しっくりさせよう「教会生活」

以前、教会について、日本では数多くのクリスチャンが教会に通わなくなっているという課題を取り上げました(ブログ記事)。「イエス様を信じているけれども、教会には行っていません。」という人が多いです。ロゴス・ミニストリーでもその問題はずっと前に取り上げています。この前の「クリスチャンの生活と証しコース」では、「それはご主人は好きだが、その奥さんは嫌い」と言っているようなものだ、という例えを使っていました。そうです、「キリスト」と「キリストの体」である教会は夫婦が一心同体だから引き離せないのと同じです。

けれども、なぜ教会に馴染めないのか?そして、教会の礼拝にはかろうじて出席しているけれども、どうしてそれ以上、入り込むことができないのか?そして、何かあるとつまずき、他の教会に移る。けれども、またつまずく。そうこうしている内に、教会そのものに通わなくなる、ということが起こってしまいます。

そういった問題というか、課題に対して、今、恵比寿バイブルスタディで学んでいる「ピリピ人への手紙」は非常に有益です。パウロは、牢屋の中で主にある喜びを抱いていました。そんな逆境でも喜ぶことができました。けれども、もっと喜びに満たされることができるように、と言って、ピリピの人々にお願したのが「一致」だったのです。ぜひ、次の二つのメッセージを聞いてみてください(あるいは読んでみてください)。

1章27‐30節「共に奮闘」(原稿 ・ 音声
2章1‐4節「へりくだりにある一致」(原稿 ・ 音声 続きを読む しっくりさせよう「教会生活」

喧嘩両成敗という罪

絶対悪から生じた相対化

昨日と今日、私のフェイスブックにはアメリカの友人の投稿、9・11を記憶するものが並んでいました。二年前の投稿ですが、14年前にアメリカでは「何か」が根本的に変わったことを論じた文章を書いています。

日本キリスト者が試される9・11

大きなことがアメリカで起こりました。それは、あれだけの大きな悪を見たアメリカは、それこそ絶対的な悪があるとすべきなのに、むしろ反対方向に人々が走ってしまった、ということです。つまり、「物事はすべて相対的だ」という道徳相対主義に陥りました。アメリカ人や、アメリカに関心のある日本人の人と話しを交わす時に、「アメリカは、あのテロ事件で何かが変わった。その根本的なところで変わった。」とします。それは何だろう?と思う時に、私は「相対主義」が解答ではないかと思うのです。9-11-picture

そして、その相対主義は教会の価値観を根底から揺るがしていきました。それは、イエスを信じているとする人々の割合は減っていないのに、絶対的な悪は存在すると答える人の割合は減ったのです。つまり、その信じている「イエス」という方は、はたして聖書に啓示されている本物のイエス様なのかが、疑わしいことになります。 続きを読む 喧嘩両成敗という罪