福音の政治化

これまでも、当ブログでこの話題についていろいろ書いたことがありますが、再び、あるところで書いた文章をこちらにも掲載したいと思います。(一部、元の文章から編集します。)

<政治的保守主義とキリスト教>

政治的保守主義とキリスト教(カナイノゾム研究室)

日本の教会において、政治的に「保守」という立場を取る人が少ない。そして、保守というと、すぐに軍部が支配する全体主義に後戻りすると思う傾向があります。さらに、真実なキリスト者ではないという発言まで聞きます。これは明らかに暴言です。世界中に政治的に保守主義を取っていながら、立派なキリスト者は無数にいます。

厳密に聖書を見つめるならばシェア元記事にあるように、聖書における政治思想はむしろ「保守的」です。いや、私の意見では、もっとはっきりと言うならば「体制的」であると思います。使徒ペテロが、「人の立てた制度に従いなさい。」と言いました。

なぜなら、例えば、共産主義国において、反共の思想(右)は「反体制」になりますが、キリスト者はその政権を神が立てたものとみなし、反体制運動を起こしません。思想的にはむろん、信仰上、共産主義を受け入れませんが、それと政治的行動を起こすこととはまた別です。

キリスト者は、自分の置かれている国の指導者を敬い、その人のために祈り、執り成します。それが人々から偶像視されている王であってもです。しかし自らは拝まない。神をむしろ畏れます。しかし、神を畏れるがゆえに、王を敬います。

では日本は?立憲君主制です。であるならば、その体制をある程度、尊重して生きることが神の御心です。立憲君主制は、絶対君主制やかつての国家神道とは別物です。英国は立憲君主制ですが、民主主義が高度に発展したところでもあり、日本にも民主主義が根付いています。

そして日本は、象徴天皇制でもあります。天皇の地位は、近代の国家神道体制という特殊な時期を除き、日本の長い歴史において象徴的存在でありました。明治維新から国家神道体制、それから現人神となったとき、それは偶像礼拝でした。もちろん、心で、天皇陛下ではなくイエスこそが神であるとあがめますが、そうした時期であっても天皇陛下を敬うことはできました。(時に、キリストか天皇陛下か?という選択を迫られ、迫害されることはありましたが。)

ましてや今、現憲法の日本国において、私たちにはそのような葛藤はありません。神が、今上天皇を立てておられるし(たとえ、神道における祭司的働きをしているにしても)、政治においては国民によって選ばれた代議士、そして代議士が選んだ首相を神は立てておられます。

それ以外の政治的なことは、「カイザルのものは、カイザルに、神のものは神に返しなさい」と言われたように、人々の中で大きな争点であっても、神の国の大義に比べたら、二の次、三の次です。その二義的なものを、あたかも重要なものとして信仰の中に、また教会に組み込めば、その「福音」は変質し、「異なる福音」(ガラテヤ書1章)となります。

<熱心党シモンと取税人マタイ>

キリスト者間における政治観の違いについて、いつも思い出す御言葉があります。「熱心党シモンと取税人マタイ」です。「国粋主義者と売国奴」が共に生活していました。今の右翼、左翼の違いどころじゃないぐらい、違います。イエス様が真ん中におられて、イエス様を主とし、神の国の幻を強烈に持っていたからこそ、一致があったんです。

思いっきり左派でも、思いっきり右派でも、「どちらも」イエス様を主としておられます。意見が違う時にどうすればよいのか?というのは、ローマ14章にありますね。私たちの政治観の違いを考えたら、当時のユダヤ人とギリシヤ人の違いなんか、とんでもなく、ものすごかったと思います。

何を言いたいかと言いますと、政治っていうのは主観がたくさんあって、「こんな考え方をしていても、イエスを主とするキリスト者なのだ」ということを見てもらうことだと思います。その、神の国の広さというか、そのことを、私は求めています。

あるキリスト教のフォーラムにおいて、「政治的な意見表明や行動を、教会の中でやってはいけない、と言いながら、安部政権支持を言っている。」というクリスチャンたちがいることを言われている方がおられました。それは誤解だと思います。

一つに、ローマ14章にある、「愛をもって肉を食べない」というパウロの姿勢がありました。愛があるからこそ、自分の政治行動によって(例:国会前で教会でデモにいく)、兄弟がつまずかないようにするんですね。別に政治的行動を取るな、ということを言っているのではない。裏返せばいいですね、「靖国にいって教会で一礼しましょう、別に参拝ではなく、お国のために死なれた方々のことを追悼するためです。」と教会で表明したらどうなりますか?思いっきり、「戦前回帰!」という非難の声が出そうです。けれども、国会前デモで、そこに共産党や過激派がうようよいるところに牧師が教会の人たちを呼びかけたら、全く同じようなつまずきを持つ兄弟たちもたくさん出て来るよ、ということなんです。

だから、愛のためにしないこともある。

そして、「安倍政権支持」について、それが御心だということは決してありません。それぞれが、それぞれの思いをもって支持表明をする人たちもいますが、「私は、自民党支持できないですね、無党派かな?」と言われる方もいる。要は、「政党や政権の支持は、個々人が信条や良心にしたがって行なうこと。」であり、キリスト者であれば、信仰的な動機も働かせて行なうこともあるでしょう。

たぶん、これが基本的な、従来の福音的な教会の姿勢だったと思います。宣教的に考えるならば、それぞれの国で一般の人々が教会に来て、救われたならば、大体、その国民の政治志向は反映されるはずなのです。そうでなければ、「すべての人に対する福音」にならない。今は、日本は、自民党支持がかなりの割合でいる。だったら、当然、教会の中にもそのぐらいまでいかなくても、救われていく人々の中に自民党の政治家に投票する人は多いわけですよね。でも、もちろん民進党に、社民党に投票する人たちもいる。どちらもいて、教会なのではないでしょうか?

そして、過去の失敗を恐れて「こうしていかなければいけない」という頑張りが強くないでしょうか?一人一人が、主から御霊が与えられている。過去に、戦時中に失敗してしまったということは良く分かる。でも、もっと御霊に信頼して、そのような時には一つのまとまるのだという信仰がまずなくて、どうして本当に迫害が来た時に、愛しあって一致できるのでしょうか?

だいたい、こんなことが、このひろばにいる発言者の方々が抱いていることだと思います。あるフォーラムを拝見して、思ったことでした。

<世の証しとしての政治活動と、福音の政治化の違い>

教会は政府ではない

私は、あらゆる人々を敬い、その中にキリスト者がいるということを強く願っています。それが、自分の政治信条と合わないところに活躍されている方々も、同じです。例えば、民進党や社民党の政治家でキリスト者がおられるということは、とても嬉しいことです。自民党や維新にキリスト者がおられることも嬉しいです。そのような人々が、主に仕えるように、政治というものに仕えていることは、りっぱな証しであると思います。右派の団体や集会で活動されている方、また左派の団体や集会で活動されている方も同じです。

共産党でキリスト者が政治家になれるか?これは、ちょうど公明党でキリスト者の政治家になれるか?というのに似ているでしょう。私は、「あり得る」と思います。これは、宣教者としての素質と使命さえあればできることです。つまり、政治信条のある部分において重なるものがあり、そこでキリスト者であるからこそ持てるバランス、善を示せると思います。

例えば、政治ではないですが、キャバレーでキリスト者が勤めることができるのか?風俗(合法のもの)では?一般の葬儀社は?いろいろあるでしょうが、もしかしたら神の不思議な導きで、関わりを持てるかもしれません。

もちろん、そういった現場においてイエス様を知って、救われる人はその場所にしばらく留まるということがあります。ラスベガスで牧会をしている方の話を聞いたことがありますが、ストリップ劇場でストリッパーがイエス様を信じることがあります。そこで教会として、無理やり仕事をやめさせることはせず、聖霊の働きを待ちます。

話を戻しますと、それぞれ遣わされているところがあり、召されている職分があります。政治であれば、政党において、どの政党でも世に属するものですから、かならずキリスト者の価値観と相反する部分が出てきます。また他の倫理面でおかしいという部分も出て来るでしょう。けれども、それはどの職場でも同じ、それでもそこで、語弊を恐れずにいえば、「共に泥を飲んで、証しを立てる」ということです。ダニエルとその友人は、バビロンの言語や文化、名前までバビロン宗教のものに変えられ、泥を飲みました。

しかし、それは飽くまでも、イエスを主として礼拝する教会が、純粋に福音を保っているからこそ、できることです。

社民党のキリスト者が護憲、平和主義を唱えることを私は、牧者として教会にそのような方がおられるのであれば、その中での働きを霊的に応援します。私が一部改憲論(今の自民党草案は反対です)、国防を信じていても、です。

では、これはどうでしょうか?自民党員の兄弟が、その活動を教会でも行ないたいとするならば、どうでしょうか?私は止めさせます。仮に彼の主張が、私の個人的な政治信条と同じであっても、やめさせます。それは、例えば商売をしている人が、その商品を教会で売ろうとする行為に似ているでしょう。しばしば、マルチ商法までいかなくても商品を教会で売る人たちいますね、私は止めていただきます。

では、その当の牧師である者が、社民党にしろ、自民党にしろ、その掲げている政治信条を広めていったらどうでしょうか?そういったことがないように気を付けているのが、監督者の働きなのに、それを監督者本人がやっていったらどうなのか?これは、由々しきこと、教会が混乱し、分裂を引き起こします。その教会の群れ、または教団として他の牧者が戒めないといけないでしょうし、これが大きな影響力のある人々がやり始めたら、それはそれは、大きな問題です。

そして、それが実は、日本の福音派の教会で起こっていることなのです。社会委員会のようなもの、キリスト教系のマスコミ、教会の中で影響力を持っておられる牧師や神学者が、「福音宣教の中に、党派的な政治信条も入る」と信じて行なっている、と私は観ています。

これまでもいろいろ、起こってきました。

私は、<キリスト者の心理学者>を支持します。しかし、<福音の心理学化>に反対します。<キリスト者の企業家>を支持します。しかし、<キリスト教会の企業的哲学の導入>に反対します。<キリスト教の学者>を支持します、しかし<福音の極度な神学化、知識偏重>に反対します。同じように、<キリスト者の政治活動>を支持します。しかし、<福音の政治化>に反対します。

以上です。

「福音の政治化」への30件のフィードバック

  1. 拍手

    普段感じていたモヤモヤを見事に言語化していただけて、感謝です!

  2. このブログは以前から時々読んでおります。
    映画「沈黙」についての記事を、とても興味深く
    拝読させていただきました。最新記事であるこの場で、
    ブログ記事の感想をコメントします。

    ちなみに私自身は神道を信じており、
    「日本泥沼論」の支持者でもあります。

    まず私の目には、クリスチャンは悪魔が大好きなように
    見えて仕方がありません。日本のキリスト教宣教の失敗は、
    もちろん日本の「泥沼」的な、特殊な宗教性と、
    キリスト教の相性が悪かったというのもあると思います。
    しかし最大の原因は、白人のキリスト教指導者と
    日本人クリスチャンの、日本文化に対する傲慢な態度、
    「反日」と呼ばれても仕方がない侮蔑の言動・行動にある。
    私はそう考えております。

    そもそもキリスト教が日本で邪教視されるように
    なったのは、戦国時代にキリシタン大名により
    神社仏閣が焼き討ちされたのがきっかけです。
    詳しくは「宗教で読む戦国時代」という
    本をお読みください。

    もうひとつ、戦後、日本のキリスト教会が盛んに
    日本の「戦争責任」を追及・指弾したことも、
    日本のキリスト教が失敗した原因だと思います。
    というのも、「戦争責任」というのは
    敗戦国が負うべきものであって、それを追及するという
    ことは、どうしても戦勝国の視点に立って、
    敗戦国を裁く、という形にならざるを得ません。
    アメリカの原爆投下は批難されてはいますが、
    「アメリカの戦争責任」の議論ではないでしょう?

    戦後日本のキリスト教会の指導者たちが、
    どれほど日本文化や日本の宗教を軽蔑し、侮辱し、
    「戦争責任」の追及を口実に罵詈雑言を浴びせてきたかは、
    クリスチャンである管理者様もご存じのことと思います。

    要は、キリスト教会は、日本人の側にはいなかった。
    彼らはアメリカの側に立っていたわけです。
    当時のキリスト教はまぎれもなく「白人の宗教」、
    「アメリカの宗教」であり、そこに
    敗戦国民である日本人の救いはなかったのです。

    キリスト教の失敗はクリスチャン自身の責任なのに、
    「これは悪魔の策略だ!」「悪霊の力だ!」というのは、
    責任からの逃避ではないでしょうか?

    私としては、イエス・キリストの
    「裁くな。あなた方も裁かれないように」という教えの
    正しさが、皮肉にもキリスト教会の失敗によって
    証明されてしまったのだ、と考えているのですが、
    管理者様はどう思われますか。
    かつては日本文化を嬉々として踏みにじっていた
    キリスト教会の指導者たちが、イラク戦争以降、
    日本人の側から散々罵倒されることになったのですから。

    長文で失礼しました、以前から思っていたことを
    書いたので、どうしても長文にならざるをえませんでした。
    管理人様のようにしっかりとした価値観を
    確立したクリスチャンが、もっと増えてくれればよいのですが。

  3. 長々と「沈黙」関連記事についてコメントを
    書いておいてなんですが、この記事についても一言。
    熱心党シモンと取税人マタイの話は、とても感銘をうけました。
    イエス・キリストの下では右翼的な人も左翼的な人もいたのに、
    今のキリスト教会は政治でバラバラになっている。
    イエス・キリストは自分を信じる者を分け隔てしなかった、
    と私は記憶しているのですが、現代の日本人クリスチャンは
    熱心に分け隔てしている。これは一体どうしたことか。

  4. 「通りすがった人」様、

    とても筋の通った、真っ当なご意見をしてくださってありがとうございます。

    「沈黙」についてのご意見ですが、キリスト教には二通りの語り方があります。分かり易く喩えますと、「外向き」と「内向き」であります。結婚している男女が一対で、他の人々に対して語っている内容と、その夫婦の間で語っている内容がございます。その男とは「神とキリスト」であり、女は「キリスト信者」です。言い換えれば、神と人との縦の関係があり、人と人との横の関係があります。拙論考は、主に「内向き」であり「縦の関係」です。すなわち同じキリスト者への激励です。その中で「悪魔」という言葉を使っております。夫婦の中で、何かが誘惑してくることはあります。夫婦の危機があります、その対象を悪魔と申しております。日本語にも、「罪は憎むが、罪人は憎まず」という言葉がありますね、同じように、悪魔は憎む存在ですが、悪魔に使われてしまっている対象は、愛してやまない存在です。

    したがって、その内向きの会話を外、つまり同じ信仰を持っていない人が聞くならば、多くの誤解を与えてしまっていることは、その通りのことであります。

    お書きになっていることについては、おそらく数多くの殉教した切支丹も(天からこのブログを読むことができれば)、そして現代のキリスト者も、お書きになっている歴史や西洋キリスト教について、「もっともなご意見であり、キリスト教は血みどろである。敢えて反論しない。」ということになるのだろうと思います。しかし、「私が、自分の罪のために死なれ、三日目に生き返ってくださったイエスを自分の救い主と信じる信仰には、全く影響を与えない。そして貴方様をもキリストが愛し、命を捨ててくださった。」ということになります。それとこれとは、全く別の事象になっています。

    前者は、宗教というものが国や政治の中でどう動いていったか、ということであり、後者は自己存在、生きている意味そのものであります。渇いている喉を潤すために水を飲む、という至極単純で、かつ死活的なことであります。信仰というのは、そういうものであることは、神道信者である貴方様にもご理解できるでしょう。

    そもそも、私たちが主と仰ぐイェシュア・メシヤ(イエス・キリストのヘブライ語読みです)は、西洋の白人ではなく、西アジアの一地域に生きていたセム系ユダヤ人です。聖書は、西洋よりアジアの文化、歴史が濃厚な書物です。そして、キリスト者人口はいまや欧米では衰退し、非西洋圏、すなわちアジア、アフリカ、中南米において急増しております。(興味深いことに、かつて植民地化され、欧米列強によってずたずたにされた地域で信じられています。)この方の人格に信頼を置いているのであって、西洋発のキリスト教の体系を受け入れたのではない、ということになります。

    参考記事:「宗教改革五百年:福音宣教のパラダイムシフト

    改めて申し上げますと、私には天に対して、また人に対しても罪がある。その咎を負って自分は生き、そして虚しく死んでいくしかなかった。しかし、創造者なる神は人として現れ、この惨めな罪深い私を、その罪をご自分の体に代わりに負わせ、それで私を受け入れ、その罪を赦してくださった。そして、罪を死と共に葬り、よみがえってくださった。ということであります。

    本来ならば、キリスト教が西洋から日本に入って来た時に、どのような歴史を辿ったのかということ、それが今にどう影響を与えているのかということを語らねばならなかったのでしょうが、歴史認識については人それぞれで意見が分かれてしまい、キリスト者としての信仰とは別の話題になってしまうため、敢えて控えさせていただきました。

    実はすでに、この話題については以下の記事で書かせていただきました。よろしかったら、ご覧ください。十字軍などを取り上げていますが、貴方様のご指摘を拝読し、もうそろそろ、欧米のキリスト者だけでなく、日本人キリスト者も深い反省と悔恨の中で宣教のあり方を再考していかねばいけない、と思いました。

    キリスト教はなぜ戦争をするの?

  5. 通りすがった人、様
    コメントを拝読しながら、神道を信仰されておられながら、キリスト教の「闇」の部分を的確に捉えておられることに驚いております。
    私は、キリスト教会の牧師の息子に生まれ牧師にはならず社会に出た者ですが、客観的に自分自身の信仰を振り返りながら、”通りすがりの人”様と同じ様な意識を持ちました。恐らく「闇」の部分を直視されたご経験がおありなのですね。
    キリスト教にも様々な教派教団があり、中には「奇跡」や「霊」を重んじる教団もあればそうでない教団もあります。
    中には、何でもかんでも「悪霊」のせいにしてしまい、現実逃避に走る教え方をする教派もあります。
    近頃のキリスト教の一部の牧師や信徒たちは、政治的リベラルに大きく傾き「反政権こそ聖書的だ!これこそ神が望まれるキリスト者の姿なのだ!」と公言しながら、宣教活動ではなく「政治活動」を行っている者たちもいますので、キリスト教界では混乱が生じています。
    悲しい限りです。
    キリスト教信仰を持つ私の様なものが、政治的リベラルなキリスト者の方々に物申しても、「お前の信仰が間違っている」と遇らわれるだけなのですが、神道信仰をお持ちの”通りすがりの人”様のそのご指摘は、とても的を射た内容となっておりますので、とても参考になり励まされます。
    キリスト教の左傾化に警笛を!そう考えるキリスト者のつぶやきでした。ありがとうございました。

  6. > 通りすがりのキリスト者 様

    私は神道の信者ではありますが、(日本人には珍しく)
    宗教を学ぶのが好きで、キリスト教についても勉強しているのです。
    キリスト教への関心は、異端思想ではありますが、
    「ユニテリアン主義(自由キリスト教)」の影響です。
    なまじユニテリアンのリベラリズムの影響を受けているので、
    日本のキリスト教会の、片方の「迷信的な奇跡信仰」、
    片方の「似非(エセ)リベラルぶり」を見ると、
    憤懣(ふんまん)やるかたない気分になってしまうのです。
    それはイエス・キリストの道じゃないぞ、と言いたくなります。

    悪霊の働きを強調する一部の宗派についてですが、
    おそらく彼らの言う悪霊とは日本文化のことで、
    聖霊とはアメリカ文化のことなのだ、と私は思っています。
    要するに彼らは「アメリカ」という神を信じているのでしょう。
    そしてそれは、イエスの教えとは何の関係もない物だと思います。

    私はリベラリズムには反対ではありませんし、
    むしろユニテリアンのようなリベラリズムには関心がありますが、
    日本の左翼、そして左翼的クリスチャンは、
    本当の意味でリベラルと言えるのかどうか疑問です。
    私は憲法9条にまつわるイデオロギーについては、
    「平和主義の皮をかぶった全体主義」だと思っています。

    日本の左翼思想についての意見を書こうと思ったのですが、
    小生の薄っぺらい意見の陳述を読むよりは、
    後述の書評をお読み下さる方が良いでしょうから、止めておきます。

    私の記憶では、イエス・キリストは人間を分け隔てするような
    人ではなかったはずです。この記事で管理人様が語られているように、
    「国粋主義者」も「売国奴」も弟子として受け入れていたのですから。
    しかし現実には、キリスト教会の指導者たちは聖書と教条を使って、
    場合によっては、聖書とは全く関係のない憲法9条を持ち出して、
    「あなたは私たちの仲間ではない」と宣告している。
    これでは宣教が進むはずがないだろう、と苦笑してしまいます。

    通りすがりのキリスト者様、小生のコメントに返信してくださり、
    感謝しております。読みにくい文章ですみません。
    私は宗教の本を読んでおりますが、イエスの教えに触れようとすると、
    やはり聖書そのものを読んだ方がいいですね。
    久しぶりに新約聖書を読んでみようと思います。

    >管理人 様

    あなたのコメントへの返信は、また後日させていただきます。

    ところで。
    あなたが別の記事でリンクを張っていた、『リベラルのことは嫌いでも、
    リベラリズムを嫌いにならないでください』の書評。

    http://diamond.jp/articles/-/73877

    久しぶりに知的好奇心と知識欲を刺激された記事でした。
    良い書評を紹介して下さり、感謝申し上げます。
    今度この本も買ってみようと思います。

  7. シェア元記事を書いたカナイノゾムです。牧師をしております。
    「通りすがった人」さんのご意見は、日本人として全く正論ですね。
    自らが日本人であることを忘れている、あるいは軽視しているキリスト教指導者たちの一部は、やっぱりヤバイです。未だに欧米人の視点でキリスト教を理解し、実践しているからです。

    現代の世界ではキリスト教も大きく変わっています。近代のキリスト教は帝国主義的な征服者である欧米人の宗教でした。しかし現代では、欧米人の信者よりもそれ以外(アジア、アフリカ、中南米、オセアニア)の信者の方が圧倒的に多数となっています。

    そもそもイスラエル民族・ユダヤ人はアジアの民であり、古代のエジプト、アッシリア、バビロニア、ペルシア、ギリシア、ローマといった諸々の帝国に征服され、蹂躙され、支配された人々でした。その民と共に歩んで、自らその苦難を味わいつつ、この地上に天的・霊的な王国である「神の国」を実現したのが、イエス・キリストです。

    それゆえ、むしろ欧米人の支配者たちよりも彼らに苦しめられた貧しき民こそ、イエス・キリストの救いを真に理解し、経験し、実践することができるのかもしれません。

    以下、参考まで。
    「帝国主義と世界宣教」
    http://kanai.hatenablog.jp/entry/2015/01/26/182656
    「日本宣教の根本問題」
    http://kanai.hatenablog.jp/entry/2016/09/11/200153

  8. カナイノゾム様

    小生のコメントに返事をありがとうございます。
    本当なら、「通りすがった人」なんて適当なハンドルネームではなく、
    いつも使っているハンドルネームを使うべきなのですが。。。
    このブログでは適当なネームで失礼します。

    私は以前から西アジアと呼ぶべき地域を「中東」と呼ぶ慣習には
    強い違和感を抱いておりました。イエスは本来アジアの人間です。

    仰るとおり、本来なら日本人クリスチャンは日本人のままで
    イエス・キリストを信じればよかったのですが、
    敗戦後の「日本嫌い」「自国嫌悪」の風潮を70年以上も引きずり、
    結局「クリスチャンになるには日本人をやめないといけない」
    状況になってしまいました。どうしてこうなったのか。

    貴殿のブログの記事「日本宣教の根本問題」を今から拝読します。

  9. 「通りすがった人」様

    先のわたくしの返信は、長文のくせにしどろもどろの内容になっておりました。実はあまりにも正論を書いておられたので、どうやって返信すればよいか分からなかったのです。「沈黙」の私の批評をお読みとのことでなのですが、改めて読んだのですが、やはりとても内輪向けの表現でしたので、クリスチャンではない方にそのまま読んでいただくのは、申し訳ない気分であります。

    改めて書かせていただきますと、カナイノゾムさんへの返信で、「クリスチャンになるには日本人をやめないといけない」ということ、本当にその通りで、私はアメリカに住み、また第三の国にもいまして、帰国後にようやくといったぐらいで、神の下さった母国をそのまま愛することができました。日本で信仰を持ちましたが、確かに「日本人をやめないといけないのか?」という実存的葛藤は信仰を持つときにありました。そして神社仏閣を見ては、それは偶像であるという緊張がありました。けれども、それとイエス・キリストの福音は違うところにあるとようやく分かってきました。偶像というのは、もっともっと根本的なところ、単に文化や習慣に内在しているのではなく、人の心がまことの神以外のところに信頼を置いているものなのだ、と分かってきました。ブログをお読みになられているということで、いろいろなところで、私自身の心の変遷もお気づきになられているかもしれません。

    本場アメリカの教会にも通っていましたので、それは幸いでした。アメリカにはアメリカの良さがある。けれども、真似しなくてよいものがたくさんある。いや、日本はなかなかキリスト者として居心地よいところもあります。聖書を日頃から取り組んでいても、アメリカの文化にはなくてアジアの文化にはあるものが多いですし。そして、日本の教会は欧米に目が向き過ぎていて、自分たちの寸法に合わないものを着ていて、それで普通でなくなっています。日本人として自信を持てばよいのですが、なんかないですね。だから、アメリカ頼り、また韓国頼りになって、委縮している感じです。それでもって、日本の人たちに届いているかというとそうではないです。(-_-;)

  10. >管理人様

    いえいえ、長文のくせにしどろもどろの内容というのは、
    私の文章も同じでございます。お互い様でしょう。
    何分キーボードだと文章がすべって。。。

    日本のキリスト教は「反日宗教」の姿勢で続いてきましたが、
    近年の左翼の退潮に伴い、ようやくクリスチャンの間でも
    「これはおかしい」という声を挙げる人が増えたように思います。

    偶像崇拝というのは、おそらく「目に見えない偶像」への
    崇拝も含むのでしょうね。例えばお金を万能のものとする
    拝金主義の考え方であったり。理性は人間に必要なものですが、
    理性を偶像化すると、スターリンの旧ソ連のような状況になります。

    「キリスト教はなぜ戦争をするの?」を含め、
    ロゴス・ミニストリーのホームページの記事は、
    実は数年前から時折読んでおりました。

    キリスト教徒が起こした戦争や、キリスト教の独善性は、
    もちろん批判されるべき、反省されるべきとは思います。
    しかし、そもそも宗教というのは集団の論理であり、
    必然的に排他性・独善性を伴うものであって、
    キリスト教だけが悪いと言うことはできないと私は思っています。
    国家神道もしかり、あるいはスリランカでは、
    仏教がナショナリズムと結びついているとも聞いております。

    その意味では私は「多神教優位論」には反対です。
    それは「一神教優位論」をひっくり返したものにすぎませんし、
    この理屈では日本人に友好的なムスリムまでも敵に回してしまいます。

  11. 「通りすがった人」様、
    本当にしごくまっとうな意見を有り難うございました。
    私は金井望さんとはあるFBのボードでご一緒している、老年に差しかかっている一プロテスタント者です。

    「通りすがった人」様の意見は全くその通りで、反論する気にもなれません。
    私が現代の日本キリスト教界に憤っているのは、何故ここまで「白人欧米キリスト教国の文化」を鵜呑みにしているのかという事です。
    日本人に馴染みの深いキリスト教とは、サンタクロースでありクリスマスツリーであり、民主主義であり、一夫一婦制であり、個人主義であり、禁欲主義であって、果ては荘重なパイプオルガンに見事な和声の重厚な賛美合唱です。
    しかしどれもこれもが単なる「欧米の文化」である事に気がついていないのです。

    勿論その中には民主主義とか一夫一婦制とか、人類の普遍的な智慧も含まれていますから、全面的に排除する必要はありませんが、さりとてこれらの全てが「キリストの教えだ」とするのは無茶苦茶な事なのです。

    「通りすがった人」様の指摘された日本のキリスト教界の愚かさは全くその通りです。
    日本最大の教団の日本基督教団は戦争責任告白をして「私達が悪かった」式の懺悔をしていますが、まったくこれはヘンな話で、アメリカのどの教団でも「戦争責任告白」なんかしていません。
    どちらも自分の国を助けて下さいと祈った筈なのに、日本だけが責任があってアメリカには責任がないのでは、これは全くの片手落ちです。
    そしてそれを全くなんとも思わない、当然だと思っている愚かさには、本当に情けなくなります。

    私も、キリスト教神学者である私の長兄も、先の大戦、大東亜戦争は決して日本だけの責任の戦争ではなかった、いや寧ろ日本は、植民地主義を振りかざして全く恥じない、毫も悪いと思っていなかった白人欧米キリスト教国の横暴に対して立ち上がった、アジア・アフリカで唯一の国だったのだ、あれは一つの聖戦だったのだ・・・リバイバルを日本にと願っているのなら、靖国神社に集って英霊にキリスト「教」の横暴を心から詫びてキリストの取りなしを祈る事から、そこから日本のリバイバルが始まるのだ・・・と思っています。

    ここまで言い切る人はそう多くはありませんが、WGIPの洗脳教育から脱しよう、あれは奇怪しい、あれは変だという声は近年になって相当多く上がってきているのも事実なのです。
    キリスト者の皆が反日的な思想に染まっているわけでもないことを、どうか理解してくださるようにお願いいたします。

  12. >SAMSON爺 様

    返事をありがとうございます。そうなのです、
    日本のキリスト教会はいまだに欧米崇拝の宗教のままで、
    西アジアのイスラームの国々の中にある「正教会」
    の人たちにはほとんど目を向けていません。

    日本は敗戦国なのですから、戦争責任の追及自体は
    問題ないのですが、それならイギリスやオランダによる
    植民地支配はどうなるのか。「キリスト教国」の帝国主義について、
    日本のキリスト教会が批判したという話は、聞いたことがありません。
    アメリカによる原爆投下にいたっては、キリスト教の指導者
    (たしかカトリックの長崎の結構偉い人)のブログで、
    「原爆は日本の戦争に対する神様の思し召しだった」
    とかなんとか、書いてあるのを読んだことがあります。
    これでは「白人に都合がよい宗教」と呼ばれても仕方がないでしょう。

    「どちらも自分の国を助けて下さいと祈った筈なのに」の下りは、
    まったく同意いたします。「私たちの国籍は天にある」といっても、
    現実を生きるクリスチャンは、その国の地面を踏んで生きています。
    国家神道体制による強制があったとしても、
    当時の日本人クリスチャンが「神よ、日本を護り給え」と祈ったのは、
    別に間違いでもなんでもなかった、と思います。

    残念なことに、「私たちの国籍は天にある」とうそぶいて
    「天国人」を気取っているのが左翼的な日本人クリスチャンです。
    イエスは「天国とはからしの種のようなものだ」と言っていた
    はずなのですが。その土地に撒かれてこそ、種は成長するはず。
    天空に浮いていては芽もでないでしょう。

  13. 神道や仏教は偽りの宗教です。幸福の科学やワールドメイトのようなインチキ宗教と大差ありません。真理に権利はありますが、誤謬に権利はありません。よって、日本にキリスト教を広めた宣教師たちの態度は、根本的には問題はありませんでした。

    例えば、私がドラゴンボールのキャラクターでも今日から神様として、拝み始めたとします。通りすがりの誰かが、そんなのおかしいよ、くだらないよ、と言って、やめるよう問いかけたとします。私は、自分の宗教の尊厳を踏みにじったとして、この通りすがりに抗議する権利があるでしょうか?抗議したとして、それは正しいでしょうか?

    多くの人は、この時の場合の、私の権利について、疑問に思いますよね。キリストは神です。三位一体ですから。その教えに矛盾するあらゆる教えは偽りの教えです。偽りの教えに、権利はありません。私がドラゴンボールのキャラクターことが正しくないのと同じように。これをやめるよう、問いかけるのは正しいことです。宣教師たちの態度も正しかったし、真理に対して反抗した、当時の為政者や一部頑迷な人たちは、誤っていました。

  14. 「クリスチャン」様

    私もクリスチャンです。私は、神道も、仏教も、幸福の科学も、そしてワールドメイトであっても、その中にいる全ての人のためにキリストが来られて、愛され、ご自身の命を、その宗教にいるからということではなく、全ての人が罪を犯したのだから、その罪のために死なれたと信じています。

    そして「権利」と言っていますが、その権利を降ろして地上を人として歩まれたのが、私たちの主イエスです。そして、クリスチャンはこのイエス様に従う者です。イエス様と対立したのが、自らを異教徒、異邦人と分けることが御心だと思い込んでいた分離主義者パリサイ人です。私たちはいつも、「どちらにいるのだろう」と自問してみないといけませんね。

  15. ここに白人欧米だからどうたら・・・という意見がありますが、馬鹿げています。あまりにくだらない。

    物事において、白人が正しいことを言うこともあれば、アジア人が正しいことを言うこともあります。重力の法則は白人が発見した。三平方の定理も白人が発見した。白人の発見だから、白人は嫌いだから、これら否定して、受け入れ拒否しますか?ナンセンスですし、悪い結果しか起きませんよね。

    天の神が、キリスト教をお降ろしになったのは、ユダヤ地方であり、確実に白人と言えるかどうかはわかりません。その教えは、インドから(使徒トマス)、ペルシャから。アフリカから、地中海地方から、あまねく伝えられました。その教えを完全に受け入れたのが、たまたま、地中海地方の民とエチオピアの民だけでした。その他の民は、傲慢であり、神に対する従順を欠いており、受け入れを拒否しました。キリスト教を伝えたのが、主に白人になったのは、その結果です。そして、そもそも、先に説明した通り、白人が伝えたかどうかは、本来関係ないこと。真理は真理。

    白人がどうか・・・などをここで話題にする人は、とんでもない見当違いを犯しています。

  16. >クリスチャン様

    すいません、私はユニテリアン主義の強い影響を受けているので、
    イエス・キリストを神様だと信じていないんです。ごめんなさいね。
    (預言者・宗教指導者としてのイエスは尊敬していますが)

    >管理人様
    「言(ことば)は肉になった」、ですね。

  17. 「クリスチャン」様

    あの~、私は白人欧米の社会にどっぶり浸かって信仰生活をしていたのですが、そして、今でもこの日本で、親しい友人宣教師と切磋琢磨、鉄は鉄を研ぐ議論をしておりますが、多分彼らが、あなたの意見を見て、「あ~あ」とため息をつくでしょう。なぜなら、そういって「自然法則」的に真理を掴むこと自体が、聖書の言っている真理と必ずしも一致していないからです。真理は自然科学のそれとは別なのですよ。自分は真理だと絶対だとしていても、実は思いっきり自分の生きている文化や思想であることが、特にギリシヤ・ローマ思想には顕著だからです。

    距離を置きたいような神学論議

    そして聖書は、ギリシヤ・ローマ社会に福音を伝えたのですが、福音がギリシヤ・ローマではないのです。福音はむしろ、ヘブライ的なところから生まれ出ているのです。文化や言語、歴史を内包し、そして何よりも血や肉の通わせているからこその真理であり、「言語記号」だけの真理ではないのです。

    ことばは肉になって、「私たちの間に住まわれた」というヨハネ1章14節の言葉があります。人となられたところにある真理を噛みしめるべきです。

  18. 通りすがりさんへ

    >イエス・キリストを神様だと信じていないんです。ごめんなさいね。

    三平方の定理を信じないことは可能です。それに矛盾する別の仮説を提案して信じることは可能です。しかし、あやまった仮説からは、誤った結果しか導かれません。世の中にはこうしたことがあります。仏教や神道を信じる人はこれに当たります。

  19. マルコによる福音書 16章 16節
    信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける。

  20. 管理人様、その他の皆様、
    本当は早めにパソコンの電源を切る予定だったのですが、
    実に多くの方が私のコメントに返事を下さったので、
    22時半までネットを続けてしまいました。
    そろそろ目がチカチカしてきたので、今日はこの辺で。
    拙文を読んでくださった皆様に感謝申し上げます。

    ロゴス・ミニストリーのこのブログに加えて、
    カナイノゾムさんのブログも、今度から拝読させていただきます。

  21. 「通りすがった人」さま。

    上記の書き込み、情けないけど、これが結構多い意見です。
    しかしこんな阿呆らしい考えばかりではありませんので、決して決めつけないで下さるようにお願いいたします。
    溜め息がでますが。

    通りすがった人さまの言われたように、イギリス・オランダ・フランス・アメリカの行った植民地支配、すさまじいまでの搾取と圧政と収奪、それに対して日本のキリスト教界が声を上げたことは一切ありません。
    長くなりますのでこれ以上は書き込みませんが、欧米白人キリスト教国の行った植民地支配と日本の行った併合を同列にする・・・いや、日本の併合を極度の悪支配だというプロパガンダに乗って日本を裁いて「自分は聖い」と言わんばかりの愚かさには反吐が出ます。

    しかしWGIPに悪のりしていた東大・日教組・キリスト教界ももうそろそろ限界が近づいていると確信します。
    私達は決して希望を捨てていません。

  22. 「クリスチャン」と称する方

    すごい独善をお持ちですね。
    キリスト教およぴクリスチャン全般を巻き込んで、福音を地に落とす逆情宣を展開されているのを見て、驚きました。

    傲慢な口か真理を語るならば、たちまち自己矛盾に陥ります。
    なぜなら、私たちが語る真理はイエス・キリストであり、イエス・キリストの真理は傲慢な口からは語れないからです。
    あなたは「クリスチャン」を名乗りました。
    クリスチャンとは、キリストにつくもの、キリストにあるもの、キリストのものであるところの呼び名です。
    イエスさまが傲慢な口を持つものの反対側におられるのに、なぜあなたは「クリスチャン」と名乗るのでしょうか?

  23. 通りすがりさん、明石先生こんにちは♪あ、FBのクリスチャンこみゅでお世話になってる方いっぱいいる~♡
    私はカトリックです。教会に通い始めた頃、日本の宗教観が嫌で親兄弟も穢らわしく見えて、日本人であることが嫌で、チャゲアスが好きそれだけじゃなくこの世にある色んな物が面白くて大好きと感じてしまう自分自身が馬鹿げてこの上もなく穢らわしく低俗な存在に思えてました。
    家族が皇室ものの番組なんて見て熱狂してたりなんてしようもんなら鼻で笑うみたいな。
    そのまま素直に育てば所謂反日凝り固まったぱよくなカトリック信者そのものになってたかな。ぱよくのカトリック信者だからぱよりっくか。

    色んな出会いを与えられて愛国保守な方々と交わりを持つようになり、ぱよく成分を奪われ今に至ります。神さまは日本人のままの私を、日本人のままで愛してくださっている。その事に今はめっちゃ感謝したい。

  24. 「通りすがった人」さん、小生のブログをお読みいただき、ありがとうございます。

    私ども一神教徒は、唯一神を絶対視しているため、その信仰を持つ自分の思想と行動まで絶対化しがちだという、恐ろしい性向を持っております。これは世界の歴史が証明しているところであります。せめてその独善性を自覚しておかねば、「聖戦」という偽善から逃れられないでしょう。

    キリスト教神学には「一般啓示」・「一般恩恵」という考え方があります。預言者や聖書、キリストを持たない人々にも、神の啓示と恩恵は、部分的にですが、与えられていると小生は考えております。

    http://kanai.hatenablog.jp/entry/2016/06/13/日本の伝統宗教とキリスト教

  25. お早うございます。もう通りすがりでもないなと思うので、
    「通りすがりのトマス」というハンドルネームに変更します。
    個人的に「不信のトマス」に憧れます。

    私の最初のコメントを自分で改めて読んでみたのですが、
    少々ケンカ腰なのが良くないですね。
    管理人様にお詫び申し上げます。

    > オリゲネス様

    多分「クリスチャン」と称している人は、まだ年齢が若く、
    そして信仰に入ってからまだ時間がたっていないのではないか?
    と、根拠もなく想像しています。
    まだイエス・キリストを信じるという段階ではなく、
    アメリカの宗教としての「キリスト教」を信じている段階
    なのではないかと思います。

    > がぶちゃん様

    あなたはカトリックで愛国主義者のようですが、
    それなら『隠された皇室人脈 憲法九条はクリスチャンが
    つくったのか!?』という本をおすすめします。
    敗戦直後の日本を護るために活躍した
    カトリックのカンドウ神父の話が載っていますよ。
    これは護憲派の本なのですが、改憲派の人が読んでも、
    きっと満足感を得られると思います。おすすめです。

  26. >カナイノゾム様

    「日本の伝統宗教とキリスト教」の記事を拝読しました。
    教会の同調圧力の強さ、キリスト教の独善性の強さについての
    指摘はその通りと思いますが、「独善」はどこの宗教にも
    (神道だろうが仏教だろうが)見られるものですから、
    やはり自分がなんの宗教を信じているかに関わらず、
    全ての宗教者は、己の中の(自分たちの中の)
    「独善主義」を警戒する必要があると思います。

    一神教はどうしても排他性が目についてしまいますが、
    一方で「創造主なる唯一の神」を信じることによる
    自己の相対化、という考え方もありますね。

    >管理人(明石)様

    本日はこのブログの記事を色々と読んでおりました。

    「日本人の考える「平和」」
    http://www.logos-ministries.org/blog/?p=5745

    日本の平和主義は、平和と核廃絶を訴えながら、
    その本当の目的はアメリカと戦勝国諸国に対する復讐にある。
    上掲の記事の意見は真にその通り、と思います。

    いや、正直な話、このブログにおける洞察の深い意見の数々を読んで、
    「まずい、私はまだ勉強が足りない」と思いました。
    もっと読書に励みます。

  27. 通りすがりのトマス 様

    沈黙についてのご感想ですが、いいえ、謝るには及びません。私自身も、自分自身が攻撃的になってしまっているだろうと分かりつつ、元記事を書かせていただきました。題材がそういう内容だから、特に映画は、信者であれ、不信者であれ、日本人の心の琴線に触れる所まで及んだ内容になっていると思いました。

    カナイノゾムさんに対するご返信ですが、本当にその通りだと思いました。

    「一神教はどうしても排他性が目についてしまいますが、
    一方で「創造主なる唯一の神」を信じることによる
    自己の相対化、という考え方もありますね。」

    聖書を読んでいる中で、このことがここ、二・三年ずっと示されてきました。初めから終わりまで徹頭徹尾、「義というものは、創造主のみが持っているもの」という事が出ており、それはどんな義人に思えるようなものも、決してそうではない姿を浮き彫りにしているからです。泥酔した義人(?)ノア、三度主を否むペテロが、後に教会の指導者になることを、包み隠さず明かす福音書の著者など。創造者の絶対性を認め、礼拝する中で、今まで絶対に正しいと思えるようなものが、二義的なものであることが分かってきました。そして自己の相対化が、仰るように、絶対者を認めるからこそできる営みであることが分かりました。

    そして、平和についての拙記事を読んでくださって本当にありがとうございます。私は、実はここは日本の保守派であっても、原爆の戦争犯罪と、植民地主義の悪を殊更に取り上げている中で、ともすると、その怒りの中に飲み込まれてしまわないように気を付けなければいけないと、感じています。これらは壮絶な悪であることを認めつつも、神はその悪をも用いられるのであり、善に変えることができ、裁きは神の御手に任せるべきだ、という信念です。(そしてすでに、欧米はその正義や倫理がどこにいけばよいのか分からなくなっている、その混乱と行き詰まりをみますと、それ自体が神からの裁きではないか?と、哀れみの心と共に感じております。)

    唯一、私はそうした空気を感じなかったのは「カトリック長崎」でありました。もちろん、アジアに戦争をしたから神からの罰で原爆があったという旨を書いた、本島等元市長の歴史観は多分に左翼思想が含まれているのであり、大いなる誤解を生み、決して日本人に受け入れられるものではありません。しかしそれでも、論考「広島よ、おごるなかれ」にある真意は、「謝罪をしなければいけない」という部分を除けば、「赦し」に立脚するものでした。

    永井隆の著書にあるような、原爆に対する強固な思想「神の摂理」説は、私にはあまりにも衝撃でした。原爆記念館で、放射能に焼けただれたマリヤ像を見た時に、「なぜだ?」という思いが私もよぎりました。しかし、「むしろ神が自分たちが選ばれた者たちであるから、だからキリシタンの浦上であったのだ。」という信仰です。

    この思想は、ともすれば選民意識に基づくものであり、多くの人たちに喧伝するような類いのものではないし、多くの人には決して受け入れ難いものでしょう。しかし、徹底的に自分を無くし、神の主権とそこにある憐れみを待ち望む時、神の赦しと愛が流れ出るということは、初代教会からの伝統なのだと思っております。

    エジプトのコプト教会には、洗礼者ヨハネの斬首など、初代教会の殉教者を思い巡らす聖画などがあると聞いています。それゆえ、名もないリビアへのエジプト人出稼ぎ労働者が、イエスと叫びながらイスラム国に斬首され、その後、出身の小さな村では、彼らが殉教したことを大いに喜び、その殺した戦闘員を自分の家に招いて紅茶を出し、感謝したいと述べた母親までいました。

    エジプト人キリスト者に広がる愛の御国

    すみません、だらだらと書いてしまいました!独り言のようになってしまった文章を読ませてしまって、すみませんでした。<(_ _)>

  28. > 管理人様

    長文での返事、まことにありがとうございます。
    「義人はいない、ひとりもいない」という言葉を思い出しました。
    「自分は完璧な人間だ」とか、「自分は絶対に正しい」とか、
    そうした考え方も、ある意味では一種の偶像崇拝、
    「自己の偶像視」と言えるかもしれません。

    私は基本的には進化論を支持していますが、
    「神が人間を創造された」という聖書の創造神話は、
    人間のユニーク性(ユニークネス?)を尊重すべしという
    宗教的メッセージだと、私は解釈しております。
    「創造主なる神」への信仰は、自分がかけがえのない、
    交換不可能な個性を持った人間であることを保証すると同時に、
    他人も同じように交換不可能な個性を持った人間であることを
    認めよう、という意思表示につながるものだと。

    個性というものは長所短所を総合したもので、
    「欠点」もまた個性のうちなのだと思います。

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