エジプトのキリスト者:鉄のような赦しの力

今朝、あまりにも感動して、涙が溢れ出たのが下の記事です。

Forgiveness: Muslims Moved as Coptic Christians Do the Unimaginable(コプト教徒の想像を絶する赦しに イスラム教徒が感動する)

Image processed by CodeCarvings Piczard ### FREE Community Edition ### on 2017-04-20 16:32:01Z | http://piczard.com | http://codecarvings.com

以前、イスラム国によってリビアの海岸で、エジプト人のコプト教徒(キリスト教の一派)が斬首された後に、その出身の貧しい村で遺された家族が、イスラム国の戦闘員に対する赦しと、感謝の言葉までを述べたことをお伝えしました。

エジプト人キリスト者に広がる愛の御国

そして、先日お伝えしましたように、棕櫚の聖日の礼拝の時に、エジプトの二つの教会でイスラム国による爆弾テロがあったのですが、その被害者の妻がインタビューに答えています。彼女は、アレキサンドリアの教会で自爆犯に、探知機を通るように促した護衛で映像にも映っています。

その奥様はやはり赦しの言葉を述べています。神はあなた方(イスラム国の人々)を赦し、私たちも赦しています、と繰り返しています。それを聞いているエジプト放送局の、最も有名なトーク番組の司会が10数秒間、言葉を失い、それから「エジプトのコプト教徒は、鉄のような人々だ!」と感嘆の声を挙げました。

Forgiveness Incarnated from The Bible Society of Egypt on Vimeo.

エジプトのコプト教徒は、鉄で出来ている!
エジプトのキリスト者は数百年もの間(注:千数百年ことでしょう)、
多くの虐殺と災難を耐えてきています。
エジプトのキリスト者は、我が国を深く愛しています。
我が国のため、全てを耐え忍んでいます。
これだけ圧倒的な、偉大な赦しがあるでしょうか!
もし敵が、これだけの大きな赦しを
彼らに持っていることを知っているなら、
信じることが出来ないでしょう。
もし彼が私の父であれば、絶対にこんなことは言えません。
この人たちはこんなにも赦しを持っているのです、
それが彼らの信仰であり、宗教的確信なのです。
彼らは異なる物質で造られています。
アム・ナシームさんに神の慈悲がありますように。
・・・

「殉教の教会」コプト正教

そして記事には、痛々しいエジプトのここ数年の国内事情を書いています。

エジプトにコプト教徒は何百万人といますが、古代からの遺産を再発見しています。衛星放送の番組の中で、以下のコプト教徒の指導者の、爆発直後における説教を聞くことができます。彼もまた、「彼ら(イスラム国)に感謝している。愛している。そして祈っている。」という三つの要点で話しています。感謝しているのは、自分たちが主イエスに従えるものにしていること。愛しているのも、敵を愛しなさいと言われるイエスの言葉に従っているから。そして祈っているのは、彼らがこの神の愛を知ってくれるようにということ。

コプト教徒、歴史を通じて、文化の中でも殉教について教えられてきました。聖画には斬首されたバプテスマのヨハネなどがあります。その暦は紀元後284年を起点としていますが、それはローマ皇帝ディオクレティアヌスによる迫害から始まっています。それらは言い伝えられ、深く浸透してきたものなのですが、リビアの海岸において現実のもの、活きたものとなりました。総主教タワドロス二世は、コプト正教を「殉教者の教会」と復活祭の時に説教しました

21人エジプト人キリスト者の聖画

少数派コプト教徒がエジプト社会に持つ犠牲と役割

過去を辿ると、2010年にアレキサンドリアの教会が、大晦日に爆破されて、コプト教徒が怒って街頭に流れ込み、アラブの春の前触れとなりました。数か月後、ムスリムがそこを取り囲み、連帯し、そうした攻撃から教会を守りました。

七年ぐらい経っているのですが、エジプトの国は疲弊しているのだそうです。ここ五カ月の間、昨年末にカイロの教会で自爆テロが起こり、そして棕櫚の聖日で二箇所で自爆テロです。そしてさらに今週、シナイ山ふもとにある、有名な聖カタリナ修道院でもイスラム国による攻撃がありました。

エジプトにあるキリスト教の三つの教派は、復活祭における祝いを中止し、国は三日間の哀悼の期間を設け、軍病院で負傷者のために復活祭礼拝を行なったそうです。ムスリムの人たちは衝撃と同情の中にいるそうです。国中で、国民が一致団結しなければいけないという標語は流れているのですが、目で見える形での連帯は、それに比べると見栄えがしません。

自身ムスリムで社会学のカイロ・アメリカ大教授が、今は空気が変わってしまったと言っています。「皆が憂鬱の中におり、爆破攻撃はいろいろなことが崩れていることを示している」とのこと。政府が戒厳令を敷き、警察と軍の権力を拡大させているが、活動家への弾圧や経済の停滞がその沈鬱と関わりがあるとしながらも、コプト教徒の落胆が最も激しいとのこと。多くのキリスト者は、ムスリム同胞団のムルシ大統領を軍事クーデターで倒したシシ現大統領を支持しているが、自分たちを守ってくれるだろうと思ってのことでしたが、しかし、そうした支援は与えられていないそうです。

対等な権利を求めつつも、反撃しないキリスト者たち

しかし、自分たちが死ななければならなくなっても、それでも彼らは赦している、というのです。

このトラウマ的な出来事と赦しの言葉によって、コプト教会がかえって無気力状態から霊的に覚醒しているそうです。爆破事件後、彼らはひるむことなく、受難週の礼拝を執り行いました。出席は倍増し、礼拝堂から街頭に溢れるほどになっているとのこと。復活祭礼拝の時は、厳重な護衛の中で平和裏に行われました。リビア海岸での21人の殉教者が、斬首直前にイエスの御名を叫んだのを見て、多くの者が罪を悔い改め、信仰を生活で最も大事なものとしました。

そして、国民が団結して、一つの家族になっていることは大事である一方、コプト教徒のエジプト国民としての対等な権利も必要であることも、トマス主教が語っています。教育制度や、差別を促すような言辞を教科書から除くことや、コプト教徒に対する犯罪をしっかり告訴できる法の適用なども述べています。

歴史的に、コプト教の問題は根深く、イスラム教徒とキリスト教は対立が起こっても和解によって乗り越えたのですが、その対立において絶えず犠牲者はコプト教徒でありました。政府は、対処療法しか行っていたかったそうです。ムスリムの暴徒を宥めたりするだけとのこと。コプト教徒のほうが問題を引き起こすことはないことを知っているからです。かつてコプト教徒の若者が対等な権利のために街頭に出ていき増したが、軍部によって弾圧されました。

赦し:ムスリムに対する強烈な証し

しかし、幸いなことに、イスラム国はイラクのスンニ派とシーア派の対立のようなことがコプト教徒からの反撃によって起こってくれることを願っているのに、彼らはそれをしていないのです。むしろ社会全体にとって、彼らはテロリストと180度反対の世界観を広めており、エジプト人の大多数が人口一割のコプト教徒に深い尊敬の念を抱いているとのこと。

その赦しの力がどれだけ社会に影響力があるか?元を辿れば、コプト教の遺産は協力で、イスラム教の前からエジプトに存在し、愛と赦しと善行において、そのイスラム社会を浄化するのに助けになっているとします。中東の文化は、名誉と恥に基づいており、復讐を要求しますが、キリスト者の文化がそれに衝突しています。そしてその衝突の中で、多くのムスリムがキリスト者の赦しこそが、この国に必要なことだと証言しているのです。

テロリストにとって、これほど苛立たしいことはありません。コプト教徒には反撃してほしいのです。けれども、そうしないことでむしろムスリムがキリスト教に引き寄せられているのです。このことによって、エジプトがレバノンのような内戦にならずに済んでいると、分析されています。トマス主教のところには、ムスリムの指導者や慈善活動の人々が同情と連帯の思いをもって訪問してきてくれているのだそうです。こうやって、キリストの証しの力が、目立つ形ではありませんが、徐々に明らかにされていると言えます。

「エジプトのキリスト者:鉄のような赦しの力」への1件のフィードバック

  1. 心痛む事件ですが、コプト正教会の人たち自身の行いが「山上の垂訓」の福音を無言で語っていますね。日本のように無宗教ではなく、別の宗教の人たちに囲まれている国の場合、何をもって福音を表すかを深く教えてくれます。

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