「赤い月」預言について

受難週は過越の祭り

昨日から、ユダヤ人の間では2014年の過越の祭りが始まりました。私はいつも、出エジプト記12章など過越の祭りに触れる時に、クリスチャンの方々にこう質問します。「過越の祭りはだいたいいつ頃ですか?」答えが来ません。けれども、「イースター(復活節)はいつ頃ですか?」すると、「三月終わりから四月」と答えます。教会でイースターがお祝いされるから、そう答えられるのです。

しかし、ここにクリスチャンの認識ギャップがあります。イエス様が十字架で死なれたのは、過越の祭りの日です。そしてよみがえられたのはその三日目で、レビ記23章に書かれている「初穂の祭り」の時であります。さらに付け加えますと、聖霊降臨の「ペンテコステ」は、五旬節に起こりました。秋の祭り(ラッパを吹き鳴らす日、贖罪日、仮庵の祭り)もありますが、それらはキリストの再臨時に起こる出来事を示しています。レビ記23章にある、イスラエルの例祭は、キリストの贖いの物語が前もって予表されている大切な箇所です。よろしかったら、次のレビ記の学びをお読みください。

レビ記23章

ユダヤ暦と教会暦が独自の計算を持っているため、少々ずれますが、私たちが受難週を過ごしている時は、ユダヤ人の過越の祭りがキリストにあって成就したのだということは思い巡らすに値します。

そして私たちが受けている「聖餐」は、過越の祭りの食事の一場面であったことを思い出せるでしょうか。アメリカにいた時は、イエス様を信じているユダヤ人の兄弟が導く、過越の祭りの食事に参加したことがあります。聖餐式が、本当にごく一部の場面であったことが分かり、実は食事全体が主の贖いの御働きを表していることを知り、驚き、感動しました。こちらに、日本語でそのやり方が説明されていますので、よろしければご覧ください。

過越の祭り「ペサハ」

過越祭に現れた「赤い月」

ところで、今年は米国で「赤い月」預言について、ツイッターやフェイスブックなどで、一つのセンセーションを引き起こしています。詳しくは日本語で次の記事に説明されています。 続きを読む 「赤い月」預言について

単純な信仰のススメ

前回は、聖霊の賜物の今日の働きと、今すぐにでも来られる主への希望について、聖書の言葉をそのまま信じていくところに力があること、そしてそれは使徒の教えと初代教会の姿勢を受け継ぐものであることを話しました。

ところで一昨日、二冊の古本をネットで注文しました。

①「日本のキリスト教」古屋安雄著
日本のキリスト教
まずは本の紹介から。

キリスト教はなぜ日本に広まらないのか? 〈和魂洋才〉を追い、キリスト教抜きの近代化を進めてきた日本。その中で伝道し、事業を展開してきた教会各派と無教会、教育や社会事業などに例をとりながら日本のキリスト教の特質を検証し、将来を問う。
愚直一筋の耶蘇坊主菊地一徳Kazunari Kikuchiさんの感想・レビュー

古屋氏は次のような主張を持っていて、それが魅力的でした。「日本のキリスト教はインテリのキリスト教となっていて、大衆の方を向いていない、日本にキリスト教を広まるためには、インテリ的というエリート意識を捨てて大衆の方を向かなければならない・・」(古屋安雄「なぜ日本にキリスト教は広まらないのか―近代日本とキリスト教」)

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初代教父たちの声

神のご計画全体を眺めるにあたって、教師はその管理を任されていますが、その真理の体系をしばしば「教理(doctrine)」と呼び、聖書全体の理解把握の体系を「神学(theology)」と呼びます。この営みはとても大切なもので、私たちは真理の柱と土台の上に教会を建てているわけですから、しっかりと行わなければいけません。

しかし、私たち人間は、どうしても信仰というものを整理したがる傾向にあります。教理や神学であっても、聖書そのものによって常に精査されていかなければいけない対象であるのに、教理や神学の上に信仰を立てようとする傾向があります。そのほうが理解しやすいからです。けれども、神は常にご自分の言葉を受け入れ、信じるように、また悟るように命じられているのであり、知的体系として把握するように命じられているのではないのです。

今回の、聖霊の賜物の今日の有用について、「預言や異言、癒しなどの徴の賜物は、聖書の正典が完成するまでに、神が権威を与えるため使徒たちに賦与されたものであり、それ以後は終焉した。」とする終焉説を取る人々は、そう信じない人々のことを「従来の教会の立場ではない」として、歴史的キリスト教から逸脱していると断じます。

しかし、前の二つの記事で示しましたように、いわゆる20世紀初頭に始まったペンテコステ運動の起こる前から、保守福音派においても尊敬されている指導者たちが新生とは別の聖霊体験をしていたし、その賜物を用いていたのです。そして何よりも、十二使徒死後の教会指導者である初代教父たちははっきりと、聖霊の超自然的なものを含む賜物が、教会で用いられていることを教えているのです。 続きを読む 初代教父たちの声

恵比寿バイブルスタディのお知らせ(4月9日)

皆さんへ

こんばんは、お元気ですか?
今週の恵比寿のお知らせです。

日時:4月9日(水)午後7時から
場所:目黒区立 田道住区センター三田分室 / 2階 第一会議室
聖書箇所:ルカによる福音書4章
※次回は、2014年4月23日です。

イエス様が、バプテスマを受けられた後の出来事を学びます。主が通られた試みや誘惑はすべて、私たちのためでした。罪や誘惑で圧倒されそうになったとき、それでも希望があります、その弱さを担われたイエス様がおられるからです。共に4章を学びましょう。

進化論 vs 神 ~ Evolution vs God ~

昨日に引き続き、ビデオの紹介です。

これも昨夜、日本語訳を見つけたのですが下が本元のサイトです。

Evolution vs. God

カリフォルニアの大学のキャンパスで、生物学、地質学などを専攻している学生たち、また教授本人たちに進化論についてインタビューした映画で、最後はイエス様を伝えているものです。以前ご紹介した、映画「180」 (“180″ Movie)を製作したLiving Watersミニストリーによるものです。進化論でつまずいている人々にぜひ見せてください。

ビリー・グラハムの「私の望み」

間もなく、ビリー・グラハムが95歳の誕生日を迎えた時に(2013年11月7日)に、全米で一斉に放映された番組が次です。

十字架

私はこのビデオを初めて見た時に、震えが止まりませんでした。「十字架」が自分に目の前に迫ってきて、聖餐にあずかったような思いがしました。十字架に付けられたキリストは、人を変えます。180度変えます。間もなく、受難節(4月18日)、そして復活節(20日)ですが、この時期に見るには最適なビデオであると思います。まだイエス様を知らない人にもお見せすると良いビデオです。

上の日本語訳付きのビデオを先ほど見つけたのですが、本元のウェブサイトはこちらです。他の証しのビデオも紹介されています。

My Hope America with Billy Graham

改めて「聖霊の働き」について その2

改めて「聖霊の働き」について」の続きです。

先の記事では、情報だけを紹介したような感じになりましたので、私がこのごろ感じていることを書きたいと思います。聖霊論についての言葉で、ジョン・ストットという著名な英国の福音派の指導者が、「今日における聖霊の働き」という著作の中でこう書いておられます。

教会はその統一性をカリス(恵み)に負っているが、その多様性をカリスマ(賜物)に負っているのである
(www.geocities.jp/ptl150/HolySpirit_Book.htmから引用)

これはとても意味深い言葉です。教会の統一性、つまり一致について何が足りないのか?ということを私はずっと考えてきました。ここのブログでも一連の記事を書いてきましたが、私はチャック・スミスという人物、またビリー・グラハムもそうですが、なぜ彼らの働きは教会を一つにしていく方向が出てくるのかを考えさせられています。他の人々は、同じことを語っていても、教理や神学がとても正しいことを語っていても、なぜ不必要な亀裂や分裂を引き起こすのかを考えさせられます。

つまりチャック・スミスは、一部の教団や教派を越えて、キリストの教会全体に奉仕することができています。カルバリーチャペルの群れをはるかに越えた人物であったことは確かです。彼の説教は、初心者が聞いても回心に導かれるものでありとても単純で簡単なのですが、何十年も牧会をしている人々、キリスト教の中で著名な人々が聞いても悔い改めに導かれるのです。ビリー・グラハム自身も彼の聖書講解を聞き、「チャックは私の牧師だ」と言わしめるものがありました。ビリー・グラハムも同じような働きを持ち、彼の場合は、一人の素朴な農夫も回心に導かれると同時に、同じ言葉なのに、歴代の米国大統領が祈りや助言を求めるほど知恵に富んでいるのです。彼は、妥協なき真理の言葉を語りつつ、平和の使者として用いられてきました。 続きを読む 改めて「聖霊の働き」について その2

改めて「聖霊の働き」について

4月1日に、カルバリーチャペルのウェブサイトが大幅に改定されました。

calvarychapel.com
calvarychapel.com
その中で初めに特集されているのが、ジョン・F・マッカーサー牧師による「異なる火」カンファレンスに対する、カルバリーチャペルからの返答です。チャック・スミス亡き後にすぐ行なった、彼の一連の発言は、彼がこれまでカルバリーチャペルに友好的で、事実、交わりを持っていたという経緯から、「ずるい(not fair)」というのが正直な感情でした。私自身も深い悲しみを抱き、以下の記事を書きました。

神学バランスにあるキリスト者の成熟

ジョン・マッカーサーだけではなく、他にも、周辺の人がチャック亡き後に、カルバリーチャペルや、その中の特定の指導者に対する辛辣な批判を向け始めたのを見るにつけ、私は自分の思いの中で愛が試されました。「もし批判している通りなら謙虚に受けとめるべきだが・・明らかに事実ではない、嘘だ。」という怒りも込みあがりました。しかし、それでもその人たちを兄弟であるとみなし、神のしもべとして主が用いられていることを認めていく、それによって交わりを保つことを主から語られました。

事実、特集の中に出てくるカルバリーの牧者による映像や記事は全て「友好的(friendly)」であります。改めて、カルバリーの群れにある御霊の一致を確認しましたし、また自分にある欠けが示されました。手本にしなければいけないと思いました。 続きを読む 改めて「聖霊の働き」について

兄弟愛のすばらしさ

昨晩は、西日暮里のバイブルスタディで、ヘブル書13章を学びました(音声原稿)。1節は、兄弟愛をいつも持ちなさい、という勧めです。教会を始めてから3年ちょっと、主が開拓伝道と牧会に導いてくださって、本当に嬉しいと思うこの頃です。兄弟姉妹たちが、主の恵みで成長している姿を見て、集まることによってそこに働く聖霊による証しがあり、イエス様の生きている姿を目撃し、感動しています。

二人の姉妹は、私たちが2010年末に海外宣教から帰って次の日に出会った人で初穂です。三年経って、初めに学んだ新しい信者の学びの内容が、今になってよく分かるという話を聞いた時に、パウロが話した、「私が植え、アポロが水を注いだけれども、成長させるのは神です。」という言葉を思い出しました。

そして、最近いらした兄弟姉妹が、礼拝と教会生活にある幸いと喜びをこれまでかというばかりに言い表しておられます。一夫婦は、一家全員がキリスト者になり、それゆえ親戚からの激しい迫害に遭っているという証しは、私が以前から「日本で迫害がないのは、それだけキリスト者が増えていないからだ。相手にもされていない。」と話していましたが、この家族だけはその御霊の働きの中にあることを知りました。そして、ご家族の一人の危機を通して、本人が主に立ち返り、一家も霊的に強い覚醒を得た話を伺いました。そこにある謙遜と悔い改めは、まさに聖霊の働きです。

もう一人は、夫からの迫害です。しかし、教会に根づき、そこで神の権威を学び、夫は神が自分のために置いてくださった賜物であることを深く知り、それで従うことを学んでいきました。すると今は、日曜日に教会に行くことについて、「教会だったら良いよ。」という言葉が夫から出たことです。まさに、1ペテロ3章にある御言葉の証しであり、私は日本においてこのような迫害による信仰の忍耐と清めと、勝利の証しを聞いたことはあったであろうか?と感動しています。

キリスト者の生活は、本質的なものから逸れていく戦いが常に付きまとっています。要は、神に服従し、御言葉に従順になることなのですが、伝道にしろ賛美集会にしろ、活動的になると活動中心になって逸れていることがしばしば起こります。私たちの教会のように、聖書の学びを強調するところでは、学びそのものが自己目的化し、聖書を知ること、その知識を得ることがあたかも霊的であるかのように錯覚します。キリストに触れられ、魂が砕かれ、謙遜になり、そして徹底して御言葉に従順になり、それで主の大きな勝利を経験するという過程が、実は全ての全てです。ともすると、活動的になること、熱心になることが、現実からの逃避の手段にさえなる中で、主が与えられる試練や訓練の賜物はかけがいのないものです。

西日暮里バイブルスタディは、ヘブル書が終わり次回からヤコブ書に入りますが、そこは「試練に会うことは、この上もない喜びだとみなしなさい。」という言葉から始まります。もちろん試練は受けたくありません。喜びではなく、悲しいものです。しかし、その悲しみは一時的で、持続的、恒久的な義と平和の実を結ぶことができる、またとない機会です。

他にも、兄弟姉妹が、何か辛いことがあっても、御言葉に従って対処している姿をあちらこちらで見聞きし、私はとても嬉しくて、わくわくします。次の土曜日の祈り会、また日曜の礼拝が楽しみです。