新年礼拝のお知らせ

新年礼拝を、以下の日時で行います。

1月1日(日)午後2時より
場所:足立区の明石宅(詳しい住所は、info@ logos-ministries.orgへ)

礼拝後、交わりと軽食、そしてカルバリーチャペル・コスタメサの大晦日礼拝をインターネットで鑑賞しようかと思っています。

感謝。

クリスマスの報告

昨日は、とってもすばらしいクリスマスの一時を過ごすことができました。土曜日にはいつもの聖書の学び会をして、それから祈り会をして、7月に信仰をもった唯さんが初めて祈ったりと、とっても祝福された時を過ごしました。

25日当日は、2時から礼拝、5時からディナーとパーティーを行ないました。礼拝前に、私たちが約10年前、小学校の子供たちに英語と聖書を教えていた、その教え子が来てくれました。なんと今はもう大学一年生です!あと、来られなかったけれども、メールで連絡をくれた子(今、高校二年生!)もいて、本当に嬉しくなりました。

礼拝は、私は伝統的な讃美歌と、クリスマスに関する聖書の箇所の朗読を交互に行う形を取りました。それからルカ2章1-20節から説教しましたが、私自身、「謙りの中に、王をも打ち倒す神の力があるのだ」という確信を深めることができました。

9月から直人さんという兄弟が教会の一員になりましたが、彼の知り合いの知り合いが何と足立区綾瀬に住んでいて、その女の子が来てくれました。香港からの語学留学生です。ディナーの時まで楽しく過ごすことができました。

そして、メンバーの一人ひとりがしっかりとディナーの為の準備をしてくださり、本当に主への感謝に満たされています。ディナーの後には、ビンゴゲーム&プレゼント交換、そして聖書クイズ&罰ゲームの「変顔」、最後に習字をチームで一角ずつ書くという習字ゲームをしました。聖書クイズは、メンバーが最低一問出題したのですが、なんとオタク的な質問なのか、と私が言ったら、「だって、あなたが聖書オタクだから、そうなったんじゃない。」という私の妻の発言で、みなが大笑いしていました。

罰ゲーム「変顔」は、メンバーの沙耶花さんの発案で、指示されたとおりの状況を顔や体で表し、それからいっしょに写真を撮る、というものです。そしてメンバーが変装用の道具も買ってきたので、変装した私たちの写真も撮りました!(私のデジタルカメラが故障していて、白飛びになっているのが残念です。)

ところで話はずれるのですが、今、牧者チャック・スミス著の”LOVE“という本を翻訳、校正しています。いつか出版できるよう、今、熱心に祈っていますが、その中に御霊の愛の現れとしての「親切」の説明で、こうあります。

アガペの愛は親切です。配慮があります。他の人の必要を感じとります。そしてその必要を満たそうと本当に配慮します。

LCFは、祈りによって、互いに配慮して、互いの必要に敏感になって、仕え合っている姿、そしてもう一つの聖霊の愛の現れである「喜び」もある交わりです。

本日、女性会(?)の三人が木村さん宅に訪問、お母さんが着付けの専門家なので、ばっちり写真を撮ってきました。とっても綺麗です!

LCFクリスマス礼拝・ディナーの案内

間もなく、クリスマスですね。ロゴス・クリスチャン・フェローシップでは、次の予定でクリスマスの時を守りたいと思っています。

12月25日(日)
足立区こども家庭支援センター 別館三階にて
14:00- 礼拝
17:00- ディナー&ゲーム・プレゼント交換

持ち物:プレゼント交換用のプレゼント(500-1000円のものを一つ)

初めての方もぜひおいでください!

【クリスマス物語の豆知識】

日本ではクリスマスと言うと、「クリスマスツリー」と「サンタクロース」のことが想起されますが、これはキリスト降誕を思いながら、キリストを礼拝する日のことです。欧米ではこの知識は定着し、次のような聖誕の様子が家や街角で飾られます。

「小屋」にイエス様、そして両親がいますね。それはルカによる福音書2章7節に「飼葉おけに寝かせた」とあるからです。飼葉桶ということは家畜小屋にいたのだろう、という考えですが、実は当時の庶民の家は洞窟でした。(イスラエルは岩や石の多いところであり、私たちが考えるような木製の建物はありません。)そして家の中の奥に家畜が飼われていました。したがって「小屋」ではなかった、と言えます。私が2010年に行ったイスラエル旅行で、ベツレヘムで撮った当時の一般的な家の写真が下です。

有神的進化論について その3 - 創世記1章と2章の矛盾?

その2の続き)

そして、「(創世記1章と2章の内容を簡単に紹介した後)・・もし文字通りであるなら、なぜ完全に一致しない二通りの話があるのか。」という発言があるそうです。この発言には、私には良い思い出があります。

私が以前、故郷で通っていた教会は純粋な福音主義ではなく、自由主義神学をやや取り入れている所でした。そこで若い奉仕者が、信仰歴も浅い大学生の私に対して、(私が福音主義と自由主義の違いを尋ねたんだと思います)、創世記1章と2章の記述の矛盾についてでした。

これは天と地が創造されたときの経緯である。神である主が地と天を造られたとき、地には、まだ一本の野の潅木もなく、まだ一本の野の草も芽を出していなかった。それは、神である主が地上に雨を降らせず、土地を耕す人もいなかったからである。ただ、霧が地から立ち上り、土地の全面を潤していた。その後、神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで、人は、生きものとなった。(創世記2:4-7)

これが、1章の記述と異なるではないか、ということでした。私には、その疑問そのものが理解できませんでした。新しく信じた私にとっては、「だって、1章で天地創造全体の話をして、2章で人間の創造に焦点を合わせて話しているんじゃないの?」という逆質問でした。なぜ1章の次に2章が起こった、と、あたかも1章27節の男女と2章のアダムとエバが別人物のように考える必要があるのか?という疑問でした。

私たちが話を進めるときに、一通り全体の話を順番に説明して、それから少し戻ってある部分を詳しく話すってことはないでしょうか?実はこの書き方が聖書には数限りなく続きます。黙示録は時間を進めては少し戻り、詳しく話し、また全体を話してさらに前進し、また少し戻る、という方法で話しています。

また、ちなみに、私たちがいろいろなことを話した後で、再びそれを話す時に、一番最初に話した内容から始めるのではなく、記憶に新しいすぐ手前で話したところから戻って、そして逆方向に思い出しながら初めに戻って話していくことはないでしょうか?ちなみに、これも聖書の中でたくさん出てくるものであり、実に聖書全体が「初め」と「終わり」が一つの話になっています。そして真ん中に「イエス・キリストの福音」があり、救いと回復の分岐点となっています。黙示録22章と創世記1章を比べてみてください、酷似しています。ここで初めてようやく神が語られたい初めの内容に戻られた、という感じです。

このように、聖書は一貫性のある、生き生きとした書物であり、博士論文や会計報告のような見取り図ではなく、話を聞かせているようなかたちで心に残るような形式になっています。もっと詳しくお知りになりたい方は、さきに引用した「ゲノムと聖書批判」のブログ記事の続きをご覧ください。

創世記1章と2章の矛盾?

創世記1章と2章の構造

有神的進化論について その2 - 「ゲノムと聖書」批判

その1の続き)

ここでの講演者が、日本語にも訳された「ゲノムと聖書」”Language of God”という本の著者ということですが、この書物の率直な感想、そして批判をしているブログ記事があります。

「ゲノムと聖書」批判(1)(2)(3)(4)

私も進化論について、その基礎知識を学ぼうとして、例えば「現在の進化論入門 豪快痛快進化論」というサイトを読みました。「進化は今も謎だらけ。難しいことをごそっと無視して進化の基礎から問題点まで」とホームで紹介されていると通り、はっきりいって謎だらけでした。文章が分かり易く書かれてはいるのですが、まずもって論理が付いていけないのです。問題点はどんどん浮き彫りにされていくのですが、こんなに分からない科学理論て何なのだろう?というのが感想です。

簡単に「神が創造した」といえば、それで終わりです。その説明の一つ一つに、「その一言ですべて論理がつながる」と感じました。そうすると「進化論と創造論」というコラムもあるのですが「宗教であり科学ではない」と言われます。でも私が言いたいのは逆に、「神なしで説明しようと恣意的に行っているから、謎がただ深まるばかりで迷宮入りしているのでは?」ということでした。

それで、進化論をなるべく偏見なしにその初歩知識を得ようとしたところ、かえってますます、神の創造への確信がかえって強まってきました!

そこで、この「ゲノムと聖書」に戻ると、著書についての読後感想もネット上でたくさん見つけました。信者ではない方のほうが、信者の人たちよりも率直で、的を射た意見を言っておられます。

ここまでの話を著者は誠実に正直に書いているんだろうなと言う事は感じられました。ただ、もう少し突っ込んで説明して欲しいという箇所は残ってしまいました。例えば、創世記を字句通りに信じる必要はないとするならば、新約聖書に書かれたキリストの復活はどうなのでしょう。クリスチャンにとってはここは信仰の本質に関わる部分ではないのかなと想像するのですが、生物学者として筆者はこれも象徴的・寓話的と考えるのでしょうか。また、神の存在を証明する人間のみが持つ特質として道徳が挙げられていますが、これらをすら進化論的な枠組みで説明しようとする(つまり、道徳を持ちえた人間こそが生き残りの確率を高める事が出来、それが子孫に広まった)多くの科学者の試みをどう考えるのでしょう。

う~む、これらもすれ違いの議論になってしまいそうです。ドーキンスの本を読んで棄教する人が殆ど居ないのと同様に、本書を読んで信仰の道に入る人もやはり少ないのではないのかなと想像するのでした。(注:太字は私がしました)
http://www.onsenmaru.com/book/B-300/B-323-genomebible.htm

ちなみにリチャード・ドーキンスとは、欧米では有名なバリバリの無神論者、いや反キリスト教論者です。私たち信者は、そういった反対論者の意見に萎縮してしまい、つい妥協点を計ろうとして調整していく傾向があるのですが、真理というのは「地の塩」であり「世の光」なのです。折衷するときに、信仰の妨げを取り除いているつもりで、実は何の効果もないことに気づくのです。

もう一つ読後感想を紹介します。

 ほんとまじめなんですよ、この先生。自分の良心の落としどころを求めて、あれやこれや試行錯誤に調整を試みた末の、せいいっぱいの”有望な”神の延命計画を提案しているんですよ。インテリジェント・デザイン(ID)説に苦言を呈しーの、有神論的進化論を試しーの、バイオロゴスはどうかと打診してみーの。
 そこには、どこか、人類には共通の性向があり、共通項を確立すれば幸福がもたらされるのであり、という楽天的な妄念がどっぷりしいの、そしてあくまで、どこまでもどこまでも一神教圏の神設定から抜け出す気はいっさいございません状態で徹底しいの、なんだけれども、とりあえず、まあ、あちらのお国事情では、これもひとつありかな、というところで、見ておいて損はない一冊。
http://ep.blog12.fc2.com/blog-entry-1344.html

「ご本人の良心の落としどころの試行錯誤」というのは、まさにその通りではないでしょうか。周囲の人々に神の真理を伝えるべく奉仕をする、というのではなく、自分自身の信仰の模索をただ言い表しているような気がします。これまでの保守的な教会のあり方に対する漠然とした疑問があるが、けれども自分は神を信じている、という表明であるような気がします。そういった意味で本人には同情しますが、まだ信仰の若いクリスチャンへのつまずきになり、教会全体にも益をもたらさない、と言えるのではないでしょうか?

その3に続く)

有神的進化論について その1

前の記事で触れた「有神的進化論」についてですが、在米日系教会の牧師さんが、その講演を聞きに言った時の話がネット上にありました。(こちら

そこにこの考えの骨子が書かれています。
1)宇宙は、140億年に何も無いところから始まった。
2)宇宙の様々な常数(光速、重力、電磁力等々)は生命が出現できる環境を作りだすために精確に調整されている。
3)生命が始まったメカニズムは解明されていないが、一旦生命が始まると進化と自然選択により多種多様、複雑な生命体が出現した。
4)生命は創造者が特別な時に、特別介入するという方法ではなく、進化という方法で複雑化、多様化した(つまり神が進化したという方法を選んだ)
5)人間もこのプロセス上に出現し、類人猿と共通の祖先を持つ
6)人間は霊的な存在であり、時代・文化を越えて「神を求める」ユニークな存在である

ありゃりゃ、これはもうキリスト教の基礎そのものを否定しているのではないか?と思いました。

1)宇宙は、「はじめに、ことばがあった(ヨハネ1:1)」とあるように、「何も無い」のではなく、神とキリストがおられるところから始まっている。

2)については、生命が出現する環境が常数によって作り出されている、とあるが、創造の第一目の「光」を神が造られ、そして三日目に植物、五日目、六日目と生物を造られたということの写しである。しかし同時に歪曲であり、「作り出された」のではなく「神が造られた」のだ。

3)「進化と自然選択による、多種多様、複雑な生命体」ではない。神は「区別される方」であることが創世記1章では強調されている。ゆえに「種類ごと」に造られたと強調されているのであり、最終傑作品は、「神のかたち」そのものに似せて造った人である。これは創世記1章の字義解釈の話ではなく、神は秩序をもって世界を支配しておられるという聖書全体に流れる神の特質なのだ。簡単に断定してほしくない。

4)「創造者が特別な時に、特別介入するという方法ではない」という。おい、そしたらそのあとの話、ノアの洪水、紅海が分かれること、ヨシュアの時代、日がとどまったこと。エリヤの天からの火、ヒゼキヤの日時計が逆戻りしたこと、そして何よりも、主ご自身が処女から生まれ、数々の奇蹟をなし、死者の中からよみがえられたこと・・・これらをみんな否定するんですか??

この論者が分かっていない、あるいは気づいていないのは、「聖書の初めの記述は、その後に続くすべての神の働きの始めになっていること」であります。聖書をそのまま読むことによって、極めて統一性のある、不変で真実な神の御姿が浮き彫りになってくるのに、聖書が、不作為な文献の寄せ集めのような文書に成り下がってしまいます。

5)は極めつけです、話になりません。人は「神のかたちに造られた」という真理の真っ向からの否定です。その独自性があって初めて、人に対する神の贖いの計画が成り立つのであり、黙示録に至るまでの救済に妥当性を与えるのです。つまり、「初めがあって終わりがある」のであり、「初めを壊すと、終わりも壊れる」のです。

6)最後に付け足したように、人は霊的な存在であり、神を求めるユニークな存在である、と言っていますが、神が人をユニークに造られた、とは言っていない。あたかも人間肉体にある物質が神を求めるようにさせている、という唯物的な考えが見え隠れしています。

その2に続く)

「東アジアキリスト青年大会」の案内(2012年1月1‐3日)

年末・年始はいろいろな行事・活動がありますが、まずは1月1-3日に行われる大会のご案内です。先日の東松島救援旅行で知り合いになった朴樹民(パク・スミン)牧師の華人教会と、彼を派遣している韓国の教会の主宰で、東日暮里にある教会で、日中韓の青年キリスト者が集い、交わりを深める集会があります。先ほど朴牧師とお会いし、元旦の晩はわたくしが説教をさせていただくことになりました。

チラシ(クリックすれば、大きくなります)

中国人は、朴さんが牧会されている中国人信者の若者が、韓国人は主に韓国から来日する派遣教会の若者が集うそうです。日本人の若者、いや若者だと思う人であれば大歓迎だとのこと。

中国と韓国に関心のある方々、そのキリスト教に触れてみたいと願われる方々はぜひ参加してみてください。2日は朴牧師が説教、3日は派遣教会の牧師さんが聖書研究をされるそうです。そして多くの時間を、三カ国のキリスト者たちが交わるために用いたいと願っている、とのこと。

第一回目の大会の後、その後にも互いに連絡を取り合えるような仲になっているとのこと。主がもしかしたら、後に韓国や中国に行って会いに行くというようなつながりもできるかもしれません!参加される方は、下のリンクから申込書をダウンロードして、メールアドレスに送付してください

申込書(ワード文書) Eメール:soominpark88@ gmail.com

参考
第一回の大会の時の写真

第一回の大会の時の動画

大会趣旨(日本語訳)

一年を経て - 神の恵みの豊かさ

ちょうど一年前このブログに、「新しく教会を始めます」という題名で、ロゴス・クリスチャン・フェローシップの始まりを発表させていただきました。その時に、決して想像できなかったことが今、存在しています。頻繁に教会の礼拝に集われる方が15名になり、そのうち新しく信仰を持った人は5名です。夫婦たった二人だけでも礼拝を始めようと思って帰国しましたが、本当に神の恵みの豊かさを体験しております。

大きな恵みは、第一に新しい命が与えられたことです。ただイエス様を告白した、というだけではありません。それぞれの生活が変わりました。悩んでいた人がいま顔を輝かせています。祈りも積極的に捧げています。これ以上に喜ばしい知らせはありません。

第二に、すでにクリスチャンの人を含めて、すべてが全く新しく会った人々です。多くが、このロゴス・ミニストリーのウェブサイトを通じていらっしゃいました。そのため、私たちはみな同じ土俵に立っており共に教会を始めているのだ、という意識が強いです。

第三に、御言葉への飢え渇きです。ここまで長い説教に耐えられる教会はそう多くはないと思います。第二礼拝は90分近く費やしています!御言葉をどんどん飲み干している姿を見るにつけ、御霊の力強い働きを見ることができています。

第四に、互いの兄弟の交わりです。みながメールや電話などを通して、平日にも連絡を取り合い、祈りあい、互いに気にかけている姿を見ます。悩みを持っている人がいれば、一生懸命御言葉で励まし、具体的な案も出し合っている姿も見ることができます。

お祈りくださった方々、本当にありがとうございます!

来年への課題は、教会の人々が共に祈り、励ましあいながら、全体の方向性を神に求めていくこどだと思います。さらに加えられる魂に私たちが仕えていく奉仕者となっていくことが必要です。これまでの、愛による交わりをさらに深めながら、主に仕えることでキリスト者としての情熱を燃え立たせることが必要です。

具体的には、お子さんをお持ちの家族などもお迎えすることができるような場所が必要でしょう。礼拝賛美のための奉仕者も必要です。私と同じように聖書を教えることのできる奉仕者もさらに必要でしょう。来年、主が用意してくださっているものを楽しみに待っていきたいと思います。

そして重要なお知らせです。これまで土曜晩に第一礼拝を守っていましたが、それを日曜午前に移します!つまり、日曜日、同じ施設で午前礼拝と午後礼拝を捧げることになります。この予定の初めは、1月15日(日)です。また、改めてここでご連絡を致しますが、足立区の綾瀬駅近くにある施設で日曜日に、午前と午後、礼拝を捧げることになります。詳しいことは、教会案内のページある「活動カレンダー」をご覧ください。

唯物論という敵

前記事の続き)

進化論にとどまらず、今の日本社会、そしてキリスト教内にまで侵入している強い哲学が「唯物論」です。

唯物論とは

唯物論についてウィキペディアで見ますと、「唯物論(ゆいぶつろん、マテリアリズム、英: Materialism、独: Materialismus)とは、 観念や精神、心などの根底には物質があると考え、それを重視する考え方。」とあります。(こちらは、浄土真宗の信者によるブログですが、唯物論についての分かりやすい説明があるので参照してみてください。)

次いで、ウィキペディアはこう説明しています。

世界の理解については、原子論と呼ばれる立場がよく知られている。これは原子などの物質的な構成要素とその要素間の相互作用によって森羅万象が説明できるとする考え方で、場合によっては、森羅万象がそのような構成要素のみから成っているとする考え方である。非物質的な存在を想定し、時にそのような存在が物質や物理現象に影響を与えるとする二元論や、物質の実在について否定したり、物質的な現象を観念の領域に付随するものとする観念論の立場と対立する。

例えば、世界の始まりは神の創造によるものであるという考えは排除し、「ビッグ・バン」によって物質の爆発であると考えます。けれども、ビック・バンでさえ、「宇宙には始まりがある」とする創世記の記述により近づいたのであり、一世紀前には、科学ではなく宗教だと考えられていたのです。ダーウィンが思想的に強い影響を受けたライエルの斉一説(昔も今の自然現象と同じであったとする説)が主流でした。

そして、次の説明を読んでみます。

生物や生命の理解に関しては、生命が物質と物理的現象のみによって説明できるとする機械論があり、生気論と対立する。また、生物が神の意志や創造行為によって産み出されたとする創造論を否定し、物質から生命が誕生し、進化を経て多様な生物種へと展開したとする、いわゆる進化論の立場も、唯物論の一種と考えられることがある。

これは、先に説明したとおりです。さらに、次も読んでみます。

歴史や社会の理解に関しては、科学的社会主義(=マルクス主義)の唯物史観(史的唯物論)が特によく知られている。理念や価値観、意味や感受性など精神的、文化現象が経済や科学技術など物質的な側面によって規定(決定ではないことに注意)されるとする立場をとる。また、社会の主な特徴や社会変動の主な要因が経済の形態やその変化によって規定される、とする。

教会に浸透している唯物論

これらの説明を読んで、私は、意外にも、日本や世界のキリスト者は唯物的な考え方にかなり侵されていると思いました。

進化論で言えば、「有神的進化論」という立場を取る人たちがいます。進化の過程に神が介在されていた、とする考えです。しかし、その進化の過程そのものが唯物論に立っているので、両者が成り立つはずがありません。そのような人は、創世記1章と2章の間にある記述に矛盾があると言うのですが、実に基本的な聖書釈義をわきまえていない初歩的なミスを犯しています。

そして教会の中には意外に精神的に病んでいる人たちが多いです。そこで教会の中で、精神医学や心理学が取り入れられて、「鬱は脳の化学物質のアンバランスによって生じているものであるから、薬を飲めば大丈夫だ。」と平気でいう牧師がいます。実に乱暴な意見です。そして、精神的な病に対して、実に簡単に専門家に頼めばよいとする向きがあります。しかし、精神医学の専門家の間で、その危険性や弊害が盛んに議論されているのです。(例えばこちら

そして、例えばアメリカの中東政策に関して、経済格差のために過激派が生じているのだ、その貧しさを引き起こしているのはそのようなアメリカの経済支配のせいである、とするマルクス主義をそのまま信じている教会指導者もいます。イスラムが、ユダヤ教とキリスト教の発生の延長として出てきた、極めて私たちの信仰体系に関わっている宗教であるにも関わらず、その神学と思想体系を学ぼうとせずに、「経済の形態やその変化」によって語るのです。

聖書には、イスラエルの民とその敵が衝突して戦っている姿が、そして中東を中心とする世界が広がっているにも関わらず、「現代は理性によって社会が進展した」、したがって“文明間の対話”によって平和を構築することができるのだ、と考え、事あるごとにイスラエルやアメリカの軍事行動を批判する人も、やはり唯物的な史観に立っているのです。

共産主義・社会主義は唯物論

米国の人たちは共産主義に対して生理的嫌悪感を多かれ少なかれ持っていますが、日本人はそこまでの抵抗感がありません。けれども、これが何をもたらすかは、先ほど参照した唯物論の説明を引用すれば分かります。

もし人間が機械でしかなく、心(感情も含め)は電気信号でしかないなら、愛情も電気信号で何らかのプログラミングの一つでしかないわけですね。その笑顔も、感謝の言葉もつくられたもの。涙流しておわびしているのも全部誰かのシナリオ。こころから 悪いなんてさらさらおもっちゃいない

もしすべての人が機械なら、心からのおわびを期待するのが間違いですね。愛情をもとめるのもおかしい。そんな心はないのだから。あったとしても所詮はつくりものだから。

自分の機械なら(たとえばパソコン)を分解しても文句をいわれる筋あいはないし、違和感も感じません。ではあなたが購入したペット(犬とか猫とか)も同じように分解してもいいことになりますね。人間を殺しても機械を壊したレベルの話しですよね。本当にそれでいいんですか?

「そんなことを思うはずないではないか?」と思われるかもしれませんが、事実、スターリン、毛沢東、ポルポト、そして昨日死んだことが発表された金正日は、みなこのことを平気で行ってきたのです!アメリカのCIAが、ちょっとテロリストに拷問をしてしまった、という領域の話では全然ないのです。そして社会主義国にありがちな、平気で嘘をつくこと、環境破壊、子供を人身売買で売ることなど、これらはみな唯物的な考えから来ているのです。

偶像崇拝より悪い唯物論

私は幼い時の原体験として、神社があり、年越しや元旦参りがあり、その反動として神社や仏教の伝統行事に対して強い反応をしますが、唯物論は、神道的価値観、多神教よりも悪いものだと思っています。

(=反キリスト)は、先祖の神々を心にかけず、女たちの慕うものも、どんな神々も心にかけない。すべてにまさって自分を大きいものとするからだ。その代わりに、彼はとりでの神をあがめ、金、銀、宝石、宝物で、彼の先祖たちの知らなかった神をあがめる。(ダニエル11:38)」

キリスト者は、もちろん宗教に関わる伝統行事には参加しません。けれども、それはあくまでも自分自身が天地を創造された神を愛しているからであり、その背後にある共同体の意識や、自然を超越したところに何かがあるとする考えそのものを否定しているのではありません。むしろそれらを大切にしない人々の中には、自分自身が神となっています。自分しか信じていないのです。そして何をあがめるかというと、「とりでの神」つまり、武力という物質を崇めているのです。これこそ唯物論でなくて何なのでしょうか?

しばしば、米国内を中心にして、「私たち教会はキリスト教原理主義にある反知性に陥ってはならない」という意見がありますが、むしろ逆に、「私たちは、物質を絶対化する価値観に対抗しなければならない。」というのが真実ではないのでしょうか?

科学は検証可能なものだからこそ成り立つものであり、その理論が絶対真理ではないことを、科学の健全化のためにも訴えるべきです。科学を相対化していかねばなりません。そして、精神病や深刻な人間関係の問題の時に、専門家に委ねる時があるでしょうが、専門家の見識や力を過大視してはいけません。長血を患った女は、医者にかかってますます悪くなりました。

私たちはもっともっと、キリストの御霊に、その愛の御霊により頼まなければいけません。心傷ついた人に必要なのは、カウンセリングの専門知識以上に兄弟姉妹にある愛と祈りであります。専門家がどんなに分析しても、それを全きものにする実体は専門家には存在せず、私たちの間におられるキリストなのです。

そして、信仰をまだ持っていない方へ - 神は、人間が作り出したものだとお考えでしょうか?そうではなく、神がおられて、その中に人間が生かされている、と考えたほうが自然ではないでしょうか?なぜ、机上の空論ではなく人間の根源が問われる時、つまり苦しむ時に「神様」と叫ぶのでしょうか?美しい絵を見たときの感動は実在しないのでしょうか?唯物論的にいえば、それは単なる色彩を持つ化学物質にしか過ぎないのです。薬が本当に人の心を癒すのでしょうか?今は、精神科医の出す薬の依存症という病まであるのです!「物」というのは、目に見えない価値に服従してこそ存在目的があるのではないでしょうか?

後記:「社会主義も唯物論だが、資本主義もそうではないか」という、資本主義の中にある危険性を指摘してくださった意見を頂戴しましたが、私もその通りだと思います。

進化論の発表から社会進化論なるものが出て、それから「自然淘汰」という言葉が社会的にも使われるようになりました。産業発展の中にある、弱者切り捨てていく土台になり、その問題は今にまで続いています。ただ、その対抗として社会主義思想が出てきたのですが、それもやはり唯物論思想に基づくものであり、どちらも私は唯物的発想だと思います。

ただ、マックスウェーバーの「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」で指摘されているように、「正直であること」「勤勉であること」などの聖書的価値観が、市場経済の中で生かされうることは確かです。

そして弱者救済においても、私は日本の社会福祉制度は優れていると思っていますが、「国」の果たす役割もありますが、「教会」が主体的に関わっていく自発的な救済がもっと強調されていいのではないか、と思っています。(今回の、キリスト教団体の主体による被災者救援はその良い例です。)国はその性質から官僚主義に陥りやすいし、それに頼ることも神への信頼を疎外することにもなっています。

そして社会主義国家の中では、政治的自由や信教の自由は制限されますが、霊的自由については、神の主権によってかえって守られている、という部分があります。教会が迫害によってかえって清められ、前進するという神の原則です。信教の自由のある国ほうが、しなくてもよいことを行ってしまう、肉が働きやすい余地が多く残されており、私たちは彼らにはない克服すべき課題を持っています。

The Voyage That Shook The World (世界を震撼させた航海)

最近、私たちの教会に、創造論とイスラエルについて強い関心を持っておられる兄弟が加えられました。彼の祈りを聞いても、教会内の事柄を超えた、神の創造や中東に対する神の御心を求めるものが多く、とても励まされます。

私も進化論についての記事を最近、書きましたので、その兄弟がいくつかDVDを貸してくださいました。私が進化論について調べていたとき非常に興味を持ったのは「ダーウィンという人物はどのような人なのか」というものでしたが、そのDVDの一つがすばらしいドキュメンタリーでした。

DARWIN: The Voyage That Shook The World(ダーウィン: 世界を震えさせた航海)
日本語の字幕もあるので、ぜひおすすめです。(Amazon.co.jp)


Watch The Voyage That Shook The World in 信仰・ライフスタイル | View More Free Videos Online at Veoh.com

ダーウィンの生涯の研究家は、「ダーウィンという人物をどんなに調べても、何か不思議な部分がある」というようなことを言っていましたが、やはりそうだったか、と思いました。このドキュメンタリーの話の全体の流れは、「彼が聖書の天地創造以外の、生命の起源の説明を求めた思索と思想の葛藤と追及」と言ったらよいでしょうか。当時は、あまりにも当たり前に神の創造が受け入れられていましたから、そこからの脱皮が彼の意識下にあった叫びであったような気がしました。

彼の時代に横たわっていた、キリスト教的世界観に対抗していた思想が「唯物論」でした。彼はそれを使って進化論を構築し始めました。そして専門家の一人が、「宗教と科学の対立、というけれども、実際は、宗教と唯物的科学思想との対立である。」と言っていますが、私は大きくうなずきました。

そこで次に、私がずっとこれまで気になっていた「唯物論」について述べてみたいと思います。

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