兄弟愛のすばらしさ

昨晩は、西日暮里のバイブルスタディで、ヘブル書13章を学びました(音声原稿)。1節は、兄弟愛をいつも持ちなさい、という勧めです。教会を始めてから3年ちょっと、主が開拓伝道と牧会に導いてくださって、本当に嬉しいと思うこの頃です。兄弟姉妹たちが、主の恵みで成長している姿を見て、集まることによってそこに働く聖霊による証しがあり、イエス様の生きている姿を目撃し、感動しています。

二人の姉妹は、私たちが2010年末に海外宣教から帰って次の日に出会った人で初穂です。三年経って、初めに学んだ新しい信者の学びの内容が、今になってよく分かるという話を聞いた時に、パウロが話した、「私が植え、アポロが水を注いだけれども、成長させるのは神です。」という言葉を思い出しました。

そして、最近いらした兄弟姉妹が、礼拝と教会生活にある幸いと喜びをこれまでかというばかりに言い表しておられます。一夫婦は、一家全員がキリスト者になり、それゆえ親戚からの激しい迫害に遭っているという証しは、私が以前から「日本で迫害がないのは、それだけキリスト者が増えていないからだ。相手にもされていない。」と話していましたが、この家族だけはその御霊の働きの中にあることを知りました。そして、ご家族の一人の危機を通して、本人が主に立ち返り、一家も霊的に強い覚醒を得た話を伺いました。そこにある謙遜と悔い改めは、まさに聖霊の働きです。

もう一人は、夫からの迫害です。しかし、教会に根づき、そこで神の権威を学び、夫は神が自分のために置いてくださった賜物であることを深く知り、それで従うことを学んでいきました。すると今は、日曜日に教会に行くことについて、「教会だったら良いよ。」という言葉が夫から出たことです。まさに、1ペテロ3章にある御言葉の証しであり、私は日本においてこのような迫害による信仰の忍耐と清めと、勝利の証しを聞いたことはあったであろうか?と感動しています。

キリスト者の生活は、本質的なものから逸れていく戦いが常に付きまとっています。要は、神に服従し、御言葉に従順になることなのですが、伝道にしろ賛美集会にしろ、活動的になると活動中心になって逸れていることがしばしば起こります。私たちの教会のように、聖書の学びを強調するところでは、学びそのものが自己目的化し、聖書を知ること、その知識を得ることがあたかも霊的であるかのように錯覚します。キリストに触れられ、魂が砕かれ、謙遜になり、そして徹底して御言葉に従順になり、それで主の大きな勝利を経験するという過程が、実は全ての全てです。ともすると、活動的になること、熱心になることが、現実からの逃避の手段にさえなる中で、主が与えられる試練や訓練の賜物はかけがいのないものです。

西日暮里バイブルスタディは、ヘブル書が終わり次回からヤコブ書に入りますが、そこは「試練に会うことは、この上もない喜びだとみなしなさい。」という言葉から始まります。もちろん試練は受けたくありません。喜びではなく、悲しいものです。しかし、その悲しみは一時的で、持続的、恒久的な義と平和の実を結ぶことができる、またとない機会です。

他にも、兄弟姉妹が、何か辛いことがあっても、御言葉に従って対処している姿をあちらこちらで見聞きし、私はとても嬉しくて、わくわくします。次の土曜日の祈り会、また日曜の礼拝が楽しみです。