牧師の「先生」という呼び名について

フェイスブックにおける投稿をこちらにもご紹介します。

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ある牧師さんが、FBでとてもすばらしい投稿をされていました。

牧師になると先生と呼ばれることが多くなりますが、それは同じ信仰者が尊敬を払っているわけでいちいち否定していくことを止めました。

日本人の良いところである謙遜と敬愛ですので「先生=さん」と思っています。さんと呼ばれるのが社会通念ですから当たり前のことです。先生と呼ばれる牧師は高慢になりますと堕落していくか、神様から手痛いお仕置きがありますので重々私は気をつけています。もともと職業的な犯罪者のヤクザでしたから本来、先生なんて呼ばれてはいけない存在です。ですがこうして勝手に皆さんが先生と呼んで下さることこそが神の仕業なのではないでしょうか。どこまで行ってもへりくだりです。

どこまでも聖書の精神で!

このことについて、「先生」と呼ばれることがマタイ23章8節でイエス様がしてはいけない、という戒めに反することなのかどうかを考えてみたいと思います。主はこう言われました。「しかし、あなたがたは先生と呼ばれてはいけません。あなたがたの教師はただひとりしかなく、あなたがはみな兄弟だからです。」そのまま読めば、確かに呼ばれてはいけない事になります。

しかし私は、そうではないと考えます。文脈が大事です。パリサイ人が教える立場にいて、人々から敬われることを好んでいることをイエス様は語られました。2節から語られていますが、7節だけ引用しますと「広場であいさつされたり、人から先生と呼ばれたりすることが好きです。」つまり、人に持ち上げられることを好んでいるという態度について、「先生と呼ばれてはいけない」とイエス様は言われています。 続きを読む 牧師の「先生」という呼び名について

律法主義の弊害

今朝、妻と共にデボーションをしていて、読んだ箇所の一部が次です。

しかし、王の娘エホシェバが、殺される王の子たちの中から、アハズヤの子ヨアシュを盗み出し、彼とそのうばとを寝具をしまう小部屋に入れた。こうして、ヨラムの王の娘、祭司エホヤダの妻、エホシェバは、・・彼女がアハズヤの妹であったので・・ヨアシュをアタルヤから隠した。アタルヤはこの子を殺さなかった。こうして、彼はこの人々とともに、神の宮に六年の間、身を隠していた。その間、アタルヤがこの国の王であった。(2歴代誌22:11-12)」

アタルヤから守るために、ヨアシュを神の宮の中に隠しておきました。けれども、ヨアシュは王族であって神の宮の中にいてはならない人物であるということです。神殿は祭壇から聖所のほうは、基本的に祭司の奉仕の場であり、聖所の中は厳しく、祭司のみしか仕えることができません。

事実、ウジヤは聖所の中で香の壇で香を焚こうとして、らい病に冒されました。

ではヨアシュは、なぜ主に打たれることはなかったのか?幼いヨアシュに、祭司の務めをさせることはなかったということはありますが、おそらく他の祭司の家の幼子といっしょに敷地内で遊んだり、祭司の子として紛れていたのではないかと思われます。 続きを読む 律法主義の弊害