなことを証言しています」と証言を集めたのは、日本軍「慰安婦」被害者を支援する挺対協の人々であるのに、・・・」

    この部分は違うんじゃないですか?私は、本書ではなくあくまでも書評や著者の主張についての記事しか読んでいませんが、その限りにおいて彼女は慰安婦から独自の聞き取りをしています。矛盾していません。

    そして、ご自身の名前はペンネームでも書いていただければよかったのにと思います。コメントを書くのにも、ある程度の責任の所在を明らかにしていただくのがマナーです。

  3. ご返答、ありがとうございます。
    時々呼ばれるニックネームをつけさせていただきましたが、よろしいでしょうか。

    「帝国の慰安婦」で引用される被害者の証言のほとんどは、『証言 強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち』(挺隊協)(http://goo.gl/BvWNmd)より引用されております。
    凄惨な体験をされた被害者が、家族でもない方に自身のつらい経験を整理しながら打ち明けるのは簡単でなく、朴裕河氏が被害者数人とは会っているとは思いますが、数は多くなく、歴史を専門とする方でもないので、一次資料となるような証言は得られていないと思います。
    朴裕河氏が「慰安婦から独自の聞き取り」を行っているとの印象を管理人様が持たれるのは、朴裕河氏がそのような印象を持つような言動をされているからだと思います。
    ナヌムの家に住まわれていた被害者の一人に朴裕河氏が個人的に連絡をとれた後、ナヌムの家で直接会えるように所長に許可を求める連絡はしました。しかし、事前連絡なくNHKの撮影者を連れてきた事から、ナヌムの家に住まわれる被害者と関係者が不信感を抱き、その時点で韓国でそれほど売れていなかった「帝国の慰安婦」を読んで、被害者たちの名誉が深く傷つけられている事に驚き、出版停止と被害者への接近停止の訴訟を起こしたのだと思います。

  4. 下記の書評もご参照いただけたら幸いです。

    朴裕河『帝国の慰安婦』批判〈拒絶するという序列化のロジック〉
    http://mopetto2012.hatenadiary.jp/entry/2014/12/10/015559
    ———————— 以下、上記記事からの引用
    これらは、『証言 強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち』(挺隊協)から引用しての朴氏の解釈です。史料は所謂《オーラルヒストリー》です。それらは「記憶を歴史にする」ために書かれた「口述歴史」であり、貴重な証言ではあるのです。しかし、不注意な人が選択して類推するとき、しばしば陥穽の危険があります。なぜなら〈史料的蓄積〉が未だ不十分なために客観的事実とは云いがたいからです。

  5. http://www.sankei.com/premium/print/151202/prm1512020012-c.html
    【「帝国の慰安婦」在宅起訴】朴裕河教授の会見詳報 「検察の非人権的な起訴に強く抗議」 「元慰安婦を非難する本を書く理由がない」

    記者会見する「帝国の慰安婦」著者の朴裕河・世宗大教授=2日、ソウル(共同)

     【ソウル=名村隆寛】慰安婦問題の学術研究書「帝国の慰安婦」で元慰安婦の女性の名誉を毀損(きそん)したとして、韓国の検察に在宅起訴された著者の朴裕河(パク・ユハ)世宗大教授が2日、ソウル市内で記者会見し、起訴を「非人道的」だと批判した。朴氏が会見で語った発言の詳細は以下の通り。

    研究「支援団体の主張に問題がないか検証」が目的

     韓国で(2013年に)発刊された「帝国の慰安婦」は日本に向けて慰安婦問題への関心を促し、問題から目をそらしたり、否定したりする人々と日本政府、(元慰安婦)支援者らの手法と考え方にどんな問題があるのかを分析するために書いたものだ。

     私には元慰安婦のおばあさんらを批判し、非難する本を書く理由がない。私は女性問題に深い関心を持ってきた。12年春、当時、民主党政権の日本で謝罪と補償に向けた動きがあったが、(元慰安婦の)支援団体(韓国挺身隊問題対策協議会)が長らく主張していた「法的責任」という壁に遮られ、接点を見いだせずに終わった。

     韓国に向け慰安婦問題について書こうと決心したのは、このためだ。支援団体に敗訴し、韓国政府は支援団体の主張のままに動くようになった。支援団体の主張は最初の「軍人が強制的に11歳の少女を連れていった」と言っていたときと、少しも変わっていなかった。私はそうした状況に疑問を抱き、支援団体の主張に問題がないかを検証してみようとした。

    問題解決へ「新たな転換点を探すヒント望んだ」

     そして、13年8月に「帝国の慰安婦」を出版した。慰安婦問題をめぐり日本の否定論者らが慰安婦を「売春婦」だとし、支援団体は慰安婦少女像を象徴する「無垢な少女」であるというイメージだけが唯一の(正しい)ものだという主張を展開してきた。対立してきたこの20年の歳月を検証。慰安婦とはどのような存在なのか。中でも慰安婦問題に関しては日本と最も葛藤が強いのが韓国だ。慰安婦は、「戦争」が作った存在である以前に国家勢力を拡張させようとする「帝国主義者」が作った存在だ。そうした国家の欲望に動員された個人の犠牲の問題だという結論に至った。そうした認識に基づき、私はアジア女性基金という補償措置を評価しつつも、「慰安婦問題は韓日(請求権)協定で終わった」と考えている日本に対しても、再考せねばならない部分があることを強調した。

     私の著書は慰安婦問題に関与してきた者すべてを批判している。皆、努力したが、結果的には解決されなかった。歳月が20年を超えた以上、各関係者らがその原因を自省して直視し、新たな転換点をさがすヒントになることを望んだためだ。「帝国の慰安婦」も発刊直後には著書の意味を真摯(しんし)に受け入れようとする論評やインタビューが少なくなかった。しかし一方で、その過程で出てきた「少女像」とは異なる慰安婦像と、韓日関係において主要な発言団体になるまでに成長した支援団体への批判をしにくい雰囲気もあった。

    元慰安婦の死去1週間で告発され

     私の著書が告発を受けたのは、(発刊から)10カ月後だ。この間、(元慰安婦らが生活する)ナヌムの家にいらしたあるおばあさんとは親しくし、たくさん対話をした。ナヌムの家の所長に戒められ、排斥されてしまった。そのおばあさんが亡くなって1週間で私は告発された。私に投げかけられたのは、法科大学生の粗雑な読解でいっぱいの告発状だった。これらの解釈は誤読と曲解だらけだった。しかし、これらをそのまま読み、韓国社会には「朴裕河の著作は虚偽」「慰安婦のおばあさんの名誉を毀損した」との認識が広がるようになった。

     原告側は特に「売春」と「同志的関係」という単語を問題視した。

     こうした考えは、「売春婦であれば被害者ではない」という考えに基づくものだ。このような職業に少女らが動員されやすいのは今日でも同じだが、年齢、売春とは関係なく、その苦痛は奴隷の苦痛とは異ならない。慰安婦を単なる売春婦だといって責任を否定する者や、売春婦ではないとし、「少女」のイメージに執着する者は、売春への激しい嫌悪と差別感情を持っている。「虚偽」だと否定する考えも同様といえる。重要なことは、女性らが国家の利益のために故郷から遠く離れた場所に移動させられ、苦痛の中で身体を毀損されたという事実だけだ。

    「日本軍と朝鮮人女性」の相対的な姿を見るため

     また、「同志的関係」という言葉を書いた一つ目の理由は、朝鮮は他の国とは違って日本人の植民支配を受け「日本帝国」の一員として動員を強いられたということだ。そのような枠組みの中で存在した日本軍と朝鮮人女性のまた別の関係を書くことは、相対的な姿を見るためのものだ。同時にそんな姿を見てこそ、表面的な平和の中に存在した差別意識、帝国の支配者の差別意識も見ることができるからだ。

     二つ目の理由は、朝鮮人慰安婦を、徴兵された朝鮮人らと同じ枠組みでとらえれば、つまり「帝国」に性と身体を動員させられた個人とみなすことになり、日本に対する謝罪と補償要求の理由がより明確になるからだ。彼らに保障された法の保護がなかったということを日本に向けて言うためのものだった。つまり、彼らが言う単なる「売春婦」ではないということを、言おうとしたわけだ。

     著書で論議の対象となっているもうひとつの概念である「業者」の問題を語ることは、まず、国家政策という口実で協力し、もうける経済主体の問題だとみるためだ。そうした「協力と抵抗」の問題を述べたかったからでもある。国家があまりに悪い政策をしても、国民らの抵抗が最悪になるのを防げはしない。しかし、当時の業者らはそうは(抵抗は)しなかった。女性らを買い求め、時に強姦したのは軍人だが、搾取し、暴行し、監視し、時には拉致や詐欺に関与したのは業者だった。借金を負わせて支配し「奴隷」の状態にしたのは業者らだった。しかし、彼らの罪と責任は誰も問わなかった。私は今日も続くそのような人間搾取の問題と、そんな業者を利用する国家と帝国の問題、そして悪い国家政策に対する抵抗の意味を喚起すべく、業者の問題を指摘したのだ。

     しかし、この全ての指摘は研究者と支援団体を不都合にしているという意味合いがある。彼らは、(自らの主張とは)違った別の状況を見ることを、単に「日本を免罪」することだと考える。そして、「日本」という政治共同体だけを罪と責任の対象としている。

    近代国家の問題と認識、謝罪と補償の必要あると述べた

     私は著書で、日本に責任があると言っている。同じ戦地に動員した日本軍の朝鮮人に行った保障、生命と身体の毀損に対する保障制度を、日本人女性を含む貧しい女性らのためには作らなかった。これは近代国家の男性主義、家父長的な思考、売春差別によるものだと記した。これは近代国家のシステムの問題であり、こうした認識に立脚し謝罪と補償の必要があると述べた。日本で過分な評価を受けることになったことを、私はこうした考えが受け入れられた結果だと思っている。

     こうした私の著書が、慰安婦のおばあさんを批判、非難する理由はない。検察が「名誉毀損」だと指摘した部分はほとんどが「売春婦扱い」をしたという彼らの断定だ。しかし、「売春」という単語を使ったといって、それが「売春婦扱い」になるわけではない。「売春婦だ」という者を批判するために使用した部分までも、原告や検察は確認せずに、そのまま私が言った言葉として置き換えさせた。メディアの大部分がそのまま報道した。

    告発、仮処分、起訴と三度、国民の非難対象に

     原告側が最初に「虚偽」としていた主張を変えて、「戦争犯罪をたたえ、公共に反する本だ」と言い始めた。告発当時の主張である「慰安婦は自発的な売春婦」だという「嘘を書いた本だ」という報道は、現在も横行し、私への攻撃資料として使われたりしている。告発、仮処分、起訴と私は三度、国民の非難対象になった。

     こうした状況を巻き起こし、放置し助長してきた原告側の周辺の人々や、著書の削除の仮処分を命じた裁判所、検察の非人権的な調査と起訴に強く抗議する。原告側が今からでも自らが作った慰安婦のおばあさんらの誤解を解く役割の先頭に立ち、訴訟を取り下げることを強く求める。

  6. 忘却のための「和解」―『帝国の慰安婦』と日本の責任 (単行本) へのコメント

    とにかく『帝国の慰安婦』の著者朴裕河氏を批判し貶めるために書かれたとしか言えない書物である。実際に朴氏の本と読み比べれば、本人が言っていることとは違う形に読み替え、それを元に批判し断罪していることが分かる。恣意的な批判である。また著者を貶めるためであろう、例えば「事実誤認が多い」としながら、例として挙げているのは一つしかないのみならず、引用の仕方は不正確であり、しかも元の資料と比較すれば簡単に事実誤認ではないことが判明する。その上、元資料からは「6割」であるにもかかわらず「大多数」としたり、自分の見解を証明するために挙げた資料の使い方が誤っていたりする。朴氏本人が言ってもいないことを無理やり(または、誤って)読み取り、それを元に批判を展開し結論付けている。また「愛国の彫琢」とか「証言の簒奪」とか、言葉の使い方としても誤用であるが、大げさな表現で、じつは中身のない批判を行っている。総じて、学問的な価値は低く、学問的な議論を期待すれば裏切られることになる。

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