福音宣教者としての「沈黙」

次の記事の続きです。「映画「沈黙」- 観るべきか、観ざるべきか?」「キリシタン名跡サイト「天上の青」」「『恐れ』を恐れよ

今週水曜日、映画館で「沈黙 -サイレンスー」を鑑賞しました。フェイスブックにて、長いレビューを二日に渡って書きましたので、こちらにまとめて掲載します。

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私は、海外宣教もしていたことのある、日本人の牧者であると同時に、宣教者としての思い入れの強い、端くれです。ロドリゴの心の動き、そしてキリシタンの村の人々の心の行き交いは、非常に心を打つものでした。あまりにも生々しいので、いろんな思いが一挙に、交差しました。(※以下から話す言葉は激しいものになっていますが、決して、遠藤周作やマーティン・スコセッシ監督に向けられたものではありません。むしろ、このような作品を作ってくれたことによって、キリスト者信仰の生々しい戦いと葛藤の実存を、上手に表してくれたことに、感謝しているほどです。)

「助けてあげよう」という思いから「何もできない自分」へ

ロドリゴとガルベが、自分たちの師と仰ぎ、絶大な尊敬と信頼を持っていたフェレイラらが棄教した、という知らせを聞いた時に、日本に潜入することを申し出ます。ここの会話には、既に「私たちが行って、助け出します。」というヒロイズムが入っています。 続きを読む 福音宣教者としての「沈黙」