中韓の人と日本人の淵

先週は、私、そして私たちの教会にとって、「ベトナム週」になりました。日本語学校に現在、増えているベトナム人の学生と文化交流をし、また教会に興味のある学生に声をかけて、礼拝にも数名、来てくれました。私はその中で、日本にいて自分自身も感じていたこと、それがベトナム人の学生の子の口から、ぽろっと出て、「これだ!」と思った一言があります。それは「日本人は冷たい」です。彼女は、「そう思っていたけれども、こんなに温かくしてくれる日本人がいるんだ」と言って感動していました。そして会が終わった後もずっと離れずに、まるで小学生が大学生のボランティアのお兄さん、お姉さんに離れないかのように(もちろんこれは比喩で、実際は20歳代)、素直で、人懐っこい子たちでした。

上の一言は、ある、中国人の子の口からもぼそっと出たのを聞いたことがあります。彼女によると、日本にいる中国の人は日本人が好きではないだろう、ということです。「では、あなたはどうなの?」と尋ねると、「普通の日本人は・・・」と答えていました。そう、日本に在住する外国人に心を寄せるのは例外的な日本人であり、他の一般の日本の人たちには、概して好印象を持つのが難しい、とのことです(そして彼女は、これは文化の違いであることも理解しています)。

私たちは海外生活が長かったせいか、日本の人からは奇異に見られがちな言動をしがちなのですが、日本に在住する外国人(ここでは、中韓、ベトナム人)からは、何か入り込みやすいものを持っているみたいなのです。

私もそれがなぜか、はっきりしたことが分からないのですが、日本の人たちが何か間違ったことをしている訳ではないのです。文化や習慣の違いと言えば、それで片付くでしょう。そして日本の教会の中でも、その目に見えない壁は存在します。決して不親切にしている訳でもなく、優しいし、挨拶もしてくれるし・・・でも、何か入り込めなくさせているのです。これは何だろう?と私は思ったものです。それを一言でいうならば、「無関心」 なのでは?と今は思っています。

自分のことはしっかりするが外に向かない、他者に干渉しない・・・という考えです。自分のことは忘れて、相手のことで一喜一憂することは、はしたないと感じます。けれども、これこそが、周りの人に壁を作り、愛の交わりを妨げている原因になっているのではないか?と推論を立てました。確かに他者に対して良い行いはするのです。けれども、問題は作法ではなく、その人の思いや心にあるものが、いつの間にかにじみ出ている、ということです。それは想像力であり、相手がどのようなところに置かれているのかを想像し、それを共感することです。このことについての心の広さがないのです。

マスコミの中だけの「中韓」

私は、日本の人々が語る言葉で、じっとこらえている時があります。それは、「韓国」「中国」そして「北朝鮮」が、「マスコミ」という情報の中だけで伝わってくるもので、議論をしていることです。それがたとえ、「日本はアジア諸国に謝罪すべきだ」という綺麗な意見を言っている人であっても同じで、そこにないのは「生の中国人と韓国人」です。「あなた、実際には会っていないでしょ?」とすぐに分かります。良く見すぎている、いや、韓国や中国という言葉は使っているけれども、関心の的は日本国内であり、そして反対論者や政治家に対する批判やなじる言葉の中で単に使っているだけ・・・が見え見えなのです。

北朝鮮の人も普通の暮らし

私は以前、日本に住んでいる脱北者の方々と会ったことがあります。彼らは北の体制が耐えられなくて逃げてきた訳ですから、もちろん今の政権は嫌いです。けれども、次の言葉が印象的でした。「北朝鮮の人だって、普通の暮らしをしているんですよ。」私は、その中にいる人々の普通の会話も、ネット上に上がっているものとか聞いていますが、彼らは「マンセ~」などもちろん叫ばず、私たちと同じように、政治のことも含め、ある程度自由に会話しているのです。

こちらの日本に住む脱北者の方のインタビューを読まれることをおすすめします。(そして、出版された本も読まれるとよいでしょう。)

<脱北者に聞く北朝鮮>リ・ハナさんインタビュー4 「脱北者」と言えない悩み

◆「草食べていたの?」と訊かれたことも

昨年12月に長距離「ロケット」を発射してから今日まで、北朝鮮は国際社会を緊張させ続けている。北朝鮮の負のニュースが流れる中、日本に暮らしている脱北者は「北朝鮮からきました」と言うない悩みを抱えているという。

問:たくさんの脱北者たちが、日本社会に適応しようと懸命に努力しているんですね。日本社会の反応はどうでしょうか? リ:よく接してくれる人たちが多いのですが、しかし、先にこちらから「北朝鮮から来た脱北者です」と明かすのは躊躇してしまいます。

問:なぜすか? リ:日本の中の北朝鮮の持つ「悪いイメージ」のせいですね。学校生活の中でも、就職活動をしていても、北朝鮮から来たということで、もしかしたら不利益があるかもしれないという心配が先立つんですよ。日本では、北朝鮮の民衆の生活についてよく知られていない上に、日本に住む脱北者の数が少ないため、誤解が生じやすいのだと思います。私に「北朝鮮で草を食べて暮らしていたんだって?」と訊く人もいました。挙句の果てには「スパイではないか」という声まで聞こえてきました。

私よりも先に日本に来た脱北者たちの中には、「日本人が自分たちを珍奇な生き物でも見るように接することがつらかった」と言う人もいました。今は時代が変わってそれほどではありませんが、テレビやニュースで北朝鮮に関する悪いニュースが報じられるたびに、私も知らず知らず萎縮してしまい、「脱北者です」と言いたくても、言葉が出てこないんです。

分かりますか?中国人、韓国人、そして北朝鮮の人たちに対して、日本の人たちは、喩えるなら、外を見れば天気かどうか分かるのに、一生懸命、テレビやパソコンで今の天気をのぞき込んでいるように、目の前に中国人・韓国人がいるのに、その人たちには接しようとしない、という大きな矛盾を持っているのです。まるでそこに彼らがいないかのように接する・・・、これこそが「冷たいよね」と思われる一番大きな原因です。

キリスト者の社会正義を話したいのであれば、まさにここですね。「あなたがたは在留異国人を愛しなさい。(申命記10:19)

韓国の人の叫び

以前、ここで慰安婦問題を取り扱いました。そして数日前、韓国の教授で、日本で博士号を取り、日本の人たちとの対話を積極的にされている朴裕河(パク・ユハ)さんが、もつれにもつれたこの問題を整理して、また初めからやり直してはどうかと問いかける本を出版されたそうです。日本語訳も出版する予定だとのこと。その要約を日本ですでに講演しているのですが、これが実によくまとめられていて、至極難解だったこの問題が少しわかったような気がしました。

韓国で慰安婦問題に関する新しい本を出しました。ちょうど先日日本で講演の機会があったとき、この問題をめぐる日本での議論に添って本の内容の一部をまとめたのでアップしておきます。

このことについてではないのですが、慰安婦問題を取り上げた韓国の牧師さんがいて日本人クリスチャンにも問いかけていたので、私が答えました。その中で私の目に留まったのは、アップム(아픔  痛み)という言葉でした。

「何が正しいのか、ではなく、彼らの気持ちを受け止めなければいけない」と、はっと気づかされたのです。彼らは、過去に40年近く「日本人」にされていました。「その痛みがあるのだ。最もつらいのは、当の日本人が無関心で、心の中のことをよく表現しないことだ。そこに、政治家が妄言を吐く。この哀哭をどこに持っていけば良いのですか?」という、言葉にならない叫びが聞こえてきました。

細かい事実が大事なのではありません。自分の国が日本というものにすっぽり入れられてしまった、という衝撃、それがマスコミに流れる一コマによって思い出されて、それで「反省していない!」と反応してしまうのです。その延長で慰安婦があるので、それが強制連行だったのか、民間の業者だったのか、そういう話ではないのです。

私たちは、「世界で、植民地化された国はいくらでもある。けれども70年ぐらい経っているのに、いちいち言っているのは、あなたたちだけだよ。」と軽くあしらうこともできるでしょう。けれども、それが問題なのではないのです。だんだん分かってきたのは、「その気持ちを受け止めてあげていない。」ということなのです。

「憎しみ」より怖いこと

韓国の人、また中国の人が日本に対する敵意をむき出しにするときに、日本人はとても嫌な思いをします。これは当たり前です。けれども、裏を返せば、それだけ彼らが日本に興味があると言えます。日本が何をしているのか、気になります。否定的な事柄が多いのですが、それでも自分から切って離せない存在になっています。それは、確かに日本が朝鮮半島、中国本土に進出(そして侵略)したからであって、良くも悪くも、彼らの歴史、生活の一部になってしまったのです。憎んでいると言っても、愛憎の念に近いでしょう。

けれども当の日本人は、素っ気ないです。自分が相手に自分の生活を強いらせたけれども、自分は相手によって強いられたことはないので、あくまでも他人なのです。私はある意味で、同じように感情をぶつけている、嫌韓の人や在特会の人々のほうが、極端に歪んだ感情ではあるけれども、少なくとも反応しているという面で、ましなのかもしれないともまで考えました。憎しみより怖いもの、とはこれだからです。

愛の反対は憎しみではない。無関心である」マザー・テレサ

さらに彼女は、日本に来てこう告げたそうです。

「日本に来てその繁栄ぶりに驚きました。日本人は物質的に本当に豊かな国です。しかし、町を歩いて気がついたのは、日本の多くの人は弱い人、貧しい人に 無関心です。物質的に貧しい人は他の貧しい人を助けます。精神的には大変豊かな人たちです。物質的に豊かな多くの人は他人に無関心です。精神的に貧しい人たちです。愛の反対は憎しみとおもうかもしれませんが、実は無関心なのです。 憎む対象にすらならない無関心なのです。」 http://www.cbcj.catholic.jp/mother/shirayanagi.htm

イエス様が語られた「心の貧しい者は幸いである」という言葉はもちろん霊における貧困状態のことなのですが、けれどもルカによる福音書は単に「貧しい者(6:20)」となっており、物質的な意味合いもあります。そしてヤコブは、富んだ者に対する悲惨を強く説いていて(5:1‐6)、物資的豊かさにはしばしば、心の貧弱が伴ってくる、というのは聖書的真実です。

そして、福音書に出てくる「見た」という単語のギリシヤ語には、「目を留めた」と訳したほうがよいものがあります。「またイエスは道の途中で、生まれつきの盲人を見られた。(ヨハネ9:1)」良きサマリヤ人は、もう一つの逸話ですが、あそこで通り過ぎてしまった祭司やレビ人と、私も含む日本の多くの人に重なってしまうことがあります。

豊かであるための無関心

隣国、中国はかなり豊かになりました。そしてベトナムもそれを追うように急速な発展をしています。けれども、ここに来る学生の経済事情はかなり厳しいです。家族だけでなく親戚もいっしょに、日本に行く学生に、日本の物価に直せば、おそらく一千万円近いお金を集めます。そして初めの学費や生活費を渡すのです。けれども、その後は自分で稼がないといけません。それで留学生は、勉学の他にアルバイトをします。深夜バイトの子が多いです。そして、多くの人はさっそく仕送りまでします。

中国(おそらくベトナムも)では、日本のような先進国に行きさえすれば一気にお金を溜められる、という幻想があるようです。それで家族と親戚が一人の子に投資をします。問題は、日本の生活費を考えていないことです。確かに給料は高いですが、毎日食べるものも高いのですから、その分減るのです。お金を溜められるわけがないのです。初めから本国にいるときにそのまま日本にある企業に求職をすればよかったのですが、「生活費」を考えていなかったために、こちらで身を粉にしながら働いている、というのが現状です。

だからといって、本国には戻れません。ここが日本人の豊かさから来る非情な呑気なのですが、私たちはすぐに、「だったら国に帰れば?」と思います。職があるということを前提にしているところで、何も分かっていないのです。極端に言えば、フランスで貧しい農民がパンがないことを知ったマリーアントワネットが「だったら、ケーキを食べればいいじゃない」と言ったのと同じです。本国に職が見つからないから日本に来ているのであって、文字通り体を壊しても働き続けなければいけないのです。

社会的な無関心

キリスト教の愛と日本人のやさしさを対比した、興味深いブログ記事がありました。

愛の反対は憎しみではなく無関心・・・でもないんですよ。日本人にとっては。

上のマザーテレサの言葉に対する反論なのですが、これがむしろ、日本人のキリスト者にとっては、取り組まなければいけない課題を浮き彫りにさせています。

非キリスト教的日本的愛は、特に世間という構造が強くて、いわば身内、仲間内に対する好意として寄せられる。身内に対する愛であって、普遍的に誰にでも愛情を注ぎましょうというような倫理観って無いように思う。また、日本社会は「愛」よりも、「やさしさ」という語に強く規範をおいているので、感心を寄せないやさしさというものが存在する訳で、それもまた良いものとして考えられているのではないかな。

私が感じていた、目に見えない壁を上手に言葉に表しています。それから、こう結論付けています。

やさしさを規範としているが故に、身内ならざる人に対して興味を持たないことで関係性のバランスを保とうとすること、つまり無関心でいるという配慮をする”やさしさ”がある。マザーテレサの言う「愛」の反対は、実は憎しみでも無関心でもなく「やさしさ」ではないだろうか。

単に優しいことが、キリストの愛ではないということ・・・これを、新しく神の霊によって生まれたキリスト者は肝に銘じておくべきです。愛とは関心を示すことです。押しつけがましいと私たちの肉は感じても、イエス様のように目に留め、心に留めるのです。そして、良きサマリヤ人のように、具体的に時間を取って、費用を払って労するのです。

アメリカを見る目からの脱却

日本の人たちは身内には優しいです。そしてその「身内」の中にアメリカ人は入ってくるのですが、韓国、中国、他のアジア人は入ってこない、という差別構造も見えます。

アメリカ人の牧師が英語で説教して、それを日本語で訳す、という場面は教会で多く目にしていることでしょう。私はできれば、それはしたくなかった。先週の日曜日にいらっしゃった米国からのベトナム人の牧師さんには、ベトナム語で証しをしていただきました。そして日本に在住するベトナムの方が、日本語に通訳です。

イエスはきのうも、今も生きている(フ・ファム牧師)

アメリカ人だからといって避ける必要は全くありません。けれども神の御霊は力強くアジアで働いておられます。むしろ私は、アメリカを長く見てしまったために、そこのキリスト教世界に辟易することが多く、霊的衰退ではないかと感じるほどです。それでも彼らはキリストの愛をそのまま実践する宣教師をまだ送り続けてくれている。感謝しています。けれども、もう、アメリカを見る、また豊かになった一部の韓国キリスト教会を仰ぎ見る、というのもやめたらいいんじゃないかな、と思います。聖書的には、教会の姿はアメリカよりも、迫害されてきた中国やベトナム、また他の貧しい国々のほうがしっかりしている、ということがあるのです。

【後記】最後に次のYouTubeビデオを見てください。これは日本人の若者が、韓国で試みたことです。

マスコミでは日韓関係がかなり険悪になっていると報道しているのに、こんなにもたくさんの人が抱擁しにきました。もし韓国の人が同じように東京で平和の看板を掲げていたら、日本人がどれだけするでしょうか?・・・ここですね、心を通わせる行動が今、日本人に問われているのです。

「中韓の人と日本人の淵」への4件のフィードバック

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です