私の福音派再検討

このブログ記事には、福音派クリスチャンとして、自らの歩みを再検討させられました。

上のブログ記事を読みました。そして、その中にあるリンク先の二つの記事も読みました。ご本人のフェイスブックにコメントを入れようと思ったところ、かなり長文になってしまい、ちょっと躊躇しました。それでこちらに掲載させていただきます。実は、以前にも次のブログ記事でも取り扱ったのですが、もう一度取り扱わせていただきます。

関連記事:「等身大で見るキリスト者

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アメリカの教会で訓練を受け、韓国の教会の兄弟姉妹とも交わっている、その経験者としてお話しさせていただきます。問題意識としては全く同じものを共有しておるのですが、そのアプローチの中に、違和感を抱く者の一人です。

お互い不完全な者同士

第一に、韓国の教会もアメリカの教会も、「不完全である」という前提になぜ立てないのだろうか?という疑問です。教会はどこでも不完全であるという実体は、新約聖書から出てくる教会観です。そこでなおこと、主がその教会を立て、愛しておられるという視点です。ですから、これまでの教会のあり方を述べるばかりでなく、「自分自身が”無批判に”全てを受け入れてしまった。」という反省を、もっとすべきではないでしょうか?

リンク先の文章には、確かに区分けはされているかもしれませんが、どうしても十把一絡げに福音派のあり方として、象徴的にビリーグラハム伝道、韓国のラブソナタなどを取り上げている。そこに些かの粗雑さがあるように見受けられます。 続きを読む 私の福音派再検討

「セレブレーションオブラブ(愛の祭典)」は続く!

11月20‐22日、東京武道館にてフランクリン・グラハム氏が伝道者として立った、「セレブレーションオブラブwithフランクリン・グラハム」が無事に終わりました。下は、今晩行なわれた最後の集会にて、キリストを受け入れる決心の招きに応じた人々です。キリスト者の人口は日本で1パーセント未満と言われているところで、これだけの人々が一度に決心しました。涙します。

招きに応答した人々
招きに応答した人々

私は、20日の晩、21日の午前に出席しましたが、心が主に奮い立ち、確かに聖霊がここで働かれているのを感じました。そして、近くに座っておられた方々が下に降りて行くのに御伴させていただきた時、私の目に嬉し涙が溢れてきました。 続きを読む 「セレブレーションオブラブ(愛の祭典)」は続く!

Facebookでの投稿

みなさん、こんにちは。こちらブログでの投稿は、最近、あまり頻繁に行なっていませんが、フェイスブックでは頻繁に行なっております。

facebook.com/kiyomasa.akashi

多くの記事は「友達」に限定しているため、閲覧には友達申請が必要です。申請していただく時に、「メッセージ」を使って「ロゴスのブログを読んでいます」とか、自己紹介していただいてどなたなのかを知らせていただけたら幸いです。

大事だと思われる記事は、できたらこちらにも転載はしようと思います。けれども、限界があるので、直接、フェイスブックでご覧になったほうがよいでしょう。

「神はなぜ戦争をお許しになるのか」②

神はなぜ戦争をお許しになるのか神はなぜ戦争をお許しになるのか」の続きです。完読しました。第二次世界大戦の始まる頃に語られた、ロイドジョンズの説教はあまりにも、今日の教会の状況と似ており、身に迫るものがありました。そして、私が聖書を読んでいて、クリスチャンになって以来、その中にある戦争の記述の意味を、これほどはっきり知ったことはなかった、と言っても過言ではないぐらい、読みながら、圧倒的な神の臨在がありました。そこで教わったことはあまりにも多いのですが、かいつまんで、少しずつ話していきたいと思います。

戦争=心の鏡

私は、拙書も出しているぐらい、聖書預言や神の持っておられる終末のご計画に関心を持ち、その学徒でありました。しかし、主の再臨を語りながら、それが近づいていると話しながら、自分は安全圏の中で語っているから語れているのではないか?という思いがよぎりました。事実、終末を感じさせる重い事件が数多く起きました。世界情勢はもちろんのこと、キリスト教会の中で起こっていること、それから身近なところでも起こって、改めてテサロニケ人への手紙など、終わりの日に生きるキリスト者の姿を見ると、これほど重いテーマを彼らは抱えて、なおのこと希望と信仰と愛を抱いていたのだ、ということに気づきました。私が、唯一、キリストのみに望みを置いていたのだろうか?その問いが続き、ますます聖められなければいけないと思うようになりました。 続きを読む 「神はなぜ戦争をお許しになるのか」②

教会のGoogleカレンダーを見られない方へ

教会へようこそ!」や「教会(LCF)の紹介」に見ることのできる、教会活動のカレンダーが、先月からIE(Internet Explorer)で見られなくなったようです。下のように表示されます。
参照記事

ChromeやFirefoxなど他のブラウザーでは見られるようですが、直接のリンク先をご紹介します。しばらくは、こちらから入ってご覧ください。

ロゴス・クリスチャン・フェローシップの活動カレンダー

上の二つの教会紹介のページにも、このリンク先を付けたしておきました。何卒よろしくお願いします。

「神はなぜ戦争をお許しになるのか」

下の本を先ほどオンラインで注文しました。

「神はなぜ戦争をお許しになるのか」ロイド・ジョンズ著

神はなぜ戦争をお許しになるのか

注文したきっかけは、次の書評を読み、とても共感できたからです。

「D・M・ロイドジョンズが「戦争」について書いた本『神はなぜ戦争をお許しになるのか』(いのちのことば社)から、いろいろと教えられている。同書は、1939年10月に著者がロンドンのウェストミンスターチャペルで5回にわたって行った説教を書き起こしたもの。その前月には、ナチスドイツのポーランド侵攻があり、そこから戦火がヨーロッパ全体、世界全体に広がっていくという、非常に緊迫した状況の中で語られたものだ。

ロイドジョンズはここで、戦争は罪の結果の一つ、罪の現れの一つ、であるとして、「戦争を起こさないでください」と神に願うのは、あらゆる罪の現れのうちの、ある特定の結果が起こらないよう神に願うことだとし、その願いには自分本位さが含まれているとする。

つまり、罪そのものには関心を抱かず、一つの罪の結果──それは私たちの安逸な生活を破壊する──に関心を持ち、それが起こらないように願うという姿だ。ロイドジョンズは、聖書から、神が戦争を許されるとする。

同書を読み、日本が戦後70年の間に積み上げてきた罪について思った。日本は確かに、「戦争」はしなかった。しかし、罪がなかったわけではない。「平和」の下で積み重ねられてきた罪がある。金や性を偶像化する罪。この平和の中で、キリストの福音に心を開くこともなかった。

本質を言えば、憲法9条によって日本の平和が守られてきたわけではない。神の憐みによって守られてきたにすぎない。私たちが今なすべきことは、先の戦争の反省もさることながら、戦後にこの国が積み上げてきた罪の現実を見つめ、とりなし、地の塩としての働きをすることなのだろうと思う。」(引用元はこちら。太字は私によります。) 続きを読む 「神はなぜ戦争をお許しになるのか」

カルバリーチャペル牧者「静養会」

Logo11月2日から5日まで、日本のカルバリーチャペルの牧者・奉仕リーダーの恒例の奥多摩でのリトリートがありました。十分な霊的な休養が取れました。これまで、リトリートを「修養会」と訳していましたが、実際は「静養会」ではないかな?と思います。それぞれが、主にある安息を本当に必要としていました。

今回のテーマ:「ただイエス様だけ」

すばらしいテーマです。ただイエス様だけなのだ、ということで、福音書から見るイエス様を見つめました。今、奉仕の働きを教会で行っている人には、本当に益になる内容だと思います。

場所は、奥多摩バイブルシャレーです。私たちしか入っていなかったので、ゆったりと場所を使うことができ、そして3泊4日で時間にゆとりがあったので、互いに交わり、分かち合い、祈り合う時がたっぷりとれました。

 2015年牧者・奉仕リーダー修養会 11月2‐5日
日本のカルバリーチャペル @奥多摩バイブルシャレー
「ただイエス様だけ」
「実」マルコ12章 バド・ストーンブレーカー 賛美
「大切な割り込み①」マタイ20章20‐28節 ボブ・ヘーグ 賛美
「ぶどう酒」ヨハネ2章 バド・ストーンブレーカー 賛美
「革命者イエス様」 ボブ・イバラ 賛美
「安息」ルカ10章 バド・ストーンブレーカー 賛美
「ラジカル・ラビ」  ボブ・イバラ 賛美
「大切な割り込み②」マルコ10章46‐52節 ボブ・ヘーグ 賛美
「12人の訓練」  ボブ・イバラ  賛美1

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