権威不在の時代

以下は、フェイスブックに書き込んだ投稿に加筆したものです。

「上」におられる神から、「心の中」の神を求める現代

以前、「感情の絶対化」という題名のブログ記事を書きましたが、最近、あることで、その書いたことと重なる内容のことを聞きました。今の社会に起こっている、深刻な問題だと思います。硬軟に「権威そのものを認めない」という傾向があるということです。

「だから、われわれは自分の感情が神のように絶対正しいと考える傾向がある。教師や上司の指導にとりあえず従っているフリをしていても、腹の中では自分の方が絶対に正しいと考えているようなときは、感情に支配されていると考えてまず間違いない。」(上のブログからの引用)

職場にしろ、教会にしろ、どこにしろ、立てられている人に、なぜか反発心を抱き、従いたくないという強い感情が出て来ること。「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」状態にまでなってしまうこと。もしそうなっているのであれば、そこから離れることが賢いのですが、それでも反発心を抱きながら、自分の居場所を見つけています。

いわゆる「切れて」しまっている傾向が今日、強いと感じています。ちょっとした不愉快なこと、不快なことについて、そう感じることは正常な感覚ですが、それをいつまでも継続的に抱き、人間関係まで完全に断ち切り、自己完結した私的な空間を作って孤立しているか、あるいは、その反発心によって仲間づくりをして分派を作っているか、どちらにしても感情を自分の立ち位置の基にしてしまっていることがあります。 続きを読む 権威不在の時代

映画「ハクソー・リッジ」

今日、楽しみにしていた映画「ハクソー・リッジ」を妻といっしょに観ることができました。戦闘中に手足がもげたりと、残虐な場面が多出する中で、涙が溢れ出てどうしようもありませんでした。キリスト者が戦争という現場で、その泥沼を飲みながらもなおのこと、証しを立てて行った、ということで、本当に凄い内容だと思います。

沖縄戦で武器を持たずに75人を救ったクリスチャン兵の実話 映画「ハクソー・リッジ」

3月に行われた「カルバリー20’sキャンプ」で、「社会に仕える」というテーマで、この映画のことを言及しました。ロイド・ジョンズ著の「働くことの意味」において、奴隷制度という不条理な制度の中で、なおのこと主にあって主人に仕えなさいと使徒たちは命じましたが、泥沼の中でその泥水を飲みながらも、祈り、証しを続けて行く時に、信頼関係が醸成されて、時が来て、御心がなっていく、という原則を見ることが出来ます。戦争に従事するという、究極の不条理の中で、なおのこと神に与えられた良心に裏切ることなく、証しを立てたのだろうと、主人公デズモンド・ドスの生涯を見て思いました。 続きを読む 映画「ハクソー・リッジ」

キリスト教葬儀セミナー2017

二年前に、カルバリーチャペル西東京と、ロゴス・クリスチャン・フェローシップが合同で、葬儀セミナーを開きましたが、先週末、再び(株)ナザレの西田社長をお招きして、セミナーを開きました。

前回は、「キリスト者が葬儀の場において、どうふるまうべきか」ということに焦点が置かれたが、今回は、「キリスト者でない方が、キリスト教の葬儀とは何かを知っていただく」という目的で行ないました。未信者の方々を強く意識して、それぞれの話者が語らせていただきましたので、ぜひご自分の家族、親族の方にお見せになるとよいと思います。

動画:2017年葬儀セミナー(CC西東京&LCF)

音声:キリスト教葬儀セミナー2017 音声 続きを読む キリスト教葬儀セミナー2017

「共謀罪反対声明」に対する懸念

ここ二・三日のクリスチャン新聞の記事を見ますと、次々とキリスト教の教団や関連団体が、いわゆる「共謀罪」の廃案を求める声明を出していることを取り上げています。その根拠は、「内心の自由」が侵される惧れがあるから、というものです。

ここから少し、難しい話になりますが、逆説的なことを申し上げます。このような反対声明を出すことのほうが、かえって、将来的にキリスト者としての内心の自由を侵していく全体の動きが日本で起こってしまうのではないか?と危惧しております。

動画は、かつての大統領選挙で、民主党内の候補の一人であった、バーニー・サンダース議員による審問です。審問を受けているのは、トランプ政権において行政管理予算局の副所長への候補として、福音派神学校「ホイートン大学」出身のラッセル・ボート氏であります。この大学では、かつて政治学の教授がムスリムとの連帯を公表したため、大学が辞職したとがあり、その時にボート氏は、記事を投稿しました。その中にある一文を、サンダース議員が取り上げます。 続きを読む 「共謀罪反対声明」に対する懸念

ヘブライ的思考①:「区別」があるようで無いような曖昧さ

前投稿:「日本宣教と「ヘブライ的思考」

ヘブライ的な考え方について、西洋の考え方との対照表をご紹介しました。その中の項目の一つを考えたいと思います。

西洋の思考:「正確な分類をして生活をする」
ヘブライ思考:「全ては全てに重なり、曖昧である」

誰が救われているのか?

キリスト者にとって最も関心の高い、「神の救い」について話しましょう。救いの条件として、「信仰によってのみ」というのが、プロテスタント教会の私たちの信条です。誰が救われて、救われていないのかという議論が必ず出てきます。ところが福音書のイエス様の言葉を見てください、喩えが多くありますが、誰が救われて、救われていないのか?という区別なく、一つの忠告を与え、あるいは励ましています。救われているのか、いないのか?という「存在」を問うのはヘレニズム的です。けれども、「行なっているか、どうか」という「動いていること、活きていること」ことを問うのがヘブライ的です。イエス様の教えは明らかに後者でありました。

教えている「内容」が明確であり、それを知識的にしっかり把握していることはヘレニズム、ギリシヤ的なのですが、パウロがテモテに「敬虔にかなった教え」と指導したように、もっと敬虔さのほうに重きが置かれています。今日の教会は、「正しい信仰告白、信条」というものに重きを置くのに対して、ユダヤ教においては組織的な神学体系を持っておらず、個々の具体的な「教え」が中心になっています。

もちろん、信仰の内容、信条をはっきりさせている部分が、聖書にはたくさんあります。けれども、それは「生きている者たちの発せられる、活きた言葉」の中で告白していることであり、何か会社の議題で話し合いがまとまって、それで一つの信条告白をしているのではないのです。 続きを読む ヘブライ的思考①:「区別」があるようで無いような曖昧さ

日本宣教と「ヘブライ的思考」

以前、「西洋につながらないアジア宣教」において、話させていただいたことの続きです。また、「宗教改革五百年:福音宣教のパラダイムシフト」でご紹介したように、今年は宗教改革五百周年ですが、今のプロテスタントの趨勢を見ますと、圧倒的に非西洋圏(アフリカ、アジア、中南米、中東の一部)においてキリスト者の急増、教会の発展を見ても、欧米圏は衰退していている中、神によって日本に置かれている我々キリスト者もまた、この趨勢の中にいることを知らないといけないと思いました。

そこで「距離を置きたいような神学論議」において紹介させていただいた、次の書物を改めてご紹介したいと思います。

「私たちの父アブラハム」(マービン・R・ウィルソン著)
OurFatherAbraham

私たちが手にしている聖書は、西洋の産物ではなく、今のイスラエルから発したものです。それがパウロ等の福音宣教によって、欧州の文化の中に伝えられていきました。既に、ギリシヤの時代にユダヤ人のギリシヤ化が行なわれ、アンティオコス・エピファネス王による迫害は有名です(ダニエル書8章と11章)。その後に、元来のヘブル人の信仰を伝統的に保持したユダヤ人と、ヘレニズム(ギリシヤ)化したユダヤ人へと別れて、言語的にも、文化、ユダヤ教の中でも大きく分かれました。ヘレニズム文化と思想を熟知していながら、元来のユダヤ教の伝統を身に付けていたパウロだからこそ、欧州への宣教のために用いられたと言えるでしょう。 続きを読む 日本宣教と「ヘブライ的思考」