欧米的・福音的キリスト教に反発する人々

米国キリスト教で起こっていることは、英文でその情報が私のところに入ってきます。そこで従来の福音的なキリスト教会に対抗する形で、さまざまな運動が起こっています。教会としても、また神学としても起こっています。今回は教会として起こっているものを取り上げてみたいと思います。具体的にEmerging Church、もう一つリック・ウォレンの「目的主導」の教会成長について言及します。

近代キリスト教の流れ

その前に欧米におけるキリスト教の近代史を少しかいつまんで見る必要があるでしょう。欧米キリスト教は、近代になって「近代主義」というものが出てきました。「自由主義神学」とも呼ばれます。かいつまんで言えば理知主義であり、理性で理解できないものは捨て去る考えです。聖書に出てくる超自然的な記述は非合理であるから、それは当時の他の文献から比喩的・寓話的に書かれたものであるという解釈の仕方が生まれました。目に見えるものしか信じない物質主義的な考えです。

それに危機感を抱いた人々が、「信仰の根本原理」ということで、聖書の無謬・無誤性、キリストの処女降誕、奇跡、そして十字架後の復活、昇天と再臨を根本に信じていかなければいけないという動きが起こりました。それがしばしばファンダメンタリズム(根本主義)と呼ばれています。「原理主義」とも呼ばれ、揶揄されたり、警戒されたりするのですが、もしこの記事を読んでいる方が、「聖書は神の言葉である」「キリストは処女降誕された」「この方は完全に神であられ完全に人である」「私たちの罪の代償としてキリストが十字架につけられ、三日目に体をもってよみがえられた」「天に上げられ、体をもって地上に再臨される」という、これらのことを信じているならば、それが根本主義の主張なのです。

そして、この真理をしっかりと握って福音を伝えなければいけないという動きが起こり、その延長線上に「四つの法則」で知られるキャンパス・クルセードや、ビリー・グラハム伝道協会などがあります。米国にある宣教団体が世界にも働きかけています。

そして現代はポスト・モダニズムすなわち「近代主義の後」の世界にいるのだ、という人々がいます。つまり、近代主義のように物質的なもののみに真理があるとすることもせず、そして根本主義のように絶対真理があるということもせず、すべては感覚や感性であり、絶対真理というものは存在せず、それぞれが感じ取っていくものである、という考えです。それが米国内ではEmergent Churchとも言われ、「説教」ではなく「対話」、「教義」ではなく「経験」、「絶対真理」ではなく「相対主義」という考えをもって行なっています。

このEmergent Churchは、今は若者にかなり流行っているようなのですが、必ず「内なる混乱」が起こり破綻することでしょう。人間は感性や感情だけで造られているのではなく、知性や知識が神から与えられており、それを全否定するやり方は必ず人間混乱を引き起こします。

私個人は、神学的には、根本主義と聖霊運動の流れから出てきたカルバリーチャペルの影響を強く受けていますので、二つ目に書いた根本主義の遺産を継承していると言って良いと思います。使徒の書いた新約聖書(そして、もちろん使徒が旧約聖書の成就だとして主張したその旧約聖書も含めて)のいう「言い伝え」をしっかりと守りなさいと命じられたとおりに行なわなければいけないと信じている者です。四つの法則や、先日のフランクリン・グラハムの東北における伝道の働きにおいても、私は非常に感謝しているし、日本や宣教地域で有効活用していくべきだと思っている一人です。

その中で、もちろん米国福音派の動きだけに頼っているのでは決してありません。私は日本人ですけれども、日本に遣わされた宣教者だと思っています。つまり他文化において福音宣教の働きをしているわけであり、したがって米国内のキリスト者には見えてこない聖書的視点が与えられています。しかし、米国発信の福音的キリスト教が間違っているという批判をするつもりはなく、むしろその霊的財産(遺産)に敬意を払って、それでもって神が遣わしてくださったこの地でキリストから教えられて生きていく者であるでありたいと思っています。

反発した新しい動き

ところが、むしろ米国内で従来の福音的キリスト教に反発している動きがあります。その一つが上に挙げたEmerging Churchです。彼らは「教会堂の席に座り、正しい教理だけを詰め込まれるのが教会ではない。」という強い反発を持っています。根本主義者が強調するキリストの再臨にも強い反発を示し、この地上における幸福を大事にします。地獄の教義は生理的に嫌悪しています。もっと感情や感覚、自分の思ったこと、感じたことを大切にしたいと思っています。そして、ろうそくを灯したり、カトリックや正教会の儀式の一部を取り入れたり、神秘的アプローチも取ります。

そして、保守的な欧米のクリスチャンは、これらの動きは実に危険であり、福音の真理かから逸脱しているという思いを、いろいろな媒体で表明しているわけです。

私は、このような異端的動きが起こっていることに対して、確かに欧米キリスト教会に欠けているもの(そしてそれを輸入した日本のキリスト教会にも欠けているもの)を見ています。教会史において異端や他の教えが出ている時には、必ずと言ってよいほど教会自体の不足や盲点が浮き彫りにされていたときです。例えば教会が腐敗していたときに、アラビア半島からイスラム教が台頭しました。

Emerging Churchからの批判について言えば、現代キリスト教会には「生活」がありません。日曜日に教会堂に行き、そこで歌と説教を聞いて、それで家に帰って終わり・・・という生活がはたして、新約聖書で教えられている教会の姿でしょうか?むしろ、教会とは共同体であり、誕生したばかりのエルサレムの教会では文字通り財産を共有して生きていました。「互いに」という言葉が使徒の手紙の中に頻繁に出てくるように、キリスト者の間における生活の関わりが密接に行なわれていました。

しかし、それがEmergent Churchになるのか?というと、そうではありません。聖書は「交わり」だけを話していません、初代教会は「使徒の教え」を堅く守っていて、パウロや他の使徒は、主の言葉、神の計画全体を教えることに多くの時間を割いていました。そして神の家を真理の柱と言っていたように、言葉で宣言できることが可能な信仰によって成り立っていたのです。Emerging Churchにはそれが完全に抜けており、自分たちが何を信じているのか分からない、そして結果的にキリストご自身を捨ててしまうということになるのです。

リック・ウォレンの提唱した「目的主導」の教会成長にも同じことが言えます。(注1)確かに福音的キリスト教には、世に対する「言葉」を失いました。この世界に生きる人々に届かなければいけない福音なのに、キリスト教文化の垣根の中でしか通用しない言葉を生み出し、教会内と教会外で壁を作ってしまったのです。聖書的キリスト教は、「ギリシヤ人にはギリシヤ人のように、ユダヤ人にはユダヤ人のように」という、仕える姿で福音を伝えることでした。

そこで地域や社会に貢献できる教会を目指したわけですが、問題はその逆のことが起こったのです。「教会が世に届くのではなく、世が教会の中に入ってきた」のです。キリスト教とイスラム教を融合させるような発言を彼が行なったとして多くの批判を受け、彼は激しく反論しましたが、けれども傍目から見てやはり融合しているとしか思えない、いわば政治家のように八方美人になって語る、相手によって言葉を変えている状態です。

そして、根本主義的教会は携挙を強調し、キリストの地上再臨を強調して、この地上に対する関わりをなくしたとし、「自分たちでキリストの御国を立てるのだ」という考えで運動を進めています。個人としては「五つの目的」で知られる自己啓発の哲学に基づく書物が売れ、教会としては政治・環境運動とあまり差異のない人間主導の活動を行っています。

「欠けたもの」への反発から「必要なもの」を捨て去る

二つの動きに共通しているのは、従来の福音的キリスト教に見過ごされていたもの、欠けていたものに焦点を当てながら、それに反発することによって、肝心のもの、絶対必須のものも捨ててしまうという現象です。

これを放射能汚染に例えてみましょう、原発事故で放射性物質が発散されましたが、では私たちは空気全体をどこかに移動することはできるでしょうか?海水にも汚染水が出て行きましたが、海全体を取り替えることはできるのでしょうか?いいえ、もし空気を移動したら窒息します。海水を取り替えようとするなら、海の生物は死滅します。魚介類はもちろんこれから食べることはできません。多少汚染されていた空気であっても吸うことが必須であり、吸わなかったら被爆よりもはるかに即時的に、確定的にその人は死亡するのです。けれども、そうしたことを「反発」という動きによって霊的に行なっているのが現状です。

もっと聖書的、霊的に言えば、問題は「かしらなるキリストに結びつく」ことを忘れてしまったことです。

あのむなしい、だましごとの哲学によってだれのとりこにもならぬよう、注意しなさい。そのようなものは、人の言い伝えによるものであり、この世に属する幼稚な教えによるものであって、キリストに基づくものではありません。キリストのうちにこそ、神の満ち満ちたご性質が形をとって宿っています。そしてあなたがたは、キリストにあって、満ち満ちているのです。キリストはすべての支配と権威のかしらです。(コロサイ2:8-10)」

あなたがたは、ことさらに自己卑下をしようとしたり、御使い礼拝をしようとする者に、ほうびをだまし取られてはなりません。彼らは幻を見たことに安住して、肉の思いによっていたずらに誇り、かしらに堅く結びつくことをしません。このかしらがもとになり、からだ全体は、関節と筋によって養われ、結び合わされて、神によって成長させられるのです。(コロサイ2:18-19)」

現代の教会のあり方に反発を抱いているのであれば、まずはこれまで、自分自身がキリストにしっかりと結びついておらず、聖書的ではない動きに振り回されていたことを悔い改めなければいけません。聖書を読みながら、実は「聖書を読む」というプログラムに自分の身を任せてはいなかったでしょうか?伝道しながら、実は、聖書に基づくキリストの愛に押し流された、御霊による伝道の努力ではなく、伝道プログラムの中に自分の身を任せてはいなかったでしょうか?キリストの切迫的来臨を聖書で見ながら、初代教会と同じようにこの方との再来を待ち焦がれ、慎み深く地上での生活を歩むのではなく、「レフト・ビハインド」に代表されるような小説でただ熱気立っていたのではないでしょうか?(注2)キリストではなく、教会で行なわれている一つの空気の中で自分が生きていたのではないか?という、自己に対する疑問を呈してみたらいかがでしょうか?

Emergentや目的主導のような動きが批判している、今日の福音的キリスト教の問題点は、福音的キリスト教が元々信じていたはずなのにどこかに置き忘れてしまったもの、信条としては信じているのに実践されていなかったものなどが、ほとんどです。教会のあり方を批判している人々に同調して、他のところ、他の人、他の動きに飛びつくのではなく、むしろキリストに立ち戻るのです。

それは、私たちがもはや、子どもではなくて、人の悪巧みや、人を欺く悪賢い策略により、教えの風に吹き回されたり、波にもてあそばれたりすることがなく、むしろ、愛をもって真理を語り、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達することができるためなのです。(エペソ4:14-15)」

注1:リック・ウェレンについての日本語による記事はこちらをお薦めします。
非聖書的人間主導型世俗化教会成長論 その栄枯盛衰の狭間で翻弄される日本の弱小教会

注2:私個人は「レフト・ビハインド」を評価しています。伝道用文書としてすばらしい小説だと思っています。以前にブログ記事を書きました。

福音の立体的骨格を伝えるには? その2

その1からの続き)

行ないによって

そして伝道の強力な武器は「良い行ない」です。神が愛であるのと口で言うのと、困っている人に実際に必要にかなう物を分け与えるのとでは全然違います。後者によって神が愛であることを伝えるほうが極めて効果的です。東北震災の被災地において、大勢の人がキリストを実感できました。「なぜクリスチャンのボランティアは、見返りを期待せずに喜んで働いているのだろうか?既存の神道や仏教の人々より、圧倒的な差でなぜ教会が動いているのか?」という問いかけが、現地では多くなされています。実際に目で見えるものによって、目に見えない神のご性質をおぼろげに知ることができたのです。

そして、このように生活の証しによって、実際に伝道集会において、福音の言葉を聞いて信じる人が起こされています。その場でただ福音の言葉を聞いたのでは決して知ることのなかった、輪郭のある証言を与えられていたからです。

弟子作りによって

そして私は、弟子作りそのものが伝道になると思っています。つまり、時間をいっしょに過ごし、聖書の言葉をじっくり、時間をかけて教えていくことです。イエス様はマタイ伝では、弟子たちに「弟子にしなさい」という命令を与えられました。マルコ伝では福音を宣べ伝えなさいと命じられましたが、弟子にしていくことは、単に福音を口で伝えること以上の過程が必要です。

旧約の時代から、神は人に対して時間をかけて接しておられました。アブラハムが神を知るのは、その何十年もかけた人生においてでした。ヤコブも体験も一足飛びではありません。ヨセフも、兄が自分を売ったことについての神の救いの計画を知るには、時間がかかりました。モーセも神に召されるまでは八十年かかっていますし、誰一人として四つの福音の冊子にある、即効的な神との出会いはしていないのです。

多神教を信じる者に対する伝道は本当に時間を要しました。ダニエルのことを思います。ネブカデネザルは、ダニエルの忠実な証しによって、晩年に天におられる神、主を認めるに至りました(ダニエル4章)。彼の発言には段階があります。初めはダニエルの神をほめたたえました。けれども、4章では自分自身の神としてほめたたえています。

そしてイエス様は、弟子たちと三年間、いっしょに時間を過ごされました。寝食を共にして、そして教えを弟子たちは聞きました。イエスの行なわれるわざを間近で見ました。それでもイエス様の本当のところについては悟ることができませんでした。全貌はご復活後に明らかにされるのです。

「骨格」が与えられるのは、やはり聖書にある神の教えを伝えながら、じっくりと時間を共に過ごすことにあるのではないかと思います。もちろん、救いは信仰を持つことによって瞬時に与えられます。御霊による新生が徐々に、漸次的に与えられるものではありません。新生しているか、いないかのどちらかです。けれども、それが必ずしも、四つの法則をいっしょに見ていったことによって、その人の人生に明らかにされるわけではないのです。クリスチャンの家庭に育った子弟が、自分の信仰が明らかになるまで時間がかかることがよくあるように、時間がかかって良いと思っています。大事なのは、信じたと告白する前から時間を共に過ごし、告白した後も同じように時間を共に過ごし、一貫した、変わらぬキリストの姿を見せていくことであります。

福音の立体的骨格を伝えるには? その1

米国から戻ってきたばかりの時の逆カルチャー・ショック

私たちが米国にいて、日本から訪ねて来られた人々に直球の伝道をしていたことがあります。ホームステイで短期に来られた人々に、そのままイエス・キリストの十字架の意味を教え、そして決断もお薦めするというようなことを行なっていました。かなり考え込んでくださっていましたが、それで信じた人はいませんでした。けれども、それでも伝えられたということで満足でした。

ところが日本に戻ってきて、その葛藤は深刻になりました。「四つの法則」に代表されるような福音の提示だけが果たして福音伝道であるのかどうか、ということです。特に、アメリカ人家庭でイエス様を信じたという日本人が帰国すれば、そのほとんどは初めから信じていない、ということが多かったのを見て、「イエスご自身を、立体的に輪郭をもって伝えられていないのではないか?」と疑問を持つようになりました。

文化習慣的な要素があることは確かです。米国のレストランでは自分の好きなメニューを瞬時で選んでウェイトレスに伝える姿を見ると、論理的に考え、選択をすることが日常で行なわれている欧米人には良いのかもしれないが、例えば、「阿片戦争」という映画で、英国人がYesかNoかと中国人官吏に迫っていたときに、腕を込んで考え込んでいる姿に表れているように、二者択一の決断がなかなかできない要素が多分にあるのではないか、と思いました。

そして人間関係が重要です。東洋人は相手を尊ぶがゆえに「はい」と答える傾向があります。相手が語っている内容に同意するのではなく、その人を重んじているのです。

けれども、それだけが要素ではないと感じています。一番大きな要素は、やはり重厚なユダヤ・キリスト教の歴史を欧米は持っているということです。イースター(復活祭)についても、例えば一般雑誌に「イエスは果たして復活したのか?」というようなことが特集記事になる程であり、読まなくても家庭に聖書が一冊あるほどなので、四つの法則で最終的な決断を勧めても問題ないところまで来ているのではないか?と感じています。

けれども、「四つの法則」は誰もが学ぶべき基本的知識です。伝道をするときに、この法則を念頭に入れておくのとそうでないのとでは歴然とした違いがあります。そこには、神の救いのご計画が実に見事にコンパクトにまとめられています。そして、最近米国では伝道者レイ・コンフォートが提唱し、実践している十戒を使った伝道方法も、注目に値します。反響を呼んだ”180“というビデオは、伝道する時に「考えていない人に考えさせる」という触発を与えるのは良いことであることを教えられました。

神の与えておられる接点

今、私が落ち着いている伝道するときの立場は、「ユダヤ人にはユダヤ人のように、律法を持たぬ人にはそのように」という使徒パウロの姿勢です(1コリント9:19-23)。そしてイエス様がニコデモとサマリヤの女に対して行なわれた伝道です。

私は全ての人が神からの知識を持っていると信じています。自然界に神の創造が現れているのはもちろんのこと、そうでなくてもその人が持っている興味、これまで歩んできた人生、自分の今の考えなどによって、そこに神が介在しておられると信じています。

イエス様は、聖書に精通しているニコデモに対しては聖書から話され、井戸に水を汲みに来たサマリヤの女に対しては「水」から永遠の命を語られました。新しく生まれることを話したイエス様は、サマリヤの女に対しては「霊とまことをもって礼拝する」と言われて、巧みに言葉を変えて同じ真理を伝えておられます。ペテロも、イスラエル人に対して、「ぶどう酒に酔っているだけだ」という反応を取り上げて、そこから聖書を語り始めました。語る福音宣教者が、聞く者の中にある言葉や関心事、知識を土俵として、それを導入として語り始めるのです。

パウロの宣教を通して、数多くの人がイエス様を信じていきましたが、けれども彼はユダヤ人の会堂に初めに行って伝道しました。そして異邦人でも改宗者や神を敬う人々に向かって語りました。すでに聖書の知識を持っている人々、創造の神を求道している人に語ったので、それで信仰に至りました。反面、自分が願わぬ形で、テモテとシラスを待っていた時、独りで伝道したアテネでは、「知られざる神」という言葉から天地創造の神、そしてイエスの復活、そして再臨とその後の裁きを宣べ伝えましたが、多くの人はあざ笑うだけでした(使徒17章)。しかし、ここでも彼は、どこかで接点を見出して、そこからイエス様を語ろうと努力したのです。

私は以前、神道の信者に伝道したことがあります。その方は私が教会の者だと分かるとかえって興味を持って話しかけてこられました。その時に私が行ったのは、神道の葬式について質問したことです。目的は、相手とどのような接点があるのだろうか、相手が何に興味を抱いているのか、どのような価値観を持っているのだろうか、などを見極めることでした。-「自分が分からなかったら、素直に聞いてみる」ということは大事だと思います。- そして、ある程度の神道の信仰体系をお伺いして理解してから、それから永遠の命、そして罪と死について話したのだと思い出します。

また、死刑制度について話していた方がいました。自分の家族が殺されたら、自分は決してその人を赦すことはできない、そいつが与えた同じ苦しみをもって、苦しみを与えたいという感情が沸くだろう、ということを仰っていた人がいます。ここで、「それは罪だ。赦さないといけない。」と説教するのは極めて間違っていると私は思いました。なぜなら彼女はまだキリストを知らないからです。むしろ、その人の心に「報復の神」が啓示されていると思いました。私はこう答えました。「全くその通りです。苦しみを与えた者には、それにふさわしい報いを受けるべきだと思います。けれども私たち信仰者は、それを神がしてくださることを知っています。神が復讐してくださることを知っているので、正しい裁きが人間によって行なわれなくとも、神が行ってくださるという希望によって支えられているのです。要は、神を信じることが大事です。」と答えたかと思います。

パウロは、「すべての人に、すべてのものとなりました。それは、何とかして、幾人かでも救うためです。(1コリント9:22)」と言いました。自分の語る言葉を振りかざすのではなく、むしろ相手の僕となることによって、相手の土俵から福音の真理を語り始めます。相手が求める説明に対して弁明するような形で語るのです(1ペテロ3:15)。

そのためには、私たちは神だけでなく、神のお造りなさった人にも関心を示さねばならないでしょう。それには労力が伴います。自分が相手に教えるのではなく、初めに相手を知り、学んでいく必要があります。その人のところに届く宣教者とならなければいけません。その人の言語、その人の社会、その人の文化があります。そこに入ることによって、私たちが「イエス」というお名前を発するときに、相手にとって単なる言葉あるいは音で終わるのではなく、人格のある存在として伝わっていくのではないか、と思います。

その2に続く)

LCFの活動(聖書の学び&復活祭!)

明日、明後日のLCF(ロゴス・クリスチャン・フェローシップ)の活動をお知らせします。

4月7日(土)足立区こども家庭支援センター 別館3階
 14:00 聖書の学び 「マタイによる福音書1章」
     ※ 新しい聖書シリーズです。ぜひ楽しみにしておいでください!
 16:00 祈り会

4月8日(日)足立区こども家庭支援センター 別館3階
 11:00 イースター(復活祭)礼拝
 13:00 食事会&ゲーム

※イエス様の復活をお祝いする礼拝を持ちます。(いつもの午後礼拝は持ちません。)教会が初めてという方もぜひおいでください!
※お昼をいっしょに食べます。その他、ゲームなど催し物を用意しております。こちらもお楽しみに。

偽の救世主 その2 - 福音の真理より感情を優先

その1からの続き)

しかし、このように世界が悪化していくなかで、なおのこと福音の真理を拒むのであれば、先ほど言及したように、「権威あるもの、既存の制度」に対して悪口、罵倒、中傷をしていくようになります。米国内で起こっていることにも、また日本にも共通しているのは、「感情が優先される」という問題です。よく考えればやってはいけないことを分かっているのに、「感情があるから」という理由だけで大事な決断をしてしまう、という動きが非常に強くなっています。

権威に対する中傷は、終わりの日の背教のしるしとして聖書では描かれています。「しかし、この人たちは、自分には理解もできないことをそしり、わきまえのない動物のように、本能によって知るような事がらの中で滅びるのです。(ユダ10)」「汚れた情欲を燃やし、肉に従って歩み、権威を侮る者たちに対しては、特にそうなのです。彼らは、大胆不敵な、尊大な者たちで、栄誉ある人たちをそしって、恐れるところがありません。(2ペテロ2:10)」

そして、神に対して救いを叫ばなければいけないのに、依然として人に対して叫んでいる姿は、まさに反キリストの出現を待望していることに他ならないのです。「わたしはわたしの父の名によって来ましたが、あなたがたはわたしを受け入れません。ほかの人がその人自身の名において来れば、あなたがたはその人を受け入れるのです。(ヨハネ5:43)」今、日本に抱えている問題、経済的衰退、膨大な債務、原発事故、教育、軍事的脅威などなど、これらを政治家にぶつけて、それで「真のリーダーを求める」と言っている人は、その問題をみな解決する人物が出てきたらその人を支持するのでしょうか?はっきり言いましょう、そんな人が出てきたら彼はそのまま反キリストです。あるいは反キリストに完全に帰依する指導者であります。

「私がその角を注意して見ていると、その間から、もう一本の小さな角が出て来たが、その角のために、初めの角のうち三本が引き抜かれた。よく見ると、この角には、人間の目のような目があり、大きなことを語る口があった。(ダニエル7:8)」

反キリストは「人間の目」とあるように、知能において極めて優れています。けれどもそれは「人間」の目であり、人間至上主義であります。そして権威ある存在に対して罵り、冒涜する存在であります。「彼は、いと高き方に逆らうことばを吐き、・・・(ダニエル7:25)」彼に追従する者たちも、世が困難になるにつれて、神の前にひれ伏し、へりくだるどころか、ますます罵りの言葉を吐き出すのです。「彼らは、これらの災害を支配する権威を持つ神の御名に対してけがしごとを言い、悔い改めて神をあがめることをしなかった。 (黙示16:9)」(参照:聖書の学びダニエル書7章

そして教会内では、福音の真理より、感情を優先させる動きが極めて強くなっています。「というのは、人々が健全な教えに耳を貸そうとせず、自分につごうの良いことを言ってもらうために、気ままな願いをもって、次々に教師たちを自分たちのために寄せ集め、真理から耳をそむけ、空想話にそれて行くような時代になるからです。(2テモテ4:3-4)」

なぜ今、イエス・キリスト以外の他宗教においても救いがあるという圧力が強くなっているのでしょうか?なぜ、日本において死後にも救われる機会があるという教えが広まっているのでしょうか?また神道とキリスト教を融合させようとするのでしょうか?アメリカでは、イスラム教とキリスト教の融合が流行っています。これらはみな、「気持ちでは受け付けられない」という抵抗があるからです。そしてその感情に付け足すようにして聖書の言葉を使用し、健全な教えから離れているのです。

ですから、敵は身近にいます。実に私たちの内にあるものが敵なのです。惑わしは、私たちの思いの中に襲ってくるのです。

ではどうすれば、感情に支配されないでいることができるのでしょうか?それは「手放す」ことです。人間的な言い方をすれば、「楽にする」ということです。難しい問題、自分では対処できないことが自分を覆いかぶさってきたら、ただキリストのうちにある自分に戻ってください。惑わしについて教えている使徒ヨハネは、反キリストの霊について教えているときに信者に対しては、「キリストから受けた注ぎの油があなたがたのうちにとどまっています。(1ヨハネ2:27)」と言って励ましました。不法の秘密が働いていて、世がその偽りにしたがっていくことを話した使徒パウロは、「主に愛されている兄弟たち。神は御霊による聖めと、真理による信仰によって、あなたがたを、初めからお選びになったからです。(2テサロニケ2:13)」と言って慰めました。

あなたが初めに信じたときの福音は、今も変わらずあなたに与えられているのです!その中に休んでください。牧者チャックが、政治家に対して「主にゆだねなさい」と勧めたように、今、私たちの周りに起こっている問題は、神のみに救いがあることを知る必要があるのではないでしょうか。それをせずに、気張って、ますます自分を苦しめているのが今日の人々の姿ではないでしょうか?主を見上げるという、とても単純なことを神は私たちに求めておられるのです。

偽の救世主 その1 - その出現は閉塞感の中から

世界はめまぐるしく変わっています。中東情勢を見ますと、ロシアのプーチンがイスラエルを訪問する というニュース、そしてシリアに対してロシア軍を進軍させたという動きなどを見ていますと、不気味なゴグとマゴグの預言(エゼキエル39-39章)を思い出させます。イスラエルは近年、石油や天然ガスが見つかっていますから、これを貪っているのかもしれません。

こうした世界情勢の動きと共に、私たちが気をつけなければいけないのは私たち自身と国内のことです。私たちが偽救世主の出現を間近にして、その相克の中に生きているということを忘れてはいけません。

ずっと気づいていることですが国内の状況が、アメリカと日本には今、似た流れがあります。アメリカ人から話を聞くと、まるで日本で起こっていることのように感じるときがあります。

日本はバブル崩壊以降の経済停滞から抜け出すことができず、その産業が右上がりになることはありませんでした。その構造を変革させるべく小泉首相が政治改革も試みましたが、結果は自民党の衰退、そして民主党への政権交代となりました。民主党はかつて自民党政権を批判していたその一つ一つを自らが行っているという状況であります。首相があまりにも短期間に交代していきました。それに追い討ちをかけるように東日本大震災と、それにともなう原発事故により、日本がこれからどこに行くのか、多くの人が深い懸念を抱いています。

アメリカは対イラク戦争から戦時体制に入り、対アフガン戦により国力が疲弊しています。それに加えてリーマンショックが起こり、アメリカの一極体制はそこで終焉を迎えました。これを変革すべくオバマ氏が大統領に選ばれましたが、その債務は天文学的にさえなり、国の基盤を揺るがしかねない方向に動いています。興味深いことに、イスラエルに何度も訪問している牧者チャック・スミス氏は、イスラエルにもアメリカと同じものを見、かつては愛国心に満ちていた雰囲気がなくなって自信を失っている、と言います。日本にも同じことが言えるでしょう、経済の底力が落ち、人々に自信がなくなっています。

そんな中で、人々の動きの中に、既成の制度や権威に対する不満が噴出しています。ヨーロッパにおける暴動、アメリカの「ウォール街を占拠せよ」、そして日本では反原発運動など、かつてはイデオロギーによる反権力運動としては存在していたものの、そうした確固たる信念のない、感情の捌け口としての動きが世界に広がっています。このように、先進国の中にある特有の動きは、アメリカにおいても日本においても共通しています。つまり行き場のない焦りと閉塞感です。

そしてその解決法も、極めて似ています。それは、「心を裂いて、主に叫び求める」というものです。「あなたがたの着物ではなく、あなたがたの心を引き裂け。あなたがたの神、主に立ち返れ。主は情け深く、あわれみ深く、怒るのにおそく、恵み豊かで、わざわいを思い直してくださるからだ。(ヨエル2:13)」

重厚なキリスト教の歴史を持つアメリカと、その基盤のない日本では前者は、「主に立ち返る」という解決となるでしょうが、日本は「伝道の機会を精力的につかむ」と言ったら良いでしょう。いずれにしても神にのみ救いがあり、指導者もまた国民も主に叫び求めることをしなければ、国は深い淵の中に落ち込んでいくのではないかという危機を感じます。

このブログで何冊か本を紹介したジョエル・ローゼンバーグ氏が今、新しいノン・フィクションの本を準備しています。

Implosion

本題は日本語に訳すと「内破」であり、米国がかつて歴史上に起こった二つの霊的復興のように、三度目の霊的復興が起こらなければ、単なる衰退ではなく内部破裂するであろう、という警鐘の内容です。彼は最近、上に挙げたヨエル書から、心を裂いて悔い改めて、断食をし、祈ることに今、専念しなければいけないと強く勧めています。アメリカに内在している深刻な諸問題に、人間の考えられる方策が尽き果てたからです。(彼の講演の一つが日本語記事になっています。)

そしてまた、昨日、チャック・スミス牧師とマイク・マッキントッシュ牧師の、世界情勢ニュースについての対談の番組を見たら、同じことを話していました。

World News Briefing  2012年3月29日

(ちなみに、牧者チャックは肺癌を患って放射線治療を受け、それが終わった前後にこれを収録していると思われます。治療中も精力的に説教活動を行なっておられました。)

マイクが、「この番組を政治家の人たちが見てくださっているかもしれないけれども、彼らに対する言葉は?」と質問し、チャックが次のような内容で答えました。「数々の問題があるなかで、政治家として自分が修正、変革をしなければいけないのだという心理的圧迫が圧し掛かっているのとだと思います。けれども、だれが行なおうとも状況は悪化していくのです。神がこれらのことを掌握しておられるので、主にお任せすることが必要です。」そして二人は国の指導者のために祈る時を持ちました。

今、数々の問題が山積している中で、主は「わたしが神なのだよ」という声を次第に大きくして、アメリカに対しても日本に対しても、声をかけておられるのです。それをマスコミそして迎合する一般国民が、かつて国力のあった時代と同じように、従来の方法で政治家へその解決を求めています。政治家も同じように、とてつもない問題・課題を自分自身の身に背負っていますが ― いや、ある人々は他人事のように無責任になっていますが ― いずれにしろ、魂の救いのみならず、この世界もイエス・キリストの名以外には救いはないことを知らないといけないのです。

その2に続く)

「マタイによる福音書」の学びへの招待

私たちの教会は、日曜の二回の礼拝の他に、土曜日に弟子訓練としての学びと、教会のための祈り会を持っています。新しい信者のための学びとして「第一ヨハネ」の学びを行ないました。永遠の命をすでに受け取っているのだという救いの確信のために必要な学びでした。それから「ローマ人への学び」です。これはもちろん、「信仰によってのみ救われる」という福音の核心を伝える書物です。この学びを通して、一人の姉妹に、確かに救いが自分のものになったという強い確信が与えられました。

それから「使徒の働き」の学びを始めました。信じて間もない人が何人もいる中で、初めに触れる教会がロゴス・クリスチャン・フェローシップなのですが、教会の模範を見てほしいと思って、使徒の働きの中にある初代教会の様子を紹介しようと思いました。

そしてついに、「マタイによる福音書」を今週土曜日から学びます。二つの目的があります。一つは、信仰の対象であるイエス・キリストご自身を知ることです。地上におられた時の主の生涯を福音書は克明に記しています。

もう一つは、律法と預言書、すなわち旧約聖書の実現としてのイエス・キリストを知ることです。私たちの礼拝における聖書の学びは、創世記から現在、申命記まで来ました。これら律法の実現がまさにメシヤ自身であられます。そして使徒の働きの終盤は、パウロがエルサレムから始まり、異邦人ではなくユダヤ人に対して語っており、そこで「私は、イスラエルの望みのために鎖につながっています。」という証言を繰り返しています。イスラエルに反対する言葉ではなく、むしろイスラエルを完成する言葉を携えている、という主張です。ですから旧約聖書を学ぶ者にとって、福音書、特にマタイによる福音書は、イエスこそがその律法と預言の成就であることをまざまざと見ることができます。

わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。(マタイ5:17)」

あるキリスト教弁証論者が、「聖書にある四つの大事な書物」として、創世記、黙示録、そしてダニエル書とマタイ伝を挙げました。創世記と黙示録はそれぞれ人間の歴史の始まりと終わりを示し、ダニエル書はイスラエルが一時的に神のご計画の中心から退かれた「異邦人の時代」を鳥瞰的に示しています。そしてマタイ伝は、旧約時代から新約時代に移る繋ぎになっています。

マタイによる福音書は、聖書預言における神の計画を知るのにも必ず必要な書物です。神は、アダムが罪を犯した時以来、ご自分の支配、すなわち御国を回復する情熱を持っておられます。そのためアブラハムを選ばれ、そしてダビデを王として油を注がれる(=任命する)ことによって、ダビデの子からメシヤを出し、そのメシヤによる御国を立てることを決められました。その到来の宣言がマタイによる福音書であり、さらにイスラエルがそれを拒み、御国が遠のいたことを示し、けれどもメシヤの支配が続くことを、復活によって証明されたことを示しています。

詳しいことは、日本語では「これからの世界情勢と聖書の預言」(高木慶太・芦田拓也著 いのちのことば社)が良い文献です。(本書の改定新版の唯一の不満は、第一章で、イスラエルの建国と中東戦争の概略が記されていますが、第一版で高木慶太氏が書き記されたのと異なり、アラブ側の誤った主張を取り入れていることです。けれども、大きな流れとしてはしっかりと書かれています。)そして拙書「聖書預言の旅」(リバイバル出版社)をご参照ください。

英語の文献としては、John Walvoordの”Matthew Thy Kingdom Come(マタイ 御国を来たらせ給え)”が良いでしょう。オンラインでも読めます。

ぜひ、新しい学びにいらしてください!

基本的な日時と場所
毎週土曜日午後2時から 足立区こども家庭支援センター 別館
※たまに行なわない時、別の場所になるときがあるので、いらっしゃる前に教会のカレンダーでお確かめください。

恵比寿バイブルタディのお知らせ(4月4日)

ついに4月に入りましたね。外に出ると、つぼみを付けている桜の木を見てその命を思い感動を受けました。

今週の学びのお知らせです。

日時:4月4日(水)午後7時から
場所:目黒区立 田道住区センター三田分室 / 2階 第一会議室
聖書箇所:サムエル記第一18章以降
(次回の予定は、4月18日になります)

ダビデの生涯に入っています、ゴリヤテとの戦いは、まさに神の国と人間の国の衝突です。私たちは主の御名という武器を持っており、対する人間は物理的な力を持っています。次回は、ダビデにつくヨナタンから始まり、ダビデに脅威を抱くサウルの話です。