イースター(復活節)のご案内

ロゴス・クリスチャン・フェローシップでは、4月20日に復活祭礼拝、全日19日には前夜の集いをします。19日は十字架の受難に焦点を当てたいと思っています、そしてお食事と30分程の映画も見たいと思います。教会に普段いらしておられない方は、大歓迎です!(下のリンク先をクリック、PDFファイルが開きます。)

イースターチラシ

“普遍教会”にある誤謬

(「民衆という”深海”を見よう」の続き)次に「日本のキリスト教」で取り上げたいのは、内村鑑三によって始まった無教会のことです。これまで無教会について詳しく知らなかったのですが、現在の問題に直結しており、日本のキリスト教特有の問題としても顕在しています。古屋氏は、実際の無教会に長いこと触れてきたので、その実情を知っている方です。日本のキリスト者の病を抉り出しています。

1.「便利」な信仰

「それに、「無教会」と自称する人々はかなり居るのではないだろうか、と思われるのである。というのは、わが国には、教会に対する批判と不満を公然と表明できる自覚的な無教会の人々のほかに、いわゆる「隠れキリスト者」的な「無教会」信者がかなり居るからである。「無教会」というのは、自分のアイデンティティをはっきりしないのに都合が良いし、わが国に多いいわゆる「卒業信者」受洗後まもなく教会に行かなくなる人々が自称するのに便利だからである。」洗礼を受けているということで風当りが強くなるけれども、「この意味でも無教会というのは、わが国の精神風土に適合したキリスト教ではないか、と思われるのである。」

以前、ヤロブアムがダンとベテルに金の子牛を造って北イスラエルの住民に拝ませたところから、「コンビニ礼拝」という題名で説教をしたことがあります。(原稿音声)。自分に都合のよいように信じていくことは、たとえそれがイエスの名を使っていても、偶像になってしまっている、という話です。日本人が自分の都合で神々を選べるのと同じように選んでいけることを表しています。

2.「無制度」という名の強い制度

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民衆という”深海”を見よう

深みに入る信仰

(「きちんとした「牧師」の欠け」の続き)次に古屋氏の「日本のキリスト教」で取り上げたいのは、「民衆にある力」です。このことは既に、「単純な信仰のススメ」で書きました。そして今週の西日暮里バイブルスタディで、ヤコブ書1章1‐11節の学びで取り上げました。その部分をご紹介します。

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私たちは救われるだけでなく、救われた後に霊的成熟に向かわなければいけません。そして霊的成熟に至らなければいけません。それによって、初めて救われたことが明らかにされます。その時に大切な要素をヤコブ書は教えてくれています。有名な言葉は、「信仰も、もし行ないがなかったら、それだけでは、死んだものです。(2:17)」成熟した信仰には、十分な、それを裏付ける行ないがあります。その信仰には深みがあります。表面的な信仰の言葉ではなく、実質の伴った、人を動かす力があります。

「日本のキリスト教」(古屋安雄著)という本を今、読んでいますが、そこにアメリカの教会を海の三つの層に分けている教会史の歴史家がいるとのことで紹介されていました。上層は海面、中層は海流、下層は深海となります。海面とは、海上を吹く風、すなわち時代思潮(=時代に流れ)によって、波のように風向きによって激しく左右上下に動揺します。その下にあるのが海流ですが、その時代の思潮に対しては、緩やかな反動しか示さない主流的なキリスト教思想のことだそうです。そして、それよりもっと下にあるのが深海ですが、これはどんなに風が全然動じない民衆の信仰のことだそうです。そして、この教会史の歴史家によると、「教会の生命と言うべき信仰が実際に生きているのは中層と下層、殊に下層の民衆の信仰においてである。」ということです。(ちなみにアメリカではその深海にあるキリスト教の筆頭に、ビリー・グラハムを挙げています。)

つまりヤコブ書は、この下層、最も深いところが真の信仰なのだよ、ということを話しています。表面的に信仰であると私たちが話しているものではなく、その深みがあってこその真実な信仰であるということです。表面的な信仰からの脱却です。
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こちらが原稿、そしてこちらが音声です。 続きを読む 民衆という”深海”を見よう

きちんとした「牧師」の欠け

福音派以上の福音的主流派の方々

今、続けて古屋安雄氏の「日本のキリスト教」を読んでいます。魂が揺さぶられる、とまで言いましたら大袈裟ですが、近代日本のキリスト教を追いながら、現代の日本のキリスト教が直面している課題に体当たりしている、これまでにない視点が与えられています。

けれども読者によっては、「なぜ、そんなに感動するの?」と思われる内容かもしれません。けれども、単純な一つ一つの指摘が、これまでにない違った切り口を示してくれているからです。

著者は日本基督教団に所属している神学者です。恥ずかしながら、私は主流派、殊に日基に対しては偏見を持っていたことを告白します。しかし、使徒信条の講義について以前、当ブログで紹介しましたがそれも日基の教会のもの、そしてキリストのみ、礼拝中心の教会と福音を書いた小冊子も紹介しましたが、日基の教会の牧師さんが書いたものです。

非常に不思議なのは、イデオロギー的には正反対の事を書いて事があるにも関わらず、それはあまり気にならないのです。例えば、先のブログで紹介した牧師の方々の書いたものには進化論の容認とも取れる発言も少しだけ見えます。仏式の葬儀で焼香をしてもよいだろう(?)いう話も少し出てきました。古屋氏も、例えば女性解放論には敏感で前面に出してきます。けれども、私は聖書的に男性しか牧会者になれないと思っています。 続きを読む きちんとした「牧師」の欠け