世界一評判の良い国 ― 日本 その1

昨日、極めて興味深い情報を読みました。

世界の中での日本の評判まとめ(BBC Country Rating Poll)

BBCでは毎年「BBC Country Rating Poll」というものをやっています。これは、ある国が、「世界に対して積極的な影響を与えている」と思われているか、「世界に対して否定的な影響を与えている」と思われているか、の割合を調査したものです。そして、日本はこの調査で積極的な影響を与えていると思われる国の上位を占めています。

そして、今年の調査では、なんと日本は第一位なのです。今年出てきた調査ですから、2011年の国を見てとのことですが、いかがでしょうか、日本は東日本大震災があり、その後の原発事故によって世界に大迷惑をかけました。ところがむしろ第一位なのです。そして上のブログ記事が触れていますが、日本人は自国に対してそれほど良い評価をしていないということです。

私は、ずっとここのブログで日本がいかに良い国であるかを話してきました。海外経験が多くあるので、日本が世界的に住みよい国の上位に入るのではないかというのが実感でした。特に、地震と津波以後の対策、また原発事故の処理でさえ、私は一国としては良く乗り越えていると思っていました。(例:「政府や東電を信頼するな?」)けれどもこのような意見や感想は、日本では遊離します。批判も受けます。私はこの頃、自分のことを「変な日本人」と呼んでいます。けれども、やはり外国における客観的な世界的調査が、数字として私の実感は奇異ではなかったことを証明してくれました。

一国は一人間の表れ

ここから私は、一つの国を一人の人間に縮小して考えることもできると考えました。つまり、「無私の心で他者に仕える人」と言ったらよいでしょう。実にできている人です。そして、自分に与えられている義務をしっかりと果たしている人ともいうことができるでしょう。と、同時に、「それだけ、内に悩みを抱えている人」と言って良いと思います。外側にある責任をしっかり負っていくことによって、自分の能力以上のものを背負い込み、内側で崩壊していく人、と言ったらよいでしょうか。それが、日本人が自国の評価をかなり低く見ているところに表れていると思います。

私は日本の人たちのことを考えるときに、いつも「金持ちの青年」を思い出します。

イエスが道に出て行かれると、ひとりの人が走り寄って、御前にひざまずいて、尋ねた。「尊い先生。永遠のいのちを自分のものとして受けるためには、私は何をしたらよいでしょうか。」イエスは彼に言われた。「なぜ、わたしを『尊い』と言うのですか。尊い方は、神おひとりのほかには、だれもありません。戒めはあなたもよく知っているはずです。『殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。偽証を立ててはならない。欺き取ってはならない。父と母を敬え。』」すると、その人はイエスに言った。「先生。私はそのようなことをみな、小さい時から守っております。」イエスは彼を見つめ、その人をいつくしんで言われた。「あなたには、欠けたことが一つあります。帰って、あなたの持ち物をみな売り払い、貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい。」すると彼は、このことばに顔を曇らせ、悲しみながら立ち去った。なぜなら、この人は多くの財産を持っていたからである。(マルコ10:17-22)

青年は、「何をしたらよいでしょうか」と尋ねました。けれども、イエス様は、何かを追加して行なうのではなく、反対に、手放すことを命じられました。それは自分がしっかり握りしめていた財産です。しかし、「自分が何かを行うことによって事を成し遂げる」という人生しか歩んでこなかったので、その自我を捨てることができずに、「顔を曇らせ、悲しみながら立ち去」りました。ここに、自分に対して否定的な認識しか持てない日本人の姿を見ます。

私は、日本人は総じて「究極的に、神の恵みを悟ることが困難な人たち」と感じています。では、どうすればよいのかでしょうか?

一つは、「感謝する」ことです。日本がこれほど美しい国、優れた国であることを神に感謝することです。また自分の周囲の環境が、当たり前ではなく、神の御心と守りがあって存在していることを感謝することです。

聖書には、「一般啓示」と「特別啓示」のどちらもがあります。一般啓示というのは、自然や人のありさま、良心など、神が普遍的に人に示しておられるご自身の事柄です。そして特別啓示というのは、キリストを神がこの地に遣わし、十字架と復活によって救いの計画を示した、聖書によってのみ知りうることのできる神の事柄です。同じように、「一般恩寵」と「特別恩寵」があります。神のキリストによる救いにある恵み以外にも、人々に与えておられる恵みを「一般恩寵」と名づけたらよいでしょう。

天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。(マタイ5:45)」

私は、クリスチャンが人口の1パーセント未満と言われている日本国は、一般恩寵については神からとてつもない豊かさを与えられている国だと思っています。それが、世界の人々が認めている「積極的な影響」であると思っています。「日本人はなんでこんなに福音を拒んでいるのか。」と私たちキリスト者が不満を並べている時に、実はそのように拒んでいる人と同じ過ちを犯していないか吟味しなければいけないでしょう。

というのは、彼らは、神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなったからです。(ローマ1:21)」

その2に続く)

今のカルバリーチャペルに足りないもの - 宣教の視点から

最近行なわれた、日本カルバリーチャペル・カンファレンスはとても祝福されたものでした。そこで少し、前進した、進歩したと感じられるものがありました。それは、講師がすべて日本国内のカルバリーチャペルの牧者であったこと、そして、従来の英語主体・日本語訳付きから、日本語主体・英訳付きに動いたことです。

1965年に始まったカルバリーチャペル・コスタメサから始まった主の働きは、今や、何千もの教会を国内と海外へと広がっています。私は、この群れが大好きで、この群れの一つになれていることを誇りに持っていますが、同時に、これから長い時間をかけて次世代に伝えていく課題もあります。

それを一言でいうならば「宣教」であり、「宣教地における福音と教会の定着」であります。カルバリーチャペルは、60-70年代に米国内で起こった「ヒッピー運動」の若者たちがキリストに立ち上がったという「イエス革命」と呼ばれる中で多くの指導者が出てきました。既存の伝統的な教会に、新しい世代の礼拝賛美スタイル、また若い世代を受け入れる愛と寛容を持っていました。

しかし、米国内ですでに起こっていることですが、「南カリフォルニアの郊外地域に教会が多数」あり、「他の地域に伝播していく」ためには、大きな一歩を踏まなければいけないということです。ハンティントン・ビーチのサーファーに代表されるような、極めて開放的で、形式に拘らない雰囲気が多くのカルバリーチャペルに特徴的なのですが、元々のコスタメサの教会、そして牧者チャック・スミス本人は、ヒッピーを「受け入れた」のであって、ご自身は保守的な米国人です。朝の礼拝では、牧者や案内係にはスーツを着用するようにさせています。カルバリーチャペルの運動は、「ラフで開放的」というのが原則ではなく、「異なる世代や種類の人々を受け入れる」という愛が土台でした。(参考記事

実際に、日本においてカルバリーチャペルが多いのは、「沖縄」と「東京西部」です。つまり、南カルフォルニアのビーチの文化と沖縄の島にある恵みの文化が合っていますし、東京も中心部ではなく郊外に点在します。同じ流れを感じます。

そしてその文化の延長なのでしょうか、あるいは、現代のアメリカ人の特徴なのでしょうか、「言語の習得」という海外宣教にはなくてはならないものが、ないがしろにされてきました。私たちの近しい知人の宣教師は、OMFに所属しておられますが、彼が日本や他の宣教地で奉仕しているアメリカ人が英語のみを使って活動している話を聞いて、目を点にしています。「OMFでは、アメリカ人も現地の言葉を流暢に話していますよ。」とのこと。ご本人は自分にとっての第二言語で、説教と祈りを始めとする全ての牧会をしています。

カルバリーに限らず、なぜ今のアメリカ人の多くが言語習得をなかなかできないのだろうか?と私は悩みます。戦後直後に来られた、今は老齢の宣教師の多くが流暢な日本語を話せるのに・・・。私がギリシヤ語の最初の授業で、「アルファベットを覚えるのが明日までの宿題です」と言われたので覚えたのですが、暗記した人は一握りでした。後に、宿題をこなす私を仕舞いに、仲間の学生が「天才」と呼ぶようになりました!

ですから、あまりプレッシャーを感じさせてはいけないと思いつつ、小出しに「日本語」を強調しています。

そしてもう一つは、言語以外の文化的要素です。聖書の原則を抽出して、それを現地の文化や習慣、社会に当てはめていく作業がどうしても必要です。例えば日本では、「葬儀」と言えば仏式であり、その時にキリスト者としてどのように対処すればよいのか、ということを考えなければいけません。

ところが、「福音の言葉を伝えておけば良い」という雰囲気があります。けれども、教会というのは生活全般の中に位置していなければならないわけで、世において起こるあらゆる面において世の光、地の塩になることを、教会に来ている人々は願っているわけです。

例えば、今年は米国大統領選があります。共和党候補にモルモン教徒のロムニー氏が出てくることは必至です。米国内では、キリスト者がモルモン教徒を大統領として選んでよいのかどうかが議論されています。それだけ「キリスト者と政治」についてよく考えているわけです。ならば、「宣教地にいる現地キリスト者も同じなのだ」と考えなければいけないのですが、そこまでの発想までにはなりません。イエス様は、「福音を宣べ伝えなさい」と命じられただけでなく、「弟子としなさい」とも命じられたのです。全生活において、キリスト者として生きる指針を与える義務が宣教者にはあるのです。

私の知り合いの牧師さんは、聖書学校の学生たち(多くがアメリカ人)にこう教えたそうです。「宣教師と現地の人との関係は、イラク駐在米軍と現地イラク人の関係と似ている。米軍が撤退した後も、現地イラク人はそこで生活しなければならないのだ。」宣教師が、教会生活そのものさえ知らずに、くっちゃべって去っていくのではいけないのです。残されていく人々が確かに自立して生きていくことができるように、手助けしていかねばならぬのです。

The Great Omission”という著書を書いた、日本でも宣教経験のあるロバートソン・マクルキンさんが、一度、カルバリーの宣教会議のゲスト・スピーカーだったのですが、彼は基本的に短期宣教を信じていませんでした。その役割はあるだろうけれども、聖書的には長期宣教だと断言していました。そして宣教者は、ヨハネ1章14節にある、「ことばは肉となって、私たちの間に住まわれた」とあるように、現地の人々の只中で生きることによって、自分のうちに現われるキリストによって人々に伝える、というものであると教えてくださいました。それから、今日の世界宣教界では、”Incarnation Mission(受肉宣教)”という単語が使われていることを後で知りました。

今も私は宣教の働きをするときの支柱になっている御言葉です。この前、他の国の兄弟姉妹の教会に、私たちの教会の仲間が訪問する機会があって、その一人から「明石さんは、その人たちに溶け込みすぎていて、どこにいるのか分からなくなった。」というようなお言葉をいただきました。私にとってはものすごい褒め言葉で、とても嬉しかったです。ある宣教師は、「宣教は、聖書を片手にして、あとは言語とガッツ(肝っ玉)だ」と言いました。言語習得にしても、文化を知ることについても、根性さえあればできる、ということです。

カルバリーチャペルは、まだまだ発展途上の段階にいますが、それでも少しずつ前進していることを感謝しています。私自身、未熟な面がたくさんあって成長しなければいけないと感じています。ウクライナでは、カルバリーチャペルは完全に現地化されている(つまり、現地の教会が現地の人々によって完全に営まれている)と聞きます。日本でも、少しずつその方向に進んでいることを感謝しています。

心が悲しくなること - 神の救いについて

ここ数週間、主に聖書を教える奉仕で忙殺されていましたが、豊かな神の恵みがありました。けれども、不思議なことに、いや、むしろ必ず起こることとして、豊かな主の祝福があるときに、落ち込みまで行かなくても、ちょっとブルーになることが多いです。エリヤがバアルの預言者と対峙した後に、イゼベルを恐れて逃げていたとき、彼は神に対して自殺願望を言い表しました。今は全く元気ではありますが、悲しくなる瞬間があります。

その原因は主に二つありますが、どちらも「霊魂の救い」に関することです。続けざまに、数多くの人から同じ質問を受けました。

「救い」は神のもの

一つは、「イエス・キリストを受け入れたとは言えない人は、やはり地獄にいるのだろうか?」という問いです。以前に「セカンド・チャンス論」でも取り上げましたが、日本において、いや他の国に行っても同じ質問を受けています。

私はいつも、同じ答えを出しています。それは「分からない」です。「イエス・キリストの福音を聞かなかった人々について、(また、赤ん坊の時に死んだなど、福音理解を知的にできない人間が死んだ場合など)その人が死後にどうなるのか、私は断言することはできない。けれども、はっきりと断言できるのは、安易に「天国にいます」とは絶対に言えないことだ。」そして、「たとえ、福音を聞いた人で、はっきりと信じたことを目撃できなかったとしても、死後に地獄にいるとは断言できないのだ。」と答えます。もしかしたら、どこかで信じたかもしれません。

そしてはっきりと断言できるのは、自分の身の周りの人々で、確かにその人に信仰による実を認めることが出来た人については、その人の葬儀において、「この人は今、天に凱旋しています!」と高らかに宣言することができることです。

これは、「神の選び」という主題についても同じことが言えて、「神が人を救いのために選ばれた」という真理は啓示されていますが、「神が人を滅びのために選ばれた」という文言は聖書にありません。イスカリオテのユダが滅んだとイエスは明言されましたが(ヨハネ17:12)、そのような特殊な例を除いて、神が人を造られるときに、滅びのために選ばれたという真理はでてこないのです。人間的な論理の類推で、「人を神が救いに選ばれるのなら、それ以外の人々は滅ぶように定めている。」と判断しているだけなのです。

そして何よりも、「死後の世界について、個々の魂の行く末について私たち人間がどうして裁きの座に着くことができるのか?」という叫びがあります。イエス・キリストご自身でさえ、生まれつきの盲人について、弟子たちが誰の罪でそうなったのかと聞いたときに、「両親の罪でも、本人の罪でもない」と言われて、判断を下さなかったのです!その代わりに、「神のわざがこの人に現われるため」と言われて、その苦しみの中に自ら関わり、慰めと癒しを与えられました。

モーセは、「隠されていることは、私たちの神、主のものである。しかし、現わされたことは、永遠に、私たちと私たちの子孫のものであり、私たちがこのみおしえのすべてのことばを行なうためである。 (申命29:29)」と言いました。(参照:「神に隠されていること」原稿音声)私たちはなぜ、「隠されていること」をこうも自分たちのものにしたがるのでしょうか?そして、「隠されていることを議論する暇があるなら、はっきりと現されていることになぜ責任をもって応答しないのか?」という叫びがあります。(参照記事:「当事者になろう」)

魂が地獄に行ったかどうかについての疑問を神に対して抱いている暇があれば、自分自身が周囲の人々について、また遠くにいる人々について、もっと関心を寄せ、泣いて涙を流して祈り、その人が確かに救われることを求めないのでしょうか?それがイエス様の心であり、判断するのではなく、神の救いの業に参与すべく仕えるのです。

もう一つは、質問に何度も答えていながら、私自身が望まないことを語らなければいけないという葛藤です。どうして、人が地獄に行くことを喜ぶでしょうか?私の祖母は、私が病院に到着した直前に死んだのです。そして目の前でその死体を見たのです。私だって、絶対にそのようには思いたくないことを、けれども、神の真理のゆえに語っているのです。

・・・私がこのような不満を神にぶつけているときに、エレミヤの悲嘆を思い出しました。彼はバビロンによるエルサレムの破滅を預言しながら、そうなることを最も嫌がって、おそらくは目が腫れぼったくなるほど泣いていたことでしょう。そして主ご自身が、パリサイ人や律法学者に「忌まわしいことよ」と責めながら、エルサレムが破壊されることを涙しておられたのです。

アーノルド・フルクテンバウム博士が最近、来日され死後の世界について講演されたようですが、このように個人的な思いを吐露されたようです。「セミナーの中で、フルクテンバウム師は珍しく自分の家族のことに言及し(ホロコーストで17名の親族が死んだ)、「もしセカンドチャンスがあるなら、私は真っ先にそれを信じたい。しかし、私は自分の願いを重視するのではなく、聖書の教えを重視する。それが、神学者としての私の使命である。…」(元記事

主は、「わたしは悪者の死を喜ぶだろうか。(エゼキエル18:23)」と言われました。私が泣いている以上に、フルクテンバウム博士が17名の霊魂の行く末について悲しんでいる以上に、主ご自身が最も、ご自分の愛する造られた者たちが、ご自分に背を向けて滅んでいくのを悲しみ、苦しみ、泣き叫んでおられるのです。

救いの妨げ

もう一つ、私をブルーにしている要因は、「人間の様々な思惑で、救いが必要な人々に届くことができない」という現実です。「無関心」がもっとも大きな要因でしょう。人々の救いが必要なところに、その人々の中に入るのではなく、留まっている姿を見ると悲しくなります。妻が一年ほど前に、ある教会で被災地への救援旅行の証をしたら、「なぜ政府はその人たちを助けないのですか?」という質問が来たそうです。そうしたら興味深いことに、その証しを聞いていた一人の姉妹が偶然に最近、別のところで会うことができ、その教会の悩みを他の同教会員と共に明かし、祈りの課題を挙げていました。「教会は大きいのだが、兄弟間の愛が冷えている。」

ちなみに私は、ロゴス・クリスチャン・フェローシップに来られている方々に囲まれていて幸せです。心が愛しているからです。そして、私が以上の神の救いについて話しても、きちんと応答して、今、生きている家族や友人に対して祈っているからです。私が語る世界宣教についての話も、自分の生活範囲外の人々であるのに、よく付いて聞いてくれています。

また、たとえ教会の奉仕、伝道活動をしていても、それが黙々と行なう機械のようになっていて、その対象である生きた人々への愛が見受けられない姿にも悲しみを覚えます。「あなたはよく忍耐して、わたしの名のために耐え忍び、疲れたことがなかった。しかし、あなたには非難すべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。(黙示2:3-4)」愛とは、九十九匹が正しくても、失われた一匹を捜し出すような、計算のないものです。「この人たちは心がかたくなだから、届こうとしてもしかたがない。」と見受けられるような姿を見ると、心が悲しくなります。

ヨナタンと道具持ちがペリシテ人の陣営にまで行き、大勝利を主が与え始めておられるとき、サウルは遠くから、祭司たちに囲まれて座っていました(1サムエル14:2,17)。主が行なわれていることに燃やされて出ていくのではなく、また、体裁が保てなくても主の御業の中でもみくちゃにされるのではなく、あくまでも「ミニストリー」や「教会」という名の中で自己保身していることはないでしょうか?


主よ、どうか神の民の中で御霊による奮い立ちが起こりますように。

二つの神の民 「教会」と「イスラエル」

お知らせです。次週、日曜日は、カルバリーチャペル西東京の山東さんご夫妻と、ロゴス・クリスチャン・フェローシップの明石二人が、交換して奉仕をします。つまり、山東さんがロゴスの教会にいらして説教の奉仕をし、明石がカルバリー西東京で説教の奉仕をします。

5月20日(日)
カルバリーチャペル西東京
 第一礼拝 午前9時
 第二礼拝 午前11時
 説教題:「先行する神の恵み - イスラエルの回復から」 エゼキエル36章

ロゴス・クリスチャン・フェローシップ
 午前礼拝のみ 11時から
 足立区こども家庭支援センター 別館三階にて
 説教題: 「教会はキリストの体」 エペソ1章23節

私は、イスラエルの建国の歴史から、イスラエル人が主に立ち返らずとも約束の地に集められたという、先行する神の恵みをお話したいと思います。山東さんは、教会が単なる人の集まりではなく、キリストの体そのものであることを話されます。どちらも神の民であり、同じテーマが貫かれていると思います。

お近くに住まいの方はぜひいらしてみてください。

「喜びの分かち合い」を妨げるもの

「その主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』(マタイ25:21)」

「私たちの主イエスが再び来られるとき、御前で私たちの望み、喜び、誇りの冠となるのはだれでしょう。あなたがたではありませんか。(1テサロニケ2:19)」

「すると、どういうことになりますか。つまり、見せかけであろうとも、真実であろうとも、あらゆるしかたで、キリストが宣べ伝えられているのであって、このことを私は喜んでいます。そうです、今からも喜ぶことでしょう。(ピリピ1:18)」

「ダビデは言った。「兄弟たちよ。主が私たちに賜わった物を、そのようにしてはならない。主が私たちを守り、私たちを襲った略奪隊を私たちの手に渡されたのだ。だれが、このことについて、あなたがたの言うことを聞くだろうか。戦いに下って行った者への分け前も、荷物のそばにとどまっていた者への分け前も同じだ。共に同じく分け合わなければならない。」(1サムエル30:23-24)」

主の御霊が働かれるところには、喜びがあります。そして、それは主の豊かな恵みによるものであり、関わっている全ての人に分かち合わざるを得ない性質のものです。良い知らせを受けて、それを自分だけに押し込めておくことは罰を受けてしまうだろうという思いが生じて、他の人々に分け与えます。だれも、あふれるばかりの主の恵みを占有することはできないのです。

私たちは海外宣教の経験から、二つの原則を見ます。一つは、「神はご自分の御霊で働かれる時、その妨げとなる既成のものを時に壊される。」ということです。もう一つは、「ぺっちゃんこになったところに、神は灰から花を咲かせるように、復活の命を吹き込まれる。」ということであります。(参照記事:「私たちはよみがえります」)ちょうど、神が、人々が地に広がる、地に満ちるようにするために、人間の力と知恵で築き上げたバベルの塔を、言葉をばらばらにすることによって無理やり散らされたように、私たちの肉の力で築きあげたものをばらばらにされることがあります。

東日本大震災において、神の御霊が働かれました。私自身東北出身の人間として話しますが、「みちのく」(道の奥)という言葉があるように、東北の人々は「こもる」傾向があります。内向きであり、外から来るものを受け付けない傾向を持っています。ですから、地元の教会も共に働くという機会は少なかったし、また開拓伝道は実に難しいところです。けれども地震と津波によって、真にキリストにあって助け合う空気が教会間に生まれ、そして地元の方々が新しく来たボランティアに対して暖かく迎える空気が出来上がりました。それは、私たちの経験した海外宣教に、より近づいたものになりました。

形や組織、儀礼というものは取っ払われ、機動性のみが重視されました。ある地元の牧師さんは、「地元の人々は、初めに来てくれた二つのグループの人々を知っています。自衛隊とクリスチャンたちです。」当事者たちが自分たちに何が起こっているかを把握することができないほど、主の働きが先行し、それに追いつくようにして、自然発生的に様々な教会が被災地に突き進んでいったのです。

そして、伝道、弟子訓練、開拓伝道というのはプログラムではありません。生身の体を持つ人間相手の働きです。人と人とのぶつかりあいによって進んでいきます。宣教において必要なのは、主が肉体を取られて人々の間に住まわれたように、その現場の中に一つになることです。そして東北という村社会が色濃いところですから、共同体というものの中にある原則を、ちょうど潜水して息を止めるように、その中でじっくりと観察していかなければいけません。プログラムを押し付けることはできず、中にいて、そこに働いておられる主に自分自身が出会うのです。そこから、外から与えられる福音ではなく、内から湧き上がる福音、キリスト者らを通して広がっていく生きた福音が必要であります。

しかし宣教において必ず起こるのが、人間的な組織化です。例えば、「この伝道対象地域は、だれの管轄か。」という縄張り意識。「この救われた魂は、どこの教会に属するのか。」という、これまた縄張り意識。既存のものがぺっちゃんこにされ、だれがどこの教会に行くのかなど、どうでもよかったものを、いや、誰かがどこかの教会につながれば、皆で一つになり、大声で喜びを分かち合うことができるものを、そのような意識に縛られて、形を壊しながら働かれた神の御霊を結果的に打ち消しています。

アメリカで実際に起こった話です。ある牧師はずっとある国に短期宣教旅行に行っていました。現地の人々とのつながりができ、御言葉を教える多くの機会が与えられていました。ところが、その教会の他の部門を担当している人が、「あなたの通っている宣教地域は、アメリカの●×教会の牧師が管轄になったから、その人に許可を得てから行かなければいけない。」その牧師は唖然としました。それで電話し、聞いてみました。その、宣教地域の管轄を任された牧師とも実は知り合いの仲でしたが、彼はこう答えました。「私に許可なんか取る必要はありませんよ。」

このことを分かち合ってくださった牧師は、「これは残念ながら、有名な宣教団体でも多かれ少なかれ起こっていることです。」と言って、他の例も挙げてくださいました。いずれにしても、私たちが人間である以上、いつでも起こりうることだということです。

そして組織を作ってしまうと、恐いのは、その組織を維持することに多くの気力を使うことが可能になってしまう、ということです。その組織を運営していくことこそが、主に仕えているのだと勘違いしてしまうことです。これはもはや、ミニストリー(=主への奉仕)ではありません。(参照:「ミニストリーの基本」(原稿 ・ 音声))

そして、その宣教の現地の話に戻ると、十年ぐらい経った今、その管轄の牧師が実際には管轄しているのではなく、地元の教会の牧師たちが共に協力し合い、自立して動いていこうという機運が生まれています。そして、そこには豊かな平安と喜びが留まっています。再び御霊は、人が形あるものを作り上げようとしているのを壊し、人々の内側から御霊が働かれ、ご自分のわざを成し遂げようとしておられるのです。

「御霊で始まったあなたがたが、いま肉によって完成されるというのですか。(ガラテヤ3:3)」

「聖霊によって始められたのですから、聖霊によって続けましょう!(「カルバリーチャペルの特徴」チャック・スミス著 第九章「聖霊によって始まった」65頁)

恵比寿バイブルスタディのお知らせ(5月9日)

みなさん、お元気ですか?ゴールデンウィークはいかがでしたか?

私たちは、四月下旬から聖書の学びの奉仕でものすごく忙しくなっていました。けれども、その一つ一つの集会は豊かに祝福され、賛美や聖書の学びだけでなく、新しい兄弟姉妹との出会いや交わりにも恵まれました。

今週の学びのお知らせです。

日時:5月9日(水)午後7時から
場所:目黒区立 田道住区センター三田分室 / 2階 第一会議室
聖書箇所:サムエル記第一21章以降
(次回の予定は、5月23日になります)

皆さんにまた会えるのを楽しみにしています。

「賛美」と「ミニストリー」

ゴールデンウィークは皆さんは、どのようにお過ごしでしたか?私たちは忙しかったけれども、とても霊的に充実していました。本ブログでもご紹介したカルバリーチャペルのワーシップカンファレンス(4月30日)と、日本カルバリーチャペル・カンファレンス(5月4-5日)に参加しました。

私も御言葉を分かち合わせていただきました。

ワーシップカンファレンス
言い尽くせぬ喜び」1ペテロ1章1-9節(音声

日本カルバリーチャペル・カンファレンス
ワークショップ「ミニストリーの基本」(音声

二つ目のカンファレンスのメッセージは、カルバリーチャペル国分寺のサイトで全て聞くことができます!

次回LCF礼拝の予定(5月6日)

来週の礼拝のお知らせをします。
(今週の土曜も、聖書の学び&祈り会はございません。)

場所:「足立区勤労福祉会館」第五洋室

11:00 午前礼拝 申命記29章29節 「神に隠されたこと」
13:30 午後礼拝 申命記29-31章

今回はちょっと礼拝賛美がすばらしくなります!楽しみにしていらしてください。