LCFで歌われる礼拝賛美

明後日は主を礼拝する日です。LCFは、毎週、日暮里駅前の場所で午前礼拝と午後礼拝を捧げています。皆さんもぜひいらしてください。

ウェブ上では説教の音声は聞くことができますが、私たちがどのような歌を賛美として歌っているかは紹介していませんでした。礼拝賛美の様子は録音や録画はしていませんが、多くは以下のウェブサイトにあるものを歌っています。

カルバリーチャペル・ワーシップ

代表的なものを挙げますと、例えば・・・

御名は(Your Name)

美しい自然は 主への賛美へと
私を導く 御名をほめよ

Chorus:
御名は 強大な砦 御名は わが避け所
民は 喜び たたえる ほめよ 救いの名と力

イエスの御名で 祈り 安らぎ
主により 力得る 御名をほめよ

ほむべきかな主の御名(Blessed Be Your Name)

主の御名をほ-めたたえます
恵みと まことの 満ちる御名
主の御名をほ-めたたえます
試みのなかを 歩くとも
 
* 憐れみ にふ-れるたび 主に立ちかえり
暗闇 に閉ざされても 私は歌う
主の御名をほめよ 主の御名を
主の御名をほめよ 主イェスの輝く御名

主の御名をほ-めたたえます
変わりのない 日々 過ぎるとも
主の 御名をほ-めたたえます
苦しみのなかにあえぐとも

*繰り返し

主は与え 主は取られる
主の御名はほむべきかな

主の御名をほめよ 主の御名を
主の御名をほめよ 主イェスの輝く御名

下は、カルバリーチャペル所沢と西東京の野外礼拝の様子ですが、二つの歌もよく歌います。

ハレルヤ(詩篇117)

聖なる神全能の神 Holy is the Lord

ぜひ礼拝にいらして、共に主を賛美しましょう!

殉教者の叫び (北朝鮮)

以前「金日成とキリスト教」という題名で、朝鮮半島のキリスト教と北朝鮮が強く結びついていて、北朝鮮には地下教会が今でも存在する話をしました。今、ここで改めて、飛行機で東京から飛んだら二時間で到着する近い隣国、北朝鮮のことをお話したいと思います。

金正恩は政権を掌握してから、対外宣伝政策を取りました。数多くの外国人を平壌に招きました。そのことによって、対外的に北朝鮮が開放政策へと向かっているという印象を与えるのに成功しました。訪問した人々の口から、「北朝鮮は変わった」という声がどんどん聞こえてきました。特に知識人と言われている人々が、ころころ騙されています。

北朝鮮は金日成死後、金正日支配体制の中で1990年代に大規模な飢餓が発生しました(ウィキペディア)。なんと三百万人ぐらいが死んだと言われています。「苦難の行軍」というスローガンを掲げた時期です。その苦難の時期は過ぎ去ったという偽りの印象を、平壌に訪問した人々に植え付けることに成功したのです。

しかし現状は正反対です。まず、中朝国境地域はこれまで以上に統制と管理が厳しくなっています。そして、これまでとは違う地方で、90年代と等しい飢餓が大発生しています。

特集[2012黄海道飢饉]穀倉地帯で発生した大量餓死(1) (2) (3) (4)

そして強制収容所の実態は何ら変わっていません。ぜひウィキペディアの「強制収容所(北朝鮮)」を一読してください。そして「元収容者・元警備兵の著作」を一冊でも読まれるとよいと思います。(私は「収容所に生まれた僕は愛を知らない」申東赫著を読みました。)今は15万人から20万人収容されていると言われています。

そして次からが大切です。こうした悲惨な状況の中で、必ず出てくるのが「キリスト者」の存在です。脱北者を描いた最高傑作の映画「クロッシング」には、キリスト教との関係が撚糸のように折り込まれています。

そしてこのような人々が、連れていかれるのが強制収容所であり、その中でも一度入ったら二度と出ていくことのできない完全統制区域の中に一部が入れられます。その一つ、「耀徳強制収容所」についての説明の中で、罪状の一つにしっかりと「キリスト教信者。その中で他の人にキリスト教を信じるように勧誘した者は銃殺に処せられる。」とあります。そして最近、韓国で出版された、強制収容所から脱出した人々によるスケッチ集が出版されました。そこにある一つが下です。

宗教活動を行ったとして絞首刑となった女性」という説明があります。これはもちろん福音伝道をした人のことです。

そして次の記事をお読みください。

北朝鮮のキリスト教信者たちは今

この中に北朝鮮のキリスト者がどのような日常生活を送っているかの詳細な証言が記されています。その中に、北朝鮮の公認教会への言及もあります。中国の公認教会については多くの方が聞いたことがあると思います。そこにはイエス様を本当に信じる人々もおり、最近の中国は少しずつ変わっており、しっかりとした教会も多くなっています。ですから必ずしも偽物ということではありません。しかし北朝鮮は、まるっきり違います。

思いっきり騙されて、インターネット上で人気のあるジャーナリストの記事「北朝鮮で考えた(3) 田中宇」があります。まるで北朝鮮の宣伝塔のようです、完全に騙されています。(田中宇氏の情勢ニュースについてははじめから陰謀論で結論を決めていて、「それに見合う情報をテキトーにネットサーフィンして見つけだして切り貼りしているだけ」という、評価を受けています。中東情勢は、初めから結論が分かるドラマのように必ず「アメリカ」そして「イスラエル」の陰謀になっています。)

ここが大事なのですが、「当局はキリスト者のふりをすることができるのだ。」ということです。彼らはプロです。信者であっても騙すことのできるほど上手であります。それによって内部にまで浸透して、情報を収集するのです。北朝鮮の場合はもちろん全てがダミーで、目的は外国の教会への浸透であり、日本にある教会にも浸透しています。

決して北朝鮮を特定して叫びたくはありません。日韓関係、日中関係に関してマスコミのニュースが湧き上がり、このように隣国がとんでもない飢餓状態、そしてキリスト者が大迫害を受けているのに無関心を装っている雰囲気、そしてその背後にある悪魔の策略に対して、私は以下の殉教者たちの叫びが聞こえてきます。

小羊が第五の封印を解いたとき、私は、神のことばと、自分たちが立てたあかしとのために殺された人々のたましいが祭壇の下にいるのを見た。彼らは大声で叫んで言った。「聖なる、真実な主よ。いつまでさばきを行なわず、地に住む者に私たちの血の復讐をなさらないのですか。」(黙示録6:9-10)」主は必ず、ご自分の激しい怒りをこの地上に下されます。地上には必ず大患難が来ます。

最後に紹介したい映像が、東京基督教大学での模擬授業です。「北朝鮮のキリスト教」という題名で、西岡力教授が講義されています。

領土問題について考える

近隣諸国との関係が騒がしくなってきました。「政治とクリスチャン」また「クリスチャンの政治家」の記事において、このような時事問題と私たちの信仰の関係をお話しましたが、主に、クリスチャンにとって注目しなければいけない情勢と、注目はするが振り回されたり、惑わされてはいけない情勢の二つがあります。領土問題は、ひとえに「惑わされてはいけない」情勢になります。なぜか、理由をいくつかに分けてお話します。

1)国と民族と地境

神がバベルの塔において、言葉をばらばらにされてから、世界の人々が民族を単位として散らばっていきました。それは神の裁きの現われではありますが、憐れみの中でそれぞれに住むところを与えてくださいました。

神は、ひとりの人からすべての国の人々を造り出して、地の全面に住まわせ、それぞれに決められた時代と、その住まいの境界とをお定めになりました。これは、神を求めさせるためであって、もし探り求めることでもあるなら、神を見いだすこともあるのです。確かに、神は、私たちひとりひとりから遠く離れてはおられません。(使徒17:26-27)

ですから、国境線を含めて神は与えておられます。しかし、これをパウロは、自然啓示の中で語っています。自然啓示とは、聖書でなくとも、神とキリストを信じていない人でも、自然に神に与えられた啓示であり、神が全ての人に与えておられる恵みです。

キリスト者は、天に国籍を持っていると同時に、この地上にいる間は、その地の住民として生きています。したがって、その中に国境線の問題もあるでしょう。したがって、ロシアとの北方領土問題、韓国との竹島問題、中国との尖閣諸島問題は、この国に生きる者として一定の関心を示す必要があるし、必要ならば国土を守るために行動に移さなければいけない時もあります。

しかしキリスト者は、特別啓示を受けています。特別啓示とは、神が聖書によって与えておられる神の知識です。初めは、神は人にこの地を支配するようにされましたが、人が罪を犯したので、それを失ってしまいました。しかしキリストが、この世界を贖うために地上に来られました。ご自身の血によって贖い、そして天に登られたのです。かの日には、そこから戻ってきてくださり、その所有権を行使して、全世界を神に引き渡し、ご自身がエルサレムから王の王、主の主として統べ治められるのです。

その時にキリスト者は、この方との共同相続が任されます。「もし子どもであるなら、相続人でもあります。私たちがキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているなら、私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人であります。(ローマ8:17)」北方領土、竹島、尖閣諸島を含めてすべての地は、キリストが地上に再臨されたとき、その主権と領有はキリストのものとなり、行政と管理はキリスト者各人に与えられるのです!

これによって、今の領土問題は関係があると言えばあるのですが、その見方は神の国の者にされていない人とは、根本的に違います。将来、これらの地は神の子どもたちに任されるのですが、それはこの世が展開している主張、デモ、武力によってではなく、「柔和な者は幸いです。その人は地を相続するからです。(マタイ5:5)」とあるように、もっぱら神の前でへりくだりの生活を送っている人、悪いことをされても仕返ししない人、与えられている主からの仕事をしっかりとこなす人に与えられます。また、先のローマ8章17節によれば、キリストと共に苦難を受けている人が共同相続人になります。この約束は、黙示録2-3章の七つの教会への約束にも銘記されており、信仰をしっかりと保っている人々に与えられます(例:2:26‐27)。

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恵比寿バイブル・スタディのお知らせ(9月19日)

みなさんへ

こんばんは、今日の礼拝を主に感謝します。
今週の恵比寿バイブルスタディのお知らせを致します。

日時:9月19日(水)午後7時から
場所:目黒区立 田道住区センター三田分室 / 2階 第一会議室
聖書箇所:サムエル記第二11章以降
(その後の予定は10月3日です。)

前回は11章まで入ることができませんでした。今週11-12章に入ります。ここはダビデの生涯において、頂点から下降していく分岐点になります。ぜひご参加ください。

お会いできるのを楽しみにしています。

政治とクリスチャン

アメリカの政治について数回に渡りこのブログで取り上げましたが、日本のクリスチャンの中にもこういう疑問を持っている人が多いと思います。

クリスチャンが政治にどのように関われば良いのか、また良くないのか?

いつものジョエル・ローゼンバーグ氏が言っている要点を書き記したいと思います。彼はユダヤ系米国人で、それから新生体験をして福音的クリスチャンになりました。面白い経歴を持っており、初めは大統領選では民主党候補に投票していました。そして次に、共和党候補の選挙のために働いていました。興味深いことに、投票した民主党候補も、また働いていた共和党候補もみな落選しています!それだからというのではないですが、主が「御言葉を宣べ伝えるのに専念しなさい。」という語りかけを受けて、それで政治の世界から足を洗った、そうです。政治にかなり関わっていたので「解毒」が必要だったと言っています(笑)。

彼が、まとめたクリスチャンの政治への関わり方ですが、5つの要点です。

1)国の指導者のために祈る。その指導者が自分の投票しなかった政党であっても祈る。
2)自由民主主義の中に生かされているキリスト者として、選挙は責任であり、選挙に行くことは奨励する。
3)クリスチャンの中には、公的機関で働くのに召されている人もいる。政治家もいる。(聖書では「ダニエル」)
4)牧師は党派的意見を説教壇で言わない。それは市民の権利を放棄することではなく、御言葉を伝える召しのゆえに捨てる。
5)政治の話題にはまっているクリスチャンは、その党派的な世界からの解毒が必要である!

(以上、PODCAST: CHURCH NEEDS TO GET BACK TO MAKING DISCIPLES, FULFILLING GREAT COMMISSIONから。PODCASTの音声も聞きました。)

アメリカと日本の今の政治状況は少し違います。イラク戦争以後、以前にあった一致団結がアメリカになくなり、両極化が生まれて、党派的になっていきました。それは政治や経済についてのイデオロギーや思想に関わることであり、日本の党利党略の問題とは違います。ですから、党派心を持つことに対して警戒が必要であることをジョエルは述べています。日本の場合の政党の見方としては、混迷を増していくばかりなので、次の基本知識が役に立つと思います。「政治をゼロから考える(5) 自民党と民主党はどこが違うのか」(国際情報サイト「フォーサイト」からの記事)

私は二つの点に注目しました。一つは、1)の国の指導者のために祈ることです。「そこで、まず初めに、このことを勧めます。すべての人のために、また王とすべての高い地位にある人たちのために願い、祈り、とりなし、感謝がささげられるようにしなさい。(テモテへの手紙第一2:1)」大事なのは、願って祈って、とりなして、最後に感謝が捧げられるようにすることです。「感謝」がその人のために祈った結実です。

政治の話題になる時に、どうしても「批判」が先立ちます。民主主義と、当時の帝国主義(今でなら専制国家)では違うでしょうが、ユダヤ人がローマからの独立をするという熱狂が根底にはあったので、私たちの指導者に対する不満と共通面があるでしょう。けれども、キリスト者は全く一般民と異なる召しを受けています。一般民は批判するのが自分の仕事だと思っていると思います。けれどもキリスト者は彼らのために「祈る」のです。そして「感謝」になるまで祈るのです。教会の中で、思いっきり忘れられている神の命令だと私は思いました。

311の大惨事の後からは、私はもっと祈ったと思います。菅首相のために祈りました。そして今は野田総理のために祈っています。すると面白いことが起こりました。批判をしている時には見えてこなかった、指導者としての苦悩を感じ取れるようになってきたのです。確実に、神の御心の中に、その個人がクリスチャンであろうとなかろうと、その人がその立場に置かれているということです。「王の心は主の手の中にあって、水の流れのようだ。みこころのままに向きを変えられる。(箴言21:1)」彼らは公僕です。私たちのために仕えているのです。「いや、何が国民にためか!自分のこと、自分の党のことしか考えていない!」というのであれば、それは不信者でもいえることで、主の手の中、その水の流れに彼らがいることを感じ取れれば分かることです。

もう一つは、4)です。アメリカほどではないですが、日本では真っ二つに分かれる課題があります。「原発」がその先端にあるでしょう。ある教団では、原発は聖書に反するなどという声明文まで出しています。私は自分の強い意見がありますが、なるべく出さないようにしてきました。(漏らしてしまうことは、時々ありますが。(汗))とくに教会の説教では、出したとしても容認なのか反対なのか明確にする形ではなく、中庸な形で例として出しました。なぜなら、キリスト者としての霊的成長に役に立つ事はなく、むしろ「党派心」という肉の働きによって妨げになる可能性が大きいからです。

しかし聖書の命令に直接、抵触する主題については語ります。以前「クリスチャンの政治家」という記事でそれを取り上げました。ですから、何が聖書で明白になっているのか、そうでないのかを知る必要があります。今、「キリスト者の倫理」という文章を書いている最中です。そこで取り上げていきたいと思います。

【後記】
同じ課題を取り上げている、非常に同感、納得のいくブログ記事を読みました。教会に政治を持ち込むとどういうことになっているのか、よく考えておられます。

政治と教会の距離感について―同盟基督:「原発は聖書に反する」--理事会 見解を公表を受けて―

2016: オバマのアメリカ(2016: Obama’s America)

今、アメリカで全米歴代二位の興行成績を達成したという話題の映画です。マイケル・ムーアの「華氏911」には及ばないそうですが、政治ドキュメンタリー映画としては、第二位に食い込んでると言います。日本語の記事を探したら、次の記事が一番詳しかったです。

ワシントン・古森義久 「反オバマ映画」人気の理由

私は先日「もはや保守派でも、リベラル派でもない」の記事を書き、信仰的立場から今の米国保守派を批判しました。オバマ大統領については少し言及するに留めました。以前、米国リベラル派の由来についての記事を書きましたが、オバマ自身については正直なところ沢山書けませんでした。保守派からは反キリストではないかという声が有る程でしたし、彼の出生についての陰謀論が出回っていたので、私は興味が失せていました。一方、リベラル派はあの熱狂振りが理解不能でした。日本人でさえCHANGEという言葉に振り動かされていたほです。

でも、彼自身の人物像は確かな情報が出ていなかったと思います。そこで副題が、”LOVE HIM, HATE HIM, YOU DON’T KNOW HIM”というもので、実に端的に言い表していると思いました。訳せば、「オバマを愛しているにしても、憎んでいるにしても、彼のことは知らないね。」ということでしょう。どちら側も、彼を突き動かしている思想や情熱を知りません。

私個人の印象としては、前から「暗さ」を感じていました。彼の会見映像を見るたびに思います。アメリカン・ドリームとはほど遠い、というか、何か異質なものを感じます。(妻は十年以上米国に滞在し、その多くをリベラル色の強い東海岸で過ごしたけれども、私だけでなく彼女も「彼は、私の知っているアメリカと違う!」と言っています。)歴代の民主党大統領とも何かが違います。とらえどころのない謎を秘めた人です。保守派の人がこれまで民主党大統領を批判したとて、批判できるのは何か、どこかで一致できる何かがありました。けれども、それがないので空振りをしている感じです。以上が私の印象です。

そこでこの映画ですが、これはインド系米国人の政治学者ディネシュ・デスーザ氏による著書The Roots of Obama’s Rage(オバマの怒りのルーツ)を基にしています。中身は大体、次の記事二つを読めば分かるみたいです。

Forbesの記事:“How Obama Thinks”(オバマの考え方)
Washington Postの記事:“Why Barack Obama is an anti-colonialist”(バラク・オバマがなぜ反植民地主義者なのか?)

最初の産経新聞の紹介記事にまとめがありますが、「デスーザ氏は「オバマ氏の真のイデオロギー的理念は、米国がアフリカなどの開発途上国から搾取した植民地主義の結果の是正であり、そのために米国の力や富を相対的に減らすことを意図している」という結論を下す。」とのことです。私はこれで「なるほど!」と思いました。

彼のルーツは、彼のケニア人の反植民主義者の父だそうです。大していっしょに過ごしたのではないけれども、父の情熱と思想がしっかりと受け継がれていることが、彼が34歳の時に書き記した、「マイ・ドリーム―バラク・オバマ自伝」に散らばっているそうです。デスーザ氏はあるスピーチの中で次のような内容を話していました。「アメリカ人は、多様性のある多文化のアメリカの夢をオバマに投影させているが、オバマ自身の歴史を見落としている。父が反植民地主義であり、その考えをアメリカの地に適用させようとしている。普通の民主党員は、『所得をアメリカの中で再配分しようとしている』。けれどもオバマ氏は、『アメリカを世界の中に再編成しようとしている』」

これで、すとんと来ました。これが民主党や穏健リベラル派との違いです。ただ、デスーザ氏の主張がどこまで正しいのかどうか私には推し量ることはできません。特にオバマ氏による大統領としての政策に、どこまでその思想と情熱が反映できているか、つまり「したくてもできない」ものも多いのではないか、と思うからです。けれども私が前々から感じていた深い懸念と合致していました。つまり「アメリカをもうアメリカででなくしてしまい、他の世界の国々と同類にしていこうとする強い力が働いている。」と、個人的には強く感じていたからです。

最後に、私は多くの日本の人、クリスチャンを含む日本の人に言いたい。アメリカの独自性をイラク戦争後「一国主義」と言ってあれだけ批判していましたが、「本当にアメリカ無き後の世界を私たちが望んでいるのか?」ということです。アメリカが強大な国で無くなりようがないから、という甘えがあって批判していたのではないでしょうか?ちょうど、自衛隊違憲、日米安保否定の路線を立てて置きながら、一度、与党になったら一気に転回したかつての社会党のように。でも、現実にそうしていこうと思っている大統領がお望みどおり就いている、ということです。そして、あと4年続けるかもしれない、ということです。

今、現実にアメリカがアメリカでなくなっていく時代に入っていこうとしています。ジョエル・ローゼンバーグ氏が言うように、Implode(内部破裂)してしまう時期が近づいています。

最後の最後に・・・、本映画の原作者ディネシュ・デスーザ氏は福音派のクリスチャンで、キリスト教系のキングズ大学の学長でもあるそうです。キリスト教弁証学者としても有名ですが、どこかで聞いたことのある人だな?とは思っていました。また、彼はアジア系の米国移民なので、なぜ彼が保守的になったのか少し共感できます。アメリカにしかない独自性を外部にいたからこそ知ることができるので、その建国思想に純粋に帰依しやすい面があります。有色系移民一世のほうが、従来の白人よりも保守的になりやすい面が実はあります。下の記事を書いていますね。これもまたアメリカの魅力を知った時を思い出し、共感できます。(私も「アメリカに感謝している訳」なんていう記事を以前書きました。)

祝するべき10の事 /なぜ私が、反・反米主義者なのか

【後記】

カルバリーチャペルのラジオ番組KWVEで、チャック・スミス牧師がディネシュ・デスーザさんにインタビューしました!番組の録音も聞くことができます。(写真 ・ 録音)彼自身、カルバリーチャペルに通っているそうです。

イスラムとカルビン主義「予定説」

前記事「米大使館襲撃事件とイスラム信仰」の補足になります。

ある小冊子に、カルビン主義の「予定説」は、清教徒に見られるように、今のイスラム教と似たようなことを行なってきたことを指摘している文章がありました。秘密警察を置いてみたり、異端者を公に燃やしたり、オランダ改革教会における南アフリカでの人種隔離政策、カルビン主義者同士の殺し合い、そして南部バプテストやメソジストによる奴隷制支持などがありました。なるほど!です。

イスラムでは、「インシャ・アッラー(=アッラーの意志のままに)」という言葉がそれに当ります。

プロテスタント教会史の汚点

神が一方的に憐れみをもってある人を救いに呼ばれたということを、「予定説」では、「ある人を天国に、またある人を地獄で永遠に苦しませるために意図的に創造した」と教えています(=「無条件的選択」)。これは聖書的に間違っているだけでなく(1テモテ2:4、エゼキエル33:11等)、福音伝道の必要性と大宣教命令に矛盾します。これをいくら論理的な説明を試みたところで、神の予定ならず「運命」あるいは「宿命」の神という、聖書とは異なる決定論的な神を予定説は浮き彫りにしていきます。

したがって、霊的救いだけでなく社会的にも敷衍して、例えば黒人が奴隷であることが神から決定されているものとみなし、それを変えることに躊躇したのが当時の人々でした。そして、極端になるとそれを変えることが神の決定を妨げることになるから排除しなければならないと考えます。予定説を唱えている人は否定しますが、「神の意志」というものを哲学的な決定論の中で捉えているために、こうした過ちが起こっているのです。(今はさすがに奴隷制支持者はいませんが、大衆伝道集会に一部の過激カルビン主義者らが、イエス様を受け入れる決断をするため説教壇の所まで行こうとするところを、「選択はできない(No Choice!)」と書いてあるTシャツを来て、それを阻もうとしています。)

予定は、神との、愛の中での自由な営みの中にある

神は計画を持っています。予め初めから全てのことを知っておられて、予めすべてを計画しておられます。しかし、神は同時に、人のすべての営みに介入しておられます。人の細かい一つ一つの心の動きさえ、それを知り、痛みがあるならば共に痛み、喜ぶならば共に喜んでくださり、制限のある人間と一つになっていてくださいます。

その被造物との関わりが究極の形で現れたのが「十字架」です。神が一見、弱者に思われるようなところまで、一つになってくださったのです。

真理とは決定論の中の真理ではありません。「真実」と訳したほうが良いでしょうか、人の自由な営みがあって、なおのこと不変で不動の存在があり、それが真理なのです。

神はひとりなのですが、三つのの位格(父・子・聖霊)があるからこそ、このことができるのです。「全ての主権者」であると同時に「人の弱さ」に一体化することが可能になるのです。イスラム教は、御子を否定することによって、人の弱さに同情できない神を造り上げました。けれどもカルビン主義の予定説は、キリストが全人類のために血を流し、あらゆる人の所まで溢れ流れたという恵み深さを、「選定された者だけ」という決定論の中に押し込めました。

したがって、私が聞くのが好きではない祈りが、「どうか、あの人を、あなたの御心であれば、お救いください。」であります。そして、まだ生きている時に、救われたのかそうでないのかを、その人の歩みを見て決めていこうすることです。そうではありません!こう祈るべきです。「あの人のために、あなたはキリストを十字架の上で死に渡されました。ですから、救ってください、お願いします!(涙)」であります。そしてその人が死ぬまで、最後の最後まで、しつこく祈り続けることです。その執拗さの中に、主はご自身の予め決められていた御心を現してくださるのです。

自由意志を用いた愛の交わりの中に「真理」が存在するのであり、そして、その真理はすなわちキリストご自身なのです。

参照文献:カルヴァン主義、アルミニウス主義、神のみことば チャック・スミス著

米大使館襲撃事件とイスラム信仰

よりによって911の日に・・・「またしでかしたな!」と思いました。

領事館襲撃で駐リビア米大使らが死亡 「預言者侮辱」にイスラム教徒が抗議

改めて、イスラムについて考えなければいけません。以前、紹介した池内恵著「中東 危機の震源を読む」にリンクしている書評から引用します。

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イスラーム原理主義者によるテロ事件の報道などを見ると、私たちはどうしても「西洋(キリスト教)対イスラーム」という図式を頭に浮かべてしまう。しかしイスラームが対面している相手は、実は西洋でもキリスト教でもなく、「近代社会」だ。これが最も顕在化するのが、改宗をめぐる問題である。

池内恵によれば、イスラーム諸国が西洋諸国と向き合うとき争わざるをえないのは、キリスト教的価値とイスラーム的価値の優劣なのではなく、「信教の自由」ということ自体の意味なのだという。

イスラーム教では、イスラーム教から他宗教への改宗は絶対的な罪であり、認められない。「背教」の最たるものとされ、死罪にあたる。……改宗が「許されない」という次元の話ではなく、普遍真理であるイスラーム教から離脱することなど「ありえない」という共通認識が根本にある。(2007年8月、217項)

近代社会では、キリスト教以外の宗教を信仰すること、また双方への改宗も当然の権利とみなされる。ところが、イスラーム教ではそうではない。

近代に確立されてきた基本的人権において、「信仰の自由」は最重要項目である。各個人がある宗教を信仰する自由を保障するとともに、その宗教から離れる自由も、宗教も信じない自由も同時にある。むしろ宗教的な制約からの解放こそが思想・信条の自由の推進の原動力であった。イスラーム教の規範においては、宗教に関する限り、人間の自由には制限が大きい。また全ての宗教は平等ではなく、イスラーム教徒が「離教」することは、神に対する最大限の罪となる。(同上、219項)

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普遍真理であるイスラーム教から離脱することなど「ありえない」」の部分がとても大切です。

私たちキリスト者の考える真理は「キリスト」ご自身です。キリストなる人格ある存在に接することが永遠の命であり、真理は自由意志の行き交う交わりの中に存在します。

しかしイスラム教では、物が地面に落ちる重力の法則と同様に真理を考えます。つまり、「物が宙に浮くことがありえない」と同じように、「イスラームからの離脱もありえない」と考えるのです。他の生命のない被造物と同じように人もアッラーに服するのであり、ゆえにイスラーム(=服従)なのです。人格的交わりも、自由意志も一切ありません。

もし服さない者(また物)があれば、普通なら思考を生かして「なぜ服さないのだろう?」と考えるでしょう。しかし、そのような思考経路はありません。もし服さないのであれば、抹殺あるのみです。このような経路で、ユーチューブのムハンマドを描く映画に反応しています。

さらに言わせていただくなら、アッラー自体に、聖書の神の人格がありません。彼には愛の交わりがありません。孤独なのです、たった独りなのです。自己は自分の意思を動かす中枢でしかありません。しかし、聖書の神は唯一でありながら、かつ交わりがあります。父がおられ、子がおられ、また霊がおられます。父が子を愛し、子は父に対してその愛において服従します。対して、イスラームの信仰告白の支柱に「アッラーには子がいない」というのがあります。こうやってアッラーは自ら愛の人格を剥奪し、運命と宿命の渦に成り果てました。ゆえに人に対しても、有無を言わせない服従しか要求できないのです。

偽り者とは、イエスがキリストであることを否定する者でなくてだれでしょう。御父と御子を否認する者、それが反キリストです。だれでも御子を否認する者は、御父を持たず、御子を告白する者は、御父をも持っているのです。(1ヨハネ2:22-23)」(参照記事:ダニエル書8章のエッセイ

今回の事件について未だに、一部の人がいう「文明の対話を怠ってきたからだ」という分析に固執するのでしょうか?そもそも、対話などできるのでしょうか?また、「アメリカの中東政策のつけだ」ということなのでしょうか?いつになったら、アメリカとイスラエルのせいにする思考回路から脱却できるのでしょうか?同じようにアメリカの政策に手なずけられたと言われる他の独裁国(韓国やフィリピンなど)は、とっくの昔に民主化し、政治的に成熟しています。

「イスラム」に問題は内在しているのです。米国政府の失策ではなく、これは霊の戦いなのです。だからキリスト者がもっと祈るのです。中東キリスト者への祈りと、福音と御霊の力による解放を願うことこそ、平和をつくる人になれます。

【追記】
知人の方から、この記事を読んで「独裁制からの自由を求める市民のために、その民主化のために祈り支えることが必要」、また「キリスト者に原理主義者がいるように、イスラムにもいる。コーランを焼くような牧師は、最も愚劣な存在だと思う。そして、やはり対話は必要。」との貴重なコメントをいただきました。次が私が書いた返答です。

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「聖書預言の力と目的を再発見する」 その5

(「その4」からの続き)

同じように驚くべき事は、主なる神は聖書を ― 旧約と新約のどちらをも ― 通して、メシヤの再臨の「終わりの日」における要となる国々において起こる、要となる出来事の一部を私たちに宣言してくださっています。私たちが「終わりの日」に生きていることを指し示す「徴」を前もって警告しておられます。ですから私たちへの問いかけは、この方の御言葉に注意を寄せていますか、その命令に従いますか?ということです。

第三に、終わりの時の聖書預言に、多くの国々が具体的に言及されていますが、アメリカはその一つではない、ということです。イスラエルは終わりの日において、神のご計画とご目的の震央部分になっています。聖書預言で言及されている他の国はロシア、イラン、シリア、レバノン、トルコ、リビア、スーダン、復興ローマ帝国など、その他数カ国です。けれどもアメリカ合衆国は、直接的に、具体的に聖書に言及されていません。私の最近の著作”Implosion“(内破)の中で、このことをさらに詳しく取り扱っています。けれども重要な点は、アメリカが人類の歴史の中で、この地上で最も豊かで最も強力な国であっても、聖書は、終わりの日において私たちに対する特別な役割を説明していません。したがって、何かが私たちの力を無くし、キリストの到来に至る出来事で鍵となる役割を果たすのを無力化させるのではないかと思えます。

もしかしたら、この国の財政が崩壊すること、一連の天災、あるいは戦争やテロ攻撃、あるいはその他のいろいろなシナリオが含まれているかもしれません。どのようにアメリカが無力化されるのか正確には分からない一方、私たちの国では、神が私たちの国から好意と慈しみの御手を引かれるかもしれない、あるいは、私たちを公然と裁き罰するに至る、非常に不穏な動向を既にいくつも見ています。その中の一つとして、1973年以降私たちは5300万人の中絶を犯してきた事実があります。1960年以降、暴力犯罪が460パーセントの割合で爆発的増加を見ました。恐ろしい殺人の波が今日の私たちの国に、小さな町にさえ押し寄せています。数千万というアメリカ人が、あらゆる類の性的罪の中に生きています。ポルノ、性的不品行、姦淫、同性愛など、数知れません。聖書が個人や国が関わってはいけないと警告している罪であります。さらに、持ってもいないお金を費やすのに毒されてしまいました。連邦赤字が、16兆ドル(=1330兆円)に達しました。ワシントンは現在、歳入として受け取っているものより、毎秒、42210ドル(=330万円)を費やしているのです。

このような動向はあまりにもひどく、決して維持できないものです。もし方向を変えなければ、― もし、悔い改めてキリストに罪を赦していただき、第三大覚醒を与えてくださらなければ、― 私たちの国は経済的に、道徳的に内部破裂するだろうと思います。この状況は、私たちがひざまずき、祈りと断食と悔い改めへ促していなければなりません。実際に、促しているでしょうか?

第四に、アメリカが内部破裂に直面している理由の一つが、教会がマタイ28章18‐20節にしたがって、弟子を作っていない大掛かりな失敗にある、ということです。アメリカには、34万の教会の会衆があります。これらがみな、暗闇の中の霊的な「灯台」でなければいけないはずで、人々がキリストにある安全と避け所を見つけるように手助けしていなければいけません。しかし、私たちの会衆の多くが、その光がかすんでおり、あるいは完全に消し去られています。アメリカの教会が、行くべき道を導いていないのです。あまりにも多くの牧師や指導者が眠っています。私たちは絶対に目を覚まし、健全で、聖い、キリストとの歩みに戻らなければいけません。教会の最大の失敗の一つは健全な弟子を作ってこなかったことにあり、健全な弟子が再生し、霊的に他の健全な弟子を作ることができていないことです。アメリカでは、(霊的に)年齢を経た、賢い、イエスに従う者たちが、若い信者たちの生活に時間とエネルギーを注ぎ込むことを、系統的にしてこなかったのであり、世代から次の世代へ、キリストに似た性質、価値観、訓練を注意深く伝授してきませんでした。アメリカのキリスト教は、マタイ28章18-20節にある、イエス・キリストの大宣教命令に従ってこなかったので、弱体化し、失敗し、霊的復興が最も必要な状態になっています。一部の人たちは従っているのですが、大多数は、すべての国民(自分の国民から始めて)を弟子にしておらず、それらの弟子たちにバプテスマを授け、キリストが教えられた「すべての」ことを従うようにそれらの弟子たちに教えることをせず、世の終わりまで、いつも共におられるというキリストの約束を思い出させて来ませんでした。
【意訳以上】

以上が、ホノルルでの説教ノートの意訳です。

まず、<第三の点>への一言。アメリカ国内だけでなく、日本でもあまりにも多くの人が、これからの世界の行く末を見るときに、この国に注目しています。そして、イスラエルを始めとする中東と周辺諸国が終わりの日の聖書の舞台ですから、本来なら同じぐらいの、いやそれ以上の時間を費やさないといけないのですが、それをやっていません。今日は米国同時多発テロが起こった日であり11月には大統領選が行なわれるのでまたまた注目されていくでしょうが、米国は誰が政治を執り行っても内部破裂は免れない状態であると、私も感じています。

幸いにも、米国はそのような不安と混乱期において、教会の中で大覚醒が起こり、社会全体を変えてしまうほど強力な、御霊の力強い働きがその歴史にありました。ジョエル氏が言っている「第三大覚醒」というのは、二つの大覚醒に続く新たな霊的復興がなければ、今やアメリカに希望は見いだせない、という意味です。同じ先進国であり、世界有数の経済大国である日本も、似た道を歩んでいると感じています。あまりにも大きな課題と問題が山積しており、いつか潰れてしまうではないか、と思います。

そこで<第四の点>の話題に移りますが、日本もアメリカと同じような混沌期に入っていますが、その中で教会はどのような指針を、光として照らすことができるのでしょうか?私はジョエル氏の意見に全く賛成で、一にも二にも「弟子づくり」だと思います。

日本の教会も基本的に、アメリカのキリスト教会の流れの中にあります。それで、教会成長というものを数の大きさによって測る嫌いがあります。韓国も同じなので、韓国から来るキリスト教の影響もあって、人々が教会にどれだけ多く集まるかが、焦点になります。もちろん、救われる人々が加えられる事は神の御心ですからそれ自体はすばらしいことです。しかし、キリストの命令はそうではありませんでした。「弟子とする」ことが命令でした。キリストが教えられたことを教えるのですから、イエス様が弟子たちとどのように過ごされたのか、それを模範にしないといけません。

第一に、弟子づくりは時間がかかります。イエス様が、わからずやの弟子たちにどれだけの時間を費やされたかを思い出してください。けれども日本の教会は、特に大きな所では一度、信仰告白をし、洗礼を受けていると、そのままにされる羊がたくさんいます。教会にいながらにして、迷える羊となっていることがしばしば起こっています。

第二に、生活を共にしています。今日の日本社会は、「個人」ならず「孤人」化しているという指摘があります。けれども、弟子づくりには、イエス様が弟子たちと生活を共にしたように、生活の中でキリストのうちにある自分を他者に伝えることができるのです。「鉄は鉄によってとがれ、人はその友によってとがれる。(箴言27:17)」とあるように、人格と人格の衝突があって初めて、キリストの命令を実践することができます。

第三に、御言葉には体系的に取り組まなければいけません。ある時はこの箇所、またある時はあの箇所、弟子づくりならばこの教材、あのプログラム・・・というように、周辺的な事柄が中心となっています。けれども、イエスは弟子たちに聖書全体からご自分について教えられました。パウロは、エペソの長老たちに、神のご計画の全体を教えました。

そして最後に、実は聖書預言に注目する意義について、かつてデービッド・ホーキングが、チャック・スミス牧師にインタビューしたことがあります。基本的にジョエル氏と同じ事を話しています。

聖書、預言、イスラエル、そしてカルバリーチャペル

「聖書預言の力と目的を再発見する」 その4

(「その3」の続き)

ジョエル・ローゼンバーグ氏は、ホノルルでの説教を二回行ないましたが、次から二回目に入ります。次のブログ記事が原文です。一回目の説教に基づき、さらに四つの要点を話します。

SERMON: REDISCOVERING THE POWER AND PURPOSE OF BIBLE PROPHECY — Part 2

【意訳】
第一に、聖書には、その言葉が、全能で、全てを見る、全てを知る宇宙の神の言葉そのものであることを臆することなく表現されています。数例を挙げましょう。

主は、ヘブル人の預言者イザヤを通してこう言われました。「先の事は、見よ、すでに起こった。新しい事を、わたしは告げよう。それが起こる前に、あなたがたに聞かせよう。(42:9)

主は、預言者イザヤを通してこうも言われました。「イスラエルの王である主、これを贖う方、万軍の主はこう仰せられる。「わたしは初めであり、わたしは終わりである。わたしのほかに神はない。わたしが永遠の民を起こしたときから、だれが、わたしのように宣言して、これを告げることができたか。これをわたしの前で並べたててみよ。彼らに未来の事、来たるべき事を告げさせてみよ。(44:6-7)

主は、預言者イザヤによってこうも言われました。「遠い大昔の事を思い出せ。わたしが神である。ほかにはいない。わたしのような神はいない。わたしは、終わりの事を初めから告げ、まだなされていない事を昔から告げ、『わたしのはかりごとは成就し、わたしの望む事をすべて成し遂げる。』と言う。(46:9-10)

使徒ペテロが書きました。「それには何よりも次のことを知っていなければいけません。すなわち、聖書の預言はみな、人の私的解釈を施してはならない、ということです。なぜなら、預言は決して人間の意志によってもたらされたのではなく、聖霊に動かされた人たちが、神からのことばを語ったのだからです。(2ペテロ1:20-21)

主イエス・キリストが言われました。「わたしはアルファであり、オメガである。最初であり、最後である。初めであり、終わりである。(黙示22:13)

聖書の神は、他の何ものによっても比べられません。この方はすべてを見ておられます。すべてをご存知です。すべてを覚えておられます。初めであり、終わりであるかたです。アルファであり、オメガです。この方は推測したり、将来に何が起こるかを”予測”したりなさいません。何が起こるか知っておられるのです。驚くべきことに、神は前もって重要な出来事を選んで私たちに知らせることで、私たちが、自分の神がいかにすぐれているかを悟らせようとしています。

第二に、成就した預言は、私たちが神の御言葉が真実であることを知る、最も重要で強力な方法です。例えば、旧約聖書の中に数多くの預言が成就したことを見ます。例えば、神はへブル人預言者エレミヤに、バビロンで七十年間の捕囚の後、イスラエルに帰還することを教えられましたが、それが正確に起こりました。また主は、預言者イザヤに、バビロン捕囚からユダヤ民族を解放する器になるペルシヤ人王の名を、正確に告げられました。その名は「クロス」であり、事実、その名のペルシヤ王がユダヤ人を故郷に戻らせることを助けたのです。さらに、旧約聖書では、メシヤがどのような存在なのか、何を行うのかについての数多くの手がかりを与えられました。そのいくつかを紹介します。

預言者ミカが、メシヤはベツレヘム・エフラテで生まれることを教えました(ミカ5:2)。

ヘブル人預言者イザヤが、メシヤが処女で生まれることを伝えました(イザヤ7:14)。

預言者イザヤが、メシヤは人の男の子、息子として生まれるが、「力ある神」と呼ばれることを教えました(イザヤ9:6)。

預言者イザヤは、メシヤがイスラエルのガリラヤ地方で生き、宣教活動を行うことを告げました(イザヤ9:1‐2)。

預言者ゼカリヤは、メシヤがろばに乗ってエルサレムに入城することを伝えました(ゼカリヤ9:9)。

預言者イザヤは、メシヤが癒しを行なうことを伝えました。「まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。(イザヤ53:4)

ダビデ王は、メシヤが悪者たちの一団に取り囲まれ、彼らがメシヤを打ち、虐げ、この方の着物を分け合い、くじ引きにし、その手と足を刺し通し、「死のちりの上に」置くこと、つまり殺すことを預言しました(詩篇22)。

預言者ダニエルは、メシヤが、「そむきをやめさせ、罪を終わらせ、咎を贖い、永遠の義をもたらし、幻と預言とを確証し、至聖所に油をそそぐ」けれどもそれを、紀元70年にエルサレムが破壊され、神殿も破壊される前に「断たれ」る(殺される)ことによって行なわれることを明白に言いました(ダニエル9:24‐26)。

預言者イザヤは、メシヤを苦難の僕として描きました。むち打たれ、虐待を受け、あざけられ、突き通され、最後には、人類の罪のための罪過のいけにえとして殺されます(イザヤ52章13節)から53章。

預言者イザヤは、メシヤが死者の中からよみがえることも明確にしました。「しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。・・・彼の墓は悪者どもとともに設けられ、彼は富む者とともに葬られた。彼は暴虐を行なわず、その口に欺きはなかったが。しかし、彼を砕いて、痛めることは主のみこころであった。もし彼が、自分のいのちを罪過のためのいけにえとするなら、彼は末長く、子孫を見ることができ、主のみこころは彼によって成し遂げられる。(イザヤ53:5,9,10)

預言者ヨナと預言者ホセアをとして、神はメシヤを墓から三日目によみがえらせることを教えられました(ヨナは、三日間魚の腹にいて、地に戻ってきました。ホセア6章2節には、「主は二日の後、私たちを生き返らせ、三日目に私たちを立ち上がらせる。私たちは、御前に生きるのだ。」とあります。

驚くべきことに、主イエス・キリストは、これらの預言をすべて成就されました。事実、ルカ24章25‐27節には、こう書いてあります。「するとイエスは言われた。「ああ、愚かな人たち。預言者たちの言ったすべてを信じない、心の鈍い人たち。キリストは、必ず、そのような苦しみを受けて、それから、彼の栄光にはいるはずではなかったのですか。」それから、イエスは、モーセおよびすべての預言者から始めて、聖書全体の中で、ご自分について書いてある事がらを彼らに説き明かされた。

【きよきよの一言】
聖書預言は、実に、神が定められた伝道ツールです。初めから終わりのことを告げることによって、ご自身を明らかにしておられます。神を信じないこの世の中において、しばしば創造論による伝道があります。それもすばらしい方法です。実際に、被造物において神の力と永遠のご性質が明らかであるとローマ1章に書いてあります。また、ヨブに対して神は、ご自分の被造物を取り上げながら、ご自身の義と主権を明らかにされました。けれども、それと同じように神は、預言の言葉によってご自身を明らかにしておられることを、御言葉の中で語っておられるのです。

先日、モリエルの学び会に行ってきましたが、モリエルさんは以前、オーストラリア人の伝道師が行なった預言セミナーをまとめて小冊子にして、それを伝道に使ったそうです。確か高校生か、若い女の子に預言の一つ一つの箇所を見せていったそうです。彼女の感想の一声は、「これは、チェルノブイリ事故以後に書かれたものでなければ、絶対におかしい。」とのことでした!そして、二・三千年前に書かれた書物であることを告げると、びっくりたまげたそうです。

そしてイエス様ご自身が、旧約預言の成就そのものであることは言うまでもありません。もっともっと、日本の教会で旧約聖書の通読が強調されなければいけないと思います。そうすることによって、いかに新約の記述が重要な出来事であったのか、その重みを知ることができます。

(「その5」に続く)