伝道の時に知らなければいけない日本人の死生観

私は以前「福音の立体的骨格を伝えるには?」という記事を書き、日本における伝道の課題と、従来の「四つの法則」に代表される言葉による伝道以上の働きが必要であることを訴えました。根気よく人々に付き合っていくことが、日本の人たちへの伝道では必要なのですが、最近、次のエッセイ集に出会って、目から鱗が落ちた気分になっています。

神とか霊とか占いとか

伝道また弟子作りをしている時に、多くの人がいろいろな課題にぶち当たります。思い出すのは、津波被災地で、ある姉妹が、罪と死について、そしてキリストの身代わりの死について話したところ、多くの死者が回りにいるにも関わらず、被災者の方から「死ぬということについては、あまり考え出すと気がおかしくなる。」という返答が帰ってきました。また、つい先日も、近しい人に伝道したところ、「理屈では分かるが、あまり今は考えたくない。」という反応が返ってきたとある姉妹が話していました。

私も神道の熱心な信者に、神の義と、罪による死、キリストの贖い、そして永遠の命までを話しましたが、「そんな深刻なことを日頃から考えていたら、大変ではないのか。もっと楽しく生きよう。」ということをおっしゃっていました。ちなみに彼女は津波や原発の被災者を助けるボランティアの方であり、やはり「死」という現実に直面せねばならぬのに、この問題を避けます。

アメリカ人に路傍伝道などをする時には、「今日死んだら天国に行く確信があるか。」という質問をよくします。そして、その質問に平静に、普通に答えている風景をしばしば見ます。

日本人は「罪」というものを知るのが難しい、とよく言われますが、実は「死」という事実と現実にも直面したくない、何かがあるようです。

そこで上にリンクしたエッセイ集には、とても分かりやすい説明がたくさんあります。

エッセイ「日本人の死生観・死者は生きている」から

キリスト教信仰は「死と復活」なくして成り立ちません。
 死があってこそのよみがえりなのです。
 しかしこの「死」という概念こそ日本人にとって最も理解しがたいことなのです。
 古来から日本には「死」という概念はありませんでした。人間の肉体は朽ち果てても霊魂は生き続けると考えられています。そして霊魂は、さまようものと考えられていました。

「死」そのものが理解しがたいことになっています。「人が死ぬ」という”非連続性”に耐えられない、という問題があります。何とか連続しているものと願って、「肉体は朽ちても霊魂は生き続ける」という連続性の中で生きたいと思います。「霊魂はさまようものである」という信心が民俗的にあります。

したがって、「キリストがあなたの罪のために”死なれました”。」という言葉を聞くと、どうしても分からないという反応が来ます。私はこれまで、「あなたの罪のために」という、罪性の個人適用に抵抗を感じていたのかな、と思ったのですが、そうではなく、「自分がキリストにあって死ぬのだ。」という人生のあり方を受け入れられないのではないか?と分かったのです。「自己の死」という概念が受け入れがたいと感じてしまうのではないか、と思ったのです。

ある人は、自分があるべき姿で生きられないと思って苦しみ悩んでいます。「その思い煩いを主にゆだねて、自分はありのままの姿で主に受け入れられているのだ。」と説明しても、どうしても納得がいかない顔をする場合があります。または、「本当に自分が駄目にならないと、十字架の現実を受け入れられないではないか。」と訴えます。「自分がもっとキリストの愛の命令に従って、それで天国に行ける確信を得られるのでは?」と話します。自分に生きる力、自分のうちにある可能性、つまり「魂としての命」が死んでいると認めたくないのです。

あるいは、スピリチュアル系の人であれば、「霊魂が死んでいる」という状態に強い拒否感を抱くのではないかと思います。「キリストにあって古い自分は死んだのだ。」というとき、それは肉体が死んだということではなく、自分の魂また霊が死んでいるとみなすことです。これがなかなか出来ない、という課題があります。

死者を前にする時

そしてもう一つ「他者の死」に対しても、私は伝道や弟子づくりをしている中で困難を感じている部分です。日本では「セカンド・チャンス」論が幅を利かせていますが、遺体を前にして、あるいは、今は生きているけれども死んだだら同じところに行けないかもしれない、という可能性に直面して、どうしてもその相手とのつながりを優先させてしまう姿を見ます。

「もし家族がイエス様を信じないのであれば、私はいっしょに地獄に行ってもよい。」「自分の愛する人がイエス様を信じなくて、地獄に行ったということを考えたくない。」「死んだ人が夢に出てきたり、自分のそばにいるような気がする。」等など。

そして多くの人が遺体に語りかけます。遺体が焼却された後は、遺影に語りかけ、そして仏壇の前で祈り、供え物をします。墓前での献花や線香も同じです。そのことによって慰めを受け、またそれをしなければばちが当る、つまり生きている人に食べ物を与えなかったのと同じような罪悪感を抱きます。

なぜか?次のエッセイが参考になるでしょう。

大切な人をなくして」から

大切な人を亡くした人の心をいやすメロディー「千の風にのって」・・。
 わたしは死んではいません、千の風になって、
大空を吹きわたっています。
 大切な人の霊は墓の中にはいません、
その人の霊は漂っているのです。
 空をただよい、あなた見守っています・・・。
 だから泣かないで・・・。

 家族や親しい人や愛していた人、
大切な人を亡くした人の心をいやし、
 なぐさめ、ときとして励ますかのようなメロディーなのです。
 愛していた人の霊は”今も生きている”のです。
 このような感覚は、日本人の心の中にある”霊魂信仰”が
その基礎になっていなければ生まれてこないものではないでしょうか。

 日本の古来から、
日本人の心には「死」という概念はありませんでした。
 肉体は朽ち果てても、その人の”霊 ”は生き続けているのです。
 一般的な民俗では、人間の霊魂は、人間の体から自由に
抜け出してゆくものだと考えられています。

有名な「千の風にのって」ですが、これが一躍流行歌になったわけは、日本人の霊魂信仰があるからだ、ということです。

未信者の方も、またすでに信仰者ではあるけれども、この領域においてまだ整理がついていない人は、ぜひ知っていただきたいと思います。他人の死は、まことの神に会うことのできる貴重な瞬間だ、ということです。死んでしまった人に会おうとするのではなく、人や生命体に命を与えるまことの神がおられることを、静かな空間の中でかみしめることができる時間であります。

主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。」(ヨブ1:21)

人にはできないことがあります。命を与えることと、そして命を取ることです。もちろん夫婦が関係を持たなければ妻が妊娠しません。けれども、その生命が受精卵から始まり、分化し、胎児となり、乳児として生まれるまでの過程に、だれもが神聖な領域を感じ取るはずです。単に化学物質の無作為な合成によって発生したのではないことは、目に見えて明らかです。(ブログ記事:「究極のプロ・ライフ(生命尊重) 」参照。胎児の成長を鮮明に見える映像があります。)

同じように、殺人による犯罪を除けば、命を取るのも同じように神の主権の中にあるのです。人の死を前にして、今の自分の命は、また他人の命はいかにはかないものであるかを悟ることができます。

あなたは人をちりに帰らせて言われます。「人の子らよ、帰れ。」まことに、あなたの目には、千年も、きのうのように過ぎ去り、夜回りのひとときのようです。あなたが人を押し流すと、彼らは、眠りにおちます。朝、彼らは移ろう草のようです。朝は、花を咲かせているが、また移ろい、夕べには、しおれて枯れます。(詩篇90:3-6)

そこには、神の峻厳な一時があるのです。そして、生前にイエス・キリストを自分の救い主として受け入れた人が、自分の前に遺体となっているのであれば、甘い悲しみと悼みはあるものの、霊が聖なる喜びで高揚しています。天に凱旋できた、勝利を得た、そして再会できる、という、勝利者としての凱旋曲を霊の中で聞くことができるからです。

主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、次に、生き残っている私たちが、たちまち彼ら(=キリストにあって死んだ者たち)といっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。(1テサロニケ4:16-17)

もし信仰を持ったか定かではない状態で死んだ人が自分の前にいたとしても、「神が人に定められた時がある」という、峻厳な事実をかみしめることができます。自分に与えられた時間は限られており、今、機会を十分に用いて生きなければいけない、という悔恨に至らせる、厳かな神の命令を聞くことができるのです(エペソ5:16)。

いずれにしても、遺体を目にするときは、「その人はいったいどうなったのか?」という、その人を探す旅に出るのではなく、命を与え、また取られる神にその場で会うことができるのです。「ちりはもとあった地に帰り、霊はこれを下さった神に帰る。(伝道者の書12:7)」「祝宴の家に行くよりは、喪中の家に行くほうがよい。そこには、すべての人の終わりがあり、生きている者がそれを心に留めるようになるからだ。(伝道者の書7:2)

復活の希望

福音を伝えることについては、「キリストが死者の中からよみがえられた」というメッセージがなければ無意味です。次のエッセイによると、日本人の考える「よみがえり」と聖書の示す「復活の希望」が大きく異なることを教えてくれます。

福音を伝えることの難しさ・死生観」から

「よみがえり」について日本人はどのような感想を持っているのでしょうか。日本では古来から、死とは、人の魂が肉体から抜け出した状態をいうわけですから、もし、その魂がふたたび肉体にもどって来れば、生きかえると考えるわけです。
死をむかえた人にむかって、大声で「・・さん、戻ってきて・・・」と叫んだりもします。
日本の感覚では「もとの状態に戻る」ことが「よみがえり」なのです。

キリスト教が言う復活とは、もとの状態に戻ることではなく、まったく「新しくされる」ことを意味します。
だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。
古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。

 (新約聖書・コリント教会へのパウロの第2の手紙5章17節・新改訳)

死があってこそ復活があります。その死を経た者は、上の言葉の約束にあるように、新しい命の世界に触れることができます。私の場合、信仰を持った時に見ていた世界がまるで変わりました。いつもと変わらない風景が斬新に、新鮮に見え、まるで全身全霊が洗われた気分でした。もう一つ、「もう今死んでも悔いがない」と思いました。ちょうど癌末期患者が残る人生を意義深く生きるように、信仰をもった19歳の時から「終わりから人生を始める」ことができました。「すべてが新しくなった!」と、言葉に言い尽くせぬ栄えに満ちた喜びが湧き起こってくるのです。

人はこのように、”先にある生死”の問題をよく考えることによって、”今の自分”が変わるのです。自分の死生観の吟味は、自分の現世観に直接影響します。このことを伝えることは本当に難しいですが、けれども、忍耐をもって伝え、また教えていきましょう!

(注:写真は、キリスト教墓地「ラザロ霊園」)

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