究極のプロ・ライフ(生命尊重)

今、明日の恵比寿バイブルスタディのために詩篇の学びの準備をしていますが、本当に詩篇139篇は心に深い安息と慰めを与えます。一度、10分でも20分でも、この詩篇の箇所を読んで思い巡らす時間を持たれると良いと思います。

米国の大統領選において、しばしば争点として挙げられるのが中絶の合法化問題です。日本の人は、なぜこれが政治の争点になるのか分からない、と思われるかもしれません。けれども、これは社会を構成するあらゆる分野に集約される大切なことです。

なぜ中絶をするのか?望まぬ妊娠をするからです。なぜ妊娠をするのでしょうか?大抵の場合、婚前交渉または婚外交渉をするからです。つまり、中絶の是非を問うことは、そのものに対する価値観を問うことに他なりません。性の悦びは結婚においてこそ絶頂に達するという真実に目を向けるかどうかに関わります。性病やエイズも中絶と共に、性の捉え方の歪みによって出てくる問題です。

そして中絶問題を取り扱うことは、その後に生まれた子をしっかりと育てるという責任が問われており、家族の価値観が問われています。健全な家族こそが、健全な社会を形成し、そして国そのものの基盤となっています。

そして中絶問題を取り扱うことは、生命そのものの価値観を問うことです。人の選択によって人の命を取ることが、果たして許されることなのかどうか。障害者、老齢者、その他の弱者がなぜその生命が尊ばれなければいけなのか?動物の命と人間の命にはどんな違いがあるのか。中絶問題を取り組むことによって、真剣に生命そのものの価値観に気づくことができます。

前置きが長くなりましたが、詩篇139篇には次の言葉があります。

それはあなたが私の内臓を造り、母の胎のうちで私を組み立てられたからです。私は感謝します。あなたは私に、奇しいことをなさって恐ろしいほどです。私のたましいは、それをよく知っています。私がひそかに造られ、地の深い所で仕組まれたとき、私の骨組みはあなたに隠れてはいませんでした。あなたの目は胎児の私を見られ、あなたの書物にすべてが、書きしるされました。私のために作られた日々が、しかも、その一日もないうちに。(13-16節)」

この御言葉に、神が私たちをどれほど気にかけてくださっているのか、実に胎児の時にすべての思いを前もって定めておられるという究極の生命尊重を見ることができます。下のビデオをご覧ください。私はこれを見て、いかに現代社会が性を商品化しているのか、その愚かさと魔術性を痛感しました(黙示録18:13;23参照、13節の「奴隷」は肉体のこと)。そして夫婦間の性行為がいかに高尚で、神聖な営みなのかを実感しました。

生命の価値観についてもっとお知りになりたい方は次のサイトをおすすめします。「小さないのちを守る会

恵比寿バイブルスタディ 11月30日

おはようございます。寒くなっていますね。

恵比寿バイブルスタディのお知らせを致します。

日時:11月30日(水)19:00~
場所:目黒区立 田道住区センター三田分室 / 2階 第一会議室
聖書箇所:詩篇138篇以降
※ 食事は学びの前と後で持参ですることもできます。

次回は、12月7日を予定しています。そして次々回の21日は今年最後の学び会となりますので、学びの後、みんなでどこかに食べに行こうかなと考えています。

プロテスタントとカトリックはどう違うの?

再び、未信者・求道者向けの記事を「イエス様を知らない方へ」に掲載しました。

プロテスタントとカトリックはどう違うの?

そこにも書きましたが、普通に教会に通っている人でさえちゃんと答えられないのに、信仰を持っていない人たちのほうがかえって質問します。私もどう書けばよいか苦しみました。

あと、更新情報は、ここのブログだけでなく「更新履歴」には記していますので、頻繁にご利用されていることはそちらにも立ち寄ってください。

(注記)
以下は、クリスチャン向けに書かれたミサについての聖書的検証の記事です。

カトリックの教え 「ミサ」

カトリックの教義は、あくまでも秘跡と呼ばれる儀式を通した救いを教えているので、聖書にあるキリストにある救いの完全性を壊しています。私たちも罪意識を感じる時に「罪を赦していただくために礼拝に行く」と考えてしまいますが、間違えやすい点です。レビ記16章の説教もぜひご参照ください(原稿音声)。

また、プロテスタントとカトリックを一致させようとする運動(エキュメニカル)というものがありますが、それに警鐘を鳴らしている本があります。

プロテスタントとカトリックの団結ですか?

上の記事を書かれたモリエル・ミニストリー日本の森さんは、伝道をするならば真理を知らなければそこに力がない、ということをおっしゃっていました。そのとおりで、力は福音の真理の中に有ります。愛をもって真理を語ることが私たちの使命です。

最近流行りの「新しい福音」 その2

その1からの続き)

なぜ、そんなに人気なのでしょうか?

 キリスト教の良い知らせをこのように伝えるのは、非常にいかしています。人気を博しているのは、いくつかの理由があります。

1.部分的に本当だからです。御国は到来しました。クリスチャンは愚かなことをしえます。新しい福音の諸部分は、正当であることが多いです。

2.架空の議論の相手を作っています。その悪人は、終末を煽る路傍伝道者、十字軍、福音派の救いの見方を風刺したものです。

3.新しい福音は、間違った事を、はっきりそれらの間違った事を言わずして信じさせていきます。すなわち、新しい福音を信奉するクリスチャンは、批判を受けずに済みます。なぜなら、信じることは重要ではない、地獄はない、イエスだけが唯一の道ではない、神の怒りはない、悔い改めは必要ない、とは実際には言わないからです。これらの歪曲ははっきりとは述べられませんが、新しい福音は、未信者が、その構成から当然なのですが、そういった結論を出すように伝えられるのです。つまり、新しい福音は、クリスチャンではない人が、自分の好きなように行くことができる余地を与え、けれども、他のクリスチャンからの批判を避ける抜け道を備えています。新しい福音の説教者は、挑戦を受けた時はいつも、「それらのことを私が信じていないとは、言ったことがありません。」と言うことができます。

4.新しい福音は取り扱いやすいです。人々をそのままの姿に届き、そのままの姿に置いたままにします。愛しなさい、自分の隣人を愛しなさい、という呼びかけができます。人を裁く態度、不寛容、宗教臭さを何一つ想起させない方法で訴えることができるのです。これは当然、人気を博するでしょう。自分の聞きたいことを教え、自分のできる事柄を与えるからです。

5.新しい福音は新しい息吹を感じます。それゆえ、特に若い人々にこのメッセージは魅力的です。彼らは感動、興奮し、この大きな使命の一員になったという目的を得ます。そこには、キリスト教の歴史、教理、堅苦しいものを抱えることなく、参加することができます。愛の革命に、誰が加わりたくないでしょうか?

6.新しい福音は、つまずきを与えません。だからこのメッセージは魅力的なのです。悪い者たちは、自分たちの仲間の「外」にいます。これは、私たちは誰でも問題になることです。福音を抑えて言う傾向を持っています。魅力的なところだけを伝え、キリストは慰めるだけでなく、対決されることもあることを話しません。他人の罪を問い質す以上の対決が必要です。他の悪いクリスチャンと自分を区別するために、新しい福音を用いるのは非常に簡単です。それによって、あなたは良く見られるし、クリスチャンではない人が信仰を持つことができないのは、他者の偽善や失敗が妨げになっているからだ、ということを念押しすることができます。悔い改めや裁きについての話はありません。イエスはご自分を神としたという法外な主張によって殺されたのであり(マタイ26:63-66;27:39-43)、包含する愛のゆえであるとほのめかしている部分は一つもありません。新しい福音は、救いのことを、宇宙論的なものだけに厳密に絞って語っています。実際は、地獄というものが仮にあったとしたら、それはほとんどの人にとっては大した問題にはならないだろう、と想像する余地を大きく残しています。

何がそんなに間違っているのでしょうか?

 新しい福音に欠けたものを見るのは難しいことではありません。欠けているのは古くからある福音です。使徒たちによって宣べ伝えられた福音、コリント第一15章で定義されているもの、後に使徒信条で要約されたものです。

「けれども、あなたが新しい福音と呼んでいるのは、古い福音に取って替わるものではないですよ。それらのものはみな信じています。」

 分かりました。でもなぜ、言わないのですか?自分の友人に私的に話すだけでなく、どこかの信仰表明に載せているだけではなく、公の場で言わないのでしょうか?意地悪になれ、と言っているのではありません。でも、もっと明らかにすべきです。組織神学の全てのお荷物を紐解く必要はありませんが、地獄は大した問題ではないというのが、いかにイエスらしくないのか(マタイ10:26-33)という印象は残すべきです。そして、信仰と悔い改めの必要を語らないとき、非常に非使徒的になっているのです(使徒2:38;16:31)。

「けれども、今は橋渡しをしているだけです。まず文化に合わせて、理解できる言葉で語り、最も合点の行く福音の部分を伝えているのです。信頼と注意を勝ち得ることができたら、その後で弟子作りをして、罪、悔い改め、信仰、また他のことを教えます。これは単に、福音伝道の前座です。」

 その通りです、私たちは終わりに話さなければいけないことを、初めの会話で持ち出す必要はありません。けれども、新しい福音は伝道のきっかけを本当に作っているのでしょうか、それとも、クリスチャンではない人たちに単に誤った安心感を与えているだけではないでしょうか?さらに会話を続けるための戸を開いておくことと、クリスチャンではない人が既に行っていることと同じように聞こえるように、キリスト教を心地よくさせてしまうのとは話が違います。新しい福音についての最も良いものの形態を取って、水面下では、古い福音を締め出しているのが現実なのです。

 パウロの、アテネにいるクリスチャンではない人々への接し方から、私たちは多くを学びます(使徒17:16-34)。まず、その町が偶像でいっぱいなのを見て、憤りを感じました(16節)。彼の福音説教は、他のクリスチャンに落胆して導かれたのではなく、不信仰に対して怒りが燃え上がったのです。次に彼は語る許可を得ました(19-20節)。彼は厳しく非難することはしませんでした。進んで聞きたいと思う人々に語りました。けれども、どうやったか見てください。彼は文化の文脈の中で語りましたが(22-23,28節)、そこから彼は、アテネの人々の神理解と実際の神の姿とを対比しています(24-29節)。彼のメッセージは、生活のありようについてではなく、まことの神を正しく拝むことについてでした。その後で彼は、悔い改めを説き(30節)、裁きを警告し(31節)、イエスの復活を話しています(31節)。

 その結果、あざ笑う人たちがいました(32節)。新しい福音をあざ笑う人がどこにいるでしょうか?そこには好ましくないもの、というのがありません。野暮なクリスチャンについて、愛する神について、世界を変えることについて、そしておそらくほとんどの人は地獄に行かないであろうということについて、こうしたメッセージにはつまずくものがありません。このメッセージには、あざ笑う要素がないのですが、アレオパゴスにおけるパウロの説教にはあったのです。そして留意していただきたいのは、アテネにおけるこの教えは、キリスト者の語るべき言葉全ての導入部にしかすぎなかったのです。これは単に始まりにしか過ぎず、何人かはもっと彼から聞きたいと願いました(32節)。パウロは初めの一声で、クリスチャンによれば決して言う勇気のないことまでを言いました。アテネでパウロが言ったことのすべてを一度に言えないかもしれませんが、「福音伝道の前座」において、悔い改め、裁き、信仰の必要、正しく信じる重要性、十字架と復活の中心性、罪の奥深さ、人の堕落など ― これらが私たちの実際の伝道だと一部の人たちが言っているものが ― 意地悪い、人を傷つけるキリスト教の、時代遅れの遺物なのだ、という印象を与えては決していけないのです。

最後の訴え

 どうかお願いです、もしあなたが新しい福音というような類に魅力を感じているのであれば、他の仲間のクリスチャンをいつもスケープゴートに仕立て上げるのがはたして公平であるかどうかを考えてください。もしイエスのように宣べ伝えるのであれば、イエスは、生活の有りようについてではなく、悔い改めの信仰を呼びかけられたこと(マルコ1:15)を考えてください。そして、クリスチャンではない人々に優しく語る忍耐や謙遜にかけているかどうか考えるにあたって、あなたの神が一方に偏った姿の漫画のような神になっていないか考えてみてください。つまり、罪を問題視しない神(ここでの罪は、単に隣人愛がないという以上のものです)、怒りを下されない神(時々、裁く者に対して裁きを行われる以外は)になっていないか、考えてみてください。十字架と、世の罪を取り除くためそこにつけられた神の小羊に、相応の注意を寄せてください。あなたのクリスチャンのメッセージが、使徒の働きにおける使徒たちが世の人たちに接した時に語ったことと同じように聞こえているか考えてください。

 これは軽視できる問題ではありません。強調点が異なる、という問題ではないのです。新しい福音では教会を維持できません。心を変えることができないのです。救いを与えることはできません。したがって、私たち福音派の学校、大学、会議、出版社、教会が、古い福音と新しい福音を見分けることができるようにしておくのは、非常に重要です。

最近流行りの「新しい福音」 その1

アメリカの教会情報として、いろいろなものが日頃から入ってきますが、良くないものは日本に大きな影響を与えていないのであれば、あえてご紹介することはありません。けれども昨日、フェイスブックである友人の牧師が「とても良い。日本語訳もほしい。」と書いてあったので、ざっとですが訳してみました。

背景は、ロブ・ベル(Rob Bell)という若手牧師が書いた”Love Wins(愛は勝つ)”という本に代表される、大論争になっている最近の宣教・伝道方法があると思われます。この動きについて日本語で紹介しているブログ記事があったので、背景をさらに知りたい方はそちらで読んでください。また、カルバリー・コスタメサの副牧のブライアン・ブローダソンさんも、ご自身のブログで本書の検証をしています。

このような動きがある度に私はがっかりしてしまうし、日本という宣教地にいて良かったと思うのですが、米国というのは良くも悪くも情報や考えの発信地です。韓国キリスト教会が悪いものも米国からそのまま受容し、他の国々にそれを輸出している姿も目撃しました。けれども、下の記事を読むにつけ、アメリカのそのような動きがなくても、私たちが福音を伝える時にありがちな過ちを上手に指摘していると思います。

ではご紹介します。(筆者に翻訳・掲載許可済)

The Gospel Old and New – Kevin DeYoung (Senior Pastor at University Reformed Church in East Lansing, Michigan)

古びた福音と新しい福音  ケビン・デヨング

 新しい福音というのを聞いたことがありますか?成分化されているわけでもないし、誰かのものでもないし、どこかの運動のものでもありません。けれども、確実に増えてきて、行き渡っています。

 新しい福音は、大抵、四つの部分によって成り立っています。

 この福音は、普通、謝罪から始まります。「同じクリスチャンがしてしまったことを赦してください。キリスト教をなぜ憎んでいるかよく分かります。ガンジーが言ったとおりで、「クリスチャンはなぜ、もっとキリストらしくないのか。」というものです。十字軍、奴隷制度、魔女裁判など、私たちは大失敗をしてしまいました。ただ言えるのは、「申し訳ない」ということです。信じるに値する理由を、私たちは提供してきませんでした。」

 それから、愛の神に訴えかけます。「看板や拡声器で、『悔い改めなさい、さもないと死にます。』と説教しているのをご覧になったと思いますが。けれども、神は愛であることを伝えたい。イエスを見てください。この方は遊女や取税人と付き合っておられました。無条件に愛しておられたのです。この世界はめちゃくちゃになっていますが、聖書にある良い知らせは、神はそのめちゃくちゃになったところの只中に来られて、生きておられたことです。この方はめちゃくちゃな神で、その使命は愛でした。『神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。(ヨハネ3:17)』とイエスは言われたのです。この方は全ての人を愛しておられました。あなたがどんな人であろうと、あなたが何を行ったにしても。この愛のゆえに、彼は殺されてしまったのです。」

 三つ目の部分は、この世における神の使命に加わるように招くことです。「クリスチャンが、この神を世界に見せてこなかったというのは恥ずかしいことです。これこそが私たちの召命です。神の国は、この地上で立てられているのです。この地上において、です!死後の、遠くにあるような天においてではなく、まさにここに、たった今、進行しています。私たちが失態を犯したとしても、私たちは神の愛を示し、この国をもたらすための神の代理人なのです。宗教的用語で人々を恐れさせたり、宗教の型に押し込む方法で行うのではありません。愛によって行うのです。それがイエスの方法です。それが、イエスに従うことです。私たちは隣人を愛して、平和と正義のために働きます。問題の多いこの地球にとって、私たちがその良い知らせになることを神は望んでおられます。」

 そして最後に、作為ある曖昧さをもって永遠を語ります。「誤解しないください。私は今でも死後の命を信じています。けれども、私たちの焦点は、たった今、どのような人生を送ることができるかに当てるべきです。死んだ後に地獄に行く人はいるでしょうか?その問いに私はどう答えればよいでしょうか。天国に入るのに、神は、正しい祈りや正しい信仰表明を要求されているのでしょうか。私には分かりませんが、けれども、この疑問に対しては神にお任せできると思います。私の務めは、人々を裁くことではなく、祝福することです。最後には、神の驚くべき恵みが私たちをすべて驚かすことでしょう。これこそ私が望んでいる、確かなことです。

その2に続く)

「今は救いです」

よく訪れているMGFの牧仕カズさんのブログに、すばらしい本の紹介と引用がありました。


「今は救いです」 沢村五郎著 いのちのことば社

第一回目の記事にある本書の紹介を引用します。

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 タイトルの『キリスト教案内』は、私の敬愛する沢村五郎牧師の名著の書名である。本書は1930(昭和5)年に出版されて以来、通算70刷以上を重ね、さらに1975年に書名を『救いは今です』に改訂新版して以来、今年で9版となるベストセラーである。伝道説教本として現代にも十分通用するツールとして多くのクリスチャンに活用してもらいたい。

 ちなみに、1930年と言ったら、内村鑑三(1861年生まれ)が召天した年であり、谷口雅春が”宗教のデパート”と呼ばれる「生長の家」を開教した年でもあり、銀座三越開店した年でもあり、米国・マサチューセッツ州で、世界初の冷凍食品が販売された年でもあり、米国3M社がスコッチテープ(セロハンテープ)発売開始した年でもあり、米国で、世界初のスチュワーデスが就任した年でもあり、 第1回FIFAワールドカップが開催された年でもある。そんな時代に本書は産声を上げた。

 沢村五郎(1887~1977年)は熊本県出身。牧師、神学教育者、関西聖書神学校創設者。在任50年間に660名余、韓国20数名の教職者を養成する。1922(大正11)年渡英してエディンバラ聖書学校に学んでいる。その8年後に本書は書かれた。

 本日より、沢村牧師の名著『キリスト教案内』(『救いは今です』)を毎日1章ずつ本ブログに引用することにする。とにかく、キリスト教について知りたい方におすすめしたい。日本人が日本人のたましいの救いのために書き下ろした本書は貴重本である。
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早速、「イエス様を知らない方へ」の中にも一連記事の紹介を加えました。ここまで平易に、そして日本人の魂に沁みこむように語られた福音の言葉はないかもしれません。ぜひ一読をおすすめします。

キリスト教ガイド・シリーズ全15
(一番下の記事「キリスト教ガイド(案内)」から一つずつ上に順番にお読みください。)

「バチカンの聖と俗」 その2

その1からの続き)

そして著者は、文明論的に日本人がプロスタントよりもカトリックのほうが馴染むのではないかという理由として、次のように述べています。

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 純化思想であり、「型」の文化(注:「中間項」にある形あるもの)」に欠けるプロテスタンティズムは、「個人の内面に神の声を聴く」というような主観的解釈を生み出し ― つまり、個人に下駄を預ける度合いが強い ― 極端な解釈に突っ走る危険性を内包しています。もう少し砕けた言い方をすれば、「プロテスタントは、何を言い出すか分からないところがある。」ということです。この点は、プロテスタントの影響が色濃く残る米国社会を眺めれば容易に気づいてもらえる点だと思います。また、プロテスタントの流れを汲みつつ、西欧北部を中心に強まりつつある「新しい信仰(注:「科学信仰」「表現の自由信仰」「人権信仰」「環境信仰」などの「脱キリスト教文明」のこと。)」にも同様の体質 ― 独善的になりがち ― があります。
(太字は著者 116頁)
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捕鯨に強行に反対するシー・シェバードの例も著者は出しています。日本の人たちは、クリスチャンも含めて、米国にあるキリスト教原理主義の政治への介入を問題視していますが、それは欧米社会の一面だけの見方です。その背後には、極端にキリスト教価値観に反対して、反キリスト的になっている動きが政治の中にも浸透しているという現状があります。実は、そうしたリベラルな人たちも、著者のいう「一神教的プロテスタンティズムの原理主義」から脱却できていないのです。

本書を読んで、自分自身や周辺の目を向けてみました。私たちは確かにカトリックの作り出した「中間項」を持ってはいけません。自分自身が、聖霊の力によってキリストご自身に出会い、聖書ににらめっこしていく過程が大前提です。そうでなければ、まさに偶像崇拝の罪を犯しており、黙示録が警告するバビロン化を免れません。神はご自分の「言葉」によって世界を造られたのであり、そして「言葉」によって私たちと親密な語らいを持ってくださいます。ちょうど仲の良い男女が、その容姿以上に、よく語り合って互いの人格を知るように、です。

けれども、使徒ヨハネは、「目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません。 (1ヨハネ4:20)」と言いました。またヤコブは、「さらに、こう言う人もあるでしょう。『あなたは信仰を持っているが、私は行ないを持っています。行ないのないあなたの信仰を、私に見せてください。私は、行ないによって、私の信仰をあなたに見せてあげます。』(2:18)」と言っています。見なければ、分からないのです。言葉だけでは分からないのです。真実に、行いをもって兄弟を愛し合っていることが、また貧しい人に施しをすることなどの慈善、また実際的な純潔が(ヤコブ1:27)、聖書の定義する「中間項」なのです。私たちにありがちなのが、「私を見ないで、イエスを見てください」という態度ですが、ペテロとヨハネは、「私たちを見なさい(使徒3:4)」と堂々と言えました。

個人の内面のみを強調するあまり、極端な解釈に突っ走る傾向が、特に他のクリスチャンと交わることを好まない人々に顕著に現れます。また、単に文化的な活動を教会に取り入れただけで、「それは異教的だ」と断じる人たちもいます。

私は以前、ハワイのクリスチャンたちによる「フラダンス」に反対する人に対して、聖書的に許容されることを弁護しなければいけませんでした。けれどもカルバリー所沢や、カルバリー府中などの、ハワイ出身の宣教師の良いところは、祭りをしたり、ご飯をたくさん教会で用意したり、いっしょにただ時間を過ごして遊びにいくなど、ごく自然にクリスチャンが交わる場を提供できており、それらによって、神の愛を肉眼の目で見ることができる中間項を設けていることです。

あと一ヶ月もすればクリスマスですが、その時に、今、何をしようかなと考えています。神が肉体を取って現れてくださったことを感謝するために、聖霊様が、礼拝後の愛餐等の交わりにおいてもご臨在してくださることを期待しています。

「バチカンの聖と俗」 その1


バチカンが「新世界経済秩序」を提唱 その1」と「その2」で、バチカンを中心とするカトリックについてお話ししましたが、そこで言及した次の本を、一気に読み終えました。

「バチカンの聖と俗 日本大使の一四〇〇日」 上野景文著

とても参考になる本でした。前知識のない人々にも十分に理解できるように何度もかみくだいて説明し、まるで一般人に公開された大学の講義のように語りかけている文体になっています。

本題に私はとても魅かれました。バチカンは「聖」つまり宗教的側面があるだけでなく、「俗」つまり世俗性を最大限駆使している、という点です。バチカンは、大国を含む世界の国々が謁見訪問するほどの外交力を持っており、各国もその力を活用していることです。宗教改革者たちは、カトリックを黙示録17章の「大淫婦バビロン」としましたが、そこにはこう書いてあります。

地の王たちは、この女と不品行を行ない、地に住む人々も、この女の不品行のぶどう酒に酔ったのです。」それから、御使いは、御霊に感じた私を荒野に連れて行った。すると私は、ひとりの女が緋色の獣に乗っているのを見た。その獣は神をけがす名で満ちており、七つの頭と十本の角を持っていた。(17:2-3)」

イエス様が、「わたしの国はこの世のものではない」と言われたにも関わらず、その発祥から世俗国家に対して権力を行使する教会体を築き上げたその重厚な、目に見えない力は物凄いものがあります。そしてバチカンは、国連を好んで言及するようです。国家を超越する世界的機関による管理を好みますが、この女が乗っている獣はまさに世界統一された国家であり、その総統である反キリストであります。

そして「聖」に関してですが、著者は文明論から、バチカンが日本にとって良い外交相手になることを、「一神教」を唱えながら「多神教」も取り入れている現実主義を採用していると言って、プロテスタントと比較しています。長文ですが、引用してみます。

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<その3> 「中間項」の維持 ― 工夫・妥協の名手
 考えてみれば、カトリック教会は、二千年を「生き延びる」過程で、あるいは「世界性」を達成・維持する過程で、多くの「工夫」をしてきました。たとえば、中世初期ケルト族への布教の実をあげるべく、地母神信仰を取り込んで聖母信仰としたこと、各地で民衆の尊敬を集めた人を「聖人」や「福者」として顕彰し、民衆の心を引き留めたことなど、カトリック教会の示している柔軟性、工夫の事例と言えます。

 そもそも、創造主(神)だけではあまり抽象的であるということで、神と人間の間にキリストという「中間項(パラメーター)」を設けることで生まれたのがキリスト教です(イスラムはそのようなパラメーターを設けていない)。その後、それだけではまだ足りないということで、聖母、聖人・福者、聖遺物、法王、教会など様々な「中間項」を追加しました。その結果、「分かりやすさ」「親しみやすさ」は格段に増しました。それに対し、個人はキリスト・聖書と直接向き合うべきで、「中間項」の如き「不純物」は不要だとして、聖母信仰、聖人・福者尊崇などを排除し、ローマの法王庁に反逆したのがプロテスタントでした。まさに、イデオロギーの純粋性にこだわる「純化思想」であり、「原理主義」です。カトリック教会はイデオロギーの純粋性より、民衆にとっての分かりやすさ(現実性)を優先させており、プロテスタントとの対比で言えば、「清濁併せ呑む巨人」との形容が可能でしょう。
(太字は著者。41-42頁)
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クリスチャンであれば、「プロテスタントとカトリックの違いは何ですか。」という質問を受けていると思いますが、私もしばしば受けます。礼拝前に教会案内のチラシを配っている時「キリスト教も教派がいろいろあるからな。」という言葉が耳に入りました。近いうちに、初心者向けの「プロテスタントとカトリックの違い」の記事を書いてみたいと思います。

上の文章でお分かりのように、カトリックの過ちは「歪曲した教えを唱えている」ことではありません。そうではなく、「純粋な神への信仰と福音にたくさん付け足している」のが問題です。私は、以前、長崎のキリシタン名所とカトリック教会を訪問する旅行に行きましたが、なぜ戦国時代、日本に至る所にキリシタンがいたのか容易に想像できました。土着化に非常に長けているのです。

その2に続く)

キリスト教は一神教だから排他的?

未信者や求道者向けページ「イエス様を知らない方へ」に、キリスト教Q&Aシリーズとして新たに記事を追加しました。

キリスト教は一神教だから排他的?

一般的なキリスト教の説明とは、少し異なる視点で書いてみました。普通は、「真理というのは排他的である」「宗教はそれぞれ排他的であり、一つにすることはできない」という回答なのですが、日本人は「人との関係」を大事にするので、その価値観から説明を試みました。

東松島とイスラエル

私たちロゴス・ミニストリー、また母体のカルバリーチャペルは、神がイスラエルという国に対して確かな計画を持っておられることを堅く信じています。その信仰は、私たちに特異なものではなく、主の弟子たちが抱いていた希望であり、主ご自身が予め語られたことです。

そして、実は48年にイスラエルが建国される前に、神が預言として与えられたという理由だけで、イスラエルの回復を祈り求めた人たちが少なからずいました。当時は、ブリタニカ百科事典でさえあまりにも非現実めいたこととして書き記しているほどで、狂信扱いされていたのです。けれども、この日本において、しかも霊的復興が進展している中でその祈りが捧げられたのは、ホーリネス教会の創始者、中田重治師によるものでした。

この聖書の字句をそのまま信じていく姿勢と、聖霊の力による宣教は、当時、天皇主義を強力に推進した国家弾圧の対象になりました。当時の特高(注:今の「公安」と同じ)の捜査は極めて優れており、ホーリネスの教会指導者らは、逮捕され、取調べを受けてもなぜ捕えられたのかよく分からなかった程でした。しかし、彼らの信仰体系、すなわちキリストが地上の王として君臨されること、そしてユダヤ人の救いと回復というのがまさに訴状だったのです。過去に三つの記事でこのことをまとめています。

何を予期すべきか 1
何を予期すべきか 2
靖国神社について その3

それを冷ややかに見ていたのは、当時の数多くのキリスト教会でした。彼らは、そうした信仰を敵国の米国から輸入されたものであり、過激、極端であるとして距離を置いたのです。けれどもそれは、自らの聖書信仰をなし崩しにするものでした。教会指導者は、法廷において「キリストの再臨というのは、心の中でキリストが王となることであり、霊的なものだ。」「キリストが既に紀元70年のエルサレム破壊で再臨したのだ。」と言って、使徒信条にももとる言い逃れをしたのです。(参照記事 )

話を戻しますと、中田重治師の説いた大衆伝道、その原動力となった切迫的再臨信仰と、聖霊体験は、一部に行き過ぎがあったものの、それらの教訓も含めて私たちには大いに学ぶべき所があります。(参照論文:「第35回 日本の教会」「ホーリネス・リバイバルとは何だったのか」)このような素晴しい遺産を、私たちは米国の霊的復興や神学の中のみならず日本国内で実に見出すことができ、慰めを得ることができます。

そして最近まで知らなかったのですが、中田師は巡回伝道を精力的に行っていた中で、再臨運動等の時期には松島にも立ち寄っています。(参照記事:ウィキペディア「中田重治」)そして、何と1932年には、奥松島の野蒜海岸にて、イスラエルの回復を祈ることを公に奨励していたとのことです。

四月から始まった東北救援旅行において、神は主に私たちのチームを東松島に導いてくださいました。第一回目は鳴瀬地区にある牛網に、そして二回目からは、仙台人が東京人にとっての湘南海岸のように、行楽地として親しんでいる、奥松島(野蒜&宮戸島)の月浜地区に導かれました。

そして、東日本大震災の3月11日の前日までの数日、私たちは沖縄のカルバリーを初訪問したのですが、その間、チャックさんと由美さんのお宅に泊まらせていただいたのですが、お二人が神様に呼ばれて、東松島に教会開拓の幻が与えられ、十月末に仙台に引っ越されました。

東松島市には、唯一、「宮城聖書教会」という教会があります。その教団はホーリネスの群れの一つである「基督聖協団」です。

その牧師、田中時雄さんのお誘いで、チャックさんと由美さんが11月20日に行われた野蒜海岸における祈り会に参加されたようです。イスラエルにいるユダヤ人教会指導者や宣教師の方々がいらっしゃいました。

Prayer Time on Nobiru Beach with Asia Messianic Forum 2011 (アジア・メシアニック・フォーラム2011 野蒜海岸で祈りの時を持ちました)

私は、東北地域にリバイバルが来ると予告はしませんが、これが主ご自身の情熱であることは強く信じています。なぜ津波の苦しみを負われているのか?その報いは何なのか?実に、神の惜しみない豊かな愛の注ぎと、キリストによる救いそのものが、罹災者の方々が受けておられる苦しみに対する報いであると信じています。イエス様は、九十九匹の羊を置いて、失われた一匹を捜されました。東北の被災地はその圧倒的な愛を受けるに実にふさわしいと思います。