西洋につながらないアジア宣教

欧米のキリスト教を見つづける東亜三国

今年2月に行われた、東アジア青年キリスト者大会においての祝福の一つは、「実は東亜(日中韓)において、今日よりも戦前のほうがつながりと交流があった」ということが分かることです。今でこそ国においては日中韓で対立が続き、そしてそれぞれのキリスト教は、それぞれが宣教の課題を持っていて、たこつぼ的に動いています。

その中で、忘れられているのは、「我々はキリストにつながれており、西洋キリスト教につながれているのではない。」ということであります。福音を初めに伝えたのは確かに欧米の宣教師たちを通してなのですが、今に至るまで各国のキリスト者が、欧米キリスト教のみ(模倣にしろ、反発にしろ)に目を向けており、その色眼鏡で他の二国を眺めているということです。それで、必ずしも純粋に持っている信仰や教会形成ではない、欧米文化を多分に含むキリスト教となっています。それで宣教初期にあったような交流がないまま、互いに無関心、時には嫌悪感をさえ抱いている場合があります。

しかし、よくよく考えれば、欧米のキリスト教は、欧米文化や社会の中で福音が伝えられ、定着化したことによって存在しているのであり、それはそれでよいのです。しかし、私たちの信仰の発祥ではないのです。私たちは、その西洋宣教師の働きや信仰に感謝して受容しつつも、私たちは私たちで、主がこの地でいかに働いて、生きておられるのかをしっかりと見て、御霊に導かれ、キリストに根差した信仰を養う必要があります。

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